第十話 悪夢の始まり
蜘蛛の巣のような回廊を抜けると、そこは森の中だった。一枚岩のような扉が茂みの取り巻く少し開けた場所に立っていて、オレとルリアはそこから出てきたのだ。しばらく呆然と辺りを見回していたのだが、背後を振り返って途方に暮れた。つい今しがたそこにあったはずの扉が、ほんの一瞬目を離した隙に跡形もなく消え去っていたのだ。
「一体どうなってるの?」
疲れ果てたルリアはがくりとその場に項垂れた。
箒は大岩に潰されて真っ二つに折れていたので、オレたちがこの森を抜けるには歩いていくしか術がなかった。
「行こう」
オレはルリアの手を強引に引っ張って、月明かりを頼りに森の中を歩き始める。
「待ってよメグ、行くってどこに?」
「わからない。でも、歩かなきゃ何も始まらない」
「むやみに歩いたって、迷うだけだよ!」
「だからって、このままここにいるわけにはいかないじゃないか!」
オレたちの口調はほとんど喧嘩腰だった。肩に乗っていたラルフ君が仲裁するかのように一声鳴いた。
ルリアは目を真っ赤に潤ませて、黙って俯いてしまった。――ああ、オレは一体何をやっているのだろう? 精神的に余裕がないのはルリアだって同じなのに……。
「……ごめん、ルリア」
不安だった。心細くて仕方なかった。ここは一体どこなんだ? オレたちはどこに向かって歩けばいいんだ? 『魔法使いの試練』に終わりはあるのか? 漆黒のローブの魔法使いは、一体何者なんだ――?
夜空を仰ぐと、オレンジ色の満月がぽっかりと浮かんでいた。先生に尋ねたいことが山ほどあった。話を聞いてほしかった。不安で不安でたまらなくて、とにかくそばにいてほしかった。
『リーブル先生はあたしたちのことなんか、やっぱりどうでもいいみたい』
宿を出る前のルリアの言葉が頭の中に蘇り、オレは自分の思いを振り切るように、オレンジ色の月から目を背けた。孤独な思いに震え、目頭が熱くなってくる。涙がこぼれないように満天の星を見上げて、オレはふいに聖地に来るときに先生が星で進路をとっていた姿を思い出した。
「そうか……方角をあやまらないように、星で進路をとればいいんだ。目印にする星座を決めて……」
夜空を見上げたルリアがぽつりと呟いた。
「なんだかあそこらへんの星、オウムのラルフに似てる」
そのあまりにも突飛な発想に、オレは思わず吹き出した。「そう言われたら、もうラルフ君にしか見えなくなった!」
すると、ラルフ君はオレの肩越から飛び上がり「ニテナイ! ニテナイ!」と奇妙な声で怒りだした。その様子があまりにもおかしくて、オレたちは腹を抱えてげらげらと笑いあった。
前方にきらめく見知らぬ星座に進路を定め、オレとルリアは手を繋いで森の中を歩き始めた。
異国の暗い森には、さまざまな種類の鳥の鳴き声が辺りの木々に反響していた。星降る森とは全然違う――。そうだ。星降る森に迷い込んだときだって、オレとルリアは二人で力を合わせて無事に家に帰り着くことが出来たじゃないか。大丈夫だ。オレたちは先生がいなくたって、自分たちでやっていける。リーブル先生なんか、いなくたって……。
森の暗闇を歩きながら、オレはふいにルリアに尋ねた。
「ねえ、ルリア。本当にカストリアに行っちゃうの?」
ルリアからの返事はなかった。
「ルリア?」
横を見ると、驚くべきことにオレが繋いでいた手の主は、いつの間にかルリアではなくなっていた。風も無いのに緩やかに靡く長くて柔らかそうな金髪。それは、いつかの夢の中に出てきた少女だった。
「君は……」
彼女はわずかに微笑むと、まるでオレをどこかへ導くかのようにして手を引いた。幻想的な白い光に包まれて、その足どりは随分と軽やかだった。雲に隠れていた満月によって再び辺りが明るくなると、前方に出口のようなものが見えてきた。光の生み出す木々の影が、自分の影が、足元に蘇る。月明かりに照らされたオレの隣には、いつもと変わらずルリアがいた。
「どうしたの、メグ?」
オレがじっと見つめていたので、ルリアが不思議そうに尋ねてきた。
「な……なんでもない」
幻覚だったのだろうか? それにしてはやけにリアルだった。あの少女は一体どこの誰だっけ? ずっと、ずっと遠い昔から知っているような気がするのだが……。
森を抜けると、真っ黒な砂漠が海のように広がっていた。
「ここって、もしかして黒い砂漠……?」
砂漠の入り口には森から抜け出た魔法使いたちが何人かいた。それを確認したオレとルリアはなんだか心強くなって安心したが、彼らの中に漆黒のローブの魔法使いが紛れていることに気がつくと、二人同時に身体を硬直させて立ち止まった。半笑いの薄気味悪い仮面が、じっとこちらを見つめている。
「なんだ、おまえらまだ生きてたのか」
背後から突然声が降ってきた。声の主はラサだった。その姿を見たとたんに、怒りがこみ上げた。
「さっきはよくも突き落としてくれたな!」
掴みかかろうとすると、彼は持っていた箒の柄をオレの喉元に突きつけてきた。「俺に偉そうな口の利き方をするな!」
そのとき、ラルフ君が間に割り込んできて、何かに反応したみたいに叫び始めた。同時に、巨大な鳥が風を起こして頭上を横切る。角みたいな鶏冠にドラゴンのような翼と、蛇のような尾を持った見るからに恐ろしい生き物だった。
近くにいた魔法使いのひとりが、その生き物と向き合ったとたんに瞬く間に石になり、その光景を目の当たりにしたオレたちは驚いて目を丸くした。
「い、い、石になった!」
砂漠に散りじりになった魔法使いたちは、あらゆる魔法の術を駆使して対抗したが、珍獣と目が合うやいなや石に変えられてしまった。
ラサは自らの箒を盾にして、必死で身を守ろうとしていた。珍獣は彼の箒を容赦なく足で破壊すると、そのまま空中で大きく旋回し、再び地上に向かって飛んできた。折れた箒を投げ捨てて、ラサはオレの背後に周り両腕を押さえつけて盾にした。
「何するんだ! 離せ!」
「うるさい!」
揉み合うオレたちに向かって、巨大な怪物は迷うことなく一直線に降下してきた。
「卑怯者! メグを離せ!」
ルリアがすぐさまオレを助けに走り寄ったが、ラサに一蹴りされて人形みたいに砂の上に転がった。
「ルリア!」
砂が口に入ったのか、ルリアは咳き込みながら立ち上がる。彼女の背後に猛スピードで飛んで来る珍獣の姿が視界に映った。
「ルリア! オレのことはいいから、早くここから逃げるんだ!」
しかし、二番弟子は持ち前の負けん気の強さでオレたちを護るようにして立ちはだかると、鞄の中をごそごそと掻き回し、珍獣に向かって猛然と何かを差しかざした。
すると、空飛ぶ怪物はオレたちの目の前で、あっという間に石になって墜落してしまった。
「な、何が起こったんだ?」
ルリアが手にしていたのは、なんとオレがペル・サラームの町で買ってあげた誕生日プレゼントの手鏡だった。
「そうか、あの怪物は鏡に映った自分の目を見て石になっちゃったんだ! ルリア、あったまいい!」
オレが褒めるとルリアは得意げに微笑んだ。だが、次の瞬間、目の前にいたはずの二番弟子は、風に吹かれた木の葉のように忽然と姿を消した。
「ルリア……?」
頭の天辺から叫び声が聞こえた。「メグ!」
見上げると、ルリアは珍獣の足にさらわれ、空高く舞い上がっていた。なんとこの恐ろしい生き物は、二匹存在していたのだ!
「ルリアーっっ!」
無我夢中でラサの腕を振りほどき、すぐさま走って後を追った。しかし、ルリアをさらった珍獣は、追いかけるラルフ君の丸い嘴に突付かれながら、みるみるうちに砂丘の向こうに遠ざかった。砂に足を掬われてその場に倒れたオレは、硬い砂の表面を拳で叩いた。
「くそっ!」
そのとき、箒に跨った漆黒のローブの魔法使いが目の前に降りてきて、自分の後ろに乗れと言わんばかりの仕草をした。オレは一瞬躊躇ったが、ルリアを助けたい一心で思い切って彼の箒に飛び乗った。
「待て! 俺も乗せろ!」
珍獣の襲撃で箒を失っていたラサが、焦ったように背後に飛び乗ってきた。
そこで、オレはエデンの大学でラサが漆黒のローブの魔法使いと一緒にいたことを思い出した。二人はたぶん知り合いなのだ――。
ラサがオレを引きずり下ろそうとする間もなく、箒は物凄いスピードで空高く舞い上がった。オレは必死に漆黒のローブの魔法使いにしがみつきながら、砂漠の海へと視線を落とした。すでにルリアを捕らえた珍獣の姿はどこにも見当たらなかったが、目を凝らして前方を見つめていると、砂漠に点々と星のような輝きが放たれていることに気がついた。
「なんだろう、あの光」
漆黒のローブの魔法使いは地上すれすれまで箒を下降させた。よく見ると、光り輝いていた物の正体は星の形をした金平糖だった。
「ルリアだ! ルリアが『星の契り』で賜ったお土産の金平糖だ!」
まるで道標であるかのように、色とりどりの金平糖は月の光に照らされて点々と続いている。
「この方角に飛んで行ったんだ!」
箒は金平糖の輝きを辿るようにして、真っ直ぐに砂漠を飛んで行った。
しばらくすると、蜃気楼のような影がきらきらと輝いているのが見えた。それは砂漠の中にひっそりと佇むオアシスのようだった。虹色に輝く泉がまるで湖のように大きく広がり、向こう岸にはちょっとした樹林があった。
幻想的な風景に魅せられていると、突如ラサの杖からほとばしる閃光がオレの頬をかすめた。
「何するんだ!」
詠唱される呪文とともに杖は光を集め、再びオレに向かって眩いばかりの閃光を発した。そのとき、箒が左右に激しく蛇行して、バランスを崩したラサは夜空へと放り出された。
「わああああ!」
幸いなことに、堕ちた先はちょうど泉になっていた。激しい水音が夜の静寂に響き渡る。彼はすぐに水面から顔を出したが、必死でもがくその姿はあっという間に水の中へと沈んでいった。
「まさか、アイツ泳げないんじゃ……」
漆黒のローブの魔法使いは箒を止めることなく飛び続けていた。波打つ水面がどんどん豆粒みたいになっていく。オレはいてもたってもいられなくなって、とうとう馬鹿みたいに叫んでいた。
「お願い! 彼を助けに戻って!」
しかし、漆黒のローブの魔法使いは無反応だった。
「このまま放っといたら死んじゃうよ!」
必死で懇願すると、やがて月光に背を向けて箒はぐるりと旋回し、元来た方角へと戻っていった。
オレは泉の中に飛び込んでラサの姿を捜し回った。彼は意識を失うことなく、水中で必死にもがいていた。助けようと手を伸ばすと、一瞬悔しそうな表情を浮かべたが、すぐに差し出された手を取った。
砂の岸辺に辿り着いたオレたちは、崩れるようにしてその場に倒れ込んだ。漆黒のローブの魔法使いが魔法で火を熾してくれたので、そこで少しだけ体を休めることにした。濡れたローブを近くの木に引っ掛けて、雑巾を絞るようにスカートの水を絞った。
「笑いたければ、笑うがいい」
少し離れたところに座っていたラサは、真っ青な顔をしてこちらを見ずに呟いた。
「ずっと昔、海で溺れ死にそうになったことがあって、それ以来水が怖いんだ」
彼の体は歯の根があわぬほどガクガクと震えていた。きっと、溺れたときの経験が、幼い頃のトラウマとなってしまっているのだろう。オレが魔法陣の暗闇に取り残されるのを怖がるように……。
「少し温まった方がいいよ」
そう言って、オレは消えてしまいそうな小さな炎に身を寄せた。
漆黒のローブの魔法使いが集めてきた枝を炎に放り投げると、枝はぱちぱちとはぜ勢いよく燃えさかった。
揺らめく火影の向こうを掠め見ながら、回らぬ頭で考えていた。漆黒のローブの魔法使いは、ラサと知り合いだとばかり思っていたのに、知り合いどころか溺れるラサを助けようともしなかった。エデンの大学で見かけた魔法使いと、この人物は別人なのだろうか――?
夜の砂漠は寒かった。炎の熱がじんわりと体を温めていく。包み込まれるような温かさに、知らず知らずのうちに睡魔に襲われていた。しかし、こんなところで寝ている場合ではないのだ。ルリアを助けに行かなければ……。
ルリアを……助けに……。
暗闇の中に二人の人間のシルエットが見えた。それはルリアとリーブル先生だった。
「バイバイ、メグ。あたしカストリアで暮らすことにしたの。だから、もうお別れだよ」
ルリアが笑顔でオレに向かって手を振った。
「待ってよ、ルリア!」
すると、隣にいた先生が不機嫌そうに肩を竦めた。
「ルリアがいなくなったんじゃ、もうここにいる意味が無い。メグ、君もどこかに行くといい」
二人は揃ってオレに背を向けると、左右ばらばらに歩いていった。
「待ってよ、先生! ねえ、ルリア!」
二人の姿は暗闇の中に溶け込んで、まもなく見えなくなってしまった。深い闇の中に取り残されてしまったオレは、泣きながら彼らの名前を叫び続けた。
「助けに行くんじゃろ?」
突然、老人の声がして、オレは驚いて顔を上げた。炎を挟んで向こう側には、いつの間にやら見知らぬ老人が暖をとっていた。
「あなたは……誰?」
丸まった背中の様子からも、その皺の数や白髪からしてみても、うちのじいちゃんなんかよりよっぽど年寄りに違いない。確かに知り合いではなかったが、見ているうちになんとなく知っているような気もしてきた。なんだかとても不思議な印象だ。
老人は先端がぐるりと巻かれた木の杖を後方に向けて指し示した。
「女の子を助けに行くんじゃなかったのかいな?」
「そ、そうだけど。どうしてそのことを知ってるんですか?」
「ワシはなんでも知っておる。ここで起こったことはすべてな。そして、おまえさんとまた別の機会に顔を合わせることも」
そう言って、老人は悪戯気にウィンクした。
「大切なのは、己を信じることじゃ」
炎に接がれた枝がパチンと大きな音を出して弾けると、次の瞬間老人の姿は消えていた。漆黒のローブの魔法使いとラサは、炎を取り囲むようにして眠っている。
「夢……?」
そのとき、オアシスの樹の向こう側を、ひとりの少女が横切った。それは、間違いなく夢の中に出てきた金髪の少女だった。彼女は一瞬だけこちらを振り返ったが、そのまま樹林の中に走って行った。
「待って! 君は一体誰なの?」
オレはすぐさま立ち上がって、彼女の姿を追いかけた。
金髪の少女は砂漠の樹林をかろやかに駆けてゆく。時折、オレがついて来ているか確認するかのように振り返りながら……。だが、やがてその姿は暗闇に紛れてすっかり見えなくなってしまった。
少女の姿を見失うと同時に、オレは新たに白く輝く集団を見つけた。大木の陰に身を寄せて目を凝らしつつ、突然奇妙なことに気がついた。月明かりがないのだ。満月の姿は消えており、空には星々の明かりすら見られなかった。いつの間にこんなに曇ってしまったのだろう?
白く輝く集団は、驚くべきことに聖ユーフェミア騎士団だった。遠目でもはっきりとわかるほど、すっと背筋を伸ばした威厳のある人物が白馬に跨っている。ファインズ総長だ。
星十字の留め金に白いマントを羽織った聖ユーフェミア騎士団の騎士たちは、ファインズ総長を筆頭に何やら集会のようなものを護っていた。オレは木から木へと隠れながら、少しずつその集まりに近づいて行った。
そこはまるで野外の法廷のようだった。何十人もの傍聴人たちに取り囲まれるようにして、中央に設置された台の上にひとりの男が立っている。その人物を目にした瞬間、驚きのあまり思わず声を上げた。
「ゴドウィンさん……!」




