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蒼風のヘルモーズ  作者:
『ソルフーレン』編〈1〉
5/50

第5話 【風の勇者】は産声を上げた

「わーーーんっっ! ソラくん行っちゃいや〜〜〜!!」


「ちょっ、カカさん……マジで離れてってば…………」


 咲く場所によって花弁の色が変化するらしい紫陽花のような潤んだ青紫の髪に、涙という雨を降らせている同色の瞳。

 そんなものより目を引くのは、なんの特徴もない人族である僕の耳とは丸切り違って『長く尖った耳』をしている、不老種族とも永命種族とも呼ばれるほどに極端に寿命が長い『エルフ族』特有の長い耳で。

 両の目から止めどなく溢れさせている涙と共に、困り果ててしまっている僕の腹部に顔面を擦り付けているのは、サチおばさん同様の僕ん家のご近所さんであり、母さんにとって数少ない友人でもあり、そして僕に勉学を指導していた教師でもある、この村にたったの一人しかいない『薬師のカカさん』だった。


「カカちゃん! ソラちゃんが困ってるわよ〜〜!」


「サ、サチ〜〜。だって……だってさうぁ〜〜ん!!」


「ちょ…………マジで涙と鼻水で顔が汚いって……!」


「だって〜っ!? ……あ! じゃあ、ブフーーっっ!」


「うわっ、汚な!? 僕の服で鼻を擤まないでよ!!」


「ぶ、ぶへへ……私の体液に含まれる遺伝子が、ソラくんの服に付着して一生消えなくなっちゃったね〜〜〜!!」


「さ、最悪だぁ…………」


 僕が居る場所は村の西端である。

 ここには僕達が暮らしている山村と、治外法権と言っていい外界との境界線を仕切っている、高さにして二メートル強の堅牢な木門が存在している。

 その巨大な門は国の東端付近に存在している現在地の地理的に、居場所が分かっていない母を探すために一旦は『首都が存在する国の中央部付近』に向かうことと決めていた僕が、絶対に『避けては通れない』重要な場所なのであった。


 前述の通り、目前で聳え立つ二メートル強の、危険が伴う外界を先に広げている門を通って前進する一歩を踏み出したならば、そこはもう『村ではない』ということ。

 そういうわけで、この旅立ち一歩手前で踏み止まり、無意味に物事の進捗を焦らしているような刻一刻という時間は、僕が思っているよりも重要で、決定的に人生が変わってしまうその前に『覚悟を』決める、一種の儀式的な猶予なわけなのだが……。

 僕が想定していた本来の筋書きであればこの時間は重々しく考えに耽って、旅を始める最初の一歩を僕の人生の一ページに刻み載せる予定だったのだけど。


 マジで『爺ちゃん』がやってくれた。いや『やらかして』くれたよ……。

 

 今は切実に、嘘偽りない本心から、爺ちゃんに対して『苦言』を呈したい。

 それもそのはずで。

 この場所へと生活の拠点である家から向かうには、天辺に家が建っている『丘』をぐるぐると回りながら、村の中央を突っ切っていかなければならない。

 しかしその道中、ついつい深めに首を傾げてしまうほど、村に居るはずの村民、その誰一人とも『すれ違う』ということがなかったのだ。 

 それを眉尻を怪訝げに吊り上げながら、折角の旅立ちの日だというのに人と会わないなんて、えらく不思議なことがあるもんだな——と。

 無理やり納得しながらここに到着したならば、その誰ともすれ違わなかった『原因』をこの目で知ることができた。

 薄情に思われるかもしれないけど、僕は誰にも『今日のこの時が旅立ちの日』なんて伝えてはいなかった。

 それなのにも関わらず、なぜかやって来た西門前に僕よりも早くに集合していた村の住人全員が『ソラ、いってらっしゃ〜い!』などという、布を寄せ集めて作ったと思しきド派手な横断幕を掲げながら集まっていたのである。


 出発祝いのムードを流している顔見知り達に対して顎が外れたかのように口を開きながら呆気に取られてしまっていた僕に『ソラも大きくなったなぁ〜』と見送ろうとしている内の一人が語ったのは、唯一、旅のことを知っていた爺ちゃんが『ソラはこの日に旅立つぞ〜い』などと村人全員に言い触らして回っていたからなのだそうで。 


 その話を聞かされて初めて——爺ちゃん的にはサプライズのつもりなのだろうし、標的である僕が知らないのは当然なんだと思うけど——知った僕は、旅立ちを黙っていたことを集まっていた『ほぼ全員』に責められてしまい。

 それに『汗汗っっ』と平謝りしつつも、なんとか多量の汗を噴き出させる動揺を抑え込むことに成功する。  

 しかしまあ、こういう精一杯の旅立ちへの見送りをされてしまえば、絶対に泣き出しちゃうだろうから村の誰にも言わないでおいたのにさ……と。

 実のところ心底嬉しがっているくせに、そんな正直な思いをみんなに見せるというのはムズムズとした痒みを覚えるほど恥ずかしく、できる限りいつもの表情を取り繕ってしまっている僕は、熱が集まる感覚がある頬を熱を誤魔化すように指で掻いた。


「もーーーーーっっ!? なんでソラくんが出ていくのぉぉぉぉぉっ!? ソラくんが居なくなったら、この村ジジイとババアだけになっちゃうよぉぉぉ! 嫌だぁっ、若い男の子が居なくなるなんてぇぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!」


 まあ、村のほとんどの人達が還暦を迎えた高齢者なのは紛れもない事実としてそうなんだけどさ、それを当の本人達の前で『ジジイだのババア』だのという間違いない蔑称を吐き散らかすのはなんというか、うん。

 結構口悪いよな、カカさん——って、うわっ! 

 僕の服の裾で擤んだカカさんの鼻水が糸引いちゃってるんだけど……。

 これはちょっとさすがに気持ち悪いな……。後で着替えなきゃいけないじゃん。


「これ、カカ! ソラの邪魔をするでない!」  


「ヤダァッ! 私と恋愛できる男が居なくなっちゃうじゃんっ。嫌よぉぉぉお! 私を置いてかないでぇぇぇ!」 


「バカを言うな! 村で一番の長寿がお前だろうに!」


「はあっ!? 恋愛に年の差なんて有って無いようなものでしょ!? っていうか歳のこと言うなクソジジイ!!」


「なーにを言っとる、クソババアがッッッ!!」


「は、はあああああああああああああああああああ!?」


 怒髪天を突いて額に複数の青筋を浮かべてしまっている爺ちゃんは、二十代前半にしか見えない形をしているカカさんに『クソババア』などという、カカさんが高齢の村人達に言っていた言葉以上の蔑称を声を大にして言い放った。

 しかし事実として、村で一番の若者である僕と年齢が近そうな若々しい見た目をしているカカさんは村で一番の年配者——とんでもない『御長寿』なのだそう。 


 真偽のほどは本人語らずの人聞きのため『あやふや』ではあるが、その聞いた話が真実であるとするならばカカさんの実年齢は『百歳』を優に超しているのである。 

 座学の物覚えが頗る悪かった——勉強に対して興味がなさすぎて、いつもやる気がなかったせいだろう——僕に多大なる懸念を露わにしたカカさんが僕専用に作成し、セッティングした『スパルタ独房勉強教室』にまさに収容されてしまった僕は、なんとかその厳しさを和らげようとして、ここだけの話『本当は何歳なの?』と。

 気持ち悪いくらいニンマリしながら僕の対面に腰掛けていたカカさんに問い掛けた時は、


「私は永遠の十八歳なんだお!」などと言って、僕がやろうとしていた『茶濁し』を先んじて実行していた。

 

 外見的には、法螺吹いてるに違いない年齢に見えなくもないけど、丸分かりな嘘を言われてしまえば頗る気になってしまうのが子供の。

 いや、人間の性というものだ。

 全身が痒くなるくらい実年齢が気になった僕がその年齢を知っていそうな爺ちゃんに問い掛けたところ、

 

 『あのババアは、ワシがソラくらいのガキンチョの頃からあの見た目じゃった。だから絶対ババアじゃぞ』と。

 

 当の本人に聞かれたら非常に不味いだろう内容を外にまで聞こえそうな大声量で教えてくれたのであった。  

 実際、憶測の『カカさんの実年齢』を聞き知った時は、こんな騒がしい人がねぇ——って何度も疑った。見た目相応というか、お年寄り感がないんだよな、この人。


「黙れ、クソジジイッッ!!」


「なんじゃあ、クソババアッッ!!」


 今もお互いの間で激しい火花を散らしながら口汚い喧嘩を繰り広げている爺ちゃんカカさんは超が付くほどの『昔』から、つい先日『十代後半』の仲間入りをしたばかりである僕なんかが生まれてもいない、何十年も前からの知り合いなのだそうだ。

 御年七十六の爺ちゃんがこの村で生まれ、物心が付いた時には、村で薬師をしていたカカさんは今と全く同じ姿の状態だったと他の皆んなも口を揃えて言うしな。

 この話を聞いた時は『エルフってすごいな』と僕は思った。

 怒られたのに懲りることなく、僕の衣服を鼻水まみれにするカカさんを引き剥がそうとする爺ちゃん。

 それを「いいぞー!」と茶化して笑いながら見守る村の人達。 

 二ヶ月も前から旅に出ると覚悟はしていたけど、慣れ親しんだ空気を去るというのは、やっぱり少しだけ、いや。甚だしく寂しいという気持ちを覚えててしまう……。


「ぐあアアアア!? ちくしょぉぉぉぉぉおおお!?」


 ——あ、やっと離れた。

 周囲に変態と思われるに違いないだろうに僕の腹部に顔を埋めながら、僕から引き剥がされるのを必死に抵抗していたカカさんは、年老いたとしても全く衰えていない爺ちゃんの怪力によりその抵抗も虚しく『無事』引き剥がされて、後に意味不明な、


「ギュワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアっ!?」


 という奇声を周囲に打ち上げながら、ズルズルと地面を引き摺られて、遠くに連れて行かれるのだった——。

 ははっ、ははは…………。

 そうして、何年も師事していたというに全く尊敬の念を抱けていない『恩師』が発している、聞いているこっちが恥ずかしくなってくる叫声が遠退いていくその場に対し、冷や汗が流れるように静かな一拍を置いてから、深々と息を吐いて落ち着くことに成功した僕がものの見事に汚されてしまっている自分の衣服を見ると、服はカカさんの体液でテカテカとした光沢を得てしまっていて。

 これは出発した後で綺麗な服に着替えなきゃいけないじゃんと、盛大に顔を引き攣らせている重々しい無言のままに心に決めた僕は、先程の一拍を置いた時以上に大きな、どこまでも深い溜め息を吐いた。


「ソラちゃん、本当に行っちゃうのね…………」


「サチおばさん……。うん。僕、母さんを探しに行くんだ」


「そう…………これ、よかったら食べてちょうだい」


「へ……? …………!? んん——っっ!?」


 物悲しそうな表情を浮かべ、それに準ずる悲しげな雰囲気を放っているサチおばさんが、眉尻を下げている僕に声を掛けてから徐に懐から取り出したのは、最悪なトラウマを呼び起こさせてくる、ひどく見覚えのある包紙であった。

 トラウマを刺激された結果、雷に打たれたかのような衝撃が頭頂部から足先まで走り抜けていく感覚に見舞われてしまった僕は、カカさんとの悶着時以上の冷や汗をダラダラと全身から垂れ流しながら、我慢ならない強い吐き気を催してしまうほどに感じる『最悪の予兆』に対して、焼かれた感覚がある胃袋を無意識に手で押さえた。


 そんな僕の状態など露知らずという感じの『ニコニコ顔』をしているサチおばさんは、カサカサと包紙を広げる。それに僕は、襲いかかってくる今までにない緊張感で全身の毛穴を開かせて夥しい量の発汗を催す。しかし着実に断頭台の命綱たる吊り縄を切ろうとしているサチおばさんに、何も言い出せないままゴクリと喉を鳴らした。

 そして、包紙から出てきた『トラウマの物体』を僕は見た。


 それはあの時の『激甘ドライフルーツクッキー』で——!


「こ、ここ、こここ、ここここれ、はぁ……っっ!?」


「ソラちゃん、この前にいっぱい食べてくれたじゃない? だからね、今日旅立っちゃうと暫く食べられなくなっちゃうから、たくさん作ってきちゃったのよ〜〜〜!」


 僕の心中を考えようともしていないことを暗に伝えているような、僕にとっての地獄行き——それに等しいヤバいことを平気な様子で宣告してくるサチおばさん。 

 サチおばさんは、ふと見上げればそこにある、耽る邪魔をする雲など一つもない、声高々に晴れ晴れしていると言えてしまえるだろう美しき蒼穹のような、ついつい釣られて笑ってしまいそうになる満面の笑みを浮かべながら、手に持っている間違いなく『激甘』だろうクッキーを「さささ!」と押し付けるように見せつけてくる。

 これは『今食べろ』ということなのか。また繰り返すのか。また繰り広げるのか。また初めてしまう気なのか。僕だけが甚大な被害を受けてしまう、あの戦争を……!

 そんなことを愕然とした様子で思いつつも、真正面から断ることができない小心者の僕は「ゴキュッ……」と大きく喉を鳴らして、恐る恐る手を伸ばした——その時。


「お? クッキーではないか! ワシがもらおう」


 ある意味、自分に対して引導を渡そうとしていた、無様に震えてしまっている伸ばされた僕の手と、まるで戦争に受けて立とうとしているようなクッキーとの間を『無益な争いなど望まぬ』ように突如として遮ってきた手があった。

 老いの皺が目立つも衰えることなく逞しいままである『爺ちゃんの腕』は、僕が伸ばしていた手の先にあった『兵器クッキー』を包紙ごと丸々っと掻っ攫っていった。 

 その、清流に乗りて流れる葉の如し、流れるような一連の奪取に対して呆然と立ち尽くしてしまう僕とサチおばさん。

 僕達の様子なんて関係ないとばかりにボリボリという噛み音を鳴らしながらクッキーを貪り食らう爺ちゃんは、サチおばさんに気づかれないよう僕にウインクをした。

 これはまさか……助けてくれたのかい、爺ちゃん……っ!


「って、こらっ! バレル兄さんのじゃありませんよ!」


「ん〜〜〜? よいではないか」


「え、あ! 全然! 僕は全っ然気にしてないから大丈夫だよサチおばさん!? ハハハっ! 全くもう、爺ちゃんは食いしん坊だなぁ! ハハハハハ…………ふぅー」


 た、助かったぁ……っ! さすが爺ちゃんだよ。変に食い意地が張ってることで困ったことは今までに何度もあったけどさ、こういう時にはホンット、頼りになるわ。

 あまりにも急だった開戦により全開していた毛穴が、これまた急な横槍で事なきを得たことによる多大な安堵。

 その安堵を糧に「ふぅー……」と深く息を吐いた僕は、まだ少し暴れてしまっている己が心臓を収める胸に手を当てて、鼓動を落ち着かせる。

 すると、僕から引き離されていた薬師のカカさんが、トボトボと歩きながらこちらへやって来た。


「ソラくん……はいこれ、食当たりに効く薬。あげるね」


「わっ! ありがとう、カカさん!」


「お、おうっ。へへへ、クゥ〜〜! やっぱり若いっていいなぁ!」


「は、はは、ははは、ははははは——…………」


「ちょ、ちょい! 気遣った空笑いをするなぁ!」


 僕は村人達——サチおばさんと、喧嘩を盛り上げていた馬鹿な男連中を除いた女性陣など——に、やや厳しめに叱られた結果、意気消沈としているカカさんから、鮮やかな水色の粉薬が入っている小瓶を礼を告げながら受け取った。

 そしてそれを、下ろさずに背負ったままでいるリュックにではなく、取り回しが容易なコートのポケットにしまった。


「ソラ! これを持っていけ」 


「————ん?」


 瓶をポケットにしまった後、誰にも何も言わせないほどの速攻で兵器クッキーを平らげてしまった爺ちゃんが、呼びかけに応じた僕に『一枚の書筒』を手渡してきた。 

 それを首を傾げながら受け取った僕は、爺ちゃんが何らかの理由で用意したのだろう『それ』をじっくりと観察する。

 太くないに筒には一枚の紙が貼られており、それを黙読するとその貼り紙には爺ちゃんの名である『バレル・ヒュウル』という宛て名と、宛先だろう『モルフォンス・フーリック』という見ず知らずの人の名前が書き記されていた。

 モルフォンス・フーリック……聞いたことがない名前だな。爺ちゃんは、このモルフォンスさんに何用の手紙を……?


「えっと、これは?」


「それをフリューに居るモルフォンスに渡せば、色々と便宜を図ってくれて、ソラの助けになるはずじゃ。だから、ぜぇーったいに失くさんよう届けてくれるように!」


「…………ふーん、分かった。ありがとう、爺ちゃん」


 爺ちゃんの古い友人なのだろう人への手紙をその人に届けるために預かり受けた僕は、少しでも力になってくれようとしている爺ちゃんに本心からの感謝を告げた。

 その感謝を、安心させる微笑みを浮かべながら受け取った爺ちゃんは、お互いの身長的に少し低いところにある僕の頭を優しく撫でてきた。

 それに僕は少し恥ずかしがってしまうものの、爺ちゃんが撫で終わるまで静かに受け入れる。

 そして、一頻り頭を撫でていた爺ちゃんは自分の覚悟を決せれたように、己を見上げていた子供である僕の背中を、 春のように暖かく、夏のように力強く、秋のように寂しげに、冬のような厳しさを込めて、前へと押し出してくれた。 


「…………絶対に、母さんを連れて帰ってくるから。だから、待っててね、爺ちゃん!!」


「…………ああ。また、母さんと三人で、家族全員で食卓を囲もう。それまでずっと、ずっと待ってとるから。だから安心して、世界を旅しに行ってこい」


「…………っっ……うんっ!」 


 無限の優しさに包まれて肩を震わせてしまった僕はしかし、溢れようとする涙をグッと精一杯堪え、耐える。

 そうして村の門前に立った僕は『ある言葉』を旅立ちを祝福する全員に言うため、グッと腹に力を入れて周りを見回した。

 その言葉が来るのを、意を決した僕が『別れの言葉』を発するのを和かな笑みを浮かべながら待ち侘びている『家族に等しい人達』は、まるで実の子供の晴れ姿を見守っているような優しい眼差しで、僕のことだけを見つめていた。


 薬師であり、僕の教師でもあるカカさんは頗る寂しそうに涙を溢れさせながら。

 僕の数少ない親戚であり、誰よりも暖かかったサチおばさんは両目の端に溜まっている涙をハンカチで拭いながら。 

 僕が物心付く前からかけがえのない家族だった、幼い僕が行う『悪戯』に子供のように笑いながら付き合ってくれて、そして一緒に叱られてくれた、バレル爺ちゃんは——どこか嬉しそうに、それでも少しだけ悲しそうに、笑っていた。

 そんな大切な人達のことをゆっくりと見回していった僕は、我慢できずに目の端に大粒の涙を溜めてしまいながら、未知の旅の始まりに対して、前へ進もうとする足を竦めさせてくる『現在への未練』を——下げていた顔を上げると共に断ち切った。


「それじゃあ皆んな……っ! 行ってきます!!」


 その離別の言を受けた大切な人達は、まるで堰を切ったようにドッと、僕がする旅立ちを送る言葉を声高々に叫ぶ。


「頑張ってね! ソラちゃん!」


 その言葉は、視界を邪魔する涙を必死に拭いながら手を振ってくれるサチおばさんのもの。


「う、うおおおおおおおおおおん!? いつか私のことを迎えにきてねぇぇぇえええぇうぁあん!!」


 その言葉は、最後の最後まで意味不明なことを言い続けたものの僕との別れを本心から悲しんでいる、ギョッとしてしまいそうになる大量の涙を、海でも創生する気なのかと思えるほどに周囲へと撒き散らしているカカさんのもの。


「行ってらっしゃい、ソラ。いくらワシの孫だからと言っても気を抜かず、体にはくれぐれも気を付けるようにな」


 そして最後に掛けられた言葉は、天空を支配している太陽の光輝さえも霞んでしまうほどの優しさに包まれていた。 

 何人であろうと心底安心してしまう声音を発したのは、どことなく影を感じさせるものの、本心からの祝意を込めている、僕の大切な家族——バレル爺ちゃんのもの。


「…………っ!」


 そんな大切な人達に見送られている僕は、馬を飼育している村の人が出してくれる馬車に乗り込み、西へ出発した。

 カツカツという音を鳴らしながら西へと進んでいく僕に、村の人達は僕が見えなくなるまでずっと手を振ってくれた。それに僕も精一杯、手を振りかえす。

 これから僕が目指すのは、風国・ソルフーレンの首都——その名も『フリュー』。


「————行ってきますっっっ!!」 


 必死の叫び声は世界どこまでも響き渡って、反射し、そして消ゆ。

 それに甚だしい哀愁を覚えるのも束の間に、溢れる涙を袖で拭った僕は進みゆく前へと顔を向けた。 

 進む地平線の彼方、目的地が見渡せぬほどに果てしない。

 僕が一歩を踏み出した母を探すための旅、その行く末はこの地平線のように全く見渡せない……けれど。

 強くて、そして何物よりも優しく叩かれたこの背中に残る家族の暖かさを感じていると——なんとなく、未知への不安を払拭して、心の底から安心できてしまうんだ。


「………………」


 今日この時、僕の『長き旅』は始まりを迎えた。

 未だ見ぬ旅の行く末と。

 家族三人で食卓を囲む未来を。

 閉ざされた目に映る赤みがかった瞼の裏で流し見ていた僕は、

 「くすっ——」という意識せずに溢れてしまった笑い声を、高くはない音を鳴らしながら世界を自由気ままに走り抜けて行く一陣の風に乗せる……。



 序章『旅立ち』——【完】

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