第一話 将来のこと
聖マリア修道院の東に広がる薔薇園は、淡い灰色の朝陽を受けて煙るような霧に包まれていた。朝露に濡れたピンク色の薔薇たちが、辺り一帯に甘美な香りを漂よわせている。この日、オレは早朝から修道女たちに紛れて、薔薇の花の収穫を手伝っていた。
「メグさんが見習い修道女になってくれたら、この修道院も華やかになるのにねえ」
老修道女シスター・コニーの過激な発言に、花を摘んだ手元が狂って指に棘がささってしまった。そばで作業していたシスター・プリシラが、シスター・コニーの言葉に大きく頷いて話を続ける。
「メグさんは真面目で礼儀正しくて、おばあ様のハリエットとは大違いだわ!」
近くで薔薇を摘んでいた修道女たちは、作業の手を止めることなく、しかしながら懐かしそうに目を細める。
「でも、あの頃もあれはあれで楽しかったわよねえ。目まぐるしい毎日で」
「ハリエットとエレオノーラがいつもクレーネをからかって大騒ぎ」
修道女たちはそこで示し合わせたように大笑いした。そのとき、一体いつから話を聞いていたのか、シスター・クレーネが茂みの向こうから恐ろしい形相で顔を覗かせた。
「おしゃべりは慎みなさいませ! 薔薇の収穫は時間との戦いですのよ? 陽が高くなってしまったら香りがすっかり飛んでしまいます!」
老修道女たちは慌てて『薔薇摘みの歌』を口ずさみながら、元の作業場所へと戻っていく。
「まったく、いくつになっても浮かれ調子は変わらないのだから。困ったものです」
シスター・クレーネのその呟きに、向かいで作業していたシスター・コニーが悪戯気に目配せを送ってきた。
籠一杯に薔薇の花を摘み取ると、午前中はその花を使って香油やクリームやジャム作りに精を出した。手伝ったお礼として、薔薇の花から採れた貴重なハチミツを一瓶と、帰る間際に焼きあがった薔薇風味のスコーンを包んでもらった。
星降る丘に戻ったオレは、修道院からのお土産を両手一杯に抱えていたので、近道をするために裏庭を抜けることにした。通りがかりに、食堂の窓から何気なく中の様子を伺うと、テーブルの上に突っ伏してルリアが居眠りをしているのが見えた。健やかな寝息がここまで届きそうなほど、安らかな顔で眠っている。先生から覚えるようにと言われていた魔法の呪文を暗記していたのだろう。食べ散らかしたお菓子に紛れて、一応古文書が開かれていた。
そのとき、階段を下りてきたリーブル先生が食堂に姿を現した。先生はあきれたような表情を浮かべて二番弟子を見やったが、すぐに魔法で居間の長椅子から膝掛けを呼び寄せて、それをルリアの肩にふわりと下ろした。そして、音を立てないよう細心の注意を払いながら、彼女の斜め向かいにある椅子を引き、そこにそっと腰をかけた。
先生はお茶でも飲みながら仕事をしようと思っていたらしい。追いかけてきたいくつもの古文書がふわふわと宙に浮いていた。テーブルの上では魔法をかけられた羽根ペンが羊皮紙に忙しなく文字を綴り始めたが、当の本人は片手で頬杖をつき、満ち足りた様子で愛弟子を眺めているのだった。
サンルームの扉を開ければ、ルリアが目を覚ましてしまうかもしれない。オレはひとまず音を立てないようにアトリエに荷物を置きに行き、裏庭でしばらく土いじりをして時間を潰すことにした。
空は抜けるほど青かった。雲ひとつ見当たらない。シャベルで無意味に土をほじくり返しながら、ぼんやりと考える。
将来、ルリアが今よりもうちょっと大人になったら、先生とルリアは結婚したりするのだろうか? 料理は下手だし、掃除や洗濯は嫌いだし、買い物を頼んでお金を渡せば余計なものばかり買ってくるし、ルリアは想像するまでもなく花嫁失格だ。
リーブル先生は器用だから料理はそこそこ出来るけど、面倒くさがりなのでめったに台所には立たないし、同じ理由で掃除や洗濯もしないだろう。気が向いたときに魔法でちょいちょい片づけをするくらいだ。オレがこの家から出て行ったら、二人の生活が乱れることは目に見える。
そこまで考えてから、ふいに気がついた。
オレガ コノ家カラ 出テ行ッタラ?
今まで考えたこともなかったが、もしも先生とルリアが結婚したら、オレはここにはいられないのではないだろうか。いや、今だってそうだ。星降る丘のこの家におけるオレの存在は、二人にとって邪魔者以外の何者でもないのでは――?
そのとき、掘りすぎてぼこぼこになってしまった土の上に、突然黒い影が現れた。顔をあげると、空中を飛んでいた大きなフクロウが羽を広げて太陽を妨げていた。足元には小包が掴まれている。
フクロウはオレの元に小包を落とすと、周りを旋回しながら配達の代償をよこせと言わんばかりに鳴き喚いた。
「しーっ! 静かに! ルリアが目を覚ましちゃうよ!」
慌てて人差し指を唇に近づけたが、騒ぎに気づいたリーブル先生が窓を開けて裏庭を覗いた。
「なんだメグか。修道院から戻ってたの?」
「い、今ちょうど戻ってきたところ」
修道院でもらった薔薇風味のスコーンをアトリエから持ってきて放り投げると、フクロウはそれを空中で器用に嘴にくわえ、そのまま空の彼方に飛んで行った。
「小包かい? どこから?」
腕に抱えていた荷物に気がつき、先生が尋ねてきた。
「ええと……エデンから。ソーサリエ・カレッジだって」
「じゃ、僕宛か」
オレも当然リーブル先生宛の荷物だと思っていたので、宛名を見て目を疑った。驚くべきことに、流れるような書体で、しかしはっきりと『メグ・LM・ウィンスレット』と書かれていたのだ。
「……オレ宛だ」
すると、先生は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに顎の辺りに手をやりながら納得したように微笑んだ。
「なるほどね。聖地での君の活躍に目をつけたのか。まったく都会の人間は行動が早いなあ」
「どういうこと?」
「それ、たぶんソーサリエ・カレッジの入学案内だよ」
「ええ?」
「まあ、とにかく中に入りなさい」
窓を閉める先生の背後では、ようやく目を覚ましたルリアが眠たげに目を擦っていた。
小包の中には透明な水晶球が入っていた。球体から眩い光が放たれると、エデンの大学案内が始まり、ソーサリエ・カレッジの美しい姿や大都市の様子が幻燈のように辺りに映し出された。ことの次第が把握出来ていない二番弟子は、くるくる回るカレッジの風景を眺めながら焦ったように問う。
「メグ、エデンの大学に入学するの?」
「まさか」
慌てて否定したが、すぐに満更でもない気持ちになった。なにしろ、エデンの大学だ。憧れの我が師匠が通ったソーサリエ・カレッジだ。今まで考えた事がなかったと言ったら嘘になる。でも、大学に行くかどうかなんてまだまだ先のことだと思っていたし、エデンの大学は単なる憧れであり、自分の頭の中で思い描くだけの想像でしかなかった。
リーブル先生がオレの淹れた紅茶を飲みながら、感慨深げに口を挟む。
「もしメグがソーサリエ・カレッジに入学したら、きっと優秀だから僕と同じく主席だな。入学式には代表で答辞を読むはずだ。ゆくゆくは寮長なんかになったりして」
師匠のめくるめく妄想は、少なからずオレの心を期待で弾ませた。突然新たな道が開けたような気がして、戸惑いながらも気分が高揚した。しかし、楽しい想像をしていたのはオレと先生だけだった。
「行っちゃやだ! メグがエデンに行っちゃったら寂しいもん!」
ルリアはオレを思い留まらせようと必死になって引き止めた。「きっとたくさん勉強しなきゃならないよ。毎日課題が忙しくて、お菓子作ったり、お花育てたり出来ないよ。メグはそれでもいいの? あたしはメグがエデンに行くなんて絶対反対だからね! 離れて暮らすなんて寂しすぎる」
まだ行くと決めたわけでもないのに、ルリアは水晶玉を割らんばかりの勢いだった。オレはなんだかそれがすごく嬉しくて、「まだまだずっと先の話だよ」と言葉を濁した。
リーブル先生がルリアの頭をぽんぽん撫でながら言う。
「メグがいなくて寂しいんだったら、ルリアも一生懸命勉強して一緒に大学に入ればいいだろう?」
「それも嫌。大学なんてどうせ試験ばっかりでしょ? そういう物のために魔法の呪文を無理矢理頭に詰め込んだって意味ないもん」
「君の勉強嫌いにはあきれるね。それじゃあ君は一生僕の弟子でいる気かい? そういえば、聖地で泣きべそかいてたもんね。『僕とずっと一緒にいたい』って」
「それは先生の方でしょ!」
「そうだっけ?」と先生はとぼけた様子で言葉を続ける。「君みたいな泣き虫のはねっかえりじゃ嫁の貰い手もないだろうから、一生世話してやらなきゃならないのか。まあ、聖地でしてくれたみたいに毎朝かわいらしくキスしてくれるなら、面倒見てやってもいいけどねえ」
そう言いながら、先生は自分の唇を指差してルリアのことをからかった。
オレがカルマの宿で偶然部屋を覗いていたことを知らないルリアは、真っ赤になって弁解する。
「ち、違う! 違うのメグ! 誤解しないで! あのときはほっぺにしてあげただけで……ちょっと先生! そんなところにしてないでしょ!」
相変わらずな二人の様子に自然と笑みがこぼれたが、じゃれ合う師弟の姿を見ているうちに、先程裏庭でよぎった思いが再び心に蘇った。
いずれ、この家を出なければならないかもしれない――。
その思いはもやもやとした不安となって、霧のように心の奥に留まった。
その日の晩のこと。いや、明け方近くだろうか。
カストリアからの使者が、何の前触れもなく突然星降る丘のオレたちの家にやって来た。




