第4話 旅立ちの支度
あれだけの猛雪猛風の暴力を振るい続けていた厳冬は一体、何処へ行ったのやら。
「これと、これ……あと、これもか」
等しく厚い白粉で表面を覆っていた周辺の山々は、それを施していた『冬』という季節が去ったことにより雪化粧を落とすことを余儀なくされてしまった。
がしかし。
冬の傍若無人さに懲り懲りしていたのか、陽気な春の到来に歓喜しているかのように氷雪によって枯れ果てていた木々に以前の雪化粧を想起させる量の、しかし生命力というものに満ち溢れている濃緑の葉々を枝に生やして、春が吹かせたのだろう甚だしい眠気を誘ってくる暖かな一陣のそよ風で乗り踊り、心地の良い音を奏でていた。
聞いているこっちもついつい踊りたくなるそんな自然音楽。
それを羽虫が入ってくることも憚らずに開け放たれている窓を通して耳に入れた僕は、せっせとベッドに広げている多種な物々を、十六歳の誕生日プレゼントとしてもらった過剰なくらいに『大容量なリュック』の中に、用意終盤で物が溢れてきて中に入り切らないという馬鹿な問題に直面しないよう服やら何やらの収納位置などを試行錯誤して、自分にできる限りの整理整頓を行いながら詰め込んでいく。
そうして『今日はじまる旅』に不可欠な必需品によるリュック底固めを終えた僕は、思考するための脳に集約していた全神経の緊張を一旦ではあるものの解き、息吐く休息を取るために春が到来している外の風景を、開かれている窓辺から眺めた。
「ふぅーー…………」
今の僕の格好は、いつもの白無地のワイシャツにまあまあ草臥れてしまっている茶色の長ズボン。そしてベッドに放置している、少なからずの擦り跡が目立つ、おそらく新品当時はもっと色が濃かったと思われる薄茶色のリュックと同じように誕生日プレゼントとして爺ちゃんからもらった、何処ぞのブランド物らしい茶色のコートだ。
去年の秋や二ヶ月前の冬。
その二つを越して春を迎えようとも何一つ変化していない——実を言うと、夏場はコートを脱いだだけの簡素な格好で過ごしている。それを見たサチおばさん他女性陣にしばしば苦言を言われるのだが、いつも笑って誤魔化している——格好だが、お洒落に対して全くの無頓着である僕がそんな小さいことを気にするわけもなく……。
一息吐き終えてから荷造りを再開。部屋のクローゼットへ『のそのそ』とやる気のない足取りをもって向かい、そこからさらに同じような、いや。
寸分違わず同じな衣服を引っ張り出して、放置していたリュックに詰め込んだ。
「えっと……あとは何が必要なのかな…………」
もしも『野宿』になってしまった時に使うことになるだろう持ち運びやすい薄手の毛布を入れておいて……あっ!
野宿ってことになったら必要になるかしれないし、念のために作業用の革手袋も持っていっておこうかな。
これらを使う時が来るのか、どう使うことになるのかは全く想像つかないけど持ってて損はないはずだ。はずだ?
薄手ではあるもののある程度の防寒が可能な毛布の膨らみで背負うことになるリュックがパンパンになるし、使い込んだ革手袋の汗臭さが衣服に移るっていう鼻を塞ぎたくなるような難点はありはするけど、まあ長所と短所と言うべきか、いつかは無難に用意しておいたこれらに助けられるってことがあるはず……だよな?
あと用意しておかなきゃいけない物は……寝巻きか。宿なんかに泊まった時に必須だから置き忘れちゃダメなやつ。
「…………っしょと」
もう持っていくような、持っていけるような物は……なにも無さそうだな。よし!
「————っとと。あとは、これこれ!」
リュックに詰めておく私物はこの部屋にも家にも残ってはいないが、僕自身が『携帯』しておかなければならない、絶対に置き忘れて旅立ってはいけない『大事な物』があと一つだけ残っていた。
携帯しておく大事な物とは、用意を済ませ終えたリュックや夏以外の季節は常に着用しているコートのような『誕生日プレゼント』としてではなく、僕が決めた『旅立ち』を祝った、そして危険が伴うだろう『長き旅』の助太刀になれという思いが込められている、若い頃に自身が愛用していたとの護身用のナイフである。
「これは数百ルーレンぽっちの安物だぞ?」と、喜びを露わにしている僕に爺ちゃんが手渡した時にそう言っていたけど。
これは、このナイフは目を剥くほどの名誉が与えられている名剣だろうと、唯一無二の希少価値を有している宝剣だろうと容易に霞んでしまうくらい、何物よりも代え難く、世界にたった一つの宝物に違いないのだ。
爺ちゃんからのお下がりナイフ、その十五センチほどの刀身がすっぽりと収められている木鞘を、嬉々とした表情で腰に巻き付けているベルトに取り付けた僕は、
『お? ちょっとカッコいいんじゃないか?』
という思いと、初めて斧と包丁以外の刃物を握ったという興奮故にその口角を吊り上げて、徐に鞘からナイフを引き抜いた。
そして『シュババアッ!!』と。
逆手に持ったナイフを自分なりにカッコ付けながら部屋の中で振り回して、側から見れば失笑ものの構えをしていると……。
ガチャッと扉が開いて、普通に爺ちゃんが入ってきた。
「「…………………………」」
片や利き手に持ったナイフを構えて、おもちゃをもらってハシャイでいる子供のようにカッコを付けている僕。
片や大人なら必須でしょうがと言いたくなる『マナー』をド忘れした様子で扉をノックしないまま我が物顔で部屋に入ってきた爺ちゃん。
そんな爺ちゃんを緩やかな振り向きで視界に入れた僕は彫刻になったように硬直し、当の爺ちゃんは僕の恥ずかしい素人構えを見て「ブフッ……!」と噴き出した。
そうして、笑われた僕は無言のまま顔を赤面させ、抜き身にしていたナイフを腰の腰に差している鞘にしまった……。
ったく。ったくさ! なんでノックしないんだよ! 本っ当に最悪だよ!
すごくめでたい旅立ちの日だっていうのにさ、初っ端から真っ白なキャンパスに黒の絵具がスプラッシュしちゃったみたいに、僕がどうしても消したくても絶対に消えないような、頭を抱えたくなるような黒歴史が作られちゃったよ!
僕の旅立ちの一ページ目が黒歴史ってさぁ……誰にも見せられないじゃんかさぁ。
「いや……なんだ。まあ、わかるぞ?」
「なに片目を瞑りながら気障ったらしく言ってるのさ! しかもそれ、少しも僕のフォローになってないからね!? っていうか恥の上塗りをしないでよ! もう!」
まったく……というぶっきらぼうな素振りを見せてしまう僕は風邪を拗らせしまったように顔を真っ赤にしつつも、昨晩から用意を続けていた荷物が詰まっているせいでまあまあ重くなってしまっている、既に旅立ちの荷造りが完了しているこれからの長き旅の相棒たるリュック背負った。
まるで成人となって『大人』の仲間入りをした子の姿を見ているような、しかし未だに未成年で、だけど晴れ姿には違いない僕の姿を見つめていっる爺ちゃんは、日向ぼっこをしている時のように柔和な雲一つない笑顔を浮かべ、それでいて少し雨が降りそうな日陰をその笑顔に差していた。
「いい格好だ。似合っとるぞ…………ソラ」
部屋に入ってきた時と同じような唐突に、真面目な雰囲気と様子を僕に見せて、そんなことを言ってくる爺ちゃん。
素直な褒め言葉と心底嬉しそうな眼差しは正直に嬉しいと思うけれど、だからと言ってさっきの醜態を見て噴き出し笑ったことは一生掛けても絶対に許さないからな。
「……うむ。ちと、鏡で見てきたらどうだ?」
「あぁー…………鏡か」
恥じらいもほどほどに微笑んでいる爺ちゃんの勧めに対して了承の頷きを行った僕は、僕の部屋の隣にある、三年前から何も変わっていない『母の部屋』に入った。
母である『フーシャ』の部屋はやはり無人である。
しかし、爺ちゃんや僕による細かな掃除がなされているおかげで、埃が床を灰色に染めてはおらず、カーテンは陽光を遮るように締め切られているものの、それを貫通して部屋を仄く明瞭にしている光輝によって、僕が全身鏡の前へと向かうための歩行にて舞う埃の煌めきは、掃除はほどほどにしている僕の部屋よりも目立っていない。
それを縦に動く視界の端で認めながら部屋のクローゼット前にある全身鏡の前に立って、僕は旅立ち前の自分の姿を、人生の表紙を飾るだろうその姿を正面から見た。
大きな姿見に映る僕は、なんというか『旅人感』があった。
それを「おー……」と。
少し照れくさそうに頬を緩めながら鏡の前に張り付いた僕のことを、背後で微笑んでいる爺ちゃんは優しい眼差しで見守っていた。
十分に己が雄姿を記憶した僕は深い一息を吐いた後に「よしっ!」と垂れるリュックを背負い直し、鏡の前から離れる。
「…………もう行くのか」
「…………うん。準備ができたから」
「そうか…………」
精一杯、微々とは言えないくらい内に抱えていると思しき『心配』を取り除こうと取り繕った勇壮な僕の相貌を見て、ちょっとだけ寂しそうな顔をする爺ちゃん。
それを見て、かれこれ二ヶ月ほども前から今日この時をもって住み親しんだ故郷を出て『母を探す旅を始める』と覚悟を決めていたというのに……。
つい泣きそうになってしまうほどの甚だしい寂しさを、心身に感じてしまった。
漢と漢の前なのだから絶対に涙なんて『弱さ』は見せられないんだけどさ。
「…………先に外に出て待っとるぞ」
「…………うん。すぐに追い付くから」
先に村の西門に行くと言っている爺ちゃんのことを『少しだけ待ってて』と表情で暗に伝えて見送った僕は、やはりどれだけ五感を活用して部屋主の有無を確認しても、無人・無音・無臭のままである家族との思い出の場所。
僕は感傷に浸っているようなえも言えぬ表情を浮かべながら退出しようとして、不意に後ろ髪を引かれたように開かれた扉の前から振り返り、母の部屋を見回した。
「…………」
本当に何もない部屋だ。さっき使わせてもらったサチおばさんがくれたという全身鏡に、幼い僕ができる限り手伝いつつもほぼほぼ爺ちゃんが作っていたような思い出があるベッド、それに僕がカカさん家からくすねた彫刻刀を使って『これは母さんの物』などという一生消えないだろう落書き(?)を掘り込んでしまった机と椅子。
あと化粧品などの物が一度も置かれなかった、あるのは僕がくすねたままでいた彫刻刀で製作した木の櫛くらいである、カカさんが母さんの誕生日プレゼントとして贈呈してくれた、化粧とは正反対であろう全く着飾らない、まさにお飾りの化粧台。
母さんの部屋にある家具諸々は本当にそれだけだ。化粧台の棚には櫛以外の物が一切無いし。
僕の落書きが刻まれている机には本一冊も、紙の一枚も置かれていない。
まるで、ほとんどの私物を鞄にまとめて出て行ったのではと思えてしまうほど、僕が見ている部屋は閑散としていた。最低限の家具以外の物が何一つ無いのは昔からなんだけど、部屋主である母が居なくなってから余計に寂しくなってしまったと思う。
部屋を一頻り見つめていた僕は、先の爺ちゃんと同じように寂しそうな顔を一瞬だけ覗かせ、しかしすぐにそれを隠した。そして唇を噛み締めるように横に結んだ僕は、意を決したように口を開いて、誰も居ない部屋でハッキリと声を発する。
「…………行ってきます!」
僕は進めようとする足を竦めるほどの感傷に浸ってしまう前にそそくさと部屋から出た。
階段を下りては、居間の匂いを嗅ぎながら通り抜け、鍵が開けられたままである、そもそも旅人や浮浪者がやってこない奥深くの山村なので防犯の意味があまりない玄関の扉に、履き慣れている厚底の靴をしっかりと履いてから手を掛けて、まるで旅立ちを祝うように雲一つない美しき無限の蒼穹が見送ってくれている外へと出た。
そして爺ちゃんが先に向かっている西門へと向かう前に外から家を見る。
今ままでの十六年、ずっと家族と暮らしていた大切な場所。
今日この時をもって外の世界へと旅立ってしまったならば、長くは帰ってこられないだろうことは想像に難くはない。
そんな漠然とした寂しさを感じる胸の内を紛らわすように僕は両頬をパンっと叩き、自分に喝を、気合を入れ込んだ。
「——よしっ! 行ってきます!!」
慣れ親しんだ家屋へと向かって、長旅には付き物であろう別れの挨拶を済ませる。
返事は返ってこないけど、なんだか僕を応援してくれているような感じがした。