第51話 江上の陣
夜明け前。
柳川城の庭に——霧が出ていた。
花宗川の水面が、白く霞んでいる。
昨日まであれほど穏やかだった水が——今朝は、冷たく光っていた。
葦が、風に揺れる。
遠くで、水鳥が鳴く。
それだけが——静かな朝だった。
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宗茂は、具足を身に着けながら——庭を見ていた。
五日前、この庭で誾千代と並んで立った。
花宗川を、二人で見た。
「また——二人で、ここに立てた」
そう言った。
その川が——今朝は、霧に沈んでいる。
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「殿」
十時が、廊下から声をかける。
「鎮幸が——揃っております」
「分かった」
兜の緒を、締める。
立ち上がる。
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廊下に出ると——
誾千代が、立っていた。
具足姿の宗茂を——真っ直ぐ、見ていた。
「……誾千代」
「はい」
「起きていたのか」
「眠れませんでした」
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二人は、向き合う。
誾千代の目が——揺れない。
いつもと同じ、凛とした目。
しかし——
その目が、宗茂の顔を、ゆっくりと見ていた。
額から。
目から。
口元から。
まるで——刻み込むように。
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「……行ってきます」
「はい」
誾千代は、答える。
「ご武運を」
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それだけだった。
それだけで——十分なはずだった。
宗茂は、踵を返す。
一歩。
二歩。
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「宗茂様」
誾千代の声が、背中にかかる。
宗茂は、足を止める。
振り返らない。
「……なんだ」
「一つ——聞いてもよいですか」
「……ああ」
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「勝てますか」
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宗茂は——
しばらく、答えない。
廊下の板が、冷たかった。
霧の匂いが、漂っていた。
「……分からない」
正直に、言う。
「鍋島は——強い」
「はい」
「直茂殿は——老獪だ」
「はい」
「だが——」
一拍。
「立花が、弱いわけでもない」
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誾千代は——
しばらく、黙っていた。
「……そうですね」
静かに、言う。
「父上の兵法を——受け継いでいます」
「ああ」
「紹運様の意地も——」
「ああ」
「立花は——負けません」
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宗茂は、振り返る。
誾千代が——
まだ、そこに立っていた。
その目が——
一瞬だけ、揺れた。
ほんの一瞬。
すぐに——元に戻る。
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「帰ってきてください」
誾千代が、言う。
「必ず」
その声が——
かすかに、震えていた。
普段の誾千代の声では、なかった。
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宗茂は——
その声を、胸の中に、仕舞う。
「ああ」
一言だけ。
踵を返す。
今度は——振り返らない。
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城門を、出る。
霧の中に——立花の旗が、並んでいた。
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小野鎮幸が、前に出る。
五十を過ぎた男。
しかし——その目は、二十の武者のように燃えていた。
道雪の頃から立花に仕えた男。
誰よりも早く駆け、誰よりも深く切り込む。
立花の「攻め」の象徴。
「殿」
「鎮幸」
「先鋒——お任せください」
「ああ」
「鍋島ごとき——立花の敵ではありません」
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宗茂は、鎮幸を見る。
この目だ。
いつも、この目をしている。
戦場に出ると——他の何も見えなくなる目。
「鎮幸」
「はい」
「突出するな」
「……はい」
「深追いするな」
「はい」
「分かったか」
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鎮幸は——
少し間を置いて。
「承知」
その目が——まだ、燃えていた。
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江上の野。
霧が——まだ、残っていた。
鍋島軍の旗が、霧の向こうに見える。
「丸に剣花菱」の旗印。
鎮幸は、馬上で前を見ていた。
「……来たな」
隣の家臣が言う。
「ああ」
「直茂自ら——ですか」
「旗印からすれば——そうだ」
「相当な兵数です」
「見れば分かる」
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鎮幸は、刀の柄に手をかける。
鍋島直茂。
九州の雄。
しかし——
立花に勝てるか。
「……かかれ!」
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立花の先鋒が、動く。
霧を裂いて——駆ける。
鍋島の前列が、銃を構える。
「撃て!」
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銃声が、野に響く。
煙が、立ち上る。
先頭の兵が、倒れる。
しかし——鎮幸は、止まらない。
「怯むな! 立花の名を——見せろ!」
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鎮幸の槍が、鍋島の前列を——薙ぐ。
一人。二人。三人。
「押せ! 押せ!」
鍋島の前列が——崩れる。
退く。
また退く。
「……逃げるか!」
鎮幸の目が、光る。
「追え!」
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家臣の一人が、叫ぶ。
「鎮幸様——深追いは!」
「黙れ! 今こそ——」
「罠かもしれません!」
「立花が——ここで退くか!」
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鎮幸は、構わない。
駆ける。
駆ける。
鍋島の旗が——遠くなる。
遠くなる。
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やがて——
気づく。
周囲が、静かになっていた。
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霧の中。
左右から——旗が、現れる。
鍋島の旗。
前からも——旗が、現れる。
釣り野伏せ。
「……やられた」
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「鎮幸様! 包囲されます!」
「……」
鎮幸は、馬を止める。
前。後ろ。左。右。
鍋島の兵が——じわじわと、迫ってくる。
霧の中から——旗が、増えていく。
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鎮幸は——
笑った。
「……さすがは、直茂」
低く、呟く。
「老獪な男だ」
一拍。
「島津と同じ——釣り野伏せか」
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刀を、抜く。
「だが——」
馬上で、構える。
「立花の武を——見せてやる」
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城内。
宗茂は、物見台に立っていた。
遠く——江上の方角から、煙が上がっている。
銃声が——風に乗って、聞こえてくる。
「……始まったか」
十時が、隣で言う。
「はい」
「鎮幸は——」
「先鋒として、押しているとの報せです」
「そうか」
「……殿は、行かないのですか」
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宗茂は、答えない。
煙を——見ていた。
「行けば——」
十時が、口を閉じる。
「家康への申し開きが、できなくなる」
「……はい」
「立花が——完全に、潰れる」
「はい」
「分かっている」
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しかし——
煙が、上がっている。
家臣たちが、あの野で戦っている。
鎮幸が——駆けている。
「……分かっていても」
宗茂の拳が——
固く、握られた。
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その時。
報せが、来た。
「殿——!」
使者の顔が——蒼白だった。
「鎮幸様が——包囲されました」
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宗茂は——
目を閉じる。
一拍。
「……鎮幸が」
「はい」
「突出したか」
「……はい」
「言ったのに」
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煙が、増えていた。
江上の野の——煙が。
「……行く」
「殿!」
「行く」
「しかし——政治的に——」
「家臣が死ぬのを——黙って見ていられるか」
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十時は——
一瞬、黙る。
やがて。
「……承知」
「馬を——」
「すでに、用意してあります」
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宗茂は、十時を見る。
「……分かっていたか」
「殿が——黙って見ていられる方なら」
十時が、静かに言う。
「立花の家臣には、なりません」
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城門が、開く。
宗茂が——駆ける。
立花の旗が——霧の中へ、消えていく。
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廊下から——
誾千代が、その背を見ていた。
何も——言わない。
ただ——見ていた。
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その手が、柱を——静かに、握った。
指が、白くなるほど。
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花宗川が——流れていた。
霧の中を。
変わらず。
ただ、流れていた。
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江上の野に——
立花宗茂の旗が、現れる。
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次回、第52話「八院の決戦」。




