第40話 男は「おはよう」と叫んだ
カツ、カツ、カタカタカタ————。
無機質、無変化、無生物。
それらが織りなす不気味なまでの静謐を過ぎ去れば、地下に張り巡らされている蜘蛛の巣は、もはや隠す必要なしと言わんばかりに、その異常さを露わにした。
ただ道なりに歩くだけで、まるで僕たちがする堅調な歩みを止めようとしているかのように、洞窟内を埋め尽くさんばかりに張り巡らされている『正真正銘の蜘蛛の巣』が全身に絡みつく。数百数千という子蜘蛛が息を潜めていた区分に到達した当初は、さすがに目を見開いたものの、この道に入ってから三十分も経てば、もう鬱陶しいだけで何の苦言も言わなくなっていた。
道中で数多く、おそらく子蜘蛛たちの餌にされてしまったのだろう『動物の白骨死体』が見られ、僕は異生物に尊い命を侵食されてしまった名もなき動物たちを拾い、ただ黙祷を捧げた。
——本来はこの世界にいるべきではない『異生物』のくせに、命を侵しやがって。
自分自身でさえも与り知らない、魂の奥底から沸々と湧き上がってくる理由不明の魔族への憎悪。
まったく理解できないそれを、だが自然と受け入れて、僕は眼に確かな炎を灯す。
「確認できる子蜘蛛の数が明らかに増えてきたね」
黙祷を捧げていた僕は、今にも怒声を発しそうな険しい顔をしながら、捕食されてしまった生命の遺骨全てを日の元に帰すことは今の容量的に無理であるからして、一本の牙を綺麗な布で包み込み、それをリュックへと丁寧に保管した。
共に黙祷を捧げていたルルド君が、辺りで頻りになっている物音について発言をする。僕は振り向きざまに、その言葉にコクリと頷いた。
「うん。ここが食糧保管庫の近くだと仮定すれば、この蜘蛛の数と遺骨は納得がいくよね」
それにルルド君とロウベリーさんは頷いて、僕なんかよりも遥かに聡明な彼女は、考えられた最悪の一つが消え、被害者生存の望みが確かに見えているという明るい表情をし、口を開く。
「さっきルルドが披露した考察通り、石蜘蛛には『蟻の生態の一部』が備わっているみたいね。ついでに甲殻類のような機能も。そして、白骨化した餌が散らばっているということは、おそらくは経口摂取。被害者達が溶かされずに生きている可能性は高くなった。これは光明だわ」
「とくれば、繭と毒の線が濃いよね。内一つか、その両方、どちらも有り得るのが現状だ。発声ができる状態なら最高だけど、毒の威力が不明な以上、意識不明に陥っていると考えた方がいい。衣服を剥ぎ取られたとは思えないし、衣擦れの音がないかを集中して調べていこうか」
「了解」
「ええ」
蜘蛛は巣に掛かった獲物に毒を注入し、麻痺状態、もしくは死亡させ、行動不能に陥らせる。そうして抵抗力を失わせた獲物を自身の十八番の糸にてグルグル巻きにしてしまうのだ。
行方不明者が繭にされて、食糧庫——相応のルームに連れて行かれたのならば、地面を削る等の目印を残せているとは思えない。
ルルド君が言っている通り、毒の威力が低くければ、行方不明から数時間が経過している現在では、麻痺状態からの回復、もしくは意識を取り戻して救助を乞うている可能性がある。しかし威力のほどが不明な故、油断できないのが現状だった。
身を隠すのに必死な『コイツら』に一度だけでも噛まれてみれば、その毒の威力検証は可能ではあるけれど、そんなリスクを態々負うなんて馬鹿の一言に尽きている。こんな物資が整っていない今においては特に。
見たまんま、虫並みの知能しかないであろう『コイツ』らが、捕食の際に邪魔になってしまう衣服類を事前に剥ぎ取っているなどとは僕としても思えないので。
最悪、救助を乞うための発声ができなくとも、抵抗の身じろぎで発生する衣擦れの音などは、二人がかりで耳を凝らせば何とか拾えるはずである。したがってルルド君の言葉に了解の意を示した僕は、邪魔な蜘蛛の巣を切り払って進む彼の後に続いた。
「っとと…………何度もすいません、もう前に行っておきます」
「ん? 全然気にしなくていいのよ? 馬鹿ルルドのせいで慣れてるし」
どれだけ自問自答をしても分からない、出所不明の魔族への憎悪。それのせいで無意識に歩調を速めてしまっていた僕は、何度か前を歩いているロウベリーさんの背中に打つかって、その度に「あっ、すいません!」と謝罪をし。
当の彼女は苦笑しながら「いいよいいよ」と笑いながら言う。背後に強大な敵性存在の気配は感じられないことから、僕はロウベリーさんに深く頭を下げて、「考えに夢中で人に打つかるのはあるあるだよね」なんて言っているルルド君の隣に並んだ。
ズバズバ、と。二人揃って剣を振るい、どんどん濃くなる蜘蛛の巣を払っていく。そんな調子で、一切の油断なく、多大なる手間を掛けながら一本道を突き進んでいくと、更なる変化が僕達の視界に飛び込んでくる。それに、ロウベリーさんは呻いた。
「うぇぇ」
「これはエグい」
「糸の……壁?」
僕達が繰り返していた順調を阻んだのは、鬱陶しいくらい一本道のあちらこちらに張り巡らされていた蜘蛛の巣が、まるで『これより絶対に先には行かせない』という総意のもと、何十何百何千何万と重ねられていったような、数える気にもならない数の強靭な糸で編まれて造られた『白色の防壁』であった。それを呆然と立ち止まりながら認め、僕達は『石蜘蛛にとって重要と言えるルーム』が近いことを言外に悟る。
「ここまで露骨な時間稼ぎをするということは、食糧庫はそれだけの重要性を持っているということか。それとも、俺達を近づけたくない『別の何か』があるのかな?」
「コイツらを生み出している母体……そいつがいる『マザールーム』とか?」
僕のその言葉に、顎に手を添えているルルド君は「んー……」と唸ってから、徐に口を開く。
「この先に例の『マザールーム』があるのかは、まだ判断が付かないな。あのゲントウ氏を帰還不能に陥らせていることを加味し、俺達に対して迎撃ではなく防衛という選択を取ったということは、親蜘蛛を討伐されるという恐れを彼奴等は感じたということになる。ゲントウ氏達がマザールームまで自ずと足を運んだとは思えないし、十中八九、親の方が彼等の迎撃へと向かったはずなんだ。しかし、俺達の方には来ていない。それどころか遠ざけようとしている。だから、マザールームがある線は、俺的には微妙な位置なんだよね。自衛能力に乏しい何かがあるような……考えものだ」
「蜜蜂のような、次期女王の卵を安置しておく『王台』がある線は? 石蜘蛛が蟻の生態の一部を持っているなら、蟻の近縁である蜂の生態も模しているのは有り得ると、私は思うけど」
「…………大いにあるね。うん、その線が濃厚な気がする」
聡明なロウベリーさんの可能性の言及に、ルルド君は瞳孔を開かせながら『有り得る』と言う。側からそれを聞いていた僕も、なるほどぁと感心した表情を浮かべる。
養蜂は僕の故郷でも繁く行われていた。蜜蜂は自然の植物や、ライフラインたる農作物の受粉の助けになってくれるし、養蜂箱から採取される蜂蜜は栄養満点で、よくサチおばさんやカカさんがパンケーキに垂らして食べていた。蜂蜜を採取し終えた際に手元に残ってしまう巣の搾りかすを使って蜜蝋を精製し、精製したそれを蝋燭に加工したり、ワックスにして木材や皮に塗ったり、本当に多種多様なことができてしまうから、かなりの重要産業だった。それ故に、僕はまあまあ蜂のことには詳しい。
王台というのも実際に見たことがある。次期女王が生まれるための専用の揺籠、そこに産み付けられている次期女王の卵は、働き蜂が生まれてくるものとは大きさ、そして雰囲気がまるで違っている。次代を担っていると分かるのだ。
まあ、複数生まれてくる新女王は誕生したその瞬間に過酷な生存競争——身内同士の殺し合い——に身を置かれ、大抵は息絶えてしまうのだが。
しかし、そんな競争で勝ち残った一匹が殊更に優秀だったということらしい。
これが脆弱な生物が世界で生き残っていくための戦略なのかと、齢幾つだったかの僕は適当に焼いた胡椒マシマシソーセージを片手に思っていた……ような気がする。
「とすると、もしかしてトウキ君の方が『アタリ』だったのかな?」
考えが脱線してしまった。そうハッとした僕は、自分の胸中で蟠っていた懸念を言葉にする。僕達が進んでいる方に次期女王が眠っている揺り籠——次代を担う心臓たる王台があるのならば、トウキ君がたった一人で進んでいった方向には、事前に想定していた『マザールーム』があるのではなかろうか、と。
「んんー……まあ、この考察が的を射ていれば、その可能性が高いよね」
「一人で行っちゃったけど、大丈夫かな……トウキ君」
「「大丈夫だね/でしょうね」」
「だよねぇ」
背中を預ける仲間も連れず、単独で『ボス』がいる方へ行ってしまったかもしれない彼に心配を抱くも、二人揃って問題ないだろう結論を出し、それには僕も同意、苦笑しながら頷いた。
「ていうか、この『糸の壁』はどうするの? このままじゃ先に進めないわよ」
「そうなんだよね。天井にある卵嚢列への延焼を考えると火を放つことはできないし、かと言ってロウベリーの魔法も焼け石に水。剣で斬って進むのも現実味がないとすると……あっ!」
「ん? 何か妙案が浮かんだ感じ?」
両腕を組みながらアイデアを捻り出そうとしたいたルルド君は、唐突に閃いた様子を見せた。
軍師然としていたルルド君の閃きは、この膠着せざるを得ない状況を打破できるのだろうか。そんな興味津々の眼差しを送った僕は、一体どんな妙案を思い付いたんだと彼へ問いかける。
ルルド君はその問いに答える前に、何故か『どうした?』と片眉を吊り上げている僕へ期待の感情が込められている視線を縫い付けてきた。彼は言うべき答えを溜めるに溜めて、放った。
「ソラの加護を使って、この糸の壁だけを吹き飛ばせないか?」
「えっ……僕の『風の加護』を使って?」
さすが軍師の発想力である。機転が効くと言うべきだろうか。ルルド君が閃き出した妙案とは、まさかの『僕の加護』を用いて、行く手を阻んでいる白糸の障壁を吹き飛ばすことだった。
いやいや。ここに来るまでの馬車での移動中に、みんなには言っておいたじゃないか。僕は風の加護のことを、この歳まで大して使っておらず、ほぼ使い勝手が分からないほどであると。それを知っていてなお、僕の風の加護を使おうと言うのか。この人命が掛かっている状況で。
「閉塞地で窒息は最悪だ。延焼してしまえば間違いなく陥る。それを考慮すれば、無作為に火を放って焼却はできない。ロウベリーの風魔法だと百パー出力が足りず、魔力切れの結果に終わる。剣で斬り払うにも糸の壁が厚すぎるから非現実的。それなら、今こそ風の神の助力である『加護』を使う時なんじゃないか? もちろん、ソラが加護のことを認知したの最近だという話は聞いているし、そこは考慮してあげたいけれど、しかし現状は『神頼み』をする他にないと思えている。だから頼んだんだ」
僕が抱いている不安は理解している。もし失敗をしたらという恐怖も分かっている。それでも君にしか頼めない。そう真摯な眼差しで伝えてきている彼に、僕はたじろぎつつも決心した。
友が向けるこの期待に応えなければ、ここで小心怖じけて足踏みをしてしまえば、致命的な逃げ癖がついてしまうだろう。
そしてその悪癖は必ず、最悪な結果を手繰り寄せてしまう、と。
「…………分かった。できるだけ加減して、やってみるよ」
瞑った逡巡の俯きの末に顔を上げた僕は、全幅の信頼を寄せているルルド君へと覚悟を決めた表情を見せた。それに『ソラならやってくれると信じていた』という満面の笑みを浮かべている彼に、期待に応えてみせるからと片腕を胸前で掲げる。
僕は大きく息を吸って、眼前にて敵性存在の侵入を阻んでいる蜘蛛の白璧に、薄い風の膜を無意識に纏っている右の掌を当てた。
「全責任は俺が持つ、だから任せたよ、ソラ!」
「任せて。絶対にやってみせる。助けてみせる」
ある一定の重量物——人間等——を飛ばさずに、それ以下のものを根こそぎ吹き飛ばせる強風。その基準は、僕を浮かさない程度のものと仮定すれば、自分の中で加減と調整がしやすい。張り付いている蜘蛛の巣を四方の壁面から剥がすならば、風を『旋回』させる必要がありそうだな。しかし、僕達が通れるくらいの『風穴』であれば、ただ真っ直ぐ前に撃ち放てばいい。
緊張。恐怖。僕はそれらで息を呑む。移動での休憩で加護の自主放出訓練はしていたものの、しかし実践というものは経験がない。加減なしで『暴風』を顕現させてしまったのは、エリオラさんとの模擬戦の時くらいである。
「………………ふぅーー」
大きな不安。
そして挑戦に乏しい弱者の思考が心臓を戦慄かせて、肺を無意味に引き締めた。
正真正銘の一発勝負。
経験無き『加護の本番使用』を強要されている現実を再確認して、悪心を感じるほどの倒錯感に苛まれる。確かに背後にある地面が暗い大口を開け広げて、僕の逃げ道を塞いだ気がした。一歩下がれば、終わりだ。だから、下がらない。
意識はしっかりとこの大地を踏み締めている。……戦慄く心臓を覚悟で抑えつけて、僕は肺を膨らませている洞窟の冷気を、一気に吐き出した。
「強風を直線に……方向性を持たせて……それを僕が飛ばない程度まで加減をして…………」
極限の集中。ゾーンに突入する。瞬かない瞳孔は開き切り、口腔は開けたままで涎を垂らす。
体内を駆け巡っている『風』を呼び覚まして、出番が来たとその出力を甚だしく上昇させた。内側にある風は、僕の意志のもとで外へ飛び出し、外界から遠い洞窟内で強風を発生させる。発揮された『加護の真価』に瞠目するルルド君とロウベリーさんの前髪がふわりと持ち上がり、そこら中で息を潜めていた石蜘蛛達は『神の御力』に当てられて、一目散に逃走していく。僕の左手が当たる蜘蛛の白璧は間近で生じた強風で波打つも、その牙城を崩すことはなかった。——だがしかし。
手足と同じように自由自在に操られる神の御力。人間を飛ばさない程度の強風は、徐々に鬼拳の構えを取った僕の右手に集中し、見事な球体と化した。
破壊力は体外へ飛び出した時以上に甚だしく、無秩序に場を駆け回っていた荒々しさは繊細な操作を行われた末に『秩序』という美しさを着飾る。計り知れないその威力は余波だけで、行く手を阻んでいた糸の璧を浅くズタズタに引き裂いていた。
そのことを静かに認めながら、僕は掌に溜めている猛烈な強風をさも矢尻のように先鋭化させて、直線上にある障壁を吹き飛ばす準備を完了させる。
ルルド君からの期待に添えられるように、あまりにも拙すぎる今にできる限りのチャージを完了させて、僕は一度深呼吸を行った。
そして眦を裂いて、掌の旋風を眼前へと——撃ち放つ。
「はぁあああああああああああああ!!」
何故か、上位存在たる風の神にこよなく愛されてしまっている、風の寵児。
そんな僕から生み出され、そして解き放たれた尖強風は、悲鳴のような風切り音を掻き鳴らしている糸の壁を、瞬く間に何層も何層も、減衰などという現象が存在していないように一切止まらず貫いていく。
洞窟に吹くはずがない、繊細でありながら強烈な、先鋭化されては破走していく、烈風一陣。末に甚だしい風塵が踊った。
その後に見えるのは、突き抜けた、紛うことなき『風穴』である。幾百千の蜘蛛により重ねられ、編まれた糸の数々は、僕が放った一撃により巨大な穴を開け広げ、行く手を阻むための防御機能を失わせた。僕はそれを静かに認め、大きく息を吐く。
「ふぅー…………よし……っ!」
「さすが……!」
「ナイスっ! ソラ君!」
「ありがとう。なんとか出来たよ。でも、ははは、めちゃくちゃ疲れた……」
「うん。先に進めるようになったし、ソラの息が整ったら早速出発しようか!」
「「おー!」」
+ + +
トウキ君の鬼拳に倣い、その威力を一点に集中させた加護の『風進』によって、人ひとりが余裕を持って通り抜けられるくらいの風穴が開けられている、蜘蛛の糸で作られた白璧。あの、ハムや卵と一緒に食べると美味しい食パンの中身のような断面を見せているそこを、やや頭を下げながら通り抜けていった僕達は、糸壁が張られていない所まで移動した後、壁の裏側に当たる場所で立ち止まっては大きく息を吐いた。
「だいぶ長かったね」
極限の集中による『風の加護』の行使。
それらの影響で額に玉の汗を浮かべてしまっている僕は、立ち止まっては振り返った二人の前で、コートの袖を使って汗を拭いながらそう言った。二人は疲労感が滲み出ている僕の様子に微笑を浮かべながら、ナイスと労いの言葉を掛ける。
そして「実はまだあったんだよねー」と。
ハンカチに包まれた三粒の金平糖を懐から取り出して、不承不承の感情がやや見えている笑顔で手渡してくれたロウベリーさんに「あぁ……ありがとうございます」なんて苦々しい表情で感謝を告げて、それを一思いに口の中で転がした。
「これだけ分厚く作るなんて、重要な場所が近いですよって言ってるようなものよね」
足元をサササーっと鼠のように通っていった石蜘蛛の一体に飛び跳ねつつ、ロウベリーさんはちょっとだけ暴れてしまった己の心臓を押さえながら、苦笑するルルド君に流し目を送った。
「そうだね。このゴリ押しの妨害が俺達を『ハズレ』へ導くための『ブラフ』だとは思えないし、そんなことを出来るような『知能』があるようにも、さっきソラが捕まえていた石蜘蛛の抵抗的に見えなかった。だから、これから先の最重要警戒項目は『敵本体での迎撃』になるだろう。糸壁に関しては、ソラの風でどうにかできることが分かったしさ。そういうわけで、一層の注意をして進もうか」
「ボリボリ…………ゴクッ。うん、了解」
「ふふふっ、分かったわ」
虫並みの知能しか持たず、故に本能で動いているのだろう石蜘蛛が、僕達のことを『罠』に嵌めようとしているとは考えられない。
親蜘蛛に関しては未知数で、そこは危惧すべきであるが、しかしそれを理由に足を遅くしてしまえば、被害者救出の成功率が下がるのは明白だった。彼奴等に補給が必要になってしまえば、囚われの誰かが捕食されしまうかもしれないから。他の餌に食いつくことは否定できないにしても、ただの万が一に縋ってしまうのは危険極まる。
捕食による被害者達の絶命は看過できない。
それは今までの全てを無に帰す最悪だ。被害者達の位置は不確かではあるものの当たりをつけている僕達でしか、彼等を救うことはできない。
だから、進む。止まらずに、前へと。
茫漠とした闇を引き裂き、勇ましい足音を奏でながら。
「うわぁ、そこらじゅう穴だらけ。もうカニね、カニ。あの笑ってるやつ。マジで無理だわ」
「確かに、陸ガニみたいですね。うわっ、ぞろぞろと穴の中に逃げ入ってく」
「うぇへぁー……気っ持ち悪ぅ」
「はははっ、まあ、背負っている殻からして甲殻類の生態も持っているのは窺えたしね」
一本道をひたすらに進んでいくこと、二時間。
洞窟突入から約五時間半が経過した頃、今まで大した変化——蜘蛛の巣があるなど——くらいしか見せてこなかった洞窟の様子が一変する。
僕達が踏み締めている不変の地面を除いた左右。
そこにある岩壁の上から下までがびっしりと、拳大だったり頭ほどだったり、本当に様々な大きさをした『穴』が無数に開いているのだ。死に絶えて、浜に打ち上げられた珊瑚のようなそれを、左手に持っている小型のランタンを恐ろしげに振りながら見回していたロウベリーさんは、その穴に潜んでいる複数の岩蜘蛛を認めては陸ガニを例に挙げて、おそらく鳥肌が立っているのだろう腕を摩りながら、そう呻いた。
認められる石蜘蛛や、石蜘蛛の巣穴なのだろうものの数。
それらに『ここまで侵食が進んでいるのか』とつい眉目を吊り上げてしまっている僕は、彼女がした的確な例えに頷きつつ、適当に選んだ拳大の穴を慎重に覗き込む。目を攻撃されないように鏡面剣で先に穴を突きながら。
「うん。見たところ、ここは石蜘蛛の居住区のようだ。となれば『本丸』も近そうだね」
骨盤の辺りで空いている穴を覗き込み、一体どこまで続いていると思う。
トウキ君から返してもらった火の魔道具をポケットから取り出して、それを用いてみても穿孔の果てを見通すことはできず、穴に入り込んでいった複数の石蜘蛛は、その姿を完全にくらませてしまっていた。
まさしく『空洞』であるそこに、ジーッと睨みを効かせていた僕は、これじゃあ手出しのしようがないと徐に体勢を直し、蜘蛛どもを駆逐するのは一朝一夕じゃ済まないな、と顔を険しいものにした。
それを背後で見守っていたルルド君が現在地の変化を鑑みて、ここが居住区であると推察。そして当居住区の先には蜘蛛が守護している本丸があるだろうと口にする。
リーダーの表情には、言葉での明言はしていないものの『確信』と呼べる心情が浮かべられていて、それに視線を送っていた僕やロウベリーさんは『まさか』なんて異論を挟まなかった。
「…………」
目視で確認できる石蜘蛛の数の増加。そして明らかな洞窟内の変化。
上記に加え、社会と呼べそうな形態を、害悪存在たる魔族なんかが形成している現実。それらを認めた僕は口を噤む。
石蜘蛛は単体の力が弱い故に、はぐれ個体はいるにしても、こうして集まっているのだろう。
諸々が済んだ後ではあるが、コイツらの駆除へと回ることになるこちらからすれば、一箇所に固まっている当状況は好ましいと言える。
そこを重点的に攻撃すれば一網打尽にできるから。
思い出してみると、僕に復讐しに来た『犬型魔獣』も、群れで行動をしていた。
世界に存在してはいけない異端。正真正銘の異生物たる魔族にも、魔族なりの仲間意識、同族嫌悪ならぬ同族好意があるのだろうか。
興味はまったく湧かないのが正直なところだが、少し考えものだ。
「ソラ」
既に位置はバレているが、どうにか逃げ延びようと岩石に擬態する石蜘蛛の一体に、酷く冷え切っている視線を縫い付けていた僕へ、その眼差しに気付いていないルルド君が声を掛ける。
僕は石蜘蛛へと向けていた冷酷無比なそれを常のものを即座に変えて、続く彼の言葉を聞く。
「俺達を導いていた『風』はまだあるかい?」
「……うん、今は立ち止まっている僕達のことを『待ってる』よ」
「——よし、それじゃあ風の導きに乗って、出発しようか。被害者救出は既に俺達の目の前にある」
「了解」
胸の前で腕を掲げたルルド君の号令のもと、止めていた歩みを再開した。進路の至る所にある無数の穴は、こっちなのかという迷いを引き起こさんと口を開けている。
しかし風の導きに引かれている僕達を惑わすには足らず、一つ二つと横目の視線は送りつつも通り過ぎていった。石蜘蛛程度に痛手を負うことは考えられないが、できる限り『不安』の芽は摘んでおきたいということで、先ほどのような前衛二名をやめて、ルルド君が空白の後衛に回ってくれている。
ルルド君と位置を——ぶつかるという自分本意な理由で僕は役目を担えていなかったが——入れ替え、前衛で彼から借り受けたランタンを握っている僕は、緊張しているものの堅調と言える歩調で揺れ動く光、それが届かない先にある地面に転がっている、幾つもの岩石を認めた。それらは光の端がちらりと当たった瞬間に微動。
まさに蜘蛛の子を散らすように足を生やして逃げていった。その気色の悪い光景に舌打ちをしたい衝動に駆られた僕は、無言で自問する。
舌打ちなんて滅多にどころか全くしない行為を衝動的にしそうになった原因、魔族への憎悪に疑問を呈す。この『憎悪』は一体なんなんだ、と。
その疑問は、まるで『魔族を憎悪することは当然である』というように、胸の中で波紋した途端に融解、跡形もなく霧散してしまった。
それについて追求しようとは思った。だけど、現実がそうさせはくれなかった。
風の子が導いてくれていた場所が、被害者の居場所がとうとう見えてきた故に。
不満はない。歯痒さもない。
僕は前を向き、とんでもない悪臭を漂わせている、半径六メートルほどの中規模なルームへと、苦しげに顔を歪め、強強しく腕で口元を多いながら足を踏み入れた。
「ッ…………ぐぅ」
「くんくん……んー、そんなに臭うの、ソラ君?」
「ッスゥー……っはい、めちゃくちゃ臭い、ですね。それに、空気も澱んでる」
「…………俺はやはり何も感じないね。ロウベリーもそうだし、トウキだって分かっていない様子だった。しかし、鼻が曲がるほどの『悪臭』がこのルームには充満している、か。……うん。ということは、もしかするとソラが感じていたのは超微細な死臭——もっと抽象的な『死の香り』なのかもしれないな。ここが石蜘蛛どもの食糧庫なのは……そこらじゅうにある『繭』を見る限り明らかだかね」
行方不明者の一人、アメヤマ氏の住居がある山下の村でも感じていた、腐ったものをさらに腐らせたような、この世のものとは思えない『悪臭』の正体。それに付随している歪んだ空気。
それらは魔族に捕獲され、無惨に捕食されてしまった生物達が、せめてこれだけでもと残していった、恐怖や無念、そして怨念の思いが作り出している『死の香り』なのかもしれないと、ルルド君は言った。
鼻から空気を吸うことを憚っている僕は、その推察に頷くだけで同意する。
しかしこのままでは埒が明かないと思い、僕は甚だしい悪心を覚えながらもこの悪臭に慣れるため腕を解いた。そして見渡す。
僕達が足を踏み入れたルーム——蜘蛛達の食糧庫の全貌を。
「…………すごい数の繭」
うぷっ、と堪えたように喉を鳴らしながら周囲を見回す僕は、大小様々な糸で張り巡らされている天井、そこから吊るされている、ざっと数えただけでも五十はある『繭』に顔を歪めた。
高さは目測で二十五。広さはざっと六十平方メートル。ルームの形状は四角形ではなくドーム状。頭上八メートルの高さから蜘蛛の巣が張り巡らされており、その巣のあちらこちらには、照明にしているのだろう『コケアオミドロ』が点在していた。
——魔族が一丁前に飾り付けやがって。そんな思いで催した舌打ちの衝動は表に出さずに押さえ込み、視線を頭上から下方へ移す。
地面には野生動物の亡骸が無造作に転がされている。
粉砕されて原型が残っていないものもちらほらと見受けられるが、頭蓋の数を鑑みて捕食された生命の総数は『五百』はくだらなかった。
どうりで、道中の原生林では昆虫や動物が見られなかったわけだ。
魔族どもに軒並み捕食されていたと見ていい惨状。
僕は魔族への憎悪を殊更に滾らせて、ギギッと左の拳を握り締める。
「吊るされている繭のどれかに行方不明になっている誰かがいるのよね」
「ああ。それにしても、石蜘蛛の対策を早期に打てて『幸運』だったな。もう少し放置してしまっていたら、近隣の人里にまで魔の手が及んでいただろうからね」
「……うん。これ以上の被害を出さないためにも、コイツらを速く根絶させなきゃいけない」
「その通りだ。よし。早速、吊るされている繭を回収して中を検めていこうか」
ロウベリーさんの冷静な一言に、ルルド君は頷きながら、魔族被害が人里に及ぶ前に対策を打つことが叶った現状を幸運と形容し、僕はそれに同意しつつ、危惧から来る思いを口にした。
表情を引き締めたリーダーの号令のもと、僕達は被害者が包まれているであろう、五十を超える繭を地面に下ろし、それを裂いて救出を成し遂げようと足並みを揃えた。が、しかし……。
「了解——と言いたいところなんだけど……」
「どうやって下ろせばいいのか、よねぇ……」
僕達が地面に下ろそうとしている繭は、その全てが天井から吊るされている。天井までの高さは二十五メートル。
梯子も脚立もない現状でそれをどうやって『安全に下ろせる』だろうか。まさか、天井と繭を繋いでいるたった一本の蜘蛛の強糸を矢かなにかで撃ち抜いて、自由落下してきたそれをそのまま硬質な岩肌の地面にドボン——なんて普通に有り得ないし。
この高さから受け身も取れない状態で落とされるなんて、もはやトドメを刺しに来たと言えてしまう。
僕の風で受け止めるにも、精細なコントロールを行える自信はない。
今にできるのは凝縮した風を撃ち放つことくらいだ。
にも関わらず、ぶっつけ本番でことを行うなんて正気ではない。
となると案に上るのは、繭の真下に誰かが立って受け止めるパワープレイ。
そして、ロウベリーさんの魔法でなんとかするか、くらい。
彼女の魔法で何ができるのか知らない僕は発言をしようもないし、聡明な二人が魔法の案を上げないのならば、それは不可能だからなのだろう。
「ソラの加護、ロウベリーの魔法、そのどれにも頼れないのなら、やれることは真下から『キャッチ』するくらいか。こんな時に『土魔法』があれば便利なんだけど、無い物ねだりはよろしくないよね。よッシャ、ロウベリー、出番だ! 君が真下に立って繭を受け止めてくれ。力持ちだろ?」
「馬鹿ルルドォ……こんな時にふざけるんじゃないってぇーーのッッ!!」
「あだっ!? っ痛てて……俺は真面目だったんだけどなぁ。仕方ない、俺が受け止めるよ」
「当たり前だわ!」
まあまあ力がある男二人がいる現状を見て、どう思考を飛躍させれば、華奢な女性に一番の力仕事を任せるというのか。
そんな呆れ顔を浮かべてしまっている僕は、案の定、鬼の形相をするロウベリーさんに勢いよく尻を蹴られるルルド君を見ながら、もう何度目だよ、と思った。
「適材適所だと思ったんだけど、仕方ない。俺が真下で受け止めるよ。じゃあ、ソラ。このナイフを投げて繭を吊るしている糸を切ってくれないか? ロウベリーは馬鹿力だけど、そこまで器用じゃないからさ。君にしか頼めない」
「フンッッ!!」
「うげえっ!?」
ほんと懲りないよな、コイツ……。
僕は馬鹿を見る目を向けながら、ゴホンと咳払いをした。
「……ええっと、これ一つずつやっていく感じ? そうなら途方もないっていうか、キャッチャーになるルルド君一人の負担が物凄いことになっちゃうけど……んー、まあ大丈夫そうだね」
「いやいやいや! この数は全っ然無理だね。絶対に腰が壊れるよ。うん、今も繭に閉じ込められている、おそらく野生動物だろうは可哀想に思うけど、一旦は放置させてもらう。吊るされている繭を安全に下ろすなら人手と器材が不可欠だからね」
「動物と人間を見分ける方法が思い付いてるの、ルルド?」
「ああ。賭けだけど一応はね。先に二人に伝えておくと、この賭けというのは二重の意味を持っている。一つは繭に閉じ込められている誰かが気付けるか、声を発せられるかどうか。そして、石蜘蛛以上の巨体を持っている、名称にして『岩蜘蛛』に気付かれないかどうか、だ」
——人手も器具も足りていない状況で、全ての繭を下ろすという不可能に挑戦するのか。
——希望と絶望を同時に運ぶかもしれない、ハイリスクハイリターンの方に賭けるのか。
——二人は、どちらにベットする?
二者択一。このまま足りていない人手と器具を集めに戻るという、考えうる限りの愚行を僕達が犯すなんてことは『絶対に有り得ない』と確信している顔の、ルルド君からの問いかけ。愚問だ。天秤のどちらに票を入れるかなど。
僕達の目的は行方不明者の救出。一刻の猶予もない状況と知り得ていながら、リスクを飲み込まないなんてことはできようもない。僕とロウベリーさんは互いに目配せをして、微笑しながら肩を竦め合った。それを見て、ルルド君は笑う。
「で、まさかとは思うけど、叫んで返事を待つとか言わないわよね?」
「はははっ、そのまさかだね」
「はぁー……繭に包まれてる野郎が昏睡状態だったら『やり損』だけど?」
「それはそれ、その時はその時。奇跡に縋るしか無いのなら、全力で臨まないとじゃない?」
「ぬぅー…………」
上手く論破されてしまったが、しかしその選択が良いものかどうか懐疑的。
そんな様子を見せているロウベリーさんに、どこぞの役員のように手振りを用いながら、ルルド君は解説する。
「ここまでの道中で、蜘蛛の糸の強度は確認しておいた。その強度は素手での破壊は至極困難と言えるほどだ。トウキを除いてね。刃物さえあればなんとかなる、とも付け加えておこう。捕縛時に刃物的武装を取られていると仮定すれば、繭に閉じ込められた被害者はしばらくの抵抗の末に動きを止めるはずだ。それが今。毒を注入されたなら、尚更に動きを弱めているはず。酸欠に陥らせて餌を死亡させたならば、餌の鮮度の低下を引き起こすのは明白で、体外消化をして捕食していない以上は、肉を腐らせることは憚るはず。ならば、酸欠の線も除外していい。毒も然りだ。ならば生きている。だけど反応がない。可能性だが、身動きが取れない被害者は睡眠を取っているのではと俺は踏んでいる。少しでも回復に努めているわけさ。それなら起こす必要があるよね。最も簡単で、最も効率がいい起床要求、それが『叫ぶ』という選択だよ」
「……ソラ君の風で揺するのは? 叫ぶよりはまず起こす方が得策じゃない?」
「それは『最も無い選択肢』だね。加護というのは『国に一人もいないレベル』の超希少な神的能力だ。まさか自分が閉じ込められている繭が『風の加護』で揺らされているなんて、もしロウベリーが閉じ込められている立場だとしても思わないだろ? 俺も同じさ。ただ揺らすだけじゃ被害者が目を覚ますか分からないし、起きたとしてもすぐに寝てしまうのがオチだろう。下手に魔族を刺激するだけで終わる可能性が高くなる、それなら叫ぶだけで済ませた方がトレードパフォーマンスに優れているよ」
なんちゅう論理武装口撃。
あのロウベリーさんが完膚なきまでに圧倒されて黙り込んでしまったよ。ルルド君に非がないから手も出せないおまけ付きで、なんかメチャクチャ辛そうだな。
ここは、あれか? 僕が何かしらの援護を送った方がいい感じなのか?
「……ああ、繭の防音性とかの問題もあるんじゃない? 糸で分厚いだろうしさ」
「確かに、脱出の可能性を排除するために、繭はそれなりの厚さを持っているだろうね。故にある程度の防音性はあると思う。だけど『完全防音の線』はないと俺は確信してる。酸素供給を渋れば、せっかく捕獲した餌が窒息死する恐れがある。生きた魚と死んで数日間放置されていた魚、ソラならどっちを食べたいと思う? 蜘蛛には自力で獲物を獲得する力がある。狩る力がない故に腐肉を食す腐肉食動物とは違うよ」
「ぬぅー…………」
僕に援護なんか無理だぁ。負けたぜ、完膚なきまでに。
元より勝敗がどうなるかなんて分かりきっていたものの、しかし真正面から浴びせられた敗北に対し、僕は先ほど敗者になったロウベリーさんと同じように海老反りの体勢を取りながら、意味なんてない声を絞り出す。すると、そのポーズを見ていたロウベリーさんが堪えきれなかったというように肩を震わせた。
「ぷふっ、うふふ……お揃いになっちゃったね、ソラ君」
「あはは……そうみたいですね」
傷の舐め合いというわけではないが、お互いに同一人物に論破されてしまったため、妙な仲間意識が芽生えている僕とロウベリーさん。
そんな二人の苦笑の交換を傍目にしながら『仲が良くて何より』と、まるで保護者かのように頷いていたルルド君は、徐に表情を改め、口を開いた。
「よし、それじゃあ『誰が叫ぶか』を決めようか」
そうして三人で諸々の話し合いを進めていった結果、ルルド君ほど声が低くなく、肺活量もあるだろう僕がやることになってしまった。
女性故に男と比べて喉が細いロウベリーさんは一番に選択肢から外されて、消去法的に男の誰かが『叫び手』を担うことになったというわけだ。
「じゃあ、まあ……全力で叫べばいいのね」
「ああ、頑張れ、ソラ。でも、洞窟が崩落しない程度に加減してくれよ?」
「ふふふっ、私がカウントダウンをするから、それに合わせて叫んじゃってね」
「そんな大声量は出せないけどね……うん。それじゃあ『三二一』でお願いします」
「オーケー! それじゃあ行くわよ! ……三! 二! 一!!」
おはようございまあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーすっっっ!!
ルルドが喋りすぎる




