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蒼風のヘルモーズ  作者:
『ハザマの国』編

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第44話 タイマン

 ダンダン、ドンドン、と。

 何物も見通すことができない暗闇が、視覚の全てを奪っている現況の中、素手で岩石を砕いたような非常に大きい破砕音が、それはもう永遠に鳴り続けていた。

 拮抗した速度と速度。一言で表せば伯仲のそれ。

 蹴り進めた足と脚で硬質なはずの岩の地面を軽々と砕き、楽士が聞けば発狂してしまうだろうまさに破壊的な演奏を奏でていたのは、人型の二足を有している『ソラ』と、蜘蛛というには巨大すぎる八脚を有する『女王』であった。

 

 正確な秒針を刻んでいる体内時計的に、ついて来られないようにしたルルド君達と別れ、この『命を懸けた闘走』に身を置いてから、既に二分ほどが経過している。

 僕とヤツが絶えず発揮している馬超えのスピードからするに、三人がいる広間から『三キロメートル』は離れたか。

 だが、今だに終わりが見えない。何も見えてこない。戦場だった広間と違って『光源』がない故に、もはやしっかりと前に、先に進んでいるのかという疑問さえ浮く。ヤツの殺意も同じく、この闇のように無限に湧き出ている。気を抜けば胸の律動が崩れそうだ。不安で。恐怖で。


 ——要らぬ感情だ。


 不安や恐怖など抱いている暇はない。時間はない。そもそも余裕がない。

 

 ——くだらない思考だ。

 

 僕は一瞬の内にそれらの雑念を潰し、前を向いては地を蹴り砕く。

 それの繰り返し。十分でも、百分でも、千分超掛かろうとも。

 不屈を貫く。希望を持つ。命を繋ぐ。

 たった一度だけのミスで『勝敗=生死』が決される状況。

 故に、一人と一体は瞬きなどをすることなく——後者は瞼がないから瞬きなどできないが——白熱した追走劇を繰り広げている。


「シィィィ————」 


『ジャギギギギ!!』

 

 追走は白熱する。

 右へ左へ、まさに縦横——否、横々無尽。

 不止の駆け足は風のように速く。思考は光の如し。僕は僕を中心に発生させた『風』を以て、不明瞭な周囲の輪郭を大まかにだが知覚していた。


 六メートル先に大きな陥没。飛び越えて回避。先には障害はない。そう思った時、僕が来るのを見計らったようにドンッと、道の中心に大岩が落ちてきた。

 発狂する女王の命を受け取って行動に移った配下の蜘蛛だ。

 だが脚は遅い。無視だ。速度を落とすことなく僕は横を抜ける。


 僕に擦りもしなかった配下蜘蛛の前腕鞭打。

 それに怒ったのか、はたまたそうではないのか、新女王の怒声が発されたと同時に『道の中心から逃げられなかった』蜘蛛の一体が粉砕された。

 同族なんて関係ない。

 女王はたとえ配下全てを失うとしても、僕を殺すことに全力を尽くす。それほどまでの怒気が僕の背中を打っているから、言葉なんてなくともその真意を理解できた。

 

 言葉通りに『破壊』された贄的一体を皮切りにして、二体三体と天井から降ってきた。しかしその悉くを回避する。

 遅れた個体は早々に落下地点を抜けて、進路上に立ち塞がっている複数の個体は『風の通り道』を頼りにスライディングで一気に抜き去る。

 まさに有象無象を超えていく僕は、だが全能感に浸ることなく感謝した。心から、助けてくれている神意に向かって。  


(ありがとう)


 数瞬判断を迷わせるにたる別道の存在。複数口の認め。

 あっちか、こっちか。しかし何の迷いもなく、僕は複数個ある選択のうちから『たった一つの正解』のみを正確に踏み越え続ける。

 洞窟内部の知識が完全に欠如している状況で、僕がそれを成せている要因は『風の導き』でしかなかった。一陣が先導している。目は変わらず効いていない。だけど見えている。物理的じゃない。でも分かるのだ。感じ取れているのだ。

 僕を外に連れ出そうとしている『風』の存在が。風前の灯となっている僕の命を未来へ繋ごうと奔走している、大いなる『神』の意志が。


 言葉を交わせないそれだけが、今の救い。

 それが、事実、洞窟を脱出するためのルート、つまりは『正解』を知り得ていない僕が、今もなお袋小路に陥らずに生き続けている理由だった。

 ——黒一色の闇の中。

 光が届かない海の底のような場所。夢ならば悪夢と言っていいそこを、現実へと導くように走って、実体のない幻想魚が残すような神光の尾を引いている風を、追う。


「二十メートル先を右……!」


 一直線からの切り替え。

 瞳を細めた僕は浅く息を吐いて、たったの一秒を稼ぐためにフェイントを挟む。 

 風が入っていった別口、外界までの道。

 そこを通り過ぎるように横手にした瞬間、膝を上げた左足を前方へと蹴るように放ち、地面を大きく弾いての強引な方向転換を敢行する。


 時と場合によりワンクッションを挟めなかった故、猛烈な速度が乗る衝撃を甘んじた関節が悲鳴を上げた。

 ミシミシと大腿と脹ら脛の筋繊維が絶叫を上げている。だが、悉くを無視した。

 骨が折れてなければ問題無し。

 肉が千切れていなければ駆動可能。

 膝も足もまだ死んでない。

 ただそれだけの事実で、僕は鼓動も呼吸も速めることなく駆け足を止めなかった。

 そんな僕が方向を変えて、別道に突入してから約三秒後。

 左の第一脚の先端を強烈で唐突なブレーキにより敢え無くへし折れさせてしまった女王が、更なる怒声を轟かせながら迫り来た。

 そして、絶怒の女王が僕に向けている、煉獄のように極暑熱烈な『アプローチ』が変化する。


「————っ!?」


 ——何かが。

 そう、僕の頭部くらいの大きさをした『何か』が、駆け足以上の猛速を以て、僕の右方を通り過ぎていった。

 その何かは一様に付加される重力には逆らえず、ドンッと地を打ち弾け飛ぶ。

 横目で見た。派手に弾け飛んでしまった何かの残骸を。

 

 それは『岩石』だった。それが僕の肩と同じ高さを通り過ぎていった。あと数十センチ横にズレていれば『直撃』していたと僕は遅れて理解して、背筋を凍らせる。

 なぜ飛んだ? 生き物ではない岩石が。

 どう飛んだ? 一足も生えていない無機物が。

 どうやって飛ばした……? 

 冷や汗を軌跡に散らす僕が、そう思うのは順当である。速度を落とさないよう細心の注意を払いながら振り返り、確認する。その『投石』方法を。

 ヤツは、蜘蛛の女王はその横開きの大顎をガパッと涎を撒き散らすことも憚らずに全開にして、岩肌の地面を注ぎ込むように喰っていた。

 まるで表層を削り取るように『喰削』していた。そして——


「っぐッ!?」


 掠った……っ!

 ヤツは口腔に無理やり詰め込んだ岩石——否、岩の『砲弾』をボッと吹き出した。

 僕以上の肺活量。吐き出す空気量はまさしく怪物級。

 それを十全に発揮して撃たれた弾岩は、容易く僕の足の速さを超えて、ルートに取り残されていた僕の左下顎角の付近を浅く削った。

 撫でられただけで、ごっそり生皮が持っていかれる。


 痛い。じゃなく、熱い。

 人生初の魔獣戦で左腕を骨折した時とはまた違った感覚である。

 そんな初めてを突発的に与えられてしまった僕は、皮がごっそりと消失している損傷部からポツポツと、水入りのコップ表面に表れる細かな泡のような、血の粒が浮かんできたのを実感する——が、無視した。拭うこともせず、放置した。

 それらはもはや些事でしかなかった故に。

 僕の全身を支配しているのは、熱や痛みや血形ではなく、驚倒。

 甚だしい危機感だったから。

 

『ガジャジャジャギギギギ————ァッッ!!』


「マジか……っ!」


 自律アクションをする『対城級』のカタパルト。自動投弾岩装填機能付き。そんなもの、砲撃の的にされている『孤独の流浪人』からすれば悪夢に違いなかった。

 投石、ならぬ『砲岩』の蜘蛛。まさに『生物兵器』である。

 いや、ふざけるなよクソが死ね。

 まさかの超変異。

 絶対に増えるべきじゃない殺害方法の増加。

 さらなる攻撃能力の強化。


 まだ即死レベルの手札を隠していやがったのか。

 ジョーカー級……反則だろクソッタレ。

 

 称賛にも取られかねないそんな思いで舌を打つ僕は、たった五秒の停止でタッチされてしまう距離にいるクソ女王へ、苦渋で歪み、そしてピクピクと痙攣する左目を見せながら、ヤツの口腔から同時にほぼ発射された二つの弾岩——僕の頚椎と骨盤辺りにヒットしてしまうだろうそれらの、甚だしい推進力と完璧な直線的軌道を認めて、ギリッと噛み締めた奥歯を鳴らした。


『『ギャギィギャア!!』』


 左右のどちらかに移動をして回避。コンマ一秒もない模索。だが頭上から降ってきた巨体の蜘蛛二体が先制する。

 ヤツ等は道の左右に落下し、炸裂し、僕の左右回避的選択を捻り潰した。道の両脇を『障害物』で堰き止め、中央以外を通れなくされた。正面突破の強制である。

 すればどちらかを飛び越えていく案が挙がる。

 即否決。

 飛び過ぎると距離を詰められて即ルーズ。

 既に刻一刻の猶予はない。

 だからスッと双眼を細め、残されていた回避行動の一案に移った。


 弾岩衝突/被弾の寸前。


 僕は素早く後方に視線を走らせて、豪速で飛来してくる弾岩と弾岩との間に、頭がギリギリ通り抜けられる程度の『隙間』があることを認める。弾速のほども雑にではあるが確認できた。


 ——だから飛んだ。


 何の躊躇もなく。失敗すれば粉砕し、血爆し、絶命してしまうにも関わらず。まるでそうではないかのように滑らかに、緩やかに、穏やかに、嫋やかに、僕は飛んだ。

 そしてその跳躍は、その回避は、まさしく完璧だった。完璧そのものであった。

 両手を挙げたくなるくらいには無駄がなく。高速で手を叩きたいくらいに美しい。

 まさしく『命懸け』のスタント。


 軽い跳躍と、頭頂部を前方に、足裏を後方へと向ける、横倒しの体勢変化。

 たったそれだけで、僕に必中するはずだった、僕という脆弱生物を木っ端微塵にするように拵えられていた二剛の弾岩は、開いていた隙間を通り抜けられて、標的を通り過ぎてしまった意思なき無機物たるそれらは、敢え無く重力によって先の地面に着弾。ドンッと土煙を上げる。

 回避成功。いや、回避大成功。完璧な曲芸着地。

 ここに沢山の観客がいたらば、鬼国・鬼ヶ島にある『富士の大山』と見紛う量のチップと、万雷の拍手を共に送られるくらいの完成度だ。


『『ギギャィッッ』』


 僕が着地してから四秒後。

 進路を肉壁により狭め、その強靭な前脚を大振り、非常に苦し紛れな攻撃を繰り出したものの、しかし『極限のベストコンディション』を体現してしまっている僕には微塵も擦りはせず。真実なんの役にも立たなかった二体の木偶が、女王に『死罰』を与えられた断末魔を響かせた。

 僕はこの上なく耳心地が良いそれに『凄絶な暗笑』を噛み殺しながら。三度、地を蹴り砕く。

 そうして、終わらない弾岩の雨霰を間一髪の連続で躱し続けていると、道の状況が一変した。


(コケアオミドロ……!)


 相変わらず、ただの一通路の巨大さは健在である。

 今も僕のことを追いかけてきている女王他、洞窟の主どもの巨き全体に合うように作られたのであれば、それは疑う余地もないのだが。

 あまりにも広大で長大な、終わりなく続いていそうな蜘蛛の魔窟。

 そこに溢れているのは広漠な黒一色。

 闇に弱く、個々は矮小で、群れをなさねば容易く淘汰されてしまう人間等のスケールからは、明らかにかけ離れてしまっているそんな道の中。

 どことも知れない、しかし確実に外に近づいている『現在地』についてを、はっきりとは言えないが、薄々に察せる変化が露に表れた。

 前述した『変化』とは、やはり日中である外界の光が届かない暗動、その至る所に青白く発光する『苔』が散乱していることである。


 ——コケアオミドロ。


 まだ四人で行動していた時の道程、その一箇所に理由は不明のまま落ちていたものと同一物で、数分前に過ぎ去った戦場広間、そこで星を飾るように吊るされていた『光食発光植物』だ。

 コケアオミドロは水辺にある暗所、例えば湖畔の洞窟などに自生する特殊植物。

 それが増えた。見るからに。そこに自生しているわけじゃないが、これは重要な『ピース』に違いはなく。

 即ち、終わりが近い。

 互いの命を懸けているレースの終わりが。白熱の一途を辿っていたチェイスの終焉が。際限がなかったデットヒートの冷め時が。僕の『勝利』とヤツの『敗北』が。


 ——もう既に、そこにある。


(僕の勝ちだ…………クソ蜘蛛!!)


 光が見えた。道の先に。

 白が入った。見開かれている目の中に。

 希望が差した。僕の全身に。

 未来があった。道の先に。光の向こうに。あの白の内側に。

 何処かで再会した母と、故郷で帰りを待っている祖父、少し大人になった僕との三人でまた、ともに食卓を囲む希望の未来が。


 極光と形容すべき。

 真実、そう言わざるを得ない万物を照らす太陽の光輝が、この先にある。

 あれは、不止たる時の経過とともに必ず明ける夜とは違い、未来永劫に続くのではないかという一抹の恐怖を抱かずにはいられなかった、あまりにも無限大が過ぎた魔窟の終わりだった。

  

 残りは百数メートル! 

 このまま外に出たら『人里』を避けつつ、ヤツを巻く。

 そしてトウキ君と合流し、討伐。

 主戦力たる女王を失った蜘蛛どもは総戦力で駆逐! それで万事解決だ。

 そのはずだ。そのはずなんだ。このまま何事もなく、終幕するはずなんだ。

 なのに、何だこれは。何なんだ、この『胸騒ぎ』は…………。

 

 今さら道を引き返すなんてことは不可能である。この先とは別の脱出ルートはあるにはあるだろうが、そこに行くまでに僕の体力が保たない。もう体力の消耗度は十割を目前にしている。今にこうして走り続けられているのが奇跡なんだ。さらに女王という最大級の障害が道を塞いでいる故、この思考すら無駄の極みである。


 どうすることもできない。その現状が頭痛を催させる。

 止まることはできない。その現実が胸の内を荒立てる。

 進むしかない。信じて。

 走るしかない。息を上げながら。

 ただ祈るしかない。僕の作戦が成功することを。

 この先に最大の『試練』が待ち構えていないことを。

 そして、誰も死なないことを——。


 思考は極限と言えるまでに速く。しかしその中身は白く染まっていた。

 意味がないのに、動いてしまう。無駄だと思っても、仕方がなかった。

 百という数字は瞬く間に踏み潰されて、見えていた光は千を超える色彩を帯び出した。

 脱出する。

 あれほど待ち望んだ魔窟の終わりが、すぐそこなのに。

 今は、ただただ怖かった……。


「さっきから何なんだ? このズシズシとくる揺れは。変な奇声も聞こえてくるしよぉ」


「それが分かんねえから来たんだろ、バカ。ここまで来て、小銭だけ稼いで帰れるかっての」


「まったくだ。あの大所帯でたった『十数万ルーレン』を分けるなんて馬鹿げてる。ガキの小遣いじゃねんだからな。チッ、それにしても。マジでしつこいな、この妙な向かい風は……」


 声が聞こえた。それだけで全身の毛穴は開き、疲労感からじゃない冷や汗を多量に発散する。

 僕が向かっている出口の付近、山水を蓄えている大きな湖が、周囲にいる生命体の悉くを散らさんとして荒ぶっている風に当てられ、その水面に控えめとは言えない波を生じさせていた。

 風の意思。波の音。人の声。浅い息。殺意の発露。僕と女王から逃げようと、同じように出口を目指して走っている数多の蜘蛛が悲鳴を上げる。


 各々が各々の意志を抱きながら何かを成そうとしている雑多が、大音に曝され続けていたせいで機能を著しく落としている鼓膜を揺らす中、激しい動悸だけが僕の脳を埋め尽くしていた。

 一、二、三。四、五、六。まさに秒読みの脱出。

 あと四秒。三秒。二秒。あともう少しだ。

 あと、たったの一秒で、すべてが決まる。

 僕の足には生への執着と、絶望への拒否が絡みついていた。

 止まれない。止まれない。もう止まることなんてできない。だから僕は必死な形相で歯を噛み締めながら、魔窟を飛び出した。


「——————っっっ!!」


 異生物の巣穴。真に『魔窟』と呼べてしまう場所を飛び出していった先にあったのは、やはり湖だった。

 それも無限大のように思えた魔窟の広さにも負けない気がするくらい、超巨大な。

 北の大山と、大小様々な山陵との間に、何者かが意図してではなく、奇跡的に生まれているその湖の大きさは、有翼種ではない一個人、一人間の目視では現在地の東端から、対面にある西端を視認できないほどだった。

 その形は歪で、何形とは言い表し難いが、だが至上に美しい。

 自然の奇跡。そうとしか形容できない雄大な景色。まさしく絶景。しかし、だけれど構えない。見惚れていられる余裕がない。見入っていられる時間もない。白く染まりそうになる脳味噌をガンガンと打っている警鐘が、決断を迫っていたから——。


『ギャギギギギギギギィイイイ————ッッッ!!』

 

 破壊。蹂躙。同族すらも委細構わず、地表に有る万物全てを踏み砕かん暴虐の限りを尽くす。

 それを以て、死神の代行たる死の化身が、黒に浸され続けていたその威容を日の下に現した。

 爆砕。高さが十メートルを超えるヤツの巨体が発揮した、言葉通りの超暴力に曝されてしまった魔窟の出入り口がガラガラと崩壊する。

 女王の後に続いていた石蜘蛛の数多が行き場を失い、困惑の声を上げているのが聞こえた。そして敢え無くひしゃげた、肉が弾けたような音も。 


「なんだぁ!?」


「爆発!?」


「かっ、原生怪獣!? ————いや、あれは魔族っ、大魔族だっっっ!!」


 そして、考えうる限りの最悪が届いた。計三名。全員が二十代男性。身に付けている武装の性能が低い。悠長に震源に迫っていた点。すべてを加味し、導ける一点正答はド素人。僕を潰した場合、次と選ばれる絶対破壊の対象。それがたった三十メートルの距離にいた。たった三十メートルの距離で、腰を抜かしていた。


 魔窟を飛び出た女王が持ち得ている知能。精神の冷静具合。測れ切れない現時点での意思量。

 もし、僕に対する絶怒の灼熱に心身を焦がされ、僕にだけ目と意識が向いているなら、最高。

 もし、僕が逃げの選択を放棄せざるを得ない『最適解』を求められる冷静さがあれば、最悪。

 どうなんだ。どっちなんだ。お前は一体、どう動く。どう動くんだ。それで次が決まるんだ。

 どう状況が変わるのかは、どう現状が転ぶのかは、弱者たる僕達が今後はすべて、女王次第。

 不自然に跳ねている胸の内。

 浅かったり深かったり、荒かったり落ち着いていたりで呼吸は不整。

 視界が歪んでいる。空間が捩れて、時間が波打っているみたいに僕の今が確かじゃない。

 頭の中にミミズがいて、のたうち回っているような痛みを覚えさせる。

 だけど、僕は叫んだ。


「こっちに来い————ッッッ!!」


 精一杯のヘイトコントロール。

 必死を隠そうともしていない、願望がこもった全身全霊の声。

 

 こっちを向け。

 こっちを向いてくれ。

 こっちだけを見ていてくれ。

 こっちだけを考えてくれ。

 

 熱烈なアプローチを送ってきていた雌が、他の雄に気を向けないよう、途端に女々しく迫っているみたいだ。今までの態度を忘れて必死に、その抵抗がある腕を引っ張っているみたいだ。

 アメヤマ氏の捜索を依頼した、彼の親類がいる人里は、ここから南。見上げるほどの大山が左目に映っていた。ここは北の大山の領域を少し越えた場所だ。

 そんな場所から、僕は北の大山とは逆方向の右手へ、人里から殊更に離れるために『北』へと向かって、駆け出そうとする。

 そんな僕の視界にチラリと映ったのは、僕と女王が飛び出した出入り口から左手、つまり北の大山がある方で腰を抜かしている三人の冒険者だった。完全に女王の覇気に恐れ慄いている。

 風で離れるように急かしても、もう何が何だか分かっている様子ではなかった。

 だから、女王がそっちに向かないよう、叫んだ。ヘイトを精一杯、僕だけに向けようとした。

 だけど—— 


『——————ギィイイイ』


 僕の必死なアピールは無駄に終わった。

 それは僕に向けられている女王の八眼に、明確な悪意が宿ったのが認められたから。ヤツは、僕が思っていた以上に冷静で、悪辣だったのである。

 そして、動いた。僕が向かおうとしていた方向——とは、逆の方向へ。

 わざとらしく、わざと素人三人の鏖殺には動かず、僕に駆け付けさせる猶予を与えている、全速力ではない速度で。

 もし人質を失えば、僕は彼らの亡骸を置いて、即座に逃走を図るだろうと分かっている風に。 

 ヤツは、足で勝っている僕が『絶対に逃げられないようになる』一手を打った。

 それは、誰かを守るための行動に命を懸けられる僕を、一番近くから、最も長く見ていた故の判断だった。いや、ある種の『信用』だったのかもしれない。


「クソッタレ…………っっ!?」


 最悪の展開である。もう間違いなくこの先で、誰かが死ぬ。死亡する。巨で漬い、重で圧死、原型を失った見るに堪えない亡骸と化すのは、僕か、彼らか。それは『結果』を見るまでは分からないが、うちの誰かの致命が不可避なことは分かる。


 破壊音と怒砲はうっすらとでも拾えていたはずなのに、心底くだらない我欲と、分不相応な野心を抱いて、呑気にここまで来てしまった三人。

 そんな彼らのレベルが、圧倒的に低すぎた。

 足で負け、逃げられない。善戦しよう気概もない。

 終わりだ。もはや、それ以外の言葉が浮かばない。

 腰を抜かしていないで、少しでも動いてくれ。

 奥歯を鳴らしてないで、少しでも生きようと足掻いてくれ。そんな思いを抱きながら、僕は『標的をわざと切り替えて誘っている』女王の後部を追った。


 日光で煌めいている鏡面の剣を右に持ち、空いている左手で『強風』を急速にチャージする。 風に貫通力は持たせない。

 人間が近距離にいる状況で撃つのだから、殺傷性があるのは論外。

 狙い撃ち、弾着させ、そして炸裂させるのは、女王と三人の『間』である。

 後部を見せている女王にも通じる『穿風』は、今の僕には成し得ない。噛み締めろ、これが僕の今。その弱すぎる実力だ。未熟がすぎている僕が招いた現状だ。


 だから、今の僕にできることをやるしかない。やれ。やるんだ。やるんだッッッ。

 全身全霊の全力を以て、成し遂げろ。

 吹き飛ばせ。すべてを。

 少しでも彼らが生き残れるチャンスを作り出せ。

 だから撃て、ソラ・ヒュウル——!!


「【風撃】——ッッッ!!」


 左手に溜めた『強風弾』を、投球のフォームを用いて撃ち放つ。

 猛烈な強風弾は、僕のことを誘うように全速力ではない女王を抜き去って、必死に逃げようとしていた一人と、腰を抜かしながら動けないでいる一人、そして、カチカチと奥歯を鳴らしながら動けないないでいる一人の肩を、失禁しつつも必死に引っ張っていた一人の手前に着弾。

 

 それと同時に、ブワッと凝縮されていた強風は解き放たれて、付近にあったすべてを吹き飛ばした。逃走を選択できていた獣人、失禁していた人族は強風に乗って女王から距離を取れる。しかし、腰を抜かしていた一人が、耐えた。耐えてしまった。

 

 それは、強風で持ち上がらずに、装着されているその『ライトアーマー』が地面を削って、勢いを大幅に削った結果だった。

 クソッタレ。そう舌を打ちそうになった僕は、神力の風に怯んで脚を止めた女王を先越し、顎に傷がある一人を背中で庇った。

 そうして相対する。これで二度目だ。二度と嫌だったのに。コイツと面を合わすのは。


「下がって……僕が耐えます。その内に早く……ッッ」


「っっっ…………」


 僕と女王はそれぞれの意志をもとに、視線を交わせたまま硬直する。

 正真正銘、最後の膠着状態だと分かった。

 だから語りかけた。早くすべてを放棄して、何よりも速く逃げてくれと。

 彼には今、僕の風が付いている。

 常に追い風を受けている状態なら、その足は常人以上の速度を出せるであろう。

 風の守護。

 それが分かったからだろう、彼は「ごめん」とか細く呟いて、恐怖で膝を屈しそうになりながらも立ち上がり、必死になって走って仲間の元へ、安全な場所へと逃げていった。

 

『ギギギィィィイイ』


 お前が下がれば、我は

 奴らを鏖殺する。そんな絶殺的意思がヒシヒシと伝わってきた。

 無機質さを脱ぎ捨てて、真に『命』を感じさせる真紅の八眼から明確に、僕へと。


「…………逃げねえよ」


 ——あと『五分』はな。


「さっきから執拗に追いかけてきやがって。ウザってえったらねえよ。だからァ——」


 今に逃した彼等が、お前の索敵範囲外にまで移動し終えるまでの時間。

 第六感が答えてくれる、彼らが逃走完了する時間は、約五分。

 つまり、僕が担うべき役目は、それまでの時間稼ぎ。

 

「テメエはここで、殺す」 


 成し遂げろ。今こそ。命を懸けて。

 奪え。与えよ。贈与せよ。二度と後戻りできぬ冥府への切符を。

 唯一無二。

 魂を持つすべての生が恐怖する『死』を、目の前の敵に向かって————!

 

『————ッギギャヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』


 幕が上がる。一度は閉ざされていた戦場の。

 狼煙が上がる。白煙はなくとも、声として。

 始まった。どちらかの命を奪うことでしか終わらない、死闘の第二ラウンドが。

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