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右手を捧げた夫に嘲笑われましたが、私は左手で真実を描き出す

作者: 雛雪
掲載日:2026/03/24

右腕の傷が疼くたび、あの日を思い出す。

暴走する馬車の轟音。突き飛ばしたユージンの体の重み。私の右腕がバキリと嫌な音を立てて砕けた瞬間、世界の色が一気に(すす)けて消えてしまった。


「ソフィア、すまない。

責任は取る。一生、僕が君の右手になろう」


病室で彼は涙を浮かべて私の指先に唇を寄せた。

初恋の彼からのプロポーズ。幼い頃から彼が誰にでも等しく振りまく「優しさ」に焦がれていた私は事故で絵筆を握れなくなった絶望を、その言葉で塗り潰してしまった。

ああ、この人の隣にいられるのなら右腕の一本くらい安かったのかもしれない。そう愚かにも信じてしまったのだ。



それから三年の月日が流れた。

ドゥーカス侯爵夫人となった私は一度も夫と肌を合わせたことがない。


「君の体を労いたいんだ。この傷を見るのが申し訳なくて、胸が締め付けられる……。僕を許してくれ、ソフィア」


 ユージンはいつも眉を下げ、悲劇の聖人のような顔をして、忙しさを理由に私を避けた。私は彼が「自分を責めるあまり、私に触れられないのだ」と信じ、冷えたベッドで独り彼の帰りを待ち続けた。

彼が深夜に帰宅し、私の寝顔を悲しげに見つめて去っていく背中を見るたび、私は申し訳なさで胸が痛んだ。この傷跡が彼を苦しめているのだと。


「君のためなんだ。これ以上、無理をさせたくない」

そう言って距離を取る彼を、私は疑うことすらしなかった。

 ……あの日、酒の匂いが漏れる控え室の扉を、開けようとするまでは。


「なあユージン。いつまであの『不自由な女』を置いておくんだ? 傷を盾に侯爵夫人の座を掠め取った強欲女なんて、顔を見るのも反吐が出る。夜の方も、満足に抱けないだろう?」


夜会の喧騒から離れた一室。忘れ物を届けようとした私の足が、吸い付くように止まった。

扉の向こうで友人たちの下卑た笑い声が上がる。


待って。

ユージン、否定して。

私は、あなたに結婚を迫ったことなんて一度もない。あなたが「責任を取る」と言ってくれたから……。


「……よしてくれ。彼女は僕を庇ったんだ、聞こえが悪いじゃないか。

……まあ、正直に言えば、あの右腕の引きつれた傷を見ると、どうしても萎えてしまうんだ。抱こうとしても、あの日を思い出して吐き気がする。

だから仕事にかこつけて家を空けるのは楽じゃないさ」


足元の地面が崩れ落ちる感覚がした。

「萎える」

彼が慈しむように触れていたこの傷は、彼にとっては吐き気を催すほどの汚物だったのだ。

ユージンの声は、いつものように穏やかだった。けれど、その穏やかさが今は猛毒のように私の耳を焼く。


「それでも別れないのは、僕が『義理堅い男』でいたいからさ。不自由になった彼女を捨てれば、僕の評判に傷がつく」

「ユージン様は本当によく尽くされてると思いますわ」

彼の仲間の中で唯一の女性、ウルリケが彼の腕に触れ慰めるかのようにさする。


「…ああ、ウルリケの心根の美しさには救われるよ。君だけだ、僕を責めずに寄り添ってくれるのは」

「あら、ユージン様。ソフィア様が可哀想だわ。……でも、あの方が恩着せがましく右腕をチラつかせるから、あなた様も逃げたくなりますのよね?」


ウルリケの勝ち誇ったような甘い声。

彼女は死の淵にいたお義母様を放置して宝石を盗んでいたくせに。看病したふりをして彼を騙し、今は私の夫の寵愛を一身に受けている。


そう、彼女が実は夫の愛人だということは、うすうす分かっていた。彼らはただの友人同士だと否定するけれども。

それでも、今まで私への夫の愛を疑ったことはなかった。大事にしてくれている、この醜い体ではよそへ愛を振りまかれるのも仕方ない、と思ってた。

でも違ってた。


ユージンは友人たちが私を嘲笑うのを止めようともしなかった。むしろ、自分が「不運な結婚を強いられた、情に厚い悲劇の主人公」として振る舞うための材料にしていたのだ。


私は扉を開けなかった。

怒鳴る気力も、泣く元気もなかった。ただ自分の部屋へ戻り、埃を被っていた古いイーゼルを引っ張り出した。

右手が死んだあの日から、私は夜な夜な血を吐く思いで、左手で筆を動かす練習を続けてきた。

風景画ではない。昔は風景ばかりを描き取っていた。

だけど左手の筆は人間の奥底にある魂を写し取るようになっていた。


(さようなら、ユージン。私のこの醜い傷は、あなたの隣にいるための鎖ではなく、あなたを捨てるための翼にするわ)


あの日を境に私の中で何かが決定的に死に、そして醜くも力強い何かが産声を上げた。



ユージンは相変わらず「優しい夫」を演じ続けている。夜会から戻った翌朝も、彼は私の不自由な右手にそっと触れ、「顔色が悪いね。今日は無理をせず、ゆっくり休んでいなさい」と、慈しむような笑みを浮かべて出かけていった。

その口が、あの晩は友人たちと私の傷を「吐き気がする」と笑っていた。その二枚舌の滑らかさに、私は吐き気を覚えるのを通り越し、ただ、笑ってしまいそうになるほど、この男の底の浅さが透けて見えた。


私は屋敷の片隅にある物置同然のアトリエに籠もった。

右手が風景の光を描いていたのなら、左手は人間の闇を描き出す。

筆を左手に縛り付け、震える指先でキャンバスを叩く。描くのは形ではない。その人が生きてきた証、遺された者の痛切な願い、そして剥き出しの「魂」だ。

三年間、彼がウルリケの寝所へ通う甘い吐息の裏で、私は血を吐く思いで「鬼」を宿した筆を振るい続けてきた。



ある夜、私は完成しかけた肖像画を自らの手で引き裂いた。

どうしても届かない。記憶の中の表情と、目の前の絵が一致しない。

「……違う」

喉の奥から絞り出した声は、誰に向けたものでもなかった。

右手を失ったあの日から、何度目かも分からない敗北だった。

それでも私は、破り捨てたキャンバスの上から、新しい紙を重ねた。



ある時、匿名で画廊に出していた私の肖像画が、一人の男を釘付けにした。

ミカエリス・バシレイオス公爵。

社交界一の皮肉屋で、誰にも心を開かないと言われる彼が私の描いた「亡き子を抱く母」の絵の前で、彫像のように立ち尽くしていたのだ。



「……なぜ、私なのですか? 公爵閣下。この動かぬ右腕に醜い傷跡。夫さえ目を背けるような『不完全な女』を、なぜ助けるのですか?」


数日後、正体を見破られ、彼のアトリエに招かれた私は震える声で問いかけた。

ミカエリスはユージンが決して直視しようとしなかった私の右腕の傷を、まるで宝石の原石でも見るかのようにじっと見つめていた。


「……ふん。私は慈善事業に興味はない。皮肉屋の私が動く理由は、いつだって一つだ」


彼は私の指先に刻まれた、筆を縛り付けた跡をなぞるように指を滑らせた。

その指先の熱は品定めではない。逃がす気のない獣のそれに近かった。


「君の左手が紡ぐ色は、死者の魂さえ呼び戻す。……だが、私が本当に心奪われたのはその絵ではない。絶望の中で右手を捨て、血を流しながら左手で這い上がってきた、君という女の『執念』だ。

その傷跡は、君が自分自身を裏切らなかった戦果(しるし)だろう? 醜いなどと抜かす輩には、鏡でも叩き割って見せてやればいい。

……ソフィア、私は君を『助ける』のではない。私は世界でただ一人の私の画聖を誰にも渡すつもりはない……その筆も、その執念も。君という存在ごと、他の誰にも触れさせるつもりはない」


彼の言葉はユージンの空虚な「責任感」とは違い、私の魂を芯から震わせた。

その頃、私の肖像画は「奇跡」として社交界を席巻し始めていた。

幼い子を亡くした母が、私の描いた絵の前で「あの子が帰ってきたわ」と泣き崩れる。その評判を聞きつけたユージンは、あろうことか、その「画聖」が自分の妻だとも知らずに、名声目当てで近づこうと画策を始めた。



その夜、ユージンは上機嫌だった。


「ソフィア、今夜は特別な客を招いている。例の肖像画師との橋渡しをしてくれる友人たちだ。ウルリケも、母上の恩人として紹介したいと言ってくれてね」


彼は私の右腕を隠すストールを丁寧に整え、満足げに微笑んだ。

自分は「不自由な妻」を見捨てず、かつ「亡き母の恩人」も大切にする、最高に慈悲深い男だ。そんな酔い痴れた顔で。


(ああ、この人は何も知らないまま笑っている)

その無垢な顔が、ひどく滑稽に見えた。


晩餐の席にはいつもの友人たち、そしてウルリケが並んでいた。

「ユージン様、ソフィア様。今夜もお美しいわ」


ウルリケが私の右腕を哀れむような目で見つめ、ユージンに寄り添う。友人たちは酒を煽り、私を無視してユージンを担ぎ上げた。


「さすがはドゥーカス侯爵。傷物の妻を抱えながら、これほど美しい花を側に置くとは、男の(かがみ)だ」

 ユージンは困ったように眉を下げ、

「よしてくれ、ソフィアが傷つく」

と口では言いながら、その賞賛を否定することなく、心地よさそうに聞き流していた。

 

そこへ、予告なしに扉が開いた。

「……実に見苦しい宴だな。ドゥーカス侯爵、君の審美眼は腐っているのか?」

現れたのは、バシレイオス公爵だった。


ユージンは慌てて立ち上がる。

「バシレイオス閣下! 肖像画師の件で……」


「黙れ。まずは、君が『聖女』と崇める、その女の正体を確認しろ」


ミカエリスがテーブルに放り出したのは数通の書状と、煤けた琥珀のブローチだった。

それを見た瞬間、ウルリケの顔から血の気が引いた。


「な、何ですの、これは……」

「君が闇市場に流そうとした、先代侯爵夫人の遺品だ。そしてこれは、母君を看病していた当時の老侍女の証言書。

……侯爵、君の母親が最期に(すが)ったのは、宝石を盗むのに忙しかったこの女ではない。……この、ソフィア夫人だ」


一瞬、部屋が静まり返った。

ユージンは呆然とブローチを手に取り、ウルリケを見た。

「ウルリケ……? 君は、母上を救ってくれたと……」

「ち、違うわユージン様! 私は……!」


「言い訳は憲兵にしろ」

ミカエリスが冷酷に言い放つ。

「君が他家で働いた詐欺の件も、すべて裏は取ってある」

ウルリケは悲鳴を上げ、ユージンの足元に縋り付いた。しかし、ユージンはそれを信じられないものを見るように、ただ、呆然と後退りした。

 

さらに、ミカエリスの刃は友人たちにも向けられた。

「君たちもだ。ドゥーカス侯爵の威を借りて、夫人の傷を嘲笑っていたその口……。裏で行っていた公金横領の証拠と共に、陛下へお届けしておいた。明日には家門の調査が入るだろう」


「な、なんだと!? ユージン、助けてくれ! 俺たちは君に合わせて言っていただけだぞ!」

「そうだ、お前だって『傷を見ると萎える』と言って笑っていたじゃないか!」

友人たちの醜い責任転嫁が始まる。


ユージンは真っ青になり、震える声で叫んだ。

「嘘だ! 僕は、僕はソフィアを守るために……!」


「守る? 君が?」

ミカエリスが、最高に痛烈な皮肉を浴びせる。

「君が『責任』という言葉で彼女を檻に閉じ込め、友人たちの嘲笑から一度も守らなかったことを、彼女自身が聞いているとも知らずにか?」


ユージンは、ゆっくりと私を振り返った。その瞳には初めて本物の恐怖が宿っていた。

「ソフィア……。嘘だよね? 聞いて、いたのか……?」


私は立ち上がり、重いストールを脱ぎ捨てた。

醜く引きつれた右腕を、堂々と晒して。

「ええ。あなたが『吐き気がする』と笑ったこの傷は、あなたを守った証でした。……でも、もう、その責任は果たしましたわ」


ユージンは崩れ落ちた。ウルリケは連行され、友人たちは罵り合いながら逃げ出し、ドゥーカス家の栄華は一晩で瓦礫の山となった。

ユージンが膝をつき、裏切った友人たちが憲兵に引き立てられていく喧騒の中、私はただ静かにその光景を見つめていた。


「ソフィア……信じてくれ、僕は君を……」

震える声で縋ろうとするユージンを、ミカエリスが冷ややかに遮る。

「信じるだと? 自分の保身のために妻の傷を肴にし、泥棒猫を聖女と崇めた男の、どの言葉を信じろと言うんだ。侯爵、君の『愛』は、自分を飾り立てるための安っぽいメッキだったな」


ミカエリスの言葉は、鋭いナイフのようにユージンの自尊心を切り裂いた。ユージンは言葉を失い、ただ口をパクパクと動かすだけだった。



数日後、私はドゥーカス家の屋敷を去る準備を整えた。

ガランとした広間で、ユージンはやつれ果てた姿で私を待ち構えていた。彼は、私がかつてお義母様を看病していた部屋で見つけた「日記」を握りしめていた。


「ソフィア……。母上の日記を読んだ。……ウルリケが宝石を盗む横で、君が、動かぬ右腕で母上の体を支え、汚れを拭ってくれていたと……。それなのに僕は、君を『恩着せがましい』と……」


ユージンは、ボロボロと涙を流し、私の足元に崩れ落ちた。

「行かないでくれ! 離縁なんてしないでくれ! 僕は、本当は君を……君のその傷跡さえも、愛していたんだ! 怖かっただけなんだ、君の献身に自分が釣り合わないことが!」


八方美人の彼が、初めて吐き出した本音。

けれど、それはあまりにも遅すぎた。

「ユージン様。……あなたが愛していたのは私ではなく、『自分を救って不自由になった女を見捨てない立派な僕』だったのでしょう?」


私は彼の肩に左手を置いた。かつては震えていたその手は、今は迷いなく彼を突き放す。


「あなたが私の傷を見て『萎える』と言った時、私の恋心も同じように、形を失って崩れたのです。

……さようなら。

この右腕の傷は、もうあなたのためのものではありません。私のものですわ」


もう、誰かの顔色を窺って色を選ぶ必要はない。

この筆は私のためだけにある。


屋敷の門を出ると、そこにはミカエリスの馬車が停まっていた。

彼は馬車から降り、私の左手を宝物を扱うかのように恭しく取った。


「終わったか。ソフィア」

「ええ。……すべて、塗り潰してきました」


ミカエリスは、ユージンが一度も見ようとしなかった私の右腕の傷に、そっと視線を落とした。

「その傷は、君が過去に打ち勝った勲章だ。……これからは私の隣で君の望む色だけを世界に描きなさい」



ミカエリスのアトリエ。

そこは、かつての風景画のような淡い光ではなく、強烈な生命の色に満ちていた。

私は左手で筆を執る。描くのは目の前で不器用そうに、けれど真摯に私を見守る、この男の瞳。


遠くで、ドゥーカス侯爵家が没落し、ユージンが正気を失って「見えない妻」に語りかけているという噂を耳にしたが、私の筆が止まることはなかった。

左手の筆先からは、かつてないほど鮮やかな、自由な色彩が溢れ出していた。


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― 新着の感想 ―
最後まで大事なのは落ちぶれても妻に見捨てられない虚像の自分という男でしたね。
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