第56話 肥後の女
肥後の朝は、早かった。
鶏が鳴く前に——誾千代は、目を覚ます。
床の中で、しばらく——天井を見ていた。
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体が、重かった。
このところ——ずっと、そうだった。
起き上がると、目が回る。
食が——細くなっていた。
「……また、か」
小さく、呟く。
誰にも——聞こえない声で。
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起き上がる。
着物を、整える。
鏡を——見ない。
見れば——顔色が分かる。
顔色が分かれば——
所員たちが、心配する。
心配させるのは——
誾千代の性分に、合わなかった。
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縁側に出る。
肥後の朝の空気が——冷たかった。
深く、息を吸う。
肺に——冷たい空気が入る。
「……柳川とは、違う」
小さく、言う。
柳川の朝は——水の匂いがした。
堀の水。
花宗川の水。
この肥後の空気には——その匂いが、ない。
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加藤家の女中が、やってくる。
「誾千代様——朝餉の用意が」
「ありがとう」
「……お顔の色が」
「少し、眠れなかっただけです」
「お医者を——」
「大事ありません」
誾千代は、微笑む。
その笑顔に——
女中は、それ以上、言えなくなる。
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朝餉を、少し食べる。
箸が——進まない。
しかし——
女中の目が、気になる。
無理に、口に運ぶ。
「……おいしい」
「本当ですか」
「本当です」
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食べ終わって——
文机に、向かう。
宗茂への文を——書く。
毎月、書いていた。
柳川を出てから——ずっと。
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筆を、取る。
「京は寒うございますか」
書く。
「こちらは——加藤様の御世話になり、息災にしております」
書いて——止まる。
息災。
その言葉を——見つめる。
嘘ではない。
死にかけているわけでは——ない。
しかし——
完全に、正直でもなかった。
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「宗茂様のご無事を——毎朝、祈っております」
続ける。
「家臣の皆も——達者とのこと、安心しました」
「柳川の水は——今日も、流れているそうです。増時が、知らせてくれました」
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筆が、止まる。
柳川。
水路。
花宗川。
増時からの文に——柳川の様子が書いてある。
城は、今、鍋島の管轄になっている。
しかし——水は、変わらず流れているという。
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誾千代は、目を閉じる。
花宗川が——見える。
秋の光が、水面に散っている。
宗茂と並んで——立っていた川。
「また——二人で、ここに立てた」
あの日、宗茂が言った言葉。
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目を、開く。
文机の前に——戻る。
筆を、走らせる。
「このところ、少し体の具合が優れません。大事にはありませんが、ご心配なきよう」
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書いて——
その一行を、見る。
消そうか、と思う。
心配させたくない。
しかし——
宗茂に嘘は、つけなかった。
「勝敗に拘らず」と書いた時と——同じだった。
この人には——正直に、書く。
それだけでいい。
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文を、折る。
封をする。
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縁側に、戻る。
空を、見上げる。
冬の空。
高く、青い空。
「……宗茂様」
小さく、呟く。
「京は——寒いですか」
答えは、返らない。
風だけが、吹く。
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その時。
女中が、水を持ってきた。
白湯だった。
「体に——よいそうです」
「ありがとう」
誾千代は、受け取る。
両手で、椀を包む。
温かかった。
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水が——温かかった。
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誾千代は、その水を——見ていた。
白湯の面が、静かに——揺れている。
「……水は」
小さく、言う。
「待っています」
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柳川の水が——待っている。
花宗川が——待っている。
宗茂が帰ってくる日を。
立花が戻る日を。
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待っている。
水は——いつも、待っている。
流れながら。
変わらず。
ただ、待っている。
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誾千代は——
椀を、両手に包んだまま。
しばらく——目を閉じていた。
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夜。
再び、文机に向かう。
今度は——別の文を、書く。
宗茂への——もう一通。
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筆を、取る。
しばらく——白紙を、見ていた。
書きたいことは——たくさんあった。
柳川のこと。
道雪のこと。
花宗川のこと。
二人で並んで立った、あの朝のこと。
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しかし——
筆を走らせると。
言葉が——一つに、絞られていく。
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「水は、待っています」
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それだけだった。
それだけで——
全てが、言えた気がした。
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文を、折る。
封をする。
「……届くといいですね」
小さく、呟く。
誰に言うでもなく。
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行灯の火が——揺れていた。
肥後の夜が——静かだった。
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誾千代は、床に就く。
目を閉じる。
体が——重かった。
しかし——
心は、不思議と——軽かった。
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言いたいことは——書いた。
伝えたいことは——伝えた。
あとは——
待つだけだった。
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水のように。
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次回、第57話「報せ」。




