第50話 宋雲院
柳川が、見えた。
水路が——光っている。
秋の日差しが、堀の面を白く染めていた。
葦が、風に揺れる。
岸に並ぶ柳の木が、枝を垂らして水面に触れそうになっている。
何も——変わっていなかった。
関ヶ原で天下が動いた。
西軍が潰えた。
立花が敗れた。
それでも、この水は、変わらず流れていた。
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「……柳川だ」
宗茂は、舳先に立つ。
風が、顔に当たる。
潮の匂いから——水草の匂いに変わっていた。
九州の匂い。
柳川の匂い。
「帰ってきた」
誰に言うでもなく、呟く。
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十時が、隣に立つ。
「……長かったですね」
「ああ」
「朝鮮から数えれば——」
「長かった」
十時は、水路を見る。
「変わっていませんね」
「そうだな」
「……柳川は、待っていてくれましたね」
宗茂は、答えない。
ただ——水面を、見ていた。
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船が、岸に着く。
綱が投げられ、杭に結ばれる。
家臣たちが、次々と降りていく。
宗茂は、最後に降りた。
足が、土を踏む。
柳川の土。
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宋雲院が、宗茂の手を借りて岸に立つ。
大坂から連れ出した時よりも、顔色が良くなっていた。
船旅の疲れはあるだろう。
それでも——目が、穏やかだった。
「……懐かしい匂いだ」
宋雲院が、深く息を吸う。
「はい」
「水の匂い。柳川の」
「母上——」
「宗茂」
宋雲院が、宗茂を見る。
その目が——
じっと、息子の顔を見ていた。
出陣の時より、少し痩せた顔。
戦場を駆け抜けた目。
「……よく、帰ってきた」
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宗茂は、答えない。
ただ——頷いた。
それだけで——十分だった。
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城門をくぐる。
家臣たちが、道の両側に並んで頭を下げている。
柳川に残った者たち。
薦野増時が、その先頭に立っていた。
「……お帰りなさいませ」
増時の声が、かすかに震えていた。
「増時」
「はい」
「柳川を——頼んだな」
「はい」
「守ってくれたか」
「……はい」
増時が、顔を上げる。
その目が——赤かった。
「立花の城は——まだ、ここにあります」
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宗茂は、増時の肩を——一度、叩く。
言葉は、なかった。
それだけで——増時には、届いたはずだった。
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廊下を、歩く。
板張りの廊下。
柳川城の廊下。
足音が、響く。
朝鮮の土の上では聞けなかった音。
大坂城の混乱の中では聞けなかった音。
自分の城の、廊下の音。
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庭に出た。
花宗川が、流れていた。
出兵の前、誾千代と並んで見た川。
「帰ったら、また二人でここに立とう」
あの日、言えなかった言葉を——宗茂は胸の中で反芻する。
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誾千代が、そこにいた。
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川岸に——立っていた。
宗茂に気づいて——振り返る。
その顔が、いつもと変わらない。
凛とした目。
乱れない姿勢。
立花の女城主。
道雪の娘。
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宗茂は、足を止める。
誾千代も——止まっている。
庭の向こう。
花宗川の水音だけが、二人の間に流れていた。
しばらく——
誰も、動かなかった。
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先に口を開いたのは、誾千代だった。
「……お帰りなさいませ」
静かな声。
いつもと——変わらない声。
関ヶ原で負けても。
柳川が危うくなっても。
この女は——揺れない。
宗茂は、そう思っていた。
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「ただいま」
宗茂が、言う。
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それだけだった。
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誾千代は——
宗茂を、見ていた。
出陣の朝に見送ったその顔を。
朝鮮へ渡り、関ヶ原へ向かい、大坂を脱して帰ってきた男の顔を。
ただ——見ていた。
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やがて。
一筋。
頬を、伝った。
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誾千代は、拭わない。
表情も——変えない。
ただ立っている。
まるで——気づいていないように。
まるで——当然のことであるように。
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「……勝敗に拘らず、と」
宗茂が、言う。
「書いたな」
「はい」
「読んだ」
「……はい」
「伊勢の野営で——読んだ」
「……はい」
「助かった」
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誾千代は、答えない。
もう一筋——
頬を、伝う。
それでも——
声は、静かだった。
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「花宗川が——待っていました」
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水が、流れる。
風が、吹く。
柳の枝が、揺れる。
宗茂は——
その言葉を、胸の中で転がした。
待っていた。
川も。
誾千代も。
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「……そうだな」
宗茂は、川を見る。
「俺も——ここへ帰りたかった」
「はい」
「ずっと」
「……はい」
「朝鮮でも。大津でも。大坂でも」
「はい」
「柳川のことを——考えていた」
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誾千代は、川を見る。
二人で——並んで、川を見る。
水が、流れる。
秋の光が、水面に散る。
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「また——二人で、ここに立てた」
宗茂が、言う。
誾千代は、答えない。
ただ——
小さく、頷いた。
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後ろで、気配がした。
宋雲院が——廊下から、庭を見ていた。
二人の後ろ姿を——
静かに、見ていた。
その目が——
そっと、細くなる。
袖を、口元に当てる。
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柳川の水が——流れていた。
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夜。
陣の間。
十時が、報せを持ってくる。
「殿」
「なんだ」
「……鍋島直茂殿の軍が、動いています」
「方角は」
「柳川へ——向かっているかと」
「兵数は」
「まだ——はっきりとは。しかし、相当数かと」
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宗茂は、地図を広げる。
柳川の周囲。
水路。
城の配置。
「……来るか」
「はい」
「直茂殿が、自ら動くか」
「……家康公の意を——受けているかと」
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宗茂は、地図を見たまま——
しばらく、黙っていた。
花宗川の水音が——遠くに聞こえる。
誾千代の声が——耳に残っている。
待っていました。
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「……分かった」
宗茂が、顔を上げる。
「迎え撃つ」
「はい」
「立花は——まだ、終わっていない」
十時が、頷く。
「承知」
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立花の旗が——
夜風に、揺れていた。
あとがき
「花宗川が——待っていました」
次回、第51話「江上の陣」。




