第38話 再渡海
秋だった。
玄界灘を、船が渡る。
今度は——東へ。
九州へ。
帰る。
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宗茂は、甲板に立つ。
波が、船を揺らす。
遠くに——陸が見え始める。
「……見えた」
十時が、隣で言う。
「九州です」
「ああ」
「帰ってきました」
「……ああ」
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それだけだった。
言葉が、出なかった。
出す必要が——なかった。
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柳川。
城下に入る。
水路が、光っている。
柳が、揺れている。
「……変わっていない」
十時が、呟く。
「はい」
宗茂も、呟く。
「変わっていない」
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城門前。
誾千代が、立っていた。
一人で。
家臣も連れず。
ただ——立っていた。
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宗茂は、馬から降りる。
歩く。
誾千代の前に、立つ。
しばらく——
二人とも、何も言わない。
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「……痩せましたね」
誾千代が、先に言う。
「そうか」
「食えていましたか」
「食えていた」
「嘘をつかないでください」
宗茂は——
少し、笑った。
「……ばれるか」
「顔を見れば分かります」
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誾千代の目が——
一瞬だけ、揺れた。
ほんの一瞬。
すぐに——元に戻る。
「お帰りなさい」
静かに。
「……ただいま」
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城内。
久しぶりの畳。久しぶりの屋根。
宗茂は、縁側に座る。
庭に、水路が見える。
「花宗川——見に行きたい」
誾千代が、隣に座る。
「明日にしてください」
「なぜ」
「今日は——休んでください」
宗茂は、誾千代を見る。
誾千代は、庭を見ている。
「……そうするか」
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夜。
宗茂は、眠れなかった。
天井を見る。
朝鮮では——ずっと、この天井を思っていた。
戻ってきた。
なのに——
眠れない。
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廊下に、気配。
「……また、眠れませんか」
誾千代の声。
「お前もか」
「考え事です」
「何を」
誾千代が、縁側に座る。
月が、出ていた。
「……殿のことです」
「珍しいな」
「いつも考えています」
宗茂は、起き上がる。
「心配していたか」
誾千代は、少し間を置く。
「……していませんでした」
「そうか」
「信じていましたから」
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宗茂は、誾千代を見る。
月の光の中。
「誾千代」
「はい」
「……苦労をかけた」
誾千代は、首を振る。
「苦労とは思っていません」
「柳川を——一人で守っていた」
「当然のことです」
「当然ではない」
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誾千代が——
宗茂を、見る。
「殿」
「なんだ」
「……生きて帰ってきてくれました」
一拍。
「それだけで——十分です」
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風が、吹く。
柳が、揺れる。
水の音。
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翌朝。
二人で、花宗川へ歩く。
水が——流れていた。
矢部川から引いた水が、田へ届いている。
「……できたな」
「はい」
「工事——大変だったか」
「大変でした」
「そうか」
「ですが——」
誾千代が、水を見る。
「民が、喜んでいます」
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老人が、頭を下げる。
「誾千代様——今年は、米が取れました」
子供が、水路で遊んでいる。
女が、洗い物をしている。
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宗茂は——
それを、見ていた。
「……これを」
静かに、言う。
「守るために——戦っている」
誾千代が、隣に立つ。
「はい」
「分かっていたつもりだった」
「……つもり、ですか」
「見ると——違う」
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水が、流れる。
光が、揺れる。
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それから——
三ヶ月。
宗茂は、柳川にいた。
誾千代と、城下を歩いた。
水路を、見た。
民の顔を、見た。
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短い、平和だった。
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冬。
秀吉からの命が、届いた。
「再び——朝鮮へ渡れ」
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城内。
宗茂は、地図を広げる。
誾千代が、隣に座る。
「……また、ですか」
「ああ」
「いつ」
「早ければ——来春」
誾千代は、地図を見る。
その手が——
一瞬だけ、止まった。
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「誾千代」
「はい」
「……嫌か」
誾千代は、少し間を置く。
「嫌です」
静かに。
はっきりと。
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宗茂は——
その言葉を、聞いた。
誾千代が「嫌」と言ったのは——
初めてだった。
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「だが——」
「分かっています」
誾千代が、続ける。
「行かなければならない」
「ああ」
「秀吉公の命です」
「ああ」
「……立花は、従います」
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宗茂は、誾千代を見る。
その目が——揺れていない。
強い。
いつも通り、強い。
だが——
「誾千代」
「はい」
「……今度も、帰る」
誾千代は、地図を見たまま。
しばらく——
「帰ってきてください」
小さく。
「必ず」
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春。
出兵。
城門前。
誾千代が、立つ。
今度は——
「殿」
宗茂が馬に乗る前に、言う。
「花宗川——また、見に来てください」
「……ああ」
「水は、待っています」
「ああ」
「私も——」
一拍。
「待っています」
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宗茂は、馬を進める。
振り返らない。
だが——
胸の中に。
その言葉が、刻まれた。
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玄界灘。
また、渡る。
灰色の海。
波が、荒い。
「……行くぞ」
十時が、隣に立つ。
「はい」
「怖いか」
「怖いです」
「そうか」
「殿は」
宗茂は、海を見る。
「……帰る場所がある」
一拍。
「怖くない」
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船が、出る。
柳川が、遠くなる。
九州が——霞の向こうに、消えていく。
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水は、待っている。
誾千代も——待っている。
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それだけで——
波など、怖くなかった。
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次回、第39話「釜山」——慶長の役、宗茂の戦いが始まる。
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あとがき
31話「柳川」と対になる話として書きました。
31話では誾千代が「お帰りなさい」と言い、宗茂が「ただいま」と言った。今回も同じ構造ですが——二人の間にあるものが、深くなっています。文禄の役を経て、誾千代が「嫌です」とはっきり言う。この一言を、この話の核心として置きました。誾千代はいつも強い。だからこそ、その「嫌です」が重い。
花宗川は、この物語の通奏低音として機能しています。宗茂が戦う理由——民の顔、水の流れ、誾千代の仕事。それを「見ると違う」と宗茂自身が言う場面を入れたかった。
次の39話からは慶長の役です。露梁海戦、島津義弘との共闘、そして秀吉の死へ——物語は第三章の終幕へ向かいます。




