序「夢路の街」
小さい頃、不思議な夢をよく見ていた。
それは、巨大なキノコの森をウサギみたいに飛び跳はねる夢だったり、海の中に沈む巻貝の形をした水族館の中を人魚みたいに泳ぎ回る夢だったり、そんな突拍子とっぴょうしもない夢ばかりを見ていた。
夢で見た内容は朧気おぼろげながら覚えていて、朝起きては家族に話していた。お母さんは呆れた風に、お父さんは少しだけ嬉しそうに、私の話を聞いては、面白い子だねと笑っていた。そんな二人の笑った顔を見るのが楽しくて、何度も何度も夢で見たものを話した。大空をコーヒーカップに乗りながら飛んでゆく夢、車が積み重なってできている瓦礫がれきの山を元気に登る夢。時にはちょっとだけ嘘も交えながら、思い出せる限りの夢の中の出来事を話していた。
その頃の私にとって、夢は家族に楽しんでもらうための、話題作りの道具に過ぎなかったのだと思う。だからある日、夢を見られなくなった時にも、特別悲しんだり、落ち込んだりせず、つまらないとしか感じていなかった。お母さんとお父さんに、どんなことを話せば喜んでもらえるだろうか。そればかりが、幼い私の頭の中を占めていた。でも、私が夢での出来事を話さなくなっても、お母さんとお父さんは気にした様子もなく、普段通りに接してくれた。その様子を見て、私は夢の話を置き去りにして、直ぐに他の話題を探し始めた。朝の賑わいが戻るころには、夢での出来事の大半を忘れてしまっていたけど、そんなこと気にもせず、お母さんとお父さんへ見せつけるように、無邪気に笑っていた。
ただ一つだけ、変わったことがあったとすれば、お父さんの仕事が忙しくなり、朝起きてもすでに仕事に出かけた後で、少しだけ寂さびしかったぐらい。後は変わらず、お母さんと朝ご飯を食べながら、一日の始まりを過ごす。何の変哲もない、ごく普通な風景。そんな小さい頃の、私がずっと忘れていた記憶を、今になってふと思い出す。そういえば、私にとっての『夢』って、そんなものだったな、と。
私は今、夢を見ている。
夢の私はあの頃よりも、心なしか目線が高く、夢にしてはやけに意識がハッキリとしていた。私の立っている場所は、巨大なキノコの森の中でも、海の底でも、まして私の知っている場所でもなかった。そこは、見渡す限りを霧に覆おおわれた世界だった。
少し歩けば、もと来た道すら見失いかねないほど濃い霧の中を、自分ですら奇妙きみょうに思うくらい平然と立ち尽くしていた。霧の中にいるはずなのに、ちっとも寒さを感じない。むしろ、不思議と温もりが私の体をすっぽりと包み込んでいる。だからなのか、夢の中の私は、不安を感じず、焦りもせず、じっと、霧の向こうに視線を向けている。まるで、この後に起きることを予期しているかのように。
しばらくすると、目の前を覆っていた霧が徐々に晴れてゆき、同時に、私はゆっくりと歩き出していた。体の制御権は夢の私にあるらしく、歩みを止めようとしても、足は言うことを聞かなかった。ひたすらに前へと、体が動いていく。諦めて歩みの赴くままに身を委ね、そのまま様子を窺うかがうことにした。
霧はさらに晴れていく。そして、抜け切るほんの一瞬、稲妻いなづまのような強い光が、目に飛び込んできた。思わず目を瞑つむろうとしても、瞼まぶたを動かすことができずに、そのまま光の餌食えじきとなってしまった。
閃光せんこうを直に食らった瞳は、前方の景色を映し出せずにいて、白一色の世界が広がっている。眩くらむ視界を覚まそうと、必死に目を凝こらす動きをするように働きかける。それでも動くことなく、それよりも先に目が慣れてきたのか、白の世界に他の色が混じり始めた。
最初に映ったのは灰色に似た地面と空。次に黒い線と茶色の壁。完全に視界が戻った時に見えた風景は、どこか異国じみた街並みだった。灰色に見えた地面は、青灰色せいかいしょくの石が敷き詰められた道路で、空は薄気味悪いほどの鈍色にびいろの雲で埋め尽くされている。広い石畳の通りに面した建物は煉瓦造れんがづくりの様だけど、こっちは褐色に近い色合いをしている。歩道らしき部分には火の消えた黒いガス灯が一定間隔に立ち並んでいて、その内のいくつかには幾何学きかがく模様の形をした金属の看板が吊り下げられていた。今まで見てきたどんな夢よりも、現実味があって、夢の中にいるとは思えなかった。まるで一枚のキャンバスに収められている風景画の世界に迷い込んでしまったかのような、不思議な感覚に支配されていた。
動かせないながらも、目に映る情報を読み取ろうと集中していると、ゆっくりと視線が横へと流れていく。夢の中の私が――鏡がないから視点の持ち主が本当に私かどうかわからないけど――、また動き出した。今度は霧の中と違って、歩くスピードがどんどんと速くなっていく。走る速度にまで達したときには、視界に映る景色が一変していた。さっきまであったはずの煉瓦の家々は、瓦屋根の木造に。石畳の通りは、砂と砂利の混じった道に取って代わられていた。瓦屋根の軒先には大きな暖簾のれんと紅白の提灯が掛けられ、ここに来るはずの人達を歓迎しているかのようだった。
視界の端に映る景色に目もくれず、走る速さはさらに上がっていく。速度が上がる度に、吐く息遣いも荒くなっていく。心臓が軋きしむくらいに早鐘はやがねを打ち、爪先から頬まで炙あぶられているみたいに熱い。夢のはずなのに、まるで本当に走っているみたいな痛みが私の意識を蝕むしばんでいる。それでも、走る速さは緩むことなく進んでいく。わけのわからないまま、体の訴える痛みに耐えながら意識を保つ。そこにあるはずの抵抗はなかった。むしろ早くしないと、全てが手遅れになる。そんな身に覚えのない淡い焦りと予感が、心の片隅で燻くすぶっていた。
いったいどれくらいの時間が経ったのかわからなくなってきた。現実の私だったらとっくの昔に体力が尽きていそうな距離を、未だに走り続けている。炙られる熱さにも、不愉快な心臓の痛みにも慣れ始め、今は視界に映る景色を呆然と眺めていた。西洋風の街並みから始まった景色は、瓦屋根の時代劇のような場所に移り変わり、その後も幾つかの街並みを経て、無機質なビル群とチューブ型の橋が架かる近未来風の街を通り過ぎようとしていた。
夢とも現実とも区別がつかない、いくつもの時代と世界を切り抜いて、帳尻ちょうじりが合うように縫ぬい合わせたかのような空間を、私はひたすらに走っている。誰ともすれ違うことなく、それどころか、この場所には私以外誰もいない。人も、動物も、動くものは私以外なに一つもなかった。だからだろうか。私の耳の奥に届く音は、激しい息遣いと、きっきっと地面を強く踏み込む音だけ。それ以外は、風の吹きすさぶ音すら聞こえない。
それでも次第に聞こえてくる息遣いが、段々と浅く不規則になってきた。目の前の景色にも霞かすみがかかり始め、意識がぼぉっと遠のくような感覚が強くなる。走る速度は一気に落ちて、体も左右に大きく揺れ、限界が近づき始めてきているのが嫌でも理解できる。
もう止まってしまいたい。
走りたくない。
そっちには行きたくない。
そう幻聴が囁ささやく頭の内とは裏腹に、『止まってはダメ』と、心の中で強く願う私がいる。
けれど、そんな願いも虚しくとうとう体は限界を迎え、力無く膝をつき、前のめりになりながら倒れ込んでしまった。吐き出す呼吸はとても苦しそうで、冷たい地面と接する体から、熱が少しずつ奪われていく。悲しくも痛くもないのに涙が溢れだしてくる。止まってはいけないのに、まだたどり着いていないのに。責める言葉が頭の中で響いても、足は動かなかった。それでもなお、体は前に進もうと、這はい蹲つくばるように胴体からだを揺らし、細い腕に精一杯の力を籠め、体を起こそうとして、顔を上げる。
そして……目の前にあるモノを見て、私は両眼を大きく見開いた。
それは、とても大きな白い塔だった。
今まで走ってきた途中で、一度も気づかなかったのが不思議なくらいに目立つソレは、この夢の中心であることを誇示こじするように、ただ静かに佇んでいた。他のどの街並みも鈍色の雲で覆われていたというのに、この場所だけが、台風の目の中みたいに明るさを保っていて、天に向けてまっすぐ伸びる姿は、光りの道しるべみたいで、目は自然とその先を追っていた。
雲の向こうでは、陽の光を浴びて薄く消えつつある満月と、ピンクやオレンジの混じり合った色をした空が、朝の訪れを告げていた。
朝が来た。
もうすぐ夢が終わる――。
そう気づくころには、体を支えている腕からすっかり熱が消え失せてしまった。足と同じように動かなくなってしまったというのに、そんなことが些細ささいなことに思えるほど、私の心は高鳴たかなっていた。ここが夢の私が目指していた場所なんだ。直感だけど、確信に近いものがあった。でも、何を急いでいるのかわからない。朝焼けの空に照らされ、同じ色にゆっくりと染まる塔に目を奪われながら、私は最後の疑問を反芻はんすうしていた。
考えているうちに空に釘付けだった目線は、徐々に下がっていく。塔の形は巨木の幹のようで、根元に近づくにつれて太く、輪のような模様が刻まれている。その根元には、塔を縁取るように黒い線が引かれていた。
その線の上。ちょうど、塔の軸が重なり合う場所に、細い人影がひとり、こちらに背を向けて立っていた。神社の神主さんみたいな黒い斎服さいふくを纏まとったその人は、こちらに気付く様子もなく、私と同じように塔を見上げている。
「ぁ――」
心臓が強く鼓動を打つ。でも、痛みも嫌な不快感もちっとも覚えない。むしろ、その人の姿を認識したとたん、体の底から熱が湧き上がる。私を蝕む全てのものを吹き飛ばして、代わりに寄り添ってくれているかのような心強さと、ほんの少しの淋さみしさが心に宿る。
ああ、そうか、この人は。
ワタシが逢あいたかった。ワタシが謝りたかった。
「……ぃ……ま」
その人の名を呼ぼうとしても、口から出るものは掠かすれて意味にならない言葉。それでも、他に音のないこの場所では、それで十分だったのか、その人はゆっくりとこちらに振り返ろうとしていた。ワタシはそれに合わせて腕を伸ばす。遠い昔に失くしてしまった大切なものを、もう一度掴み取ろうとするように。
光りが街の全てを照らすように染みわたっていく。もう時間がない。ワタシは最後の力を振り絞って手を前へと伸ばす。
「……さま」
枯れた声を上げながら、その人の輪郭りんかくだけをしっかりと捉える。そして、光の影の中に横顔が見えた。
やっと、やっと逢えた_。
心が歓喜で満たされる。この人はとても大切な人。この人はワタシにとっての_。
「……ぇ」
そこで気が付く。こちらに振り返ろうとしている人影が、まるで塵ちりのように崩れ去ってしまっていること。台風の目のようになっていた雲は閉ざされ、太陽の光が届かなくなってしまっていること。いつの間にか、体の自由が戻っていたこと。そして、街の至る所から火の手が上がり、家屋が倒壊し、見るも無残な光景の中に取り残されていることに。
「どうして……なんで……?」
私は咄嗟とっさに立ち上がり、あたりを見回した。後ろの方では火柱が列を整え、火の粉をまき散らしながら、我先にと自分たちの仲間を増やし続けている。風もないのに炎と黒煙が広がるさまは、その一つ一つが明確な意思を持っているかのようで、底知れない恐怖を刻みつけてくる。
「やだ……やだ!」
みっともなく愚図ぐずる私の声などお構いなしに、火柱はより高く燃え盛る。
直ぐにここから離れよう。そう思いながら後ず去ろうとする。
「……っ、なんで!」
足が動かない。痛みや疲労からくるものではなく、地面に縫い付けられたみたいに、この場から離れることが出来ない。足元を見ると、タールのような黒い液状の物質が地面から滲み出ていて、それが足に絡みついていた。いくら力を込めて足を引き抜こうとしても、大きく身を捩ってもびくともしない。
「た……す……け」
黒い液は、体を這い上がりながら侵食してくる。
暗い。寒い。熱い。怖い。痛い。苦しい。まだ、消えたくない_。
澱よどんだ感情を綯ない交まぜにした記憶が、私を飲み込む。もう声すら出せない。徐々に意識の糸が解ほつれれていく。
薄れゆく意識。冷たい感触が首下を撫でるように込上げる。私が悪夢に塗り替えられた世界で最後に目にしたものは。
「――」
燃え続ける街と、白から黒に変色した塔の残骸だった。