第三話 古城の幽霊
城内ではカストリア国教会総主教がオレたちの到着を待ち構えていた。純白の法衣を纏ったエメット三世は、砂糖菓子顔負けの甘やかな笑顔でルリアをぎゅっと抱きしめる。
「ああ、よく来たね。会いたかったよ、ルリア」
普段は理知的でストイックな雰囲気を漂わせている総主教だけに、愛娘に対するその緩みきった表情は、ボンガンさんやペルルさんを始め城中の人間たちを驚かせた。周囲の視線に気づいた総主教は、自制した様子で名残惜しそうにルリアから離れ、先生やオレと挨拶の言葉を交わす。
オレたちはカストリアの時期国王に謁見するため、総主教と共に王の間へと足を運んだ。扉の両脇に立つ警護兵の間を通り、重臣たちが並んでいる中を突き進んで行くと、立派な玉座が見えた。だが、手前に立つ女性のドレスの膨らみに隠されて、そこに座っているであろう王子の姿までは見えなかった。
「こちらはフェストリア公妃、ソフィー・アシュバートン様であらせられます」
案内役の言葉にリーブル先生が低頭したので、オレとルリアも慌てて頭を下げた。
「遠いところを遥々、よくいらっしゃいました。どうか顔をお上げください」
凛とした声に身を起こすと、扇状の襞襟をつけた豪華なドレスの女性が立っていた。マリアさんの叔母にあたるフェストリア公妃は、白塗りの濃い化粧をしているせいで眉毛を失い、表情を読み取るのが難しかった。
「マリアはわたくしの姪ですが、年が近かったので幼い頃にはよく一緒に遊んだものです。ルリア王女、そなたは本当に母君によく似ていらっしゃる。あの頃の思い出が一瞬にして蘇りましたよ」
そう言って、公妃はルリアに目を細めてから、案内役に代わって言葉を引き継いだ。
「こちらは未来のカストリア国王となられるフェストリア公太子、チェシャ=フォシェル・アシュバートン様であらせられます」
オレたちは深々と低頭した。絵本に登場するような凛々しい白馬の王子を頭に思い浮かべていたのだが、驚くべきことに、玉座に腰をかけていたのはまだほんの小さな子供だった。
羽毛のような栗色の髪の毛から、好奇心に溢れたブルー・アイズが覗いている。チェシャ王子は屈託のない笑顔を浮かべると、椅子から飛び降り、迷うことなくオレの前までやって来た。
「初めまして、ルリア王女。ずっとお会いしたいと楽しみにしておりました」
その言葉に、フェストリア公妃が鈴のような笑い声を上げる。「王子、その方はルリア王女ではありません。王女は中央におられる黒髪の方です」
すると、幼い王子は丸い瞳をきょとんとさせた。
「え? そうなんですか? でも母上、この人お姫様みたいに綺麗ですよ? それに、真ん中の人はまだ子供じゃないか」
恐る恐る視線を移すと、案の定ルリアは真っ赤な顔で憤慨していた。リーブル先生に口を塞がれ何を言っているのか聞き取れなかったが、大方想像はつく。
チェシャ王子は純粋無垢な眼差しを再びオレに注いできた。
「あなたは魔法使いなの? どこに住んでいるんですか? 街の話を聞かせてください。僕、フェストリアのお城からこのお城に来たとき以外、外に出たことがないんです」
子供特有の無邪気さに加え、天使のような愛くるしい笑顔――。
こんなに幼い少年がカストリアの時期国王だなんてまったくもって驚きだ。
チェシャ王子との謁見を済ませたオレたちは、大聖堂へ戻るエメット三世を見送るために地下水路へと向かっていた。螺旋状の石段を下りながら、王室付き魔法使い兼教育係は何やらぷりぷりと怒っている。
「まだ正式に王位を授かったわけでもないのに玉座を陣取りあのようなご挨拶、ソフィー様やチェシャ王子はまるで自分たちがカストリア王室を継ぐ者と見せつけているようで、ルリア王女にとって大変失礼であったと思います」
「しかし、実際に王位を継ぐのはチェシャ王子なのだから……」
「何を仰います! たとえ王位を放棄しようとも、ルリア王女はカストリア最後の王、ジルベール王の直系の子孫にあたるお方なのですから、それなりの敬意を払って頂かなくては! 国教会がフェストリアの肩を持ちたがるのはわかりますが――」
いくら王室付き魔法使い兼教育係とはいえ、カストリア国教会総主教に対する言葉にしては、それは出すぎたものだったに違いない。ボンガンさんが眉間に皺を寄せてわざとらしく咳払いしたので、ペルルさんははっとしたように口を閉ざして萎縮した。
エメット三世はもちろん気分を害した様子はなく、かえって彼女に感謝の眼差しを向けた。
「あなたはいつもどんなときも、マリアの味方でいてくれましたね。そして今、あなたは娘のためを思ってくれている。本当にありがとう、シェル」
ペルルさんの顔が強張った。真珠の眼鏡の奥に見開かれた大きな瞳から、はらはらと涙の粒が零れ落ちる。彼女はレースのハンカチを噛み締めて嗚咽した。
「あたくしはここで皆様のお戻りをお待ちしますわ。こんな顔で総主教をお見送りするわけにはいきませんもの」
彼女を階段の途中に残し、更に階下へと下りて行きながら、エメット三世はほんの少しだけ困ったような、しかしながら穏やかな笑顔を浮かべて言うのだった。
「シェルは少し激情的なところもありますが、教育に熱心で素晴らしい魔女です。マリアを立派な王位継承者として育て、この国の時期女王にすることが王室付き魔法使い兼教育係としての彼女の生き甲斐だったのです」
地下水路には雨除けを張った一艘の小船が浮かんでいた。エメット三世はルリアの頭を優しく撫でると、戴冠式まで滞在を楽しむようにと告げた。そして、ボンガンさんと共に湖を渡る舟に乗り込み、カストリア城から去って行った。
その後、オレたちはようやく居室群へと案内された。
ルリアの部屋はかつてマリアさんが使っていた部屋で、高い天井や暖炉に施された優美な装飾、深い群青色の絨毯や巨大な鏡が目を引いた。オレと先生の部屋も驚くほどに豪華絢爛でとにかく溜息の連続だった。
晩餐まで一眠りしようと思いたち、天蓋付きのベッドに横になると、旅の疲れがどっと押し寄せてすぐさま泥のような深い眠りに誘われた。
気のせいだろうか。誰かが顔を覗きこんでいる気配がする。
だが、目蓋が重くてなかなか目を開けられない……。
「メグ。起きてメグ!」
ルリアに肩を揺さぶられ、はっとして目を覚ました。夢うつつの境を彷徨いながら窓の外に視線を移すと、重たい雲が空いっぱいに立ち込めていた。どんよりと曇ってはいるものの、陽は微かに残っているのでそれほど長い時間寝ていたわけでもなさそうだ。
「ねえメグ、その顔どうしたの?」
二番弟子はベッドの端に腰を下ろし、まじまじとオレの顔を見つめた。「ほっぺに変なグルグルが描いてある。口紅も塗ったでしょ?」
「へ?」
慌てて唇を拭ってみると、赤い紅が手の甲に伸びて広がった。
「な、なんだこれ!?」
ベッドから飛び起きて、オレは暖炉棚の上にある鏡にへばりつくようにして自分の顔を確認した。なんとも情けないことに、両の頬に渦巻きのようなふざけた模様が描かれている。
「ルリアがやったの?」
振り返って睨みつけると、二番弟子は大慌てで否定した。
「あたしじゃないよ! 部屋に来たらメグが勝手にその顔で寝てたんだよ!」
枕の横に転がっていた口紅を手に取り、オレは眉間に皺を寄せた。「ルリアがやったんじゃないなら、さては先生の仕業だな」
「そんなはずないよ。だって先生ずっとあたしと一緒にいたもん。二人でお母さんの部屋をあちこち見て回ってたんだから」
どうやらルリアが言っていることは本当のようだった。というのも、彼女は嘘をついたら顔に出るタイプなので、悪戯すればすぐにわかってしまうのだ。しかし、だとしたら、一体誰がわざわざこんなことをしたというのだろう?
さっき眠っていた隙に、やはり何者かが部屋の中に忍び込んでいたのだろうか? 誰かの気配を感じたように思ったが、あれは夢ではなかったのかもしれない。
「これから夕食なんだって。それでメグを呼びに来たの。とにかく行こう?」
ルリアに手を引かれ、オレは腑に落ちないままにも渋々と部屋を後にした。
リーブル先生はオレの顔を見るなり苦しそうに腹を抱えて爆笑した。
「あはははは! なんだいメグ、その顔は!」
ペルルさんは笑いたいのを誤魔化すように懐からレースのハンカチを取り出して、せっせとオレの頬を拭き始めた。「こんなに愉快な顔をしていては、晩餐の席につけませんことよ」
「誰かが悪戯したみたいで、起きたらこうなってたんです」
仏頂面で言い訳すると、王室付き魔法使い兼教育係は、急に動かしていた手を止めた。彼女はひどく青い顔で、震えながらオレの言葉を否定した。「誰かが悪戯しただなんて、そんなこと絶対にありえませんわ。だってこちらの居室群には、恐がって誰も近寄りませんもの」
そう言ってから、彼女ははっとしたように慌てて口を押さえる。余計なことを言ってしまったと気がついたようだった。
「恐がって誰も近寄らないって、どういうことですか?」
ペルルさんは落ち着きなく両手をよじり、困ったように視線をそらした。だが、無言で見守るオレたちの圧力に耐えられなくなったのか、しばらくしてから、ひどく神妙な面持ちで呟いた。
「実は……この城には、マリア王女の幽霊が出るのです」
その時、礼拝堂の鐘が鳴り、驚いたオレとルリアは同時に隣に立っていたリーブル先生の腕にしがみついた。
「幽霊だなんて……まさか……」
「カストリア城に到着したとき、窓辺に人影をご覧になりましたでしょ? ここ数日、こちらの居室群で何人もの守衛がマリア王女の幽霊を見ているのです。もちろん単なる噂にすぎませんが、皆、王女が王位を取り戻しに来たのだと口々に言っています。それで、恐がって誰もここには近寄りたがらないのです。ですから、メグさんのその顔のラクガキは、もしかしたら王女が――」
言葉の続きを待たずとも、気味の悪さに身の毛がよだった。ルリアはすでに半泣き状態で眼の淵が赤くなっている。それに気づいた先生は、「マリアの幽霊なんているはずないよ」と怪談話を一蹴した。すると、ペルルさんはそれに賛同するでもなく、ただ一言だけはっきりと自身の言葉を撤回した。
「あたくしとしたことがとんだ失礼を申してしまいましたけど、例え幽霊であれ、マリア王女は絶対にこんな馬鹿げたラクガキをなさるような方ではありませんわ」
雨の降り出した空を見上げつつ考えた。もしかしたら、オレの顔にラクガキした何者かが、何らかの目的で幽霊騒動を引き起こしているのではないだろうか――。
晩餐後、部屋に戻ってから天蓋付きのベッドに横になってみたが、幽霊話を聞いたせいかなんだかひどく落ち着かない。いや、落ち着かないのは轟々と吹き荒れる雨風が鎧戸を打ち付けているせいかもしれない。夜が深さを増すとカストリアは激しい嵐に見舞われた。
頭まですっぽりと布団を被り、どうにかして眠ろうと試しみたが、低く唸り始めた雷鳴が気になって眠れない。やがて、耳を劈くほどの激しい落雷が地響きのように轟いたとき、雷が苦手なオレは一目散にリーブル先生の部屋へと走り、ノックすら忘れて部屋の中に飛び入った。
「やあ、遅かったね。随分頑張ったじゃないか」
ソファに横たわっていた先生は、読んでいた古書のページを捲りながら微笑んだ。オレが来ることなどあらかじめわかっていたと言わんばかりの表情だった。
「君が僕の部屋にやって来る時間を、ルリアと二人で賭けてたんだよ。さっきまで一緒に待ってたんだけど、眠気に負けて寝ちゃったみたいだ」
先生の視線の先に目をやると、大きなベッドの端にうずくまるようにして二番弟子がすやすやと寝息を立てていた。「ルリアのやつ、部屋が大きすぎてひとりでいるのが怖かったみたい。人の部屋に押しかけてベッドを横取りしておいて、僕にソファで寝ろって言うんだよ。いくらなんでも横暴すぎると思わない?」
そんな言葉とは裏腹に二番弟子を眺める師匠の優しい微笑みが、カストリアに来る前に感じたもやもやとした不安を心の内に呼び覚ます。なんだか二人の邪魔をしてしまったような気がして、オレはバツの悪い思いで部屋の入り口に立ち尽くした。自分の部屋に戻るべきだとわかっていても、雷に対する恐怖心も拭えない。旅の疲れもあるのか頭の中がぐるぐると混乱して、なんだか馬鹿みたいに泣きたい気分だった。
「メグ。――どうしたの、メグ?」
気がつくと、リーブル先生がオレの顔を不思議そうに見つめていた。
「あ、あの……オレ……」
そのとき、地を劈くような凄まじい轟音が鳴り響き、オレは両手で耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。
結局、先生の部屋から出て行くことは出来なかった。ルリアの隣に背中合わせで横たわり、自分の不甲斐なさにどうしようもない苛立ちを感じながら眠りについた。もやもやとした心の霧が夢の中で深みを増す。
オレの居場所はどこなんだ? これからどうすればいいのだろう? わからない。何も、わからない――。
「メグ……。ねえ、起きてメグ」
ルリアの声に起こされて目を覚ました。暗闇が深すぎて何も見えなかったが、どうやらまだ夜明け前のようだった。
「……どうしたの?」
朦朧としたまま尋ねると、ルリアは「あのね……その……」と言ったきり、もごもごと押し黙ってしまった。彼女がこんな時間に声をかけてくる理由はただひとつ。恐くてひとりでトイレに行けずにオレを起こしたのだろう。
のろのろとした手つきで蝋燭に明かりを灯し、眠気眼を擦りながら「行くよ」と声をかけると、ルリアはほっとしたようにベッドから出た。オレたちはソファで眠る先生の横をすり抜けて、音を立てないようにそっと部屋を後にした。
ありがたいことに、雷はすでにやんでいた。遠くで雨粒が窓を打ち付ける音が途切れることなく続いている。それ以外の物音は何ひとつ聞こえない。城内は不気味なほどに静かだった。ルリアはオレの腕にしがみつき、暗闇に怯えるようにして身を縮めた。
「ルリア、歩きづらいからもうちょっとだけ離れてくれない?」
恐がりなくせに自分が恐がっていることを認めたがらない二番弟子は、渋々と半歩ばかり離れて歩いたが、またすぐに波に引き寄せられるようにぴったりと身を寄せてきた。
オレじゃなくて、リーブル先生を起こせばよかったのに――。
寝起きの悪い先生を起こすだなんてことは、考えただけで憂鬱になるような行為だが、それでも、このときオレは妙にふてくされた気分だったので、そんな風に思ってしまった。なんだか、おかしい。苛々とした思いばかりが湧き上がってくる。
ふいに、マリアさんの部屋から誰かの話し声が聞こえたような気がして、オレたちは顔を見合わせた。
『この城には、マリア王女の幽霊が出るのです』
幽霊なんているはずがない。きっとオレの顔にラクガキをした何者かが再び現れたのだ――。
オレはごくりと唾を飲み込み、蝋燭の明かりをそっと部屋に向かって差し掲げた。照らし出された二本の足。なぞるように上に向かって移動させると、そこにあったのは確かにマリアさんの顔だった。
「う……」
半信半疑のまま、喉の奥から声にならない声が漏れる。そして、次の瞬間、
「ぎゃああああああああ!?」
オレとルリアは同時に悲鳴を上げて、一目散に先生の部屋へと駆けて行った。




