第7話 『ミュウ』を知りませんか?
四月三日の旅立ちから、早くも十日が経過した——四月十三日の午後二時過ぎになった現在。僕の目前には目的地である『フリュー』の、なにから守ってるんだと口ずさんでしまいそうになるほどに巨大な『白亜の防壁』が視界の端まで広がっていた。
「フリューに着いたぜ、ソラ坊!! この先は検問所だし、ここに用がない俺はここで帰るからな!」
「ここまでありがとうございました、ドミーさん!!」
「いいってことよ、金もらってるしな! それじゃ、目的の母親探し、頑張れよ!! じゃあな!!」
「はい!!」
感謝を受け取った御者のドミーさんは、尋常ではない手入れを毎日欠かさず行っているのだろう、全く黄ばみのない真っ白な歯を晴れやかな笑顔と共に見せつけては『パシン!』と両手に握られている手綱で快音を鳴らし、一般的なものよりも小さい荷台を引いている二頭の白馬を走らせて、早々に帰っていった。
鉄の馬蹄の重打音を奏でながらぐんぐんと遠ざかっていく、ここまで乗せてもらった馬車に手を振って見送りを終えた僕は、背負っているリュックを「よしっ!」と勢いよく背負い直して、グッと引き締めた表情を徐に後方へ向けては目を見開いた。
「………………おぉ……!」
十日間の間お待ちかねであった『フリュー』が待ち構えている後方へと振り返った僕の視界を、それのみで埋め尽くさんばかりに広がり切ったのは超巨大な壁だ。
何十年掛けても絶対に数え切れないだろう、幾万、幾億という莫大な量の石ブロックを何段にも何段にも整列に積み重ねていって作り出された、人工の超巨大な防壁。
まるで小さな蟻の一匹となって、低し視界を手に入れてしまったかのような不思議な感覚により、地面は揺れてはいないのに何故か全身が揺れ動いているような、あのなんとも覚束無い錯覚を覚えてしまっていた僕は、その状態に倣うよう堪能なはずの人語を消失させてしまう。これが酩酊状態というやつなのかもな——と思いながら、ふと防壁の天辺を追うために見上げていた首を元に戻して、真っ直ぐ前を見つめる。
一匹の蟻になっていた状態から抜け出したいつも通りの僕の視界に入ってきたのは、先ほど手を振って別れたドミーさんが別れ際に言っていた『検問所』である。
並んでいるのは馬と人なのに、長蛇の列が認められる検問所の奥に見えるのは、ソルフーレンの経済の中心たるフリューに害なす者共を言葉通りの門前払いするための要所、現在地の方角からして『大東門』なのだろう誰が通るための大きさなんだと思える、高さにして『八〜九メートル』はある巨大な関門であった。
関門を通るのには非常に厳しい審査と検問が必要なのか、どこまでも馬車群の列は続いているというのに、一台が大東門を通るのに『七〜九分』ほども掛かっていた。
こんな非常にじっくりとしている捌き具合ならば、フリューに入ろうとしている最後の馬車一台が門を通り抜けられるのは日が暮れてしまった夜ごろ——
午後二時過ぎという今の時間を鑑みれば、夜中の十二時を越えてしまうのではないか……?
当事者ではないにしても意気消沈と汗を湛えてしまいそうになる不憫なる思いを披露していた瞠目と共に腹の奥底まで飲み込んだ僕は、馬車列の横方へと視線を送る。
そこには馬車同様にこれまた長蛇となっている人の列が作り出されていて、僕が並ぶのはこっちだろうなと、一目にしただけで言葉での説明を受けずとも理解できた。
列の最後尾を、列の最前から視線を流していくことによって発見した僕は、長いなぁ——という溜め息は吐きつつも大人しく列の最後尾に並び、自分の順番を待った。
「んんー…………」
数時間コースになるだろう待ち時間を何とか過ごすための暇潰しとして、並んで二、三分もしない内にできている後方の列に折角の順番を取られない程度に身をズラした僕は、フリューに入ろうとしている前列を観察していく。後方だから正面の顔が見えないのは当たり前だが、ここから見える後ろ姿で分かる様子は思いの外に多い。
長大な待ち時間に大層イライラしながら足を揺する人や、思い出したくもない黒歴史のことなどを何一つ考えないように空を見上げながらぼうっとしている人、暇潰しに丁度いい談笑をしながら煙草を噴かす集団などが見受けられて、そんな多種多様な暇潰しを行っている前列の人々の中には、人でも入っているのかと思えてしまうくらいに大きな旅行鞄を、重たいから持っていられないと横に置いている人や、酔っ払った爺ちゃんが「ワシも昔はなぁ!」と自慢げに話していた、世界的に有名な職業の『冒険者』のパーティーだろうか? ゲラゲラと笑い合う武装している人達もいた。
足腰に不調がある時に使うような杖のデザインではない、非常に手に持って振り回してみたいカッコイイ木製杖を地に突き立てながら、行儀よく笑う口元を隠すエルフの女性。薪割りの際に愛用していた斧よりも遥かに重たいだろう、一体全体どんな用途があるのやらな大盾を背負っている短足短腕で胴が太いドワーフのおじさん——より若いのかな? 判断しかねるけど……まあ、ドワーフの男性と言っておくのが塩梅か。
さらにさらに何者を斬ろうとして作られたのか、まさか岩や山でも斬る気なのかと思えてしまう全く正気ではない大剣を背負った、僕と同じような何の特徴もない人族の男性。
その冒険者パーティーのついでになるが、僕の目の前に並んでいるおそらく軽鉄で作られた『ライトアーマー』だろうで身を包んだ軽装の、ソロの冒険者だろう男性。
そんな彼等彼女等、爺ちゃんの何十年前なんだよと言いたくなる『冒険自慢話』を聞かされて気になっていた冒険者のことを「ほえー」と。
憧れていたものを遂に見ることができた子供のように目を輝かせながら僕が眺めていると、トントン——と前触れなく背後から肩を叩かれてしまった。
その『非常に弱々しく』肩を叩かれた感触の後に続いたのは「すみません、そこの人…………」という、言い方は悪いが老いぼれた、心配になるほどのか細い声で。
次いで「はい?」という気付きの声を漏らしながら掛けられた声の方へと僕が振り向くと、そこに居たのはどこか暗い雰囲気を醸している老夫婦。
僕なんかに声を掛けて、一体どうしたのだろうか? もしかして足腰が悪いから順番を変わってほしいとか? それなら断る気はないし、二部もなく承諾するけどさ。
「えっと、どうしました?」
戸惑いを見せていた僕が声掛けに応じると、話を断られるのではという不安げな様子を見せていた老夫婦は少しだけ表情を明るくして、向き直った僕に口を開いた。
「あの、私たち『ミュウ』に行きたいのです。それで、ミュウが大陸のどこにあるか知っていますでしょうか?」
「………………ミュ、ミュウ?」
恐る恐る話を聞くに、どうやらこの老夫婦は何らかの理由で行こうとしている『ミュウ』という場所の位置を知らないため、おそらく現地人と当たりを付けた僕に道案内をしてもらうために話しかけてきたようだった。確かに、生まれてからずっとソルフーレンの国民だから、現地人という老夫婦の名推理は当たっているが——しかし。
つい先日まで故郷から遠く離れた地に足を踏み入れたことがなかった当方に、細かな地理が通じるわけもなく……。
老夫婦が言った『ミュウ』というおそらく地名なのだろうが、全くの初耳である単語を脳内で幾度も反芻させていく僕は両腕を堅堅しく組みながら、あまり興味がなくて薄らとしか思い出すことができない『カカさん家の世界地図』の内容を漁り出す。
ミュウ、ミュウ、ミュウ…………んーっ、全っ然聞いたことない地名なんだが。
現地人の僕に話しかけてきたってことは、この国のどこかにあるのか?
マジで知らないぞ。……ソルフーレンの都町村の名前を一つずつ挙げていくか。
まず一つ目が目前にある首都の『フリュー』。 二つ目が第二都市だったはずの『フォールウ』で、三番目が『トルネイ』という大きな町。四番目が『ワールウィン』で次が『ハリケラ』で……うーん? ミュウなんて場所がソルフーレンにあるのか?
ああ、ダメだダメだ! 頭を硬くしちゃうと一向に訳が分からなくなるから、ここは一旦『柔軟』に考えてみよう。
ソルフーレンの地名の線を消してみると……うーん。まさか『ミュウ』っていう名前の国家があったりしないよな?
いや待てよ。僕が単純に忘れているだけかもしれないぞ。よーく思い出せ。どうにか思い出すんだ、ソラ・ヒュウル。
僕が悩みまくってるせいで老夫婦の顔が曇っていってるぞ。だからあまり待たせちゃダメだ。速く、もっと速く! 何年か前にカカさん家で世界地図を見せてもらっただろ! 見たんだから知らないわけがない。必ず知っているはずだぞ!
…………ん、んんーっ? ど……どこなの? ミュウなんて国はどこに載ってるの? いや、いやいや、全っ然記憶の中の地図にミュウなんて載ってないんだが。
えぇと、ソルフーレンを北へと進んだ先にあるのが、極東の島国たる『鬼国・鬼ヶ島』との貿易が盛んな『ハザマの国』で、逆方向の南にへ進んだ先にあるのが、十個の国を一つに纏めた名称が付けられている『アリオン諸国』か。
そのアリオン諸国をさらに南に進んだ先にあるのが、舞の国って呼ばれている『舞国・オルダンシア』だったはずだ。
え? ハザマの国を北に行けば『歌国・オルカストラ』で、そこから先は陸続きの国はないし……一旦遡ってみて『オルダンシア』を南に行けば何かあったっけ? あ、そういえば『フントムイロ』っていう、情報がない国があったな。
…………ん、んん? ここ『東方大陸』に『ミュウ』なんて国家はないよな? もしかして、やっぱり『ミュウは国ではない』のか……? まさか商店とか地方の街の名前とかじゃないよな? それだと流石に僕では分からないぞ。んんー……駄目だ。ミュウなんて場所を僕は知らない。
記憶を全漁りしても分からないものは、いくら求められても答えようがないし、正直に分かりませんでしたって言おう。
「ごめんなさい、お爺さん、お婆さん。僕も『ミュウ』って場所は分からないです…………力になれず申し訳ない」
「そうですか…………いえ、こちらこそすいません。東の大陸にあると聞いていたんですが、他を当たってみます」
「はい……。勉強不足で、すいませんでした…………」
老夫婦が向かおうとしている『ミュウ』っていう場所が何処にあるんだ? 老夫婦の方が何かしらの勘違いをしていて、地名を聞き間違えているとか、その可能性もあるんじゃなかろうか? まあ、単に僕が無知なだけなのかもしれないんだけどさ。
不甲斐ないという感情から溢れ出てくる言い訳でしかない反省を、脳内で幾度も反芻させながら深々と項垂れていた僕が、ふとした様子で顔を上げて、僕の元から去っていった老夫婦を視線を右往させて探し、そして見つけ出せば、当の老夫婦は大東門の外壁にはりつきながら『客待ち』をしていたのだろう一台の馬車を駆る御者に話しかけて、そのまま馬車に乗って何処かへと走り去って行ってしまった。
目的地の在所が不明であった老夫婦を乗せて何処かへ出発したということはもしかしなくとも、馬車の御者は『ミュウ』の場所を知っていたということなのだろう。
それなのに僕と来たら。老夫婦を待たせるだけ待たせた挙句、結局なにも分からなくて、手掛かり一つも差し上げられず帰させてしまったんだから……役立たず極まれりだ。
ふと涙が溢れ出してしまいそうになる雨模様の湿った思いで俯いていると、前に並んでいた軽装の武具と無精髭が特徴的な中年の男性——冒険者が話しかけてきた。
「えらい災難に遭っちまったな坊主」
「あ、いや……本当に不甲斐ないです。ミュウなんて場所は聞いたがことなくて、何も教えてあげられなくて……」
「ああ? あんな場所は坊主みたいなガキは知らなくていいんだよ。例え知っていても、誰にも言っちゃあ駄目だ」
「…………え? え、あの、どういうことですか?」
引っ掛かる言い方をする中年の冒険者に、僕は片方の眉尻を上げながら問いを発した。問いを受けた中年の冒険者は『その言い方はどういうこと?』という顔で固まる僕を見て、しばらく悩むように黙り込んだ後、僕が求めていた答えを教えてくれた。
「ミュウはな、知る人ぞ知る『自殺の名所』なんだよ」
「じ、自殺ぅ……っ!?」
「ああ。この大陸の何処かにあるらしいが俺もミュウの場所は詳しく知らん。そもそも興味がないからな。だからお前みたいなガキは、んな場所知らなくていいんだよ」
「え、じゃあ、あの老夫婦は……まさか…………」
「そのまさか。夫婦揃って心中する気なんだろうぜ。どこか薄ら寒さを感じたろ、あの爺さんと婆さんからよ」
嫌な臭いを嗅いじまったという風に鼻下を擦りながら、顔を盛大に顰めている冒険者のおじさんから話を聞いた僕は呆然と立ち尽くす。もしも僕がミュウの場所を知っていたとして、意図しない親切心で『とある目的を持った老夫婦』に教えてしまったならば……僕は『老夫婦の自殺幇助』をすることになってしまったのかもしれない。
いやでも、もしかしたら。もしも、本当にもしもだけど、僕が『ミュウ』場所のことを知っていたなら、あの老夫婦を説得して止めることができたのかもしれな——
「おい、ガキ!! 滅多なこと考えてんじゃねぇぞ!!」
「っっっ!?」
「俺らが必死こいて止めても無駄なんだよ、ああいう奴らはよ!! んな他人のことを一々気にしてたら生きてけねぇぞ!!」
「………っ………は、はい……」
「ったく…………」
冒険者のおじさんは老夫婦のことで思い詰めた表情を見せてしまっていた僕にけたたましい一喝を入れて、その思考が無意味であるということを半ば強引に悟らせる。
肩を跳ねさせてしまうほどの一喝が、人生経験が豊富な、それ故に達観をしているのだろうおじさんからの『不器用な励まし』だということを暗に理解してしまった僕は、止めろという言葉を素直に聞き入れて、目を伏せながら小さく感謝を口ずさむ。
ミュウという自殺名所の所在を尋ねてきたあの老夫婦にも、何かしらの理由があるのだろう……。だからこそ僕が自善にして慈善である意志を掲げながら、影を身に纏っている老夫婦に対して考えを巡らせて、どう動いたとしても。それには大した力も、誉れとなる意義も、目指そうとした結果も——得られることはないと思われる。
そう理解したとしても『もしも、もしかしたら』って考えと、その自己を疑る思考が行き着いた先にある、今ほどの行動の末に与えられた結果から分岐した世界を覗き見てしまうと、この『選択は間違いなのでは』ないかって、そう思えてしまうんだ。
しかし、どれだけ今に得た結果に後悔しても、とうに過ぎ去ってしまった時間がやり直せる時まで戻ることはない。だから僕は気を取り直すために両頬をパンッと強く叩いて、頬を真っ赤にしながら、瞠目するおじさんと目を合わせた。
「ククッ……無知のガキのくせに威勢がよくていいじゃねえか。よし! じゃあな、坊——って、お前、名前は?」
「……ソラです。ソラ・ヒュウルです」
「ははっ! じゃあな、ソラ! 元気でな!!」
「————はい!!」
文字通り痛烈に、しかし笑えるほど豪快に落ち込みかけていた意識を持ち上げてみせた僕におじさんは『紛れもない成長』を冒険者なりに祝福するかの如く、爺ちゃんみたいな笑みと共に叱咤激励を僕へと投げ付けて、後ろ手を振りながら順番が来ていた検問所の方へ——入都者を待つ検問官のもとへと歩いて行った。