第22話 遺すもの
夜の帳が、山を包んでいた。
高良大社の杜は深く、
風は枝葉を鳴らしながら、どこか遠くへと抜けていく。
陣は、息を潜めていた。
誰もが理解している。
——時が、近いことを。
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輿の内。
立花道雪は、薄く目を開けていた。
呼吸は浅く、長くは続かぬことを物語っている。
「……紹運は」
かすれた声。
すぐに応じた。
「ここに」
高橋紹運が膝を進める。
「……来たか」
「はっ」
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しばし、言葉はなかった。
ただ、互いの呼吸だけが、その場を満たす。
やがて道雪が、ゆっくりと口を開いた。
「……長かったな」
「……はっ」
「戦ばかりであった」
わずかに、口元が緩む。
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「覚えておるか」
「何を、にございますか」
「耳川のことか?」
その一言で、空気が変わった。
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——1578年。
耳川の戦い。
大友宗麟の決断により行われた島津討伐。
だがそれは、壊滅的敗北に終わった。
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「……忘れることなど、できませぬ」
紹運の声は低い。
「あの折、殿は……反対されておりました」
「うむ」
道雪は、わずかに頷いた。
「だが、止められなんだ」
その言葉に、悔いはあれど、後悔はなかった。
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「負けた戦はな」
静かに言う。
「消えぬ」
「……」
「勝った戦より、よほど残る」
紹運は、目を伏せた。
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「だからこそ——」
道雪の声が、わずかに強くなる。
「次で、どうするかよ」
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「……次」
「うむ」
「儂がいなくなった後の、戦よ」
その言葉に、もう曖昧さはなかった。
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紹運は、息を飲む。
だが、今度は逸らさなかった。
「……筑後は、いずれ取り戻します」
「うむ」
「だが、それで終わりではありませぬ」
「ほう」
わずかに、興味を示す。
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「守らねばなりませぬ」
紹運は続ける。
「地を、民を、そして——」
一瞬、言葉を詰まらせる。
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「大友を」
その一言に、覚悟が宿っていた。
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道雪は、しばらく何も言わなかった。
やがて——
「……ようやく、見えたか」
小さく、そう言った。
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「遅うございます」
「遅くはない」
即座に否定する。
「間に合えば、それでよい」
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外で、風が止んだ。
音が、消える。
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「紹運」
「はっ」
「戦はな——」
道雪は、最後の力を振り絞るように言葉を紡ぐ。
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「人で決まる」
「……」
「策でも、地でもない」
「……」
「最後に立つのは、人よ」
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その目が、真っ直ぐに紹運を射抜く。
かつてと変わらぬ、鋭さで。
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「お主は、立て」
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その一言が、すべてだった。
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紹運は、深く頭を下げた。
額が地に触れるほどに。
「……はっ」
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再び顔を上げたとき。
道雪は、もう目を閉じていた。
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呼吸は、まだある。
だがそれは、風前の灯。
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外では、夜が明け始めていた。
わずかな光が、山の端を染める。
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その光は、終わりを告げるものか。
それとも——
新たな戦の始まりか。
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誰にも、まだわからなかった。




