第6話 最初の敵は『旅』に付き物なアレ
ソルフーレンという国は、国名とは別の名称として『風の国』と呼ばれている。
別名の由来となっているのは、この国が年中『風止まない特異な地』だからだ。
風が止まないというのは決して比喩ではなく、本当の本当に。
どんな季節。
どんな天気。
どんな時間だろうと風が止まないのだ。
年中無休の四六時中、常に強風が吹き荒れているというわけではなく弱々しい微風が永久に吹き続けている感じ。
それは何故? どんな理由? なんで止まないの? と、この事を教えてくれたカカさんに聞いたことがあるのだが露骨に視線を逸らされた挙句、
「なんでかなぁ。分かんないなぁ。なんでだろうなぁ…………」とはぐらかされて結局分からず終いだった。
この国は風が止まずに吹き続けるという理由は今でも気になることはあるけど、初めて知った時ほどのモヤモヤは霧晴れて消失してしまっているというのが現状で、今さら躍起になって知ろうとは思えないのが本心であった。
そんなこんなで昼の時間は過ぎていき——夜。
日中あんなに煌々と世界を照らしていた太陽は果てに沈み切り、鳴りを潜めていた月が煌々と辺りを照らして始めた。
世界の様相の千変万化を揺れ動いている馬車の荷台の上で見守っていた僕は、ガガガと馬車が停車したことで視線を空見る上方から前方へと戻し、周囲確認を済ませてから「よっと」と言って荷台から飛び降りる。
ここはモルフォンスさんがいる目的地のフリューではなく、そのフリューに向かうための『中継とする宿村』だ。
「ここまでありがとう。オットさん!」
「気にしないでくれよ。それじゃあフーシャ探しの旅、頑張れよ、ソラ! 村で応援してっからな!」
「はい!! 夜道には気をつけて!」
「おう。そっちこそ体には十分気を付けろよ。じゃあな!!」
とうとう故郷が見えない遠方で、畏まらない砕けた話ができる顔見知りが周りからいなくなって完全に孤立してしまった僕は、足が竦みそうになる不安に駆られている胸の内をなんとか誤魔化すように両頬を強く叩いて、いつかと同じように『自分なりの気合注入方法』を実行し、軽く息を吐いて、垂れ下がるリュックを背負い直した。
天空を支配する月明かりと、乾いた音を鳴らす松明の火だけが視界を明瞭にして物の輪郭をほんのりと見通させている夜の宿村の中を、キョロキョロと歩きはじめる。
視界が明瞭ではない影響で身動きが取りづらい夜を明かすための宿を探し、そこに泊まらなければならない。ほんのちょっと——いや『不安』という思いが一際強い。
終わりが不確かな旅には必要不可欠である『宿泊費・食費・運賃』などなど、その他諸々の活動資金たる『路銀』は、爺ちゃんから『二万ルーレン』ももらっている。
ソルフーレンの宿屋の平均宿泊料は一泊『百ルーレン』ほどらしいから、二万ルーレンとなると十分に足りるのが事実なのだが、僕は実家以外での宿泊経験が皆無だ。
外泊の機会がなかったのかと言われるとそうではなくて、数年ほど前まではカカさんに「私の家に泊まりに来なよぉ。お菓子とかぁ、色々とぉ、あるんだよぉ?」
などと、まさに不審者の声掛けみたいなことをされながら『カカさん家への外泊』に僕は誘われていたんだけど、その度に爺ちゃんが「この変態が! 消えいッ!」とガチギレしちゃって、それ以降、他人の家に泊まる機会ってのが全くなかったのだ。
しかも必需である日用品や雑貨は月一で村にやってくる行商からまとめて購入し、来月分まで備蓄しておくせいで、ちゃんとした商店での買い物をしたことがない。
商店は需要が全くないせいで故郷には一店も建っていなかったし、それ故に僕が買い物に対してできることは、売り手への交渉。
少しばかりの値切りくらいである。
そんな圧倒的経験不足が確かである僕が、頼りにできる人が周りにいない中『たった一人』で宿に泊まれるのか?
……ええい! お前は一つ歳をとって十六になった!
大人に近づいたんだからそれに見合う自信を持て、ソラ・ヒュウル!!
旅の経験がある爺ちゃんから詳しい話は事前に聞いたし、聞いた日の就寝前に『想像での練習』もしたじゃないか!
だから大丈夫……のはずだよ、うん。
というか、もう夜が耽けようという時間になってしまっているから、くよくよと迷ってはいられないし——駆け足で行くぞ!
「あの、一人……お願いします」
「はいよ。一人部屋に一泊、八十ルーレンね」
八十ルーレンは『銅貨一枚でお釣り』がくる。銅貨一枚で百ルーレンだから、お釣りは十ルーレン紙幣が二枚……。
「はい、これがお釣りね。それじゃあ、そこの部屋ね」
「夜分遅くにすいません。ありがとうございます」
「いいえいいえ、どうぞ、ゆっくり休んでってね」
「お世話になります」
夜を明かすために利用する宿屋は僕が思っていたよりも早期に——案外、易々と見つけることができた——というか、村が小さくて宿探しに迷うわけがなかった。
月明かりと松明のおかげで真っ暗ではないが薄暗い村をふらふら〜っと歩いていたら『宿屋』と書かれた看板を見つけ、吸い込まれるように入ったのが数分前のこと。
そんなこんなで宿屋の一室を借り取ることに難なく成功してしまった僕は、宿泊をする際の手続きの対応をしてくれた宿屋の女将が指差した、部屋の扉を開けた。
僕以外にもいると思われる『他の宿泊客』を間違っても起こしてしまわないような、鼠並みに足音と気配を殺している忍び足で使わせてもらうことになった部屋へと入室すると、その部屋には甚だしい既視感を与えられた。
撫でれば肌に刺さるだろう危なげなササクレが目立っている古びた木製のベッドフレームに、それに乗っかっているのは『まあまあ』黄ばんでいる白のマットレス。
どこにでもあるような『ありきたり』なベッドの反対の壁際には、幼少の頃の僕と同じような悪戯をしたのだろう、硬質な道具により幾つもの傷が付けられている木製の机と、机とセットだろう机と同じく傷だらけにされている木椅子があった。
あと、その机の横にあるのはもはや中身が読めないほどの落書きがされてしまっている数冊の絵本が並ぶ本棚だ。
部屋に置かれている調度品は今上げた物だけであり、宿泊客が使うだけならば十分過ぎる内装なのだろうとは他の宿屋を知らなくても理解はできるけれど、えらい淡白な部屋だなと決して口には出さずとも思えてしまった。
借りた部屋はなんというか、まんま『僕の部屋』だったから初外泊だというのに何一つ言葉が出てこない。
洒落た言葉は出ないけど、いつもと同じような部屋の雰囲気だからこそ……故郷から遠く離れた場所だと理解しても、とてつもなく安心できる。
「ぷぅあああぁぁ——…………」
ちょっとどころではない『安心感』がドーンと胸に飛来したせいか、僕は吸い込まれるようにベッドに飛び込んだ。
「あああぁぁ…………」
勢いよく飛び込んでも埃を吐き出さなかったフカフカのベッドは、中々に乱暴にベッドインした僕に怒ることなく旅立ちという緊張でガチガチになっていた僕の身体を深々と沈めて、とても暖かい優しさをもって包み込んでくれる。
それに甚だしい安らぎを覚えながら頭上にあった枕を持ってきて、それに遠慮なく顔を埋めると天日干しをした直ぐ後のような、お日さまの良い匂いを感じられた。
包み込んでくれるベッドが外を癒して、陽の香りを嗅ぐことによって内を満たす。
それに付随する安心感が僕の全身を支配し、緊張で凝り固まっていた心と体を解してくれた。 僕はゆっくりと深く息を吸って吐き、いつ閉じてもおかしくないほどに重々しく開いていた瞼を段々を下げていって、番いたる下瞼とくっつけようとする。
丸一日、座席のない馬車の荷台の上で揺られたことにより蓄積していた疲労が、僕の両瞼に重く伸し掛かっている。
そのことを淀んでいる頭を回して心底理解した僕は、執拗に襲い掛かってくる疲労に対して無意味な抗いをやめた。
すると、あっという間にボヤけていた意識が何物も存在しない暗闇に、何も分からない黒一色に染まってゆく——。
「………………っ? う、うん……? ……あ、あさ?」
ちゅんちゅん——という音数からして一匹ではない、声質的に『雀』と思しき小鳥達の酷く騒がしい囀りが無動だった僕の鼓膜を揺らして、黒一色の睡眠世界、そこに無限の如く広がっている漆黒の海原に小さな波紋を生じさせる。
波紋は瞬く間にさざめく荒波となって、無気無力に海底を漂っているだった睡眠中の僕のことを揺らして、時の流れが不確かである虚無の黒海にて、起きたくても起きられない、あの言葉も出ない寝苦しい感覚に襲われたくなければ——つまり溺れたくなければ今すぐに起床せよと、僕に有無を言わせない二択を強制をされてしまった。
それに『仕方ないな』と身体ではなく心の目を開けた僕は、嵐が滞在しているのかと思えるくらい時化ている黒海をゆらゆらと泳いで浮上し、ゆっくりと肉眼を開く。
「はぁ〜〜〜〜〜………………ああぁ…………」
山の向こう側から顔を出している朝日が発している、目が眩む光輝に対して苦悶の声を漏らしながら、意図せずに顰めっ面を浮かべてしまっている僕は、まだボヤける目を擦りながら立ち上がった。
十五分くらいしか眠った気がしないけど、もう朝か。
そんなことを窓外の光景を目を窄めながら見て思った僕は、「はわぁ〜……」と大きな欠伸をした後に、ググッと凝っている体の不調を背伸びをすることで解消してあちゃこちゃと部屋の中を動き回って出発の支度を済ませ、意気揚々と退室する。
もう身の回りのことで助けてくれる爺ちゃんは居ないんだ。だから僕の身の回りのことは自分一人でしなきゃいけない。
んだけど、メチャクチャ二度寝したい気分だ。
旅立ち以前の僕なら「まだ眠いし寝よ」と言ってベッドにダイブをするところなのだけど『甘えちゃダメ』だ。本当にダメなんだけど、なんでこんなに眠いのかなぁ。
「あの、馬車を出してくれる人に心当たりは————」
そんなこんなで執拗に襲い掛かってくる睡魔という敵を『ガリゴリ』と奥歯で噛み潰しながら宿屋のフロントへと移動した僕が、対応をしてくれている宿の女将に『足となる馬車』についての話を伺うと、とても親切に厩舎のある場所を教えてくれた。
女将はこういった質問を投げられることに慣れ切ってているのか、至極滑らかに答えを示してくれて、それに感謝を述べた僕は一礼を取りながら宿屋を後にし「はぁ〜……」という本日二度目の欠伸を掻きながら、ふらふらと例の場所へと向かう。
そうして、話の通りにあった『北方にある厩舎』へと完全に睡魔を噛み潰して飲み込んだ状態で到着し、そこで朝早くから家畜達の世話をしていた男性に声を掛けた。
「あの、フリューまでお願いできますか?」
「あぁ……フリューか。直通するにはあまりにも遠すぎるから無理だけど、その途中までなら乗せて行けるよ」
「あぁ、えっと……ここからフリューまで、どれくらいの時間が掛かるか教えてもらえないですか? その、目的地なのに到着するまでの時間を誰にも聞いてなくて」
「ははっ! ここからだと到着まで一週間は掛かるよ」
「一週間…………」
「一週間ってのは『道中で問題が起きなかった』場合の最短到着時間だから、十日以内って方が合ってるかもな」
「なるほど…………」
ソルフーレンの首都フリューって、僕が思っていたよりもずっと遠いんだな。
世界地図の内容は薄らとだけ覚えてるけど、そこに載る無数の国々の地理の勉強をしていなかったのが今回無知を晒す結果となったか……。
勉強鬼カカさんの声が耳に痛いな。
途中まで乗せて行けるよってことは、何度か道中の宿村や宿場町を『経由』して行かないといけないわけか。
そうなると運賃とか宿泊費、あと必須な食費の方がだいぶ嵩みそうだけど……。
徒歩より馬車の方が早いだろうし、なんとなく馬車に揺られていたいし、お金にもまだ余裕はあるしで、馬車に乗らない手はないように思えるな。
「じゃあ、途中までお願いします」
「おし。出発の用意ができてるのなら今に乗りなよ」
「あ、分かりました。じゃあ——よっと」
厩舎の経営者の息子で、いずれは家業を継ぐという体で厩務員をしているそうな気の良いおじさんに、振り撒かれた笑顔を返した僕は先払いの運賃を払い、ここから西にある二つ先の村まで向かってくれるらしい馬車に乗り込んだ。
「目的地には今日の夕方くらいに着くだろうから、今から寄る商店で君が食べる分の昼食を用意をしておいてくれ」
「分かりました」
御者を担ってくれる厩務員のおじさんの言葉に頷き、村を立つ前に寄った商店で昼食を購入した僕は、いよいよかといった風に表情を引き締めて、ガタガタと馬車に揺られながら『初めての外泊』を経験した小さな宿村を後にする。
どんどん小さくなってい、思い入れができている宿村を馬車の座席の上で眺めながら、春の暖かい日差しと、先日と同じような音を鳴らす気持ちのいい風。
それを全身で浴びていた僕は唐突に耳に入ってきた『ゲラゲラ』という幻聴だろう笑い声に眉尻を傾けて、目を開けようとする——が。
何故か両瞼が頑なに開かない。
どうやら、春の陽気な風に乗って、今朝に討伐したはずの『睡魔』が蘇り、再び僕の元へと舞い戻ってきたようだ。
それを頭で理解しても、今朝のように奥歯で噛み潰すことができない。
その睡魔に抵抗できない理由は、もうどうしようもないくらいに『眠たい』せいなのだろう。
だから睡魔の誘いに無抵抗で身を任せ、爺ちゃんに怒られそうな、しかし母さんならキョトン顔で認めてくれそうな自堕落をもって、朝から昼寝という禁忌を始めた。
「………ん………ふぁ〜〜〜」
まさに極楽たる朝からの昼寝を享受していた僕は、体内時計的に正午が過ぎたくらいの頃に、強く空腹を訴えてきている『腹の虫』せいで致し方なく目を覚ました。
身体を起こした僕は頭を掻きむしりながら、村で買った昼食のサンドイッチをむしゃむしゃと頬張り、外の空気を吸いたいがためにダラっと手と顔を縁から出して、走るより遅く、しかし歩くよりも早い速度で過ぎ去っていく野菜畑や麦畑を眺める。
そんな御機嫌な昼食の途中ですれ違った見ず知らずの羊飼いのおじさんから「行ってらっしゃい!」という嬉しい激励と共に搾りたての羊乳をもらった僕は、非常にホクホクとした顔でそれを飲み、この馬車の終着地がある西へと進んでいくのだった。