第37話 異国の春
海が、終わった——から、数ヶ月。
春が、来ていた。
朝鮮の春は——九州より、遅い。
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野営地。
兵たちが、焚き火を囲む。笑い声が、聞こえる。
碧蹄館から、しばらく経つ。傷が、癒えてきた。
だが——消えないものが、ある。
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宗茂は、一人で——川沿いに座っていた。
水が、流れる。朝鮮の川。
柳川の水路とは——違う流れ方をする。速い。真っ直ぐ。
「……誾千代」
小さく、呟く。
「花宗川は——できたか」
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筆を、取る。紙を、広げる。
手紙を——書こうとして。しばらく——止まる。
何を書けばいいか。
碧蹄館のことは——書けない。心配させる。
安東のことも——書けない。池辺のことも。
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結局——
「柳川の春は、どうか。花宗川の工事は進んでいるか。水路沿いの柳は、もう芽吹いたか」
それだけを、書いた。
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十時が、後ろから来る。
「手紙ですか」
「ああ」
「奥方に」
「他に誰がいる」
十時が、隣に座る。
「……私も、書こうかな」
「家族がいるのか」
「母が」
「書け」
「でも——何を書けばいいか」
宗茂は、手紙を折りながら言う。
「生きている、と」
「それだけですか」
「それで——十分だ」
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十時は、しばらく——川を見ていた。
「殿」
「なんだ」
「安東のこと——まだ、考えていますか」
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宗茂は、答えない。
川が、流れる。
「……毎日」
静かに、言う。
「李如松を落馬させた」
「はい」
「あの一騎討ちが——なければ」
「……はい」
「戦の流れが、変わっていたかもしれない」
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十時が、頷く。
「安東は——最高の死に場所を選びました」
「そうだな」
「……武人として」
宗茂は、空を見上げる。
朝鮮の空。
「だが——」
一拍。
「死なせたくは、なかった」
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風が、吹く。川面が、揺れる。
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「殿」
十時が、また言う。
「この戦——いつ終わりますか」
宗茂は、答えない。しばらく——
「分からない」
正直に、言う。
「秀吉公の考えが——見えない」
「講和の話も、出ていますが」
「ああ」
「うまくいきますか」
「……分からない」
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十時は、川に小石を投げる。
波紋が、広がる。
「帰りたいですね」
「ああ」
「柳川に」
「ああ」
「早く」
「……ああ」
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六月。
第二次晋州城攻防戦。
明・朝鮮軍の後巻き部隊を——牽制する。
援軍を——寄せ付けない。
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戦は、続く。単純な仕事だった。
来る敵を——退ける。また来たら——また退ける。
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だが。その繰り返しの中で。
宗茂は、感じていた。
兵が、疲れている。食が、細くなっている。笑顔が、減っている。
「……限界が、近い」
十時に、言う。
「兵たちの、ですか」
「……両方だ」
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夜。野営地。焚き火の前。
宗茂は、備前長光を——手入れする。
碧蹄館で曲がった刃が、直っている。
「……よかった」
刃を、見る。光が、映る。
「父上の刀が——折れなくて」
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遠くで、虫が鳴く。
朝鮮の虫は——九州の虫と、音が違う。
「……帰りたい」
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その夜。
誾千代からの手紙が、届いた。
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開く。几帳面な文字が、並ぶ。
「花宗川の工事、完了しました。水が、田に届いています。柳の芽が、出ました。城下の民が、喜んでいます」
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それだけだった。
心配の言葉も。帰ってこいという言葉も。なかった。
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宗茂は——その手紙を、長い間、見ていた。
「……らしいな」
小さく、笑う。
「帰ったら——見に行く」
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花宗川。水が流れる。柳が、揺れる。
目を閉じると——浮かぶ。
帰る場所が——ある。
それだけで。
もう少し——戦える。
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だが——
戦は、終わらなかった。
講和は、崩れる。
秀吉は、再び——命じる。
朝鮮へ、戻れ。
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異国の地に——また、渡ることになる。
帰れる日は、まだ遠い。
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次回、第38話「再渡海」——慶長の役、始まる。
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あとがき
今回は戦闘回が続いた後の”静”の話でした。
碧蹄館で死んだ安東・池辺のことを、宗茂は毎日考えている。それを十時との会話で一言だけ触れる。書きすぎない。それがこの話の方針でした。
誾千代の手紙が「花宗川の工事、完了しました」だけで終わるのは、彼女らしさの表現です。心配しているはずなのに、一言も書かない。その沈黙が——宗茂への信頼であり、誾千代という人間の強さだと思って書きました。
次の38話は慶長の役の始まりです。文禄の役から数年——一度帰国した宗茂が、また海を渡る。その時、柳川は変わっているか。誾千代は何を言うか。そして露梁海戦へ向けて、物語は動き始めます。




