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オレは梅雨がキライだ。
毎年必ずやって来るこの季節。もう毎日が憂鬱で仕方がない。一年の中でもっとも嫌いな季節と断言してもいい。
しとしと、じめじめ、ぬめぬめ、ぺとぺと。そしてさらに、蒸し暑い。とにかく不快。もんのすんげー不快。
いや、昔は好きだったんだ。梅雨の雨。
子供の頃は、紫陽花の葉っぱの上を這うカタツムリや、道路を渡ろうとしているらしいアマガエルを見つけては喜んだものだ。
夏ほど暑くはないし春ほど風もないから、中学の頃には雨でも平気で外に出て、友達と一緒にずぶ濡れの泥だらけになりながらサッカーやらバスケやらをしてた。もちろん、母親にはその後でたっぷりと怒られていたわけだが。
あの、雨の日に訪れていた、変な高揚感は一体何だったんだろう?
――そう思わずにはいられないほどに、今はそんな興奮が訪れることもなく。雨だれに侘び寂びのような風情を感じて涙を流し、四季折々で見せる顔の違う雨の日をいとをかしと言えるような、黒目黒髪の日本人らしい感覚は到底持ち得ない。
非常に残念だ。いや、別に残念でもないか。
オレが雨を嫌いな理由はいくつかある。
理由その一。暗いから。
雨雲の黒さがまずキライだ。どんよりとしやがって。白い雲ならわた飴と思ってやってもいいが。
だいたいあの黒さの元は何なんだ? 中学のとき、雲は空気中の塵を核として水蒸気がウンヌンと習った気がするんだが。だとしても、水蒸気は無色透明だろう。晴れているときの白さにだってなんか納得いかないのに、雨や雷の雲は白いどころか黒いっていうのはどう考えても変だろう?
もしかして、核になってる塵って光化学スモッグとかいうヤツか? だとしたら、それが雨と一緒に降って来てるってコトか? 考えただけでも気持ち悪い。
次。理由その二。癖毛が言うことを聞かなくなるから。
高校二年にもなれば、男であっても、さすがに身なりに気を配るようになる。毎朝、洗面所で寝癖を直したり、出かける前に全身鏡でチェックするのは当たり前だ。女の子の視線も気になるしな。
だが、オレの頭髪にはかなりの癖がある。この毛質は完全に父親譲りだ。晴れている日でさえ、寝癖を直すのに相当苦労するのに、雨の日ともなるともう地獄だ。タオルとドライアーとヘアブラシとワックスを使い、なんとか凌いでいるという状態。ひどいときは、直すのに三十分以上の時間を要する。
まったく、ただでさえ朝は一分でも長く眠っていたいと言うのに。
理由その三。最後にして最大の理由。自転車通学の妨げになるから。
オレの通う高校は、自宅から五キロくらい離れている。徒歩で通うには遠すぎるし、公共交通機関を使おうにもこの街にはバスしか通っていない。
もちろんバスでも通えないことはない。が、高校と自宅との位置関係とバスの路線が上手く噛み合わないのだ。どうしてもバスで通学するとなると、いったん学校とは違う方向にある駅に向かうバスに乗り、駅で高校行きのものに乗り換える必要がある。
そんな面倒くさいコトやってられるか、どあほう。さらに、所要時間は渋滞を考慮しなかったとしても、一時間弱かかるしな。通勤ラッシュのことを踏まえて考えると、一時間半はかかるはずだ。
その点、自転車だと、遠回りをせずに済むし、二十分もあれば到着する。実に合理的だ。
そんなわけで、雨の日でも、オレは傘を差しつつ自転車で通うことにしている。どうしても、傘じゃ凌げんってときだけ雨合羽を着る。どっちにしても、視界が狭まるし、不快なことに変わりはない。
前置きが長くなってしまったが、まぁつまり、今はオレが大ッ嫌いな梅雨の真っ只中という季節なわけで。
そして小降りだった今朝とは違い、本日最後の授業が終わったばかりのこの時間、窓の外の天気は本格的な土砂降りになっていたというわけだ。
オレがますます梅雨という季節を嫌ったとしても、誰が責められようか。
「おい、日直。悪いが、これ、図書室に返しておいてくれ」
終業のベルが鳴り挨拶をした直後、先生は、教卓の上に重そうな本をどんと置いた。そして、生徒たちの方を見ることもなく、自分の教科書と授業用ノート、出席簿だけを抱えて教室を立ち去って行った。
「はいはい、わかりましたよっと……」
わざわざそんなに大きな音を出して重さを強調しなくたっていいじゃないか。オレはそう思いながら立ち上がった。まことに喜ばしいことに、今日の日直はオレだったりする。マジで、嬉しくで涙が出そうだぜ。
クラスメイトたちが荷物をまとめて教室を出て行こうとする中、オレは一人教卓に寄る。
教卓の上に置かれていたのは、写真資料集だった。
さっきの授業は世界史だったはずだ。『はずだ』としか言えないのは、記憶にないからだ。
睡眠学習に近い状態だったオレは、この資料集を、授業中のいつどのタイミングで何のために使ったのか、まったく覚えていない。先生の話すらまともに覚えていないのだから当たり前だ。
改めてその冊子を見る。見るからに重そうなそのハードカバーの本は、A3よりも一回りほど大きいサイズで正方形、厚さは十センチほどあった。随分と使い込まれているのか、それともただ単に古いものだからなのか、布が貼られた立派だったはずの表紙は既にぼろぼろ、せっかくの箔押しタイトルも無残に剥げ上がり、中の紙も酸化して黄ばんでいる。背表紙も崩壊寸前で、留めるために貼られたらしいセロファンテープが、ただの残骸と成り果ててぱりぱりになっていた。ちょっと触っただけで剥がれてしまいそうだ。
これは、持ち運ぶのに結構な神経を使いそうだな……。先生もそれが面倒臭くて生徒に任せることにしたに違いない。
文句は山ほどあるが、言うべき相手が見つからない。それに、オレが本日の日直だというのはクラス全員が知っていることで、先生が『日直』を指名したことも周知の事実だ。一瞬だけ何か理由をつけてサボろうかとも考えたが、残念なことにオレの頭では完璧な言い逃れのできる口実が思い浮かばなかった。
まぁいい。どちらにせよ外は大雨だ。ずぶ濡れになるとわかりきっているから、今すぐ帰路に着くのも気が進まない。図書室にこれを運んでる間に、ちょっとは雨脚が弱くなるかもしれない。
オレは両腕を使ってその本を抱え上げると、教室を出て図書室へと向かった。
――あれ? 終わらなかった……?