婚約破棄なんて今どき流行らない
カルアーク伯爵家長男のスコットには、将来を誓い合った女性がいた。
その女性の名は、シシリア。
サザーラント伯爵家の長女で、品の良さと気立ての良さを併せ持った女性だった。
相思相愛だった上に、両家の仲も良好だったこともあって、スコットとシシリアは何の障害もないどころか、周りに祝福されながらも婚約を結んだ。
だが――
「これでいったい何度目だ」
サザーラント伯爵邸の中庭で、すっかり冷めてしまった紅茶を一息に飲み干してからスコットは吐き捨てる。
シシリアの方から、サザーラント伯爵邸で二人でお茶会がしたいと言ってきたから、わざわざこちらから出向いてきたというのに、スコットが伯爵邸に来てから、かれこれもう一時間以上経過しているにもかかわらず、肝心のシシリアがいまだ姿を見せない。
そして、先の言葉どおり、シシリアが約束の時刻に大幅に遅刻したことは一度や二度の話ではなかった。
それどころか、約束そのものをすっぽかしたことも一度や二度の話ではなかった。
シシリアに仕える執事が「もう少々お待ちください」と平謝りにするのを横目で見やりながら、スコットは、先程飲み干した紅茶以上にシシリアへの想いが冷めていくのを感じていた。
昔のシシリアは、決して約束を破るような人間ではなかった。
優しい心根の持ち主で、約束の時刻にたった一分遅れただけでも平謝りするような女性だった。
それでいて尊敬したくなるほどの芯の強さも持ち合わせていて、彼女のそういうところにスコットはどうしようもないほど惹かれていた。
然う。
惹かれていた。
思い返してみれば、三ヶ月くらい前だっただろうか。シシリアが変わってしまったのは。
約束を平気で破るようになったのは言わずもがな、破っておきながら悪びれることすらしなくなってしまった。
むしろ、破って当然という態度さえとるようになった。
シシリアが別人のように変わってしまったのは、約束事に限った話ではない。
わざとなのかと疑いたくなるほどに、シシリアは事あるごとにスコットの嫌がる言動をするようになった。
(もう、限界だ……)
そんなことを考えていた矢先だった。
「遅くなってしまってごめんなさいね」
悪びれもしない物言いの謝罪が、横合いから聞こえてくる。
億劫になりながらも声をした方を見やると、そこには、品性の欠片もない嘲笑をたたえたシシリアの姿があった。
この三ヶ月の間に化粧がどんどん厚くなっていった、昔の面影がほとんど見受けられなくなったシシリアを睨みながら、スコットは皮肉で応じる。
「今日もまた、厚化粧に時間がかかってしまったようだな」
「ふふふ……さすがスコット。よくわかってますわね」
わざとなのか、皮肉すら褒め言葉として受け取るシシリアに、スコットは嘆息する。
「……なんで、こんなことになってしまったんだろうな」
「こんなこととは?」
露骨にわざとらしく小首を傾げるシシリアに苛立ちを覚えながらも、スコットは律儀に答える。
「君が、別人のように変わってしまったことだよ」
途端、シシリアの頬に刻まれていた嘲笑が深みを増す。
「わたくしが? 別人のように変わってしまった? 勘違いも甚だしいですわね。わたくしから言わせれば、別人のように変わってしまったのはスコット……あなたの方ですわよ」
「冗談でも、今の言葉は笑えないぞ」
シシリアを睨む双眸に怒気が滲む。
それすらも嘲笑いながら、シシリアは挑発するような物言いで答える。
「今のあなたの言葉の方が、余程笑えませんわよ」
一瞬頭に血が昇りかけるも、スコットは深々と息を吐き出すことでどうにか憤りを鎮めた。
代わりとばかりに立ち上がると、
「どうやら僕は、今日も時間を無駄にしてしまったようだ」
「あら? もうお帰りになるの? このお茶会、先日わたくしが約束をすっぽかしてしまったお詫びのために、あなたのことを思って開いて差し上げたのに」
「これがお詫びになると思っているのなら、今すぐにでも医者に頭を診てもらうことをオススメするよ」
そんな捨て台詞を残して、スコットはシシリアの前から立ち去っていった。
もう限界だ――彼女が姿を見せる前に呟いた心中の言葉を、もう一度心中で呟いて。
その三日後だった。
たまたま出席した社交パーティーの場で、どこぞの公爵家令息が、どこぞの公爵家令嬢に婚約破棄を言い渡す様を目にしたのは。
それを見て、スコットは思う。
そうか。自分もこうすれば良かったんだ――と。
かわいさ余って憎さ百倍と言うべきか。
スコットは社交パーティーの場でシシリアを断罪することを決意した。
パーティーに出席した貴族たちを味方につけるために、これまでにシシリアから受けた仕打ちを文章にまとめ、貴族たちの同情を誘う文言を考えた。
準備が整ったところで、当然のように約束をすっぽかし続けるシシリアを根気よく社交パーティーに誘い続け――
一ヶ月後。
スコットはシシリアとともに、箱馬車に乗って社交パーティーの会場に向かっていた。
何度も社交パーティーに誘っても一度としてシシリアは姿を見せなかったため、スコット自らがサザーラント伯爵邸に迎えに行き、ともにパーティー会場へ向かうという強硬手段に出た次第だった。
できれば箱馬車も御者もこちらで用意したかったが、拘りがあるのか、シシリアが自分の家の箱馬車以外には絶対に乗らないと駄々をこねたため、その一点だけは妥協せざるを得なかった。
箱馬車の車内は、重い沈黙によって支配されていた。
車外にいる御者を除けば、今箱馬車にいるのは自分とシシリアの二人だけ。
これから断罪しようという相手と二人きりの状況は、ただただ重苦しかった。
スコットは勿論、シシリアも一言も話そうとしなかったため、なおさら重苦しかった。
(昔は……いや、四ヶ月前は、こんなんじゃなかった)
すっかり色褪せてしまった、シシリアがまだまともだった頃のことを思い出す。
あの頃は、二人きりでいる時間が苦痛ではなかった。
むしろ、幸せですらあった。
楽しくお喋りした時もあれば、二人きりという状況に気恥ずかしさを覚えてしまい、今のようにただ黙りこくっていた時もあった。
そんな沈黙の時間すらも、シシリアと一緒にいるという幸せに満たされていた。
(……我ながら未練がましいな。これから衆目の前で彼女を断罪しようとしているくせに)
自嘲することで、揺らぎそうになった決心を固め直す。
そうこうしている内に、箱馬車は社交パーティーの会場となる館に到着し、スコットはシシリアに先んじて扉を開いて車外に出る。
いくら想いが冷めてしまった相手とはいえ、淑女をエスコートしないのは紳士の名折れ。
ゆえにスコットは、シシリアに手を差し伸べて下車の手助けをしようとするも、
「スコット。パーティーには、あなた一人で行ってくださいませ」
まさかの言葉に、スコットは中途半端に手を差し伸べた体勢で固まってしまう。
「こ、ここまで来て何を馬鹿なことを言ってるんだ!?」
「馬鹿なことをやろうとしているあなたに、馬鹿呼ばわりされる筋合いはありませんわよ」
「な、何の話だ?」
「あなたが、社交パーティーの場で婚約破棄を宣言することで、わたくしを断罪しようとしている話ですわ」
恐ろしいほど正確に魂胆を見抜かれ、スコットは青ざめてしまう。
決心が揺らぎそうになってしまったことで、考えていたことが顔に出ていたのかもしれないと悔やむも、最早後の祭りだった。
「スコット……これは善意で忠告して差し上げますけど、社交パーティーの場で婚約破棄なんて今どき流行りませんわよ」
そう言い捨てると、シシリアは御者に馬車を出すよう命じてから、スコットを拒絶するように扉を閉めた。
スコットがよろよろと後ずさったところで、御者が申し訳なさそうにこちらに会釈してから、シシリアに命じられたとおりに馬車を出す。
スコットはそれを、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
こうして、スコットが画策した婚約破棄宣言は不発に終わった。
最早どうすればいいのかわからなくなったスコットは、無為に日々を過ごし――
そこからさらに半月が経った頃だった。
シシリアが危篤に陥ったという報せが届いたのは。
いったい何が起きているのかもわからないまま、スコットは馬車に乗り込み、サザーラント伯爵邸へ向かう。
到着するや否や、シシリアに仕える執事の案内のもと彼女の私室へ向かい、辿り着いたところで一度深呼吸をしてから部屋の扉をノックする。
ほどなくして扉が開き、部屋から出てきたのは、シシリアの父親であるサザーラント伯爵だった。
そして、このサザーラント伯爵こそが、シシリアが危篤に陥ったことを、使いをよこしてスコットに報せてくれた張本人だった。
「来てくれたか、スコットくん」
サザーラント伯爵は憔悴しきった表情で、スコットに中に入るよう促す。
そうして部屋に足を踏み入れたスコットが目にしたのは、ベッドで眠っているシシリアの姿だった。
まさしく死んだような眠りように不安を覚えたスコットは、ベッドの傍にいた医者に縋るような視線を向ける。
それだけで察してくれた医者が返したのは、「今はまだ眠っているだけです」という、とてもじゃないが安心できない言葉だった。
眠っているシシリアの顔は、変わり果てたようにやつれていた。
それこそ、厚化粧をしていた時以上の変わり果てようだった――と、考えていたところで気づく。
(まさか、シシリアの化粧が厚くなっていったのは……)
「四ヶ月半前……だったな」
不意にサザーラント伯爵が口を開き、スコットは思考を中断して彼の言葉に耳を傾ける。
「突然シシリアが倒れ、医者に診せたところ……亡くなった私の妻と同じく、原因不明の病に冒されていることが発覚してな……。わかっていることは、シシリアの体が日に日に衰弱していくことと……あと半年も生きられないであろうこと……それだけ、だった……」
最後の言葉は、断腸の痛みに耐えるような物言いだった。
一方で、スコットもまた、断腸の痛みに耐える思いをしていた。
なぜなら、サザーラント伯爵が口にした「四ヶ月半前」という期間が、まさしくシシリアが変わってしまった時期と合致していたから。
おそらく――いや、間違いなく、彼女が変わってしまったのはそういうことだと理解できてしまったから。
サザーラント伯爵は目頭を押さえ、一つ息をついた後、懐から一冊の手記を取り出し、こちらに渡してくる。
「シシリアの日記だ。シシリアが執事に命じて燃やそうとしていたところを私が止めて……シシリアには悪いと思いながらも保管していた。君に見せるためにな」
まあ、シシリアが起きていたら、絶対に反対していただろうがな――そう付け加えるサザーラント伯爵の頬には、哀しげな笑みが浮かんでいた。
スコットが日記を受け取ったところで、サザーラント伯爵は告げる。
「我々は席を外す。何かあったら、すぐに呼んでくれ」
そう言い残すと、医者とともに部屋から立ち去っていった。
今この時だけは、自分たちの存在は邪魔にしかならないと言わんばかりに。
シシリアと二人、部屋に取り残される格好になったスコットは、ベッド傍に置かれていた椅子に腰を下ろし、日記を開く。
『○月×日
とうとうスコットと婚約を結ぶことができた。
夢にまで見た日を迎えることができた。
人生最高のこの日を祝して日記を書いていこうと思うけど、よくよく考えたら今日は人生最高の日と言ってはいけませんわね。
だってわたくしにとって人生最高の日は、スコットと結婚したその日以外にありえませんもの』
最初の目に飛び込んできたのは、日記ゆえの堅い文章と、その堅さに反して浮かれている心中が如実に伝わってくる、自分とシシリアが婚約を結んだ日につけられた日記だった。
「婚約を結んだこと、こんなにも喜んでくれていたのか……」
知らず笑みを零しながらも、スコットは日記のページをめくっていく。
そこに綴られていたのは、幸せいっぱいのシシリアの思いと、こそばゆくなるほどのスコットへの想いだった。
心底から彼女に愛されていたことに、心底から喜びを抱いていたスコットだったが。
あの日の日記を目の当たりにしたことで、表情を曇らせてしまう。
『×月△日
突然目眩がして倒れてしまい、目を覚ましたら、医者に余命が半年もないことを宣告された。
お母様も同じような病が原因でわたくしが物心つく前に亡くなったという話らしいけど、目眩がして倒れただけで他に体の不調がないせいか、正直余命半年と言われても何もピンとこなかった。
だからというわけではないけれど、このことはまだスコットには黙っておこうと思った。
だってこんなことを伝えても、ただスコットを悲しませるだけだということがわかっていますもの』
『×月□日
朝食を食べていた時、突然の吐き気に襲われた。堪えきれず吐き戻したら、口から出てきたのは血だった。
それからすぐに気を失ってしまい、目が覚めた時にはもう夜だった。
この日はスコットと二人だけのお茶会を開く約束をしていて、お父様もそのことを知っていたはずだから、わたくしが倒れたことは伝えてくれていると思ったのに、スコットには何も伝えていないとお父様に言われた。
スコットとの約束を一方的に破ったことがわかってついお父様を責めてしまったけど、よくよく考えたら、約束を破った理由をどうスコットに説明すればいいのかわからないことに気づいた。
だって優しいスコットなら、わたくしが病に倒れたと聞いたら、絶対に駆けつけてくれたはずだから。
そうなってしまったら、わたくしの余命が残り少ないことを、スコットに伝えないといけなくなってしまう。
だからお父様は、スコットに何も伝えなかった。
もう夜も遅いですし、明日朝一番にお父様に謝らないと』
『△月◇日
体の調子が悪くなる日が増えて、今日もまたスコットとの約束を無断で破ってしまった。
日に日に、自分の体が衰えていくのがわかる。
日に日に、自分が死に向かっていくのがわかる
こわい。
こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわ――』
スコットは思わず、日記から目を背けてしまう。
シシリアが死の病に怯えていたとも知らずに、彼女が約束を立て続けに破ったことに脳天気にも怒りを覚えていた自分に、その時とは比べものにならないほどの怒りを覚えてしまう。
『△月●日
久しぶりに体調が良く、スコットと社交パーティーに赴くことができたけど、ちょっとだけやつれてしまった顔が気になって、その日のお化粧はつい厚めにしてしまった。
そのことについてスコットがどう思っているのか聞きたかったけど、聞けるわけがなかった』
『△月□日
いい加減、現実と向き合わないといけないと思った。
遠からず、わたくしは死ぬ。
けど、スコットはそうじゃない。
わたくしが死んだ後も、スコットは生き続ける。
スコットには幸せになってほしい。
つらいけど、死んでしまうわたくしのことは忘れて、別の誰かと幸せな家庭を築いてほしい。
だから決めた。
スコットがわたくしとの婚約を破棄したくなるくらいに嫌われてしまおうと』
『△月◆日
初めて、スコットにひどい言葉を浴びせた。
覚悟していたつもりだったけど、スコットを傷つけてしまったことが何よりもつらかった。
けど、弱音なんて吐いていられない。
だってこれは、スコットのためですもの』
『□月○日
悪びれもせずに何度もスコットにひどい言葉を浴びせた甲斐あって、スコットが日に日にわたくしのことを嫌いになっていくのを感じた。
このことも覚悟していたつもりだったけど、思ったよりもはるかにつらかった。
でも、頑張らないと。
わたくしはもう、スコットと未来を築くことなんてできないのだから』
『□月■日
もういや。
こんなこともうやりたくない。
わたくしはいったい何をやっているの?
何でわたくしは、こんなつらい思いをしてまでこんなことをやってるの?
何でわたくしは、こんなつらい思いをわざわざ日記に残してるの?
わたくしの人生って何だったの?』
日記は、ここで終わっていた。
内容からして「□月■日」を最後に、シシリアが執事に日記を捨てるよう命じたのは想像に難くなかった。
そう思わされるほどに、最後の日記の内容は、スコットにとってもつらい内容だった。
スコットは溢れ出しそうになった涙を、強く、強く、瞼を閉じることで堪えきる。
シシリアが苦しんでいることにも気づかずに、衆目の前で何の罪もない彼女を断罪しようとしていた自分には、涙を流す資格などない。
シシリアの想いに反することになるが、幸せになる資格も、自分にはない。
「こんなにも君が苦しんでいたことに気づかずに、君のことを見捨てようとしていた僕に、幸せになる資格なんてあるわけないじゃないか……!」
「そんなことは……ありませんわ……」
ひどくか細いシシリアの声が耳朶に触れ、スコットは思わずベッドに顔を向ける。
つい先程まで死んだように眠っていたシシリアが、気恥ずかしそうな微笑を浮かべながらこちらを見つめているのを見て、思わず椅子から身を乗り出した。
「シシリア! すまない! 僕が愚かだったばかりに、君につらいを思いをさせてしまって!」
懺悔するように謝罪するスコットに、シシリアは笑みを深めながら、やはり気恥ずかしそうに言う。
「日記……見られてしまいましたね……」
いくらサザーラント伯爵から頼まれたとは、無断でシシリアの日記を見たことを今さながら後ろめたくなったスコットは口ごもってしまう。
そして、そんなことを考えていたからこそ、これもまた今さらになるが、サザーラント伯爵の存在を思い出した。
「そ、そうだ! 君が目を覚ましたことをサザーラント卿に伝えないと!」
そう言って立ち上がろうとしたスコットの腕を、シシリアが掴んで引き止めてくる。
この四ヶ月半の間、シシリアと触れ合う機会が極端に減ったため気づかなかったが、彼女の手は以前とは比較にならないほどにやせ衰えていた。
そんなスコットの心中を察したのか、シシリアはイタズラっぽく笑いながら言う。
「イブニンググローブに……少し、細工をしていましたから……」
その話を聞いて、思い返してみれば、化粧が濃くなっていくのに合わせて、シシリアの肌の露出が減っていたことに気づく。
(これもまた、今さらな話だな……)
シシリアの病に気づくヒントは随所にあったのに、全く気づくことができなかった自分に嫌悪感すら抱いてしまう。
「シシリア……何か僕にしてほしいことはないか? どんな望みでもいい……君のためにできる何かを、僕にやらせてくれ……!」
それは最早、懇願だった。
シシリアが苦しんでいることに気づかなかったことへの罪滅ぼしがしたい、スコットの懇願だった。
シシリアは穏やかな笑みを浮かべながら、スコットに言う。
「それなら……わたくしとの婚約は……破棄して……わたくしのことは忘れて……別の誰かと……幸せになってください……。スコットが、幸せになることが……わたくしの……望みなのですから……」
自分には幸せになる資格はない。
けれど、シシリアの望みは叶えてあげたい。
相反する思いが、苦渋という形で表情に表れてしまう。
そんな表情をシシリアに見せるわけにはいかないと思ったスコットが、顔を背けようとしたその時。
「……そのはず、でしたのに……」
微笑んでいたはずシシリアの目から涙が零れる様が視界の端に映り、スコットは半ば反射的に向き直る。
「こないだ……社交パーティーに出るために……スコットが、わざわざわたくしを……迎えに来た時……ようやく……狙いどおりに嫌われて……婚約を破棄することができると……思い……ましたのに……」
シシリアはなおも涙を零しながら、笑みを自嘲の形に変えながら、言葉をつぐ。
「直前になって……スコットとの婚約を……破棄したくないと……嫌われたくないと……思ってしまいました……」
その言葉にスコットは、泣く資格はないと自分に言い聞かせてなお堪えきれず、目尻から涙を零してしまう。
「わたくし……自分が……こんなに醜い人間だとは……思いませんでした……。あなたを傷つけて……苦しめておきながら……最後の最後で、逃げてしまう……なんて……」
「君は醜くなんてない! 醜いのは……本当に醜いのは、僕の方なのだから!」
今すぐシシリアのことを抱き締めてあげたい。
けれど、弱っている彼女を抱き起こすわけにはいかなかったので、せめてものと思いながらも、彼女の手を両手で優しく握り締める。
シシリアは、僕のことをずっと愛してくれていた。
なのに僕はその愛に気づかず、衆目の前で何の罪もない彼女を断罪し、婚約を破棄しようと画策した。
そんな愚かで醜い僕が彼女にできることはこれしかない――心底からそう思ったスコットは、シシリアに告げる。
「君の望みに反することになるが、僕は決めたぞ。僕は生涯、君との婚約を破棄しない。君以外の誰とも婚約しない。家督も弟に譲って、生涯君だけを愛することをここに誓う」
途端、シシリアは目を開く。
「だ、駄目ですわ……そんなこと……。せめて……わたくしとの婚約だけも……破棄して――」
「婚約破棄なんて今どき流行らない――そう言ったのは君だろう」
シシリアは再び目を見開き、
「それは……社交パーティーの場での……話……ですわ……」
泣き笑いながら、素直な気持ちを吐露する。
「……スコット……わたくしはやっぱり……醜い人間、ですわ……。わたくしの、せいで……あなたの将来が、閉ざされてしまったと、いうのに…………そう誓ってくれたことが……たまらなく……嬉しい……」
たまらなく嬉しい――そう言ってもらえたことが、それこそたまらなく嬉しくて、スコットは笑みを零す。
「そうか……それはよかった」
それから三日後――
シシリアは、スコットと家族が見守る中、眠るように息を引き取った。
その表情は死んだとは思えないほど穏やかで、心なしか幸せそうに見えた。
スコットはシシリアに誓ったとおり、シシリアとの婚約は破棄せず、新たな婚約を結ぶこともしなかった。
それはすなわち、スコットがカルアーク伯爵家の世継ぎを残さないことを意味していたため、これもまたシシリアに誓ったとおり、家督を弟に譲った。
そして、毎年シシリアの命日に彼女の墓を訪れ、紫のブーゲンビリアを供えた。
紫のブーゲンビリアの花言葉は「永遠の愛」。
その花言葉どおり、スコットは生涯、シシリアへの愛を貫いた。
FIN




