第57話 報せ
朝から——雨だった。
京の冬の雨。
冷たく、細く、止まない雨。
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宗茂は、文机に向かっていた。
誾千代への返文を——書いていた。
「体の具合が優れないとのこと——無理をするな」
先月、そう書いた。
返事が——まだ、来ない。
いつもは、一月以内に届く。
今月は——まだ、来ない。
「……遅いな」
小さく、呟く。
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十時が、部屋に入ってくる。
その顔を——見た瞬間。
宗茂は、筆を置いた。
十時の顔が——いつもと、違った。
「……なんだ」
「殿——」
「なんだ」
十時が、口を開く。
閉じる。
また、開く。
「肥後から——使者が」
「……ああ」
「誾千代様が——」
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十時が、言い切れない。
宗茂は——
十時を、見ていた。
言葉の続きを——待っていた。
しかし。
待たなくても——
分かっていた。
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「……いつだ」
宗茂が、聞く。
「先月——慶長十七年、十月のことです」
「そうか」
「……申し訳——」
「お前のせいではない」
「しかし——」
「十時」
宗茂が、静かに言う。
「少し——一人にしてくれ」
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十時が、頭を下げる。
部屋を、出る。
襖が、閉まる。
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静寂。
雨の音だけが——残った。
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宗茂は——
しばらく、動かなかった。
文机の前に、座ったまま。
筆が——まだ、手の中にあった。
誾千代への返文を——書きかけたまま。
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「……誾千代」
小さく、呟く。
答えは——返らない。
雨の音だけが、続く。
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目が——乾いていた。
涙は、出なかった。
出ないのではなく——
出る場所が、見つからなかった。
この喪失は——
泣いて終わるものでは、なかった。
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誾千代の顔が——浮かぶ。
花宗川のほとりで——並んで立っていた顔。
「花宗川が——待っていました」
あの声。
あの目。
泣かない目。
いつも——揺れない目。
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「……お前も、泣かなかったな」
小さく、言う。
「岩屋城の時も。出兵の時も。開城の時も」
一拍。
「俺が——泣けないのは」
「お前に——似たのかもしれない」
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雨が、窓を叩く。
宗茂は、窓の外を——見る。
灰色の空。
冷たい雨。
京の冬。
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その時。
使者が——もう一つ、文を持ってきた。
「誾千代様より——以前に、預かっていたものです」
「……以前に」
「はい。旅立たれる前に——宗茂様へ、とのことで」
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宗茂は、文を——受け取る。
几帳面な文字で——名前が書いてある。
「宗茂様へ」
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開く。
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「水は、待っています」
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それだけだった。
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宗茂は——
その文字を、見ていた。
一度。
また、一度。
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「水は、待っています」
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柳川の水が——待っている。
花宗川が——待っている。
誾千代が——
いつまでも、そこで待っている。
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宗茂は——
文を、胸に当てる。
目を、閉じる。
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道雪の顔が——浮かぶ。
紹運の顔が——浮かぶ。
そして——
誾千代の顔が——浮かぶ。
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三人が——
消えていった。
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しかし——
誾千代の言葉が、残っていた。
「水は、待っています」
水は——なくならない。
柳川の水は——流れ続けている。
誾千代が——水に、なったのかもしれなかった。
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宗茂は——
目を開く。
文を——折り直す。
懐に、仕舞う。
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立ち上がる。
窓を——開ける。
冷たい雨が——顔に当たる。
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「……ありがとう」
小さく、言う。
誾千代に向けて。
「待っていてくれて——ありがとう」
「柳川を——待っていてくれて」
「俺を——待っていてくれて」
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雨が、降る。
冷たく。
細く。
止まない。
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その雨が——
少しだけ、温かく感じた。
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宗茂は、窓を閉じる。
振り返る。
部屋の中に——
十時と鎮幸が、立っていた。
いつの間にか——戻ってきていた。
黙って——立っていた。
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「……聞いていたか」
「はい」
鎮幸が、答える。
その目が——赤かった。
「すまない」
「いいえ」
「立ち聞きを——」
「当然です」
鎮幸が、腕を組む。
「殿が——一人でいる時間が、長すぎました」
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十時が、静かに言う。
「……奥方は」
「ああ」
「最後まで——待っていてくださいましたね」
「ああ」
「水のように——」
「ああ」
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三人は——
しばらく、黙っていた。
雨の音が——続く。
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「……行こう」
宗茂が、言う。
「どこへ、ですか」
「柳川へ——帰る」
「しかし——今は、まだ」
「いつか——必ず」
一拍。
「誾千代が——待っている」
「……はい」
「水が——待っている」
「はい」
「だから——帰る」
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鎮幸が——
目を拭う。
一度だけ。
それだけで——また、元の顔に戻る。
「……承知」
低く、言う。
「どこまでも——ついていきます」
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十時が、頷く。
「承知」
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雨が——
少し、弱くなっていた。
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宗茂は、懐の文を——
一度だけ、手で押さえる。
「……待っていろ」
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次回、第58話「喪失」。




