第39話 釜山
春だった。
船が、朝鮮の港に着く。
釜山。
二度目の異国。
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宗茂は、甲板から降りる。
土の匂いを、吸う。
「……また来た」
十時が、隣で言う。
「また来ましたね」
「変わっていないな」
「戦場は——変わりません」
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だが——
空気が、違った。
文禄の役の時とは。
重い。
どこか——疲れている。
日本軍全体が。
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軍議。
釜山の本陣。
諸将が、並ぶ。
宗茂も、その中にいた。
「立花は——釜山の守備を担え」
命が、下る。
「御意」
頭を下げる。
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守備。
攻めではなく——守る。
「……また、か」
十時が、小声で言う。
「文句があるか」
「ありません」
「守ることの——意味は知っている」
十時は、頷く。
「立花山城で——学びましたから」
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釜山の日々。
城壁を、巡る。
兵の顔を、見る。
配置を、確かめる。
単純な仕事。
だが——気を抜けない。
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ある夜。
宇喜多秀家から、使者が来る。
「明軍二万二千——釜山へ向かっている」
「数は確かか」
「確かです」
「将は」
「高策」
宗茂は、地図を広げる。
般丹。
釜山への道。
「……夜か」
「はい」
「では——夜に動く」
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精鋭、八百。
夜の道を、進む。
松明を消して。
音を殺して。
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般丹。
明軍の陣が、見える。
篝火が、揺れている。
「……多いな」
「八百で——二万二千です」
十時が、小声で言う。
「知っている」
「無謀では」
「夜襲と火計だ」
「……なるほど」
「奇襲が成れば——数は関係ない」
「成らなければ」
「成らせる」
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夜襲。
火矢が、飛ぶ。
陣が、燃える。
「なんだ!」「敵襲!」
明軍が、混乱する。
「今だ!」
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八百が——一気に、斬り込む。
宗茂が、先頭に立つ。
暗闇の中。
炎の光だけを頼りに——
斬る。突く。止まらない。
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混乱した明軍が——崩れる。
七百の首級。
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引く。
素早く。
追わせない。
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「……やりましたね」
十時が、息を整えながら言う。
「ああ」
「八百で——七百」
「数を当てにするな」
「はい」
「奇襲は——一度しか使えない」
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翌朝。
西生浦へ向かう。
先行部隊と、合流する。
軍議。
「蔚山が——危ない」
声が、上がる。
加藤清正が、包囲されている。
明・朝鮮連合軍に。
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諸将が、議論する。
「どう動くか」
「兵力が——」
「補給が——」
「道が——」
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話が、まとまらない。
一刻。また一刻。
宗茂は——
聞いていた。
黙って。
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やがて。
「……失礼」
静かに、口を開く。
諸将が、振り返る。
「評定のみに日を送っても——無駄なことです」
室内が、静まる。
「蔚山の敵を追い払えば——泗川の敵は退く」
続ける。
「泗川が退けば——順天もおのずから退きます」
「では——」
「拙者が、蔚山を救援いたします」
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総大将・小早川秀秋が、言う。
「それはよい」
一拍。
「だが——兵は、いくつだ」
「三千には——満たない数です」
秀秋が、口の端を上げる。
「万一やり損なっても——味方の難儀にはなりますまい」
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その言葉を——
宗茂は、聞いた。
何も言わなかった。
ただ——頭を下げた。
「御意」
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「……よかったのですか」
十時が、後で言う。
「何が」
「あの言われ方——」
「構わない」
宗茂は、前を向いたまま。
「兵が、死んでいる」
「……はい」
「清正殿が——包囲されている」
「はい」
「それだけだ」
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一千の兵。
夜明け前。
暁霧の中——動く。
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五百の先鋒が——奇襲。
明軍五千の先陣を——撃退。
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さらに——
五百の鉄砲隊が、続く。
「撃て!」
銃声が、霧を裂く。
明軍が——大軍が来たと、誤認する。
「日本の大軍だ!」
「どこから——」
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引く。
そして——
捕虜にした敵兵、四十余人を解放する。
「……なぜ、逃がします」
十時が、問う。
「情報を——流させる」
「何の」
「こちらが——少ないという情報を」
十時が、目を見開く。
「逆襲を——誘うのですか」
「ああ」
「罠として」
「そうだ」
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夜。
偽の陣地を作る。
営火を、並べる。
伏兵を——潜ませる。
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明軍が——来た。
長蛇の陣形で。
「……来た」
「はい」
「分断する」
「はい」
「今だ!」
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伏兵が——飛び出す。
長蛇の陣を——分断。
各個に——撃破。
明軍が、崩れる。
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翌日。
蔚山城へ——接近。
清正と——挟撃。
明軍、撤退。
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蔚山城。
清正が、城門を開けて出てくる。
宗茂を、見る。
しばらく——
「……立花」
「清正殿」
「よく——来てくれた」
その声が——珍しく、震えていた。
「当然のことです」
「一千で——来るとは」
「十分です」
清正は、宗茂を見る。
「日本軍——第一の勇将だ」
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宗茂は、頭を下げる。
「……勿体なきお言葉」
「褒め言葉ではない」
清正が、続ける。
「事実だ」
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隆景に続いて——清正にも、言われた。
だが——
宗茂の胸には、別のことがあった。
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「十時」
「はい」
「……秀吉公は」
「はい」
「ご健勝か」
十時が、少し間を置く。
「……聞こえてきません」
「そうか」
「何か——」
「いや」
宗茂は、空を見る。
朝鮮の空。
「……気のせいかもしれない」
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だが——
何かが、変わっていた。
天下の空気が。
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秀吉からの命が——
届かなくなっていた。
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代わりに。
噂が——流れ始めていた。
「太閤殿下が——」
「伏見で——」
「ご病気と——」
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宗茂は、その噂を——
黙って、聞いた。
「……」
何も言わない。
だが——
備前長光を、握る手が——
少しだけ、強くなった。
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朝鮮の秋が——深くなっていく。
天下が——動こうとしていた。
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次回、第40話「露梁」——秀吉の死と、最後の海戦。
この話で描きたかったのは、「評定のみに日を送っても無駄」という宗茂の進言です。
史実にある言葉です。諸将が議論を続ける中で、宗茂一人が動くことを決めた。そして秀秋に「万一やり損なっても味方の難儀にはなりますまい」と軽く言われても、何も言わずに頭を下げた。
この場面の宗茂は——怒っていないと思います。ただ、兵が死んでいる。それだけを見ていた。その静けさを書きたかった。
次の40話は露梁海戦です。島津義弘との共闘、行長の救出、そして秀吉の死——第三章の終幕へ向かいます。誾千代への手紙が、最後に来ます。




