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放課後の図書室は人気がない。いや、図書室に人気がないのは別に放課後だけじゃなくて、いつも、なのだが。
公立とはいえ、一応、進学を希望している人間ばかりが揃っているのだから、自主学習しているヤツが少しくらいいてもよさそうなものなんだが、生憎というか何というか、学校の近くに進学予備校が三件も軒を構えているものだから、エアコンの効いた過ごしやすい自習室を求めている生徒としては、高校の図書室などというエアコンもなくプライバシーも守られていないような劣悪な環境に身を置きたくないのである。
そんなわけで、閑古鳥が鳴くラーメン屋並に常に閑散としている図書室なのだが、それはやはり今日も同じで、なんとか本の原形を崩さずに図書室に辿り着いたオレが見たのは、見える場所には誰も生徒のいない広い部屋と、それでも律儀に出入口近くに設けられた受付席に座りつつ何かの本を読んでいる女性司書の姿だけだった。
昨年度まではどこぞのジイさん(もちろんれっきとした図書司書なのだが)がこの図書室を根城に一日中昼寝していたが、どうも定年退職になったか異動になったかしたようで、今年度からはこの若くて色香漂う女性司書に交代している。
図書室という場所が、この学校の生徒においてあまり重要な位置付けにないためか、この新任の図書司書の存在を知る者は学校内には未だ少ない。オレもつい半月ほど前に知ったばかりだ。
あ、念のため言っておくが、彼女のことを知ったのはまったくの偶然だ。ヨコシマな心は何もない。
しかし、もし彼女のことを知っている生徒が増えたら、この図書室は間違いなく男子生徒の溜まり場になるはずだ。目の前に美女がいるという状況で「綺麗なお姉さんは好きですか?」そう聞かれて、「ノー」と答える男子生徒などいるわけがない。要するに、端的に言うと、この新しい図書司書は男なら十中八九が振り返ると言っても過言ではないほど別嬪さんなのだ。
多分、大学を卒業したての新人なんだろう。オレから見ても若かった。
黒いストレートの髪は顎のラインで前下がりのボブに切り揃えられていて、化粧も薄め。それが何かを請うような甘えを含んだ彼女の目尻の垂れた瞳をより一層際立たせていて、まことに好ましい。洋服は私服。甘過ぎない、かつクール過ぎない綺麗めのトップスに、タイトスカートを合わせていることが多い。一応、生徒の年頃を気にしているのか、肌色ではなく常に黒いストッキングを履いているのだが、その絶妙な透け感のあるナイロン素材に包まれた曲線美がまた堪らなくいい。
オレが受付の方へと歩んでいくと、彼女はオレの存在に気が付いて顔を上げた。そして、少し驚いたように目を見開く。彼女はオレが目の前に来るのを待ってから、小首を傾げつつ「どうしたの?」と小鳥のような声で尋ねて来た。
「先生に頼まれて、資料を返しに来たんですけど……」
「あら、そうだったのね。ご苦労様」
彼女は顔を綻ばせた。咲きかけの白百合の花を思わせる。うん、やはりいい。綺麗なお姉さんは大好きだ。
オレが受付の机の上に持ってきた本を置くと、彼女は手際よく返却の処理をし始めた。
彼女の首が振れるたびに、香水なのかシャンプーの香りなのか、はたまたフェロモンなのか、よくはわからないが、とにかく男心をくすぐる心地いい香りがふわりと漂う。
返却手続きなんて数分と経たずに済んでしまうだろうが、あと三十分はこのままでもいいとオレは思った。
それにしても静かだ。
なんだか息苦しく感じてしまうくらいに。
そういえば今、多分この図書室にはオレと彼女の二人しかいないわけで。おまけに図書室は教室のある棟とは別の建屋にあるから、一番近い教室までであっても十メートルほど離れているわけで。
えっと、つまりだ。
つまり、この図書室は今、鍵は閉まっていないものの密室に近い状態になっているということであり、そしてそしてさらに言えば、その密室(に近い状態)にオレと彼女とはたった二人きりでいる――ということになる。
ふと思いついてしまったこの事実に、オレの背中を何かが走った気がした。
いやいやいやいや。待て待て、早まるな、オレ。いったい何を考えているんだ。
オレは、動物界後生動物亜界脊索動物門羊膜亜門哺乳綱真獣亜綱正獣下綱霊長目真猿亜目狭鼻猿下目ヒト上科ヒト科ヒト下科ホモ属サピエンス種サピエンス亜種に属する『ヒト』という唯一無二の種だ。地球上でもっとも理性的な生物(のはず)だ。盛りのついた猫じゃあるまいし、例え目の前にいるのがどんな美女だろうが、ここが密室だろうが、人生早まっちゃいけない。
「はい、ありがとう。返却処理は完了ね」
彼女の声が聞こえてきて、オレは我に返った。妄想の世界にトリップしていたせいで反応が遅れてしまったオレを、ぼぉっとしていたのだろうと勘違いしたらしく、彼女がくすりと笑う。オレはばつが悪くて少し眉間に皺を寄せた。
「本はここに置いておいてくれていいわよ。私が本棚に戻しておくから」
彼女が言った。
え、いいのかそれで? 結構重かったぞ、この本。
オレは彼女のか細い腕を見る。確かに、彼女にも運べないことはないだろうけど、あの綺麗な腕にこのぼろぼろの本を持たせるのが猛烈に悪いことのように思えてきて、気が付くとオレは彼女にこう言っていた。
「あ、いいですよ。場所教えてくれたら、オレが運びます」
彼女は驚いたように目を見開き、いったんは遠慮した。それでもオレが再度申し出ると「それなら、お願いしようかな」とはにかみつつも笑顔になる。
開花した白百合のような笑顔。
その笑顔が見たくて、言ってるんです。
――とは言えない自分が少しだけ悲しい。
彼女は立ち上がり、オレに本棚の場所を腕で指し示した。
「あの右から二つ目に並んでいる本棚の八列目よ。この資料集と同じシリーズが一番下の段に並んでいるから、巻数を見て入れてくれると助かるわ。多分、空いているところに入れれば、それで合ってると思うんだけど」
「はい」
オレはもう一度写真資料集を両腕で抱えた。その重みを身に沁みて感じつつ、やはり彼女に任せなくてよかったと思った。
すみません、まだ続きます……orz