第八話 異国の青年と黒い影
穏やかなレーンホルムの昼下がり。丘の上の樫の木陰で白い野草の花冠を編み上げると、オレはそれを隣で本を読んでいる師匠の頭にそっと乗せた。リーブル先生はにっこりと微笑んだ。
「メグは本当に器用だね」
風に流されてやってきた巨大な雲が辺りに深い影を彩り、丘陵を緑の波が駆け抜ける。先生は手にしていた本を閉じておもむろに立ち上がった。
「君に言わなければならないことがあるんだ」
唐突に紡がれた言葉の続きは、風の音に紛れてよく聞き取れなかった。いや、本当はしっかりと聞こえていたのだけど、聞かなかったことにしようとしていたのかもしれない。
『エデンの大学に入学することになったんだ』
先生のオレンジ色の髪が風に靡き、花冠が丘の向こうに飛んでゆく。幼いオレは大粒の涙を流しながら、全身で先生に抱きついた。
ずっと昔の夢だった。涙を拭ってくれた先生の手の感触が、まだかすかに頬に残っているような気がした。目尻に流れた涙を袖口で拭うと、オレはゆっくりとベッドから身体を起こした。
カーテンの隙間からは矢のような朝日が差し込んでいる。ラルフ君は相変わらずオウムの姿のままで、ベッドの柵に片足で立って顔を背中にくっつけるようにして眠っていた。
心細くなったとき、決まって見る夢がいくつかあった。そのうちのひとつは、先生からエデンの大学へ行くことを告げられたときの夢だった。大学卒業までの四年間、先生は大都市エデンにあるソーサリエ・カレッジの学寮で暮らしていた。生まれて初めて先生と離れることになったとき、オレはかたく心に決めたっけ。リーブル先生が立派な魔法使いになって学校を卒業したら、改めて彼の元に弟子入りするのだと。
オレはいつだって先生の後ばかり追いかけ回していた。そして、歳の離れた兄のようなイトコは、いつも優しくオレを迎えてくれた。
カーテンを開けると、輝く太陽に一瞬目が眩んだ。今朝は見事なまでの快晴だった。セド・ル・マリアは昨晩降り続いた雨によって、すべての罪が洗い流されたかのように神々しい光で満ち溢れていた。
目を覚ましたラルフ君が、毛繕いをしながら「オハヨウ、オハヨウ」と繰り返した。
「おはよう、ラルフ君」
そうだ。先生に頼んで、ラルフ君の魔法をといてもらわなければ。そして、もう一度向き合うのだ。話をするのだ。このまま気まずい思いをしているのは絶対に嫌だ。だって、オレはやはりリーブル先生が好きなのだ。先生はオレが心から尊敬する師であり、かけがえのない家族なのだ。
まるで、霧が晴れたかのような気分だった。目の前に積み重なっていた釈然としない出来事も、今はなんだか簡単に解決出来るような気さえした。
「行こう、ラルフ君!」
着替えを済ませ、桃色のオウムを肩に乗せて意気揚々と部屋の扉を開けたところで、ちょうど階段を上ってきたルリアと出くわした。
「おはよう、ルリア!」
笑顔で朝の挨拶をするオレとは対照的に、ルリアは相変わらず陰鬱な表情のままだった。
「今日は『魔法使いの試練』、頑張ろうね!」
めげずに明るく声をかけると、二番弟子は瑠璃色の瞳を静かに伏せた。
「リーブル先生はあたしたちのことなんか、やっぱりどうでもいいみたい」
彼女は泣きたいのを我慢しているみたいな声でそれだけ言うと、自分の部屋へと駆け込んだ。二番弟子を追うようにして、襞襟のついたドレスを揺らしながらばあちゃんが螺旋階段を上ってきた。
「朝食を食べたらすぐに『魔法使いの試練』に出発するよ」
「先生を起こさなくっちゃ!」
オレは慌てて先生の部屋の扉に手をかけた。しかし、開かれた部屋はがらんどうで、いつもならまだ眠っているはずの師匠の姿はどこにも見当たらず、空になったベッドがただ整然と並んでいるだけだった。
「リーブルは大切な用があるとかで今朝早く出かけたよ」
「大切な用? 出かけたって、一体どこに?」
愕然とした面持ちで尋ねると、ばあちゃんは両手を広げて「さあ」と言わんばかりに首を横に振った。
リーブル先生にとって、オレとルリアの『魔法使いの試練』以上に大切な用とは何なのだろう? 弟子を放って出掛けるほど大事な用事なのだろうか――?
一度晴れたはずの霧は再び混沌とした渦となり、胸の内に音もなく蘇った。
ペル・サラームの大聖堂は円形の屋根に朝陽を受けて、目にも眩い黄金の輝きを放っていた。
聖女マリアに祈りを捧げるため、オレたちは揃って聖堂内へと足を踏み入れる。高い天井を支える幾本もの支柱。それらの間を埋めつくすようにしてひしめく色とりどりのローブの群れ。聖人たちの描かれたステンドグラスが虹色の光で旅の巡礼者やこれから『魔法使いの試練』を受ける魔法使いたちを照らしていた。
「杖は忘れてないね? 箒もそのまま一緒に持って行くんだよ」
オレとルリアが浮かない様子で返事をすると、ばあちゃんはオレたちの肩をばしばしと力強く叩いた。
「なにシケた顔してるんだい! 大丈夫だよ。別に試練を乗り越えられなかったからって、死にゃあしないんだから。もてる力のすべてで頑張ってきな!」
景気づけにばあちゃんが杖を一振りすると、オレたちの服装はお揃いのローブに三角帽子、そして可愛らしいフリルのついたドレスに変わった。あきらかに魔女の正装だ。
「ちょっとばあちゃん! これって女の子の服装じゃない?」
「おや、いつもの癖でつい間違えちゃったよ」
オレは恥ずかしさのあまり真っ赤になって叫ぶ。「早く元に戻してよ!」
しかし、ちょうどそのとき大聖堂の鐘が鳴り、二人組の修道女が正面扉を閉めに現れた。参加者ではないじいちゃんやばあちゃんは慌てて外に出た。一生の別れを惜しむかのごとく、大袈裟なほどに手を振るじいちゃん。オレの叫び声もむなしく、大聖堂の堅固な扉はがんとして閉ざされた。
「悪夢だ。ばあちゃんの魔法はオレには解けない。……悪夢だ」
頭を抱えてしゃがみ込むオレの横で、ルリアはばあちゃんの魔法によってひときわ可愛さの増した斜めがけの小さな鞄を開き、自分が持ってきていた荷物の中味が変わっていないかどうか確かめていた。
彼女はオレが誕生日にあげた手鏡を取り出すと、ほっとしたように再び中に仕舞い込んだ。その隣には、星の契りのときに賜った金平糖が虹のような輝きを放っている。
「金平糖も持ってきたの?」
「だって、途中でお腹すくかもしれないでしょ?」
そう言われてみれば、『魔法使いの試練』はどのくらいの時間を要するものなのだろう。と、いうよりも、そもそも『魔法使いの試練』って……。
「一体どんなことするんだろうね」
ルリアがオレの言葉を続けるかのように呟いた。
魔法を使ってさまざまな障害を乗り越える『魔法使いの力試しの場』だということは知っていた。リーブル先生いわく、オレが以前聖マリア修道院で受けた薬草検定のように、共通にして与えられる魔法に関する試験のようなものらしいのだが、文献や噂によると最後に与えられる試練は皆それぞれに違うらしい。そして、最後の試練を乗り越えられる者は、ごく限られた魔法使いだけなのだとか。
そのとき、ふいに視線を感じてルリアの肩越しに前方を見つめた。
涼しげな漆黒の瞳の青年がこちらに視線を傾けていた。異国のローブを纏い、頭に巻きつけられた布からは、流れるように艶やかな黒髪がところところで零れ落ちている。大きな耳飾や指輪など、身に着けている装飾品はかなり高価な物のようだった。
青年は肩をそびやかすような歩き方でオレたちの元に近づいてきた。
「エデンの大学で見かけたな」
そう言われて、オレもなんとなく思い出した。ソーサリエ・カレッジで『魔法使いの試練』に申し込みをしようと並んでいたときに、漆黒のローブを纏った人物と一緒にいた青年の存在を。
「おまえ、前にも俺のことをジロジロと見ていたが、俺に気でもあるのか?」
「はあ?」
そのあまりにも唐突で馬鹿げた発言に、オレは自分の耳を疑った。
青年は品定めでもするかのようにして、オレの顎を人差し指で持ち上げた。
「金髪は好みじゃないが、顔は悪くないな」
「ふざけるな、オレはお……」
男だと言いかけて、次の瞬間氷のように固まった。目の前が真っ白になるということは、きっとこういうことを指すのだろう。あろうことか、青年はオレの唇に……、唇……に……
「何するんだーっ!!」
オレは怒りのあまり耳まで真っ赤になって、青年の身体を勢いよく突き飛ばした。肩に乗っていたラルフ君が怒ったように鋭い口ばしで彼の身体をつっつき始めた。
「おかしな女だな。キスくらいで何をそんなに騒ぐことがある」
「ふざけるなっ! オレは男だ!」
一瞬の沈黙。
そして、青年は冗談にしようと嘲笑った。
「貴様の方こそふざけるな。どこの世界にそんな格好をした男がいるというんだ?」
しかし、オレが本気で怒っているのを確認すると、その表情はみるみるうちに青ざめていった。
「まさか、本当に男なのか?」
彼は自分からキスしておきながら、怒りに打ち震えた顔でオレのことを睨みつけた。
「貴様、名を名乗れ!」
「おまえなんかに名乗る名前はないっ!」
「上等だ! いいだろう! 好きなように呼ばせてもらうさ。この『変態野郎』!」
「なんだと!?」
オレは青年に掴みかかろうとしたのだが、それよりもわずかに早くルリアが猛然と彼の脳天に箒を振り下ろした。
「メグのこと馬鹿にしたら、許さないんだから!」
青年は一瞬何が起こったのかわからずに、しばらくの間呆然としていた。だが、やがて憤怒で顔を真っ赤にさせて、持っていた魔法の杖をルリアに向かって突きつけた。
「貴様! 俺を誰だと思っている!?」
彼はそのまま自分の名を名乗ろうと、大きく口を開きかけた。しかし、なぜかはわからぬがそれを思いとどまるかのようにして唇を噛み締めた。
「……今に、思い知る日が来るだろう。俺は貴様らのような者には手の届かぬ至高の存在だ」
彼に負けないほど高慢な態度でルリアが言葉を返す。「あんた頭おかしいんじゃない?」
「うるさい! おまえのようなチビの魔法使いに、『試練』を乗り越えられるものか!」
捨て台詞を吐いた青年は、ローブをひるがえして憤然とオレたちの元から離れていった。ルリアは怒りのあまり小さな身体を小刻みに震わせていた。彼の最後の言葉が、彼女の心に闘志を焚き付けたに違いなかった。
「メグ!」
「は、はい!」
怒りに満ち溢れたルリアの声に、オレは慌てて返事をした。
「魔法使いの試練、力を合わせて絶対に乗り越えようね!」
「う、うん」
「あんなやつに負けるもんか!」
ルリアは苛立たしげにその場で地団駄を踏み始めた。オレの方が怒っていたはずなのに、いつの間にやら彼女の方が何百倍も憤慨しているようだった。
子供の頃、街で男の子から喧嘩を売られたとき、必ずルリアがオレを助けに飛び込んできたことを思い出し、その変わらぬ様子に思わず吹き出しそうになる。こみ上げてくる笑いを抑えきれずに後ろを向くと、漆黒のローブを纏ったひとりの魔法使いが真っ直ぐにこちらを見つめているのに気がついた。
半笑いの仮面によって顔は隠されている。目と口に明けられた穴は黒い三日月のようであり、先の見えない闇がどこまでも広がっているみたいだ。得体の知れない薄気味悪さに、オレは心の底からぞっとした。
「メグ?」
ルリアが訝しげにオレを見つめ、視線の先に顔を向けた。しかし、彼女がその姿を確認する前に、漆黒のローブの魔法使いは人混みに紛れて姿を消したのだった。




