お化け工場
子供の頃ってさ、治りかけの傷のかさぶたをやたらと剥がしたがったもんだよな。母親とかから、やっちゃいけないと注意されて、その理由もちゃんと理解している筈なのに剥がしたくなっちゃうんだよな。そんなもどかしい思いは誰しも経験したことがあると思う。俺がこれからするのはそんな話だ。小学6年の時、俺は友達と廃工場へ探検に向かったんだ。
空は一面白い雲に覆われ、どんよりとして蒸し暑い放課後だった。俺たち2人は学校からの帰り道、いつものルートを外れて日頃から気になっていたお化け工場へと向かっていた。小学生が日常から離れた行動を決断するきっかけは、大抵気まぐれな衝動からだ。夏休みを明後日に控え、沸き起こる高揚感が俺たちを駆り立てたのかもしれない。
遙か上空から自衛隊のヘリコプターの音が聞こえていたが、それ以外の物音は聞こえない。お化け工場の周りには人も車も通りがかるものはなく、それは俺たちの好奇心から来る行動を見咎めて遮る者がいないということだった。
俺は友達と顔を見合わせて頷くと、半開きの大きな鉄の扉へと向かった。
この工場を「お化け工場」と呼んで気にし始めたのはいつからだろう。毎日通学路から、田んぼを隔てた向こうに佇む、横に長い建物を眺めていたが、いつの頃からか、いつ見てもそこに人の気配がないことに気づいた。ただ工場の窓から中にあるもののシルエットが見えるだけだ。学校の行き帰りに一緒になった友達と何の工場だろうかという話で時々盛り上がったが、学校ではその話題をすることはなかった。通学路でそれ自体を見た時だけ話のタネにする。その程度の興味だったのだ。
工場は採光の窓が大きかったので、中に入っても視界で困るようなことはなかった。鉄と鉄錆の臭いが鼻を突き、やや不快ではあったが、それが異界へ入り込んだような気持ちにさせて、俺の胸はときめいていた。
数十台の、青色の塗装が剥げかけた金属製の機械が整列していた。以前学校の行事の工場見学で見たときのものを思い出させる。青緑色の固い床にはそれらの電源であろう太いコードが這っていた。塗装の剥げたところやネジが留められた場所からは赤錆が浸食している。不思議な形をしていた訳ではないが、何を作る機械なのかは想像できなかった。
機械の形状や用途について言葉を交わしつつ、俺たちはおのおのの気が向くままに二手に分かれた。
工場は体育館より少し広い程度で、同じ機械が並んでいるだけだと探索意欲が少し薄れる。俺は一息ついて工場全体を見渡した。ヘリコプターの音はいつのまにか消えている。窓から見えるものは白い空と田んぼばかりでこれといったものは何も無い。通学路を見ても誰も歩いていない。何もしていないと工場内の湿気を感じて身体が汗ばんだ。するとその時、奥のほうに形状の異なる面白そうな機械を発見したので、離れたところにいた友達に呼びかけてからそちらへ向かった。色とりどりのボタンに魅かれたという単純な理由だ。
ポタ、という音と共に目の端で何かが動いたのはその時だった。そちらに目を向けると、床の上に、まだらの歪な球形が小さく揺れていた。大きさは人差し指と親指で摘める程度で、節分の豆を想起させた。俺はかがんでそれを拾う。想像していたのより柔らかいものだった。何気なくそれを指先で転がして、ちょっとびっくりした。
近づいてきた友達に、どうした、と訊かれたので俺は摘んだそれを見せた。人の首だった。と言っても何も恐ろしいものではない。携帯ストラップにつけるような小型の人形の首だった。何かアニメのキャラクターかもしれないと思ったが俺には見覚えがなかった。単純に人形の出来が悪くて本物と似ていないだけかもしれなかったが、まあ、よくあることだ。友達は、ここは人形の工場かもしれないな、と推理した。俺もそんな気がした。
どこに落ちてた、と尋ねられ、俺がここだ、と指さしたのと同時に、降り始めの雨のように、ポタポタ、と小さな音を伴って床に同じような物が4つ落ちてきた。反射的に俺たちは上を仰ぐが、工場の天井は高いだけで、落ちてくるような何かがあるわけではない。変だなと思いつつ俺たちは落ちてきた物を2個ずつ拾い上げる。やっぱり人の首だった。
俺は3つの首を手のひらに並べて置いてみる。よく見ると、それぞれの顔は似ているが全て微妙に異なっている。友達が拾ったほうの首とも突き合わせてみたが、それともまた顔が違っていた。5つの首のひとつひとつは何も怖いものではないが、並べてみるとだんだん気味が悪くなってきた。工場で大量に生産したものだろうに、どれ一つとして同じものがないのが奇妙だった。
なあ、と言って顔を見合わせたその時、ポタポタポタ……と連続音がして今度はいっぺんに10個ぐらいの豆粒の形状をしたものが落ちてきた。確認しなくても同じものであろうと容易に解る。そしてどう見ても、落ちてきた元の場所がわからない。
どちらが先に、うわぁ、と声を上げたのか。覚えていない。俺と友達のどちらかが先にパニックになり目の前の相手を同じパニックに引き込んだ。二人して、我先にと工場から現世へと還る出口の扉へと走り出した。
工場内の鉄の臭いがグッときつくなった。息を止めたかったが走り出した俺には酸素が必要で、空気を吸い込まざるを得ない。いやぁな刺激が鼻孔から脳を直撃する。それに俺が顔をしかめたとき、ぐるん、と視界が回った。
足を床のコードにひっかけてしまったのだ。やばい、と思って何か支えになる物にすがろうと手を伸ばしかけるがそれは空を切る。本能的に受け身を取ろうとして身体をひねりながら床に落ちようとしたが、結果的にはそれがよくなかった。半袖から伸びる俺のむき出しの二の腕に金属製の何かが当たったと思った次の瞬間、焼けるような痛みが走った。機械の尖った部分に突き刺してしまったようだ。しかも最悪なことに俺は転んでいる最中で、その、突き刺したものを抜く間もなく垂直に腕をスライドさせて二の腕を引き裂いてしまう。さらに錆が傷口を容赦なくザリザリと擦りつける。たまらず俺は大声を上げた。そして俺は一瞬――多分一瞬だったと思う――気を失った。その寸前、友達の背中が見えた。
気がついたときには友達の姿はもうなかった。その薄情さに怒りを覚えつつ、ズキズキと痛む腕を押さえ、俺は工場を出た。傷口は見るのも痛々しいが時々確認しながら普段の帰り道に戻って家へと向かう。すると、後ろから、おいどうした、と大人の男の人から声を掛けられた。振り向くと、俺の幼馴染である恭一のお父さんが、ワゴン車の運転席から外に身を乗り出していた。おじさんは近所の酒屋さんで、配達でよくこの辺を乗り回しているのだ。
ホッとしたのと同時に、俺は理由の分からない違和感を覚えた。その理由を考える前に、おじさんは俺に車に乗るようにと急かし、短い距離だったが家まで送ってもらった。
家に帰ってきた俺を迎えた母さんは、俺の姿を見て顔をしかめ、いやぁ、と声を上げた。この「いやぁ」は悲鳴ではなく、テレビでお笑い芸人が笑いをとるために汚いことや危ないことをやっているのを見たときに出す声だ。そして俺の頭を手のひらで叩くと、傷を洗ってきなさいと言った。風呂場の前の洗面所へ向かう俺の背後で、母さんの、どうもすみません、という声が聞こえた。傷から出た血が乾いてパラパラと下に落ちる。工場での激痛を覚えたときに頭の中で思い描いたものよりはずっと浅い傷だった。この程度でも死ぬ、とか思ってしまうものなのだと人間の弱さを知った気分だった。血の塊を水で流すとまた痛みが復活したのでそれを手で押さえたら新しい血が出てきてしまった。
念のためにということで、今度は母さんの運転する車で病院へと向かった。母さんに怪我をしたときの状況を訊かれて、それに答えようとしたとき、さっきおじさんを見たときの違和感の理由に気づいた。おじさんを見たときに、俺は連鎖的に恭一の顔も思い出していた。恭一は、小さい頃からの付き合いで一番仲のいい友達だ。楽しいことや、ちょっとした悪さをするときにはだいたい一緒だった。だからおかしかったのだ。おじさんの顔を見た瞬間、俺が工場で一緒に行動していたのは恭一ではないと気づいた。じゃあ誰なのかと思いだそうとすると、奇妙にも記憶にもやがかかったようにハッキリしない。でも、そいつとは普通に親しく話していたし、名前も呼んでいた筈だ。なのに思い出せない。俺は頭の中で思い出せる限りの友達を列挙したが、誰も思い当たらない。俺が考え込んでいると、また母さんに頭を叩かれた。病院に着いたので気持ちも逸れて俺の記憶検索がストップした。
次の日、思い出せないことに若干の気持ち悪さを抱えながらも、俺は一学期最後の学校へと向かった。二の腕に貼り付けられた脱脂綿と絆創膏を意識して気持ちが高ぶる。小学生の時は自分の怪我を晒すのが格好いいという謎の価値観があったのだ。田んぼの向こうに見える工場は昨日と全く変わらない。ポタポタ落ちてきた小さな首のことを思い出すとやはり不気味だったが、それも誰かに話して武勇伝にしたかった。
けれど学校へ行ってクラスみんなの顔を見ても俺の記憶は戻らなかった。同行者を思い出せなければ自慢話も片手落ちで話せない。俺はもどかしさを晴らしたくて、恭一を初めとしてクラスの仲間に昨日の帰りのことを訊いて回ったが、俺が誰と一緒に帰ったかということはおろか、俺が帰ったところを誰も覚えていなかった。まあ、いつものことなどいちいち覚えていないのは当たり前だ。考えてみれば俺自身、昨日同行した「そいつ」とどっちの誘いで工場へ向かうことになったのかも覚えていないのだ。
担任の藤田先生から、夏休み中の注意事項のプリントを配られて説明を受ける際、危険な場所には行かないようにというところで、名指しこそされなかったが目で釘を刺された。たぶん、おじさんか母さんから学校に連絡がいったのだろう。そして、あの工場が立ち入り禁止になったことを聞いた。あの首はどうなったのだろう。ひょっとしたら大人の人と一緒に行けばあっさりとその謎が解けたのかもしれない。でももうそれは叶わない。
夏休みに入って数日後の晩、俺はむず痒さで目を覚ました。治りかけていた腕の傷のせいだった。
起きあがって電気を点け、ぼんやりする頭のまま、脱脂綿の上から前後左右に押しつけるように掻くがそんなことで痒みが薄まるはずもない。それに触れているうちに指が絆創膏越しに異物を感じ取った。そこが痒みの発生源だ。俺は我慢できず、絆創膏をはがす。傷の端のほうが、かさぶたに覆われてぷっくり丸く膨れ上がっていた。傷口をいじると母さんに怒られる。だが、かさぶたを剥がしてスッキリしたい、という耐えがたい欲望に負けた俺は爪の先でそこを引っ掻いた。
ぽろっ、とその部分が驚くほどきれいに取れた。だが、それを気持ちよく思う余裕などなかった。「それ」を見た途端、俺の身体から血の気が引き、悲鳴を上げていた。
何がどうなってまぎれこんだのか、いや、そんなことがあり得るはずがない。病院では何もおかしいものはなかった。かさぶたと一緒に剥がれ落ちたその丸っこいデキモノは、皮膚の下に潜り込んだ人形の首。そしてその顔を俺は知っていた。否、見た瞬間に思い出した。そう、あいつの顔。
けれど、またすぐに忘れてしまった。俺の出した声を聞きつけた母さんが俺の部屋に飛び込んできたのだ。そして、勝手に絆創膏を剥がしたことでまた怒られた。後で、怖さを我慢してその首を探してみたが、驚いたときに取り落として、どこへ転がっていったのやら、とうとう見つけることはできなかった。母さんにそれまでの出来事を話してみたが、傷の痛みのせいで、夢とほんとうの事とがごっちゃになってしまったんだろうと言われた。でも、夢ではない筈だ。かさぶたを剥がした痕は血をにじませてピンク色にハッキリ残っていたんだから。
それ以来、俺は正体の判明していない小さな何が動くのを目の端に捕らえる度にいちいちビクッとするようになってしまったんだ。あと……ハハッ、ニキビ。ニキビがね。ちょうど思春期に入る頃じゃないか。大きいニキビをつぶしたら変な物が取れてしまうんじゃないか、って、バカみたいに怯えてしまってたよ。正直、この年齢になっても未だに引き摺っている。
そして子供らしい冒険心も失われてしまったようだった。小学校最後の夏休みだったのに、友達との付き合いが悪くなって、周りの奴らにはつまらない奴と思われたかもしれない。
だけどそれでも、もう一度あいつのことを思い出したいとも思っている。顔も名前も思い出せないけれど、あいつはやっぱり俺の友達だったということは確かなんだ。たとえそれで怖い思いをしようとも、ね。




