第九話 魔法使いの試練
「どうかしたの? メグ」
オレの視線が長い間人混みに向けられたままだったので、ルリアが不思議そうに尋ねてきた。そのとき、荘厳な鐘の音が辺りに響き渡り、ペル・サラームの大聖堂は水をうったように静まりかえった。
「いよいよ始まるみたいだね」
「うん」
漆黒のローブを纏った魔法使いの存在が気になったが、『魔法使いの試練』に神経を集中させるため、今は忘れることにした。
高い天井を支える繊細な装飾の施された柱の合間に、美しいステンドグラスが輝いている。そこからさらに一段低い層にアーチ型のトリフォリウムがあって、立派な風采をした魔法使いたちが立ち並ぶようにして現れた。齢を重ねた魔法使いたちの中には純白の法衣を纏う若きエメット三世の姿もあった。カストリア国教会の総主教かつ偉大な魔法使いたる父親の姿は、果たして今、ルリアの目にどのように映っているのだろう――。
あらゆる国の魔法使いたちが一堂に会しているため、話はオレたちが普段使っている世界共通語で語られていたが、緊張と浮かれた好奇心で挨拶の言葉も開催趣旨もほとんど耳に入ってこなかった。だが、最後の方でエメット三世が厳かに口を開いたときにはおのずと意識が集中した。
「深遠なる闇の中から光を求めし者たちよ。我、汝らに伝えん。夢喰う者を呼ぶ者は、暗闇より失われた光を取り戻すであろう!」
短くも鮮烈な一言。続いて掲げられた手が斜めに振り下ろされると、聖堂内の明かりが蝋燭の芯の燃えた匂いを残して消え去った。そして、再び光が取り戻されたとき、トリフォリウムにいたはずのエメット三世や魔法使いたちの姿はすでにどこにも見当たらなかった。
ふいに足元に視線を落とし、オレはギクリと肩を震わせた。いつの間にやら床の上には大量の蛇が集まっていて、くねくねと身を捩じらせて動いていた。異変に気がついた魔女たちがところどころで悲鳴を上げ、聖堂内は瞬く間にパニックに陥った。この世で一番嫌いな蛇の姿を捉えたルリアの顔からも、あっという間に血の気が失せる。
「メ、メ、メ、メグ、どうしてこんな所に蛇がいるの!?」
オレたちは大聖堂の真ん中で背中合わせに寄り添った。
「もしかして、これって『魔法使いの試練』なのかな?」
切り株のようなトグロを巻いた蛇をあやまって踏んづけてしまうと、怒った蛇が頭を高く持ち上げて物凄い勢いで飛びかかってきた。
「きゃああああっ!」
ルリアは咄嗟に魔法の杖を一振りして、魔法祭で召喚したときよりもひときわ大きな蛙を呼び出した。そいつは素早く蛇を丸呑みし、何事もなかったかのように煙となって跡形も無く消え去った。呪文や魔法陣に頼らず何かを呼び出すのは高等魔法使いのすることだ。
「すごいよ、ルリア!」
賞賛と羨望の眼差しを向けるも、二番弟子はすでにいたはずの場所にいなかった。辺りを見回して姿を探すと、箒で逃げ飛んだルリアは上部の採光窓に張り付いていた。顔は恐怖で今にも泣き出しそうに崩れている。オレは箒に跨り、おぼつかない飛び方でルリアの元へと近づいた。
「大丈夫だよ、ルリア。蛇は空を飛べないからここまではやって来れないよ」
次の瞬間、突如として地を裂くような雷鳴が辺りに轟いだ。
ゴロゴロピッシャーンッ!
凄まじい稲妻が身廊を縦横無尽に駆け抜ける。天井はいつの間にやら真っ黒な雷雲で覆われていた。
ゴロゴロゴロ、ドンガラガッシャーン!!
「ぎゃあああああっっ!」
雷が苦手なオレは思わず悲鳴を上げて頭を抱え込んだ。すると、当然のことながら両手を離した箒はバランスを崩し、真っ逆さまに下に向かって傾いた。フリルのスカートが鮮やかに舞い広がり、肩に乗っていたはずのラルフ君が宙に羽ばたく。やばい、堕ちる……!
「メグっ!」
空中でこだまするルリアの叫び声が耳に届く中、意外にもオレは第三者の手によって墜落を免れた。落下した箒が音も無く蛇の渦に飲み込まれてゆく恐ろしい光景を見届けてから、顔を上げて驚きのあまり声を失した。
なんとオレの手を握っていたのは、漆黒のローブを纏う魔法使いだったのだ。
「メグ!」
ルリアがオレたちのそばまで飛んで来ると、魔法使いは彼女の箒にオレを下ろした。そして、無言のまま半笑いの仮面を背け、揺らめく火影のように開かれていた扉の先へと姿を消した。
黒いローブを纏った魔法使いなど、世界中に星の数ほどいるに違いない。だが、半笑いの不気味な仮面から奸計をめぐらす悪しき者の印象を受けたせいか、魔法祭でカウリー聖父が言っていた漆黒のローブの魔法使いの存在を、このときオレもルリアも思い出さずにいられなかった。しかし、悪しき存在であるはずの魔法使いが人助けなどするだろうか――?
混沌とした緊張に包まれていると、ラルフ君が一際高い鳴き声を上げて眼下へと羽ばたいた。試練に参加しているたくさんの魔法使いたちが、皆揃ってただひとつ開かれている側廊の扉の向こうへ飛んでゆくのが見える。
激しく轟く雷鳴と荒れ狂う稲光に後押しされるようにして、ルリアの操る箒も扉に向かって降下した。
扉の先には細長い廊下が伸びていた。一定の間隔をもって点々と蝋燭が灯されていたが、窓がないせいかどことなく薄暗い。道は次第に四方八方へと分かれていき、まるで迷路のようになった。
「あたし、魔法使いの試練ってもっとテストみたいなのかと思ってた」
「オレもだよ」
奇妙に拡張された声が四角い通路に響き渡る。
こんなに危険なのに、よくリーブル先生はオレたちに試練を受けさせる気になったものだ。そう思ってから、はっとして頭を振った。先生の話題は禁物だ。弟子の試練に立会いもしない師匠のことなど、考えるのはやめにしよう。
ふいに、ラルフ君が何かを察知したように前方をにらみつけて鳴き出した。暗がりの先を歩いていたのはオレのファースト・キスを奪ったあの異国の青年だった。彼はきらりと光る耳飾りを揺らしてこちらに振り向き、嘲るような薄ら笑いを浮かべた。
「蛇や雷が怖くてメソメソ泣いているかと思ったが、女二人でよくここまで来れたものだな」
「女って言うな!」
頭にきて即座に言い返すと、青年は居丈高にニヤリと微笑んだ。
「ああ、そうだった。おまえは女じゃなかったっけ。オカマだからな!」
「なんだとっ!」
オレが魔法の杖を取り出すのとほぼ同時に、ルリアの振り上げた箒が青年に向かって一足早く下ろされた。しかし、箒は彼の手によって受け止められ、脇道に投げ捨てられた。
「二度もやられると思うなよ、チビ」
青年はいまいましそうに吐き捨ててから、ルリアの細い首を片手でぐっと握り締めた。「この俺様を叩いた罪は重いぞ。同じ目に合わせてやろうか?」
わずかに体を持ち上げられ、ルリアは苦しそうに爪先立った。巻きつけられた指を振り解こうともがいていたが、立っているのがやっとのようだった。
オレは威嚇するように魔法の杖を青年に突きつける。
「ルリアを離せ!」
「邪魔だ、向こうへ行ってろ。それともなにか? おまえも相手をして欲しいのか?」
言いながら、青年は自分のそばにルリアを引き寄せ、わざとらしく彼女の首筋を穢すように口付けた。その光景にオレは憤慨のあまり杖を持つ手がひどく震えた。
「やめろ! 今すぐルリアを離さないと――」
「離さないと、なんだ? オカマの分際でこの俺様と張り合おうというのか?」
青年は王様然とした笑い声を上げ、嫌がるルリアをぎゅっと抱きしめながら挑発的にこちらを一瞥した。だが、オレが握り締めていた魔法の杖を視界の端に捉えた途端、急激に顔つきを変えた。
「なぜ、おまえがその杖を持っている……?」
そのとき、突然床が低い地響きを伴ってぐらぐらと揺れ出した。
「な、なんだ?」
ごろごろと音を立てて何かが近づいてくる。振り返ると、道幅と同じくらいの巨大な岩がこちらに向かって転がってくるのが見えた。
青年は慌ててルリアを突き飛ばし、道を選ぶ余裕もなく手前の通路に逃げ込んだ。倒れた二番弟子の手を取って、オレも急いで通路に走った。だが、踏みしめた床の一部が崩れ、人工的にそこにしつらえてあったような落とし穴がぽっかりと現れて、墜落は免れたものの宙吊り状態になってしまった。
オレの右手にぶら下がっているルリアの足元に、遥か遠く井戸のように深い底が見えた。落ちればまず間違いなく助からないであろう。
宙ぶらりんのまま顔を上げると、異国の青年が勝ち誇ったような笑みを浮かべて仁王立ちでオレたちを見下ろしていた。
「さっきの杖を俺によこせ。そうしたら、ここから助けてやってもいいぞ」
「……断るっ!」
声を振り絞って答えると、青年は目を細めてオレをにらみつけた。
「――ふん、まあいいさ。あの杖はきっと俺の見間違いだったに違いない。冥土の土産に教えてやろう。俺様の名前はラサだ。やがてこの世界の王となる存在だ。まあ、そのときにはおまえらはこの世にいないだろうがな!」
高らかに笑い声を上げながら、ラサはオレの手を靴底で踏みにじり、ローブの裾を翻してその場から去っていった。呪ってやりたいほどの怒りがこみ上げたが、今はそれどころではなかった。とにかく、ルリアだけでも助けなければ……!
オレは浮遊術の呪文を詠唱して、なんとかルリアの体を落とし穴の上まで持ち上げた。彼女はほっとする間もなく、オレのことを助けようと辺りを右往左往した。
「ほ、箒取ってくるから、もう少しだけ頑張って、メグ!」
そう言うと、ルリアは先程の通路に向かって走って行った。箒は大岩でとっくに潰されているかもしれないと思ったが、声を出して叫ぶ余力もなかった。
必死で羽ばたくラルフ君が、オレのドレスについているリボンを嘴で一生懸命引っ張り上げている。
「ありがと……ラルフ君。でも、もう無理みたいだ……。手が、痺れてきた……」
だんだんと腕の感覚がなくなってくる。
『僕が君を守るから』
もうだめかもしれない――。そう思ったとき、心の中に思い出されたのはリーブル先生の姿だった。いつも、どんなときだって、先生はオレやルリアのそばにいてくれた。だけど、今、彼はここにいない。その事実が矢のように胸の奥に突き刺さった。
掴んでいた床からずり落ちるように手が離れ、オレは思わず声を上げた。
「リーブル先生……!」
叫び声に重なるようにして、眼前に黒い影が現れた。その姿を捉えた瞬間、心臓がドクンと跳ね上がった。視界いっぱいに広がる薄絹の闇。箒に乗った漆黒のローブの魔法使いが、穴に落ちるオレの手首を掴んで力いっぱい引っ張り上げた。
通路に体を放り投げられ、オレは尻餅をついた格好のままその場から動けずにいた。鼓動が早鐘のように脈を打ち始める。箒から下りた漆黒のローブの魔法使いがオレに向かって再び手を伸ばしたとき、後方から声がした。
「メグ!」
駆けつけたルリアの声に反応して、漆黒のローブの魔法使いは咄嗟に手を引っ込めた。彼は半笑いの仮面の奥からじっとオレを見つめていたが、やがて、そのまま何も言わずに箒に乗って飛び去った。




