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蒼風のヘルモーズ  作者:
『ハザマの国』編

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第30話 神隠しが増えてる

 不意に、生意気な橙色のツインテールの子供を思い出す、動植物の宝庫であるが故に『緑の国』などと呼ばれている彼のエルムフットを差し置いて〝世界一の巨大さ〟を誇っているという、ハザマの国の生ける国宝——その名も、大桜樹ハザマノミテ。 


 その名前の由来は『キクノ・ハザマ』というハザマの国を建国した伝説の女人が直々に植えたことに準えてだそう。


 似ている大桜樹——ハザマノミテの親木らしいから、言ってしまえば同じなんだけど——が、ここから西にある鬼国・鬼ヶ島にもあるそうだが、そこと比べて肥沃な土地と言えるハザマの国の方が、その大きさは明らかに上らしい。


 という為になる——かはぶっちゃけ分からないけど——雑学的な話を「ほへぇー」と相槌を打ちながら聞いている間抜けな僕の現在地は、ハザマの国の南部である。


 どこかへ居なくなってしまった母を探す、途方もなき旅の一助になってくれるであろう頼もしき新たな相棒——名を鏡面剣。それを購入した宿場町を後にしてから、かれこれ四日ほどが経過している、日付にして五月十六日の昼前。


 四日をもボンヤリとした移動のみに費やしているというのに、田園だけがある景色は相も変わらず、昨日通ったくない? と訝しむくらいに変わり映えしていない。

 田んぼが乾かぬよう浸すための水路が、水の音を細やかに奏でている。雨蛙だろう生き物の鳴き声が目立っている。


 まさに十色の音。それをギュウギュウの米俵で窮屈に思えて仕方がない、天幕もない荷車の端っこで膝を抱えながら聞いていた僕は、何も変わらない景色に溜め息を吐き、馬車を使っているのに牛歩だな——そんな馬鹿みたいなことを思うのであった。


「ふわぁ〜〜〜〜…………ふぁ」


 現在時刻は午前十一時を回ったところ。登ってきた朝日が顔色を変えた途端であり、春の陽気は最高潮の時である。

 故に、朝の早くから支度して、宿を出発した僕が瞼を半開きにしてしまうのは、まあ仕方がないことのはずだろう。


 なんの変哲もない五月の中旬に降り注ぐ、やや暑さを感じられる春陽の中で、ただボンヤリと天幕のない荷台の上で夢現つに興じる僕は御者台で大きな欠伸を掻いている御者のおじさんに釣られて、顎が外れんばかりに口を開けた。

 

「カァ〜〜〜ペッ! ずぅぁー……。っだぁ、兄ちゃんは居なくなった『おっ母』を探してるんだったべな。どの辺に居るかもとかいう当たりの方はつけてるだか?」


「それは皆目見当もついてない感じです……。母は基本的に無口だったので、どの辺にとかはまったくなんですよ」


「あんらまぁ……。そりゃ気の毒だわな。おっ母も一言くらいは家に置いてってくんなきゃ、家族は困るだよなぁ」


「あはは。まあ、そうですね。ほんと、一言だけでもどこかに置いていてくれたら……今は、何かが違ったのかも」


 喉に絡んでいた痰を吐いた御者のおじさんは、終わったと思っていた話を急に振り返して、目端に微笑ましい小粒の涙を浮かべている僕にそんな言葉を掛けてくる。


 思ってもいなかった会話の再開。


 しかしその程度で戸惑うなんてことはない僕は、追憶に耽って表情から色を落としつつも、ただ首を浅く傾けて、儚くも美しい群青の幕を見上げながら、そして記憶の中にいる母のことを脳裏に映しながら、返事をボンヤリと待っている御者のおじさんに、ぽつぽつという地に足付かない口取りで言葉を返していく。


 その返事に唖然とした既視感のある顔を見せるおじさんは続けて、ある種の納得をしたように、厳かな頷きをした。


「……そうだべな。オッチャンは里に女房がおるけん、兄ちゃんの力にはなってやれねえけども、応援しとるだよ」


「…………応援、ありがとうございます。頑張ります。母を見つけられるように、話ができるように……全力で」


 強固な人生の枷、それが幸福で作られていることは想像に難くはない。

 そのことを容易に汲み取れてしまえるくらいに和やかな顔をしているおじさんからの真摯な応援に対し、今にも掻き消えそうな朧げな微笑を浮かべてしまう僕は、擦れそうになる声で絞り出したような感謝を口にする。

 静かなそれを耳に入れたおじさんは、僕への同情故か少し物悲しそうな表情を見せた後に、ゆっくりと口を開いた。


「兄ちゃんは見たところ、一人でおっ母を探しとるだべな。んなら、気を付けて行くだよ。最近はやあ物騒だかあの」


「…………? なにが物騒なんです? 野盗……とか?」


 物悲しそうだった顔から一転し、神妙な面持ちをし出したおじさんの、妙に引っ掛かる声調で発された『物騒』という言葉に対し、エリオラさん達と別れてから個人行動を貫いている僕は、突然に飛来してきた不穏に片眉を上げる。


 懸念。それが今までの眠気を吹き飛ばしたような強張った顔をしている僕の、問い掛けに込めた意図の全てだった。


 先述した通り、僕は頼りになりすぎる——お子様ひとりを除いて——エリオラさん達と別れてから、途方もない母探しの旅をたった一人で続けている。まあ、別れてから一月くらいしか経っていないのだけれど、しかし自分の身は自分で守らなければならない一月の期間を過ごしきたのだ。

 それ故に、おじさんの口から出た『物騒』という、あからさまに危なげだろう文言は聞き捨てならないものである。


 自衛のための武器として手に入れた鏡面剣は、数日前の宿場町で購入してから、ちょっとした慣らし程度の素振りくらいでしか鞘から抜いておらず、魔獣と悪人、その両方の実戦というものを一切経ていない。

 だから戦いたくない。なんたって自信がないから。

 僕は胸中を不安でざわめかせながら、おじさんの返答に耳を傾ける。


「最近なぁ、あちこちの子供らが『神隠し』に逢っちまっとるって、えれぇ奇妙な話が増えとるんだって、兄ちゃんみたいな旅人さんがウワサをしとったんだべよ」


「か、神隠し……ってことは、まさか。子供がいなくなってるんですか? この国、ハザマの国のあちこちで?」


「んだ。都会の方ではな、国の武士が子供の捜索をしてるっつ話だべ。それに国勤めじゃない流浪人にも高ぁ銭を払って、神隠しの元凶っつうんを探しとるそうだば」


「流浪人……冒険者も神隠し被害に遭った子供達を捜索しているんですね。国の兵隊だけでは捜索しきれないってことは、それだけ各所的に起こってるってことか……」


 おじさんが語り出したのは、近頃、ハザマの国内で多発しているという神隠しについてだ。それにもう少し深掘りしたような補足を僕が求めれば、答えはすぐに返ってきた。 


 武士——これは主に『ハザマの国や鬼国・鬼ヶ島』で使われている、国家に従事している兵士のことを指した言葉だ。


 精強だろうことが容易に想像できる彼等彼女等が束になっても、当の神隠しの解決には至らず、大金を叩いて国内で活動している冒険者を動員しているという……。

 

 僕は顎に手を添えながら思案する。この神隠しの元凶の存在。数多の兵士や冒険者を動員してなお、話の内容的に未だ捕まっていないのだろう、邪悪な『何者』かのことを。


 しかし、人伝の噂を聞いた程度の知見しかないおじさんの話で、ことの真相が小説に出てくるような名探偵ばりに掴めるはずも——名探偵のような頭脳を僕は持ってないし——なく、僕は添えていた手をささくれが危ない荷車の床に放り、絶対に辿り着けないことを考えるのを諦めたように、僕の頭のように何も無い蒼穹を見上げた。


「オッチャンはよ、神隠しなんて『昔からよぉあることだべや』っつ思っとたんだよ。人攫いなんていつの世も居るべや。人攫いじゃなくて、ケモノに襲われたのかもしんねえしさ。んだべ、目に入れても痛くねぇ孫たちに気を付けるよう言うくらいで終わるくれぇの気持ちだったんだば」


 故郷には自分の帰りを待ってくれている家族が居て、馬車には僕という話し相手が同乗しているのだから、決して孤独などではないはずなのに、まるで独り言のような寂しげな雰囲気で、おじさんは自分の思いを口にしていく。


 聞いてくれなくてもいいと暗に伝えている背中を、日に当たっている僕はぼんやりと見つめることしかできず、ただしんみりとした、湿ったい空気が場を包み込む。

 なんとも言葉が出てこないそんな空気の中に、浴びている春陽のように温かな、とても心優しい微風を吹き込ませてくれたのは、続く、おじさんの言葉だった。


「んだど、兄ちゃんを見てっとよ、妙な胸騒ぎっちゅうんがするんべや。兄ちゃん、オッチャンの孫らと年端が近いけぇよ、だから無性に心配になっちまったんだ。ここんとこの隣にある『ソルふぅれん』から来たばっかなら、神隠しが増えてるっつことも知らねえってんだろ? だから教えてよ、用心ばしてほしいって思ったんだべな」

 

 無言で話を聞いているだけの僕を慮ったような声調で発せられた、おじさんからの親身な言葉。僕はそれに心底まで温かさが染み入ったような微笑を浮かべて、郷愁に駆られている子供のような心を制するよう、顔を床へと向ける。

 故郷に帰ったなら皆んなで、湯気が絶えずに昇っている出来立ての、多種多様で豪勢な食事が並べられた食卓を囲うんだ。


 でも、その希望を叶えんとするのは、今じゃない。


 居なくなった母さんを連れて帰って、三人で食卓を囲わなきゃ、感じられる幸せの端には確かな空虚が生まれてしまう。

 だから、帰れない。だから、僕は旅を続ける。そんなことを自問自答を行った暫しの沈黙の後、徐に顔を上げた僕は、おじさんの背中を見ながら口を開いた。


「…………ありがとうございます。心配してくれて。でも、大丈夫です。弱っちいけど、逃げ足だけはある方なので」


「がははっ! そうかそうか……んならば、安心だべな」


 そこでこの話は終わり、会話の一切がはっきりと途絶える。もう何も語ることはない、その必要もないという雰囲気が流れるも、それは険悪だからと言うものではなく、互いに心配無用だという信頼から生まれているものであった。


「…………」


 僕は無言だが和やかに思える辺りの空気を、優しさの中に厳しさがある春陽に晒されている目を閉じて鼻から吸い込み、背もたれにしている荷車の縁に全ての体重を預けた。 

 昼晴れの中であるにも関わらず、不安を催す夜時ほどの静寂が満ちている、閑散な周囲。獣の遠吠えは聞こえない。鳥の囀りも、虫の演奏も、馬車に乗って移動している人間の話し声すらも。 


 ただ無心で回り続けている車輪と、山林の内で流れている爽やかな匂いだけが五感を刺激している。

 僕は些細なまでに意識をしなければ気付かない、小さな世界の調べに身を任せた。

 それはまるで、肩まで体温程度の湯に浸かっているみたいに、心身をリラックスさせてくれて。


 えも言えぬ心地よさを気儘に享受していた僕は、まるで時の流れが緩慢になっているようにゆっくりと流れていく変わり映えしない光景に欠伸を掻いて、そして目を閉じる。


 眠るように閉じられた瞼の裏側が、外界に満たされている陽光で赤くなっていた。 


 無防備な眼底を突いてくるその鮮烈さが眠りの邪魔をして鬱陶しく、僕は着ていたコートを渋々に脱いで、被るには重たくはあるそれで半身を覆う。

 そうして僕は、馬車にする揺れをさも揺籠かのように感じ取りながら、その意識を黒一色に染めるのであった……。


 + + +


 故国を後にして、未知なる隣国『ハザマの国』の地へと踏み行ってから、かれこれ十日ほどが経過した、中天の時。

 僕はハザマの国南部のまあまあ大きな町『スミカザリ』にやって来ていた。  

 この町名の由来は、昔にいた『スミ』という名工の女性に肖ってのものらしい。


 畜産、農業、工芸。そういった『産業』というものに確かな空洞が存在してしまっていたが故に、年々目に見えて人材流出の過疎化が進んでいったという地元のことを憂いていた『スミ氏』は長年、第二次産業において世界的にも抜きん出ている西方の国々で装飾品の製造技術を磨いたという。 


 そして、工芸に盛んな西方諸国でも名を馳せるほどの熟練となった彼女が、内部的な原因で消滅しかけていたこの町に運んできた高度な製造技術により、町は一躍、装飾品店と工房が軒を連ねる、ハザマの国きっての工芸の町となったのだそうだ。


「はむっ……うん、うん……んぅ」


 という既聞感のある話を、僕は居酒屋のお喋りマスターから聞きながら、用意してもらった玉子焼きを口へ運んだ。

 手間隙かけて綺麗に畳まれている玉子焼き、それを口に入れればあっという間に頑固だった卵の幾層は解けて、昆布出汁の旨味と砂糖の甘味が無限に溢れ出てきた。


 顔を顰めそうになる苦手な甘味に片眉を上げてしまった僕は、長方形の皿に添えられている大根おろしを料理の上に乗せて、それを一思いに頬張る。生大根の苦味と辛味が、玉子焼きに添加されている砂糖の甘味を調和し、まさに絶品と化した。

 その美味を舌上で満足するまで転がした僕は、目を閉じてマスターが謹製の玉子焼きに唸り、満足げに手を合わせた。


「ご馳走様! めっちゃ美味しかったです!」


「ダハハハ! 当たりめえだろうがよいっ!」


 料理の味に大満足した様子の僕に、居酒屋のマスターは無くなっている前歯をニカっと見せつけながら笑った。正直な僕に気分が良いから酒を奢ってやると言っていたマスターに謝りながら、僕は軽めの昼食だった会計を済ませる。


 たった二十ルーレンの会計を終えて、穴場という言葉が似合う居酒屋を後にしようとした僕に、酒の代わりの土産だと、何年も漬けている店オススメの梅干しを少しどころか、一人が食べるには多いだろう量をタダで渡してくれた。

 

 渡された油紙に包まれている大量の梅干しを見て、苦笑してしまった僕は、厚意で頂いたものを自分勝手で返すのも忍びないと思い、深々と頭を下げて感謝を告げる。 

 腰の低さに「堂々としいば!」と大笑いして、気前よく手を振って見送ってくれるマスターに僕は手を振り返して、陽光降り注ぐ工芸の町の大通りへと歩いていった。


「梅干しもらっちゃった……。この先でもし野宿をすることになったら、これと白米で贅沢できるな。ありがたい」

 

 太陽が白雲に隠れて陰ってきたことを、明らかな視界のトーンダウンで認めながら、僕は持たされてしまった大量の梅干しが包まれている油紙を、どうすることもせずに小脇に抱えたまま、宿を探すついでに広い町を散策していく。 

 当てなく歩いていく大通りの端々には、多種多様な装飾品を丁寧に並べている露店があり、その露店を仕切っている商人は道行く人達に商品の良さを売り叫んでいる。


 そんな露店の背後に建っているハザマの国っぽくない西方風——石材を主な材料にしている——な三階建ての建物、その一階のテナントには、質素なものと豪奢なもの両方の家具を店内で製作して売っている家族経営の商店があった。

 本当に様々な二次産業が盛んだ。さすが『工芸の町』だなんて言われるだけはある。僕は歩きながらにそう思った。


 目に見えるほとんどの産業は〝第二次〟という一点で共通している。

 だが、製作に使わていれる素材や技術には統一性がなく、疎だ。

 だから面白い。そして気になってくる。

 たった一人の女性が落ち目の町を盛り上げたらしいのに、画一性がまったくない。

 スミ氏は一体、どれだけの技術を持って帰ってきたんだろう。

 居酒屋のマスター曰く、スミ氏は装飾品の製造技術を培ってきたらしいけど、それにしては町に装飾品製造以外の産業が溢れている。

 とすれば、スミ氏に当てられて他にも技術を運んできた職人が居たのかな……と。


 近場で工芸が盛んになったと知れば、過疎地に住んでいる職人がここへと越してくる可能性は高い。

 流動が多くなった場所で商売をすれば、過疎地では停滞していた進退しえぬ退屈な日常が文字通り、激変するかもしれないからだ。 

 もし、僕の想像通りの成り行きだったとすれば、この『作る』が錯綜している『スミカザリ』の現在の様子は、なるほどと深く納得できるようになる。だけどもし、彼のスミ氏一人が全ての技術を持ってきたのなら、それはもう凄すぎるとしか……。

 

「————おっ、ナイフだ」


 もしも、もしも。そんな無益に違いない妄想に夢中になっていた僕は、ふと目に入ったショーウィンドウの向こう側に見えている高級そうな店の商品の飾り場、そこで目立たせるように置かれている一振りのナイフに意識を向けた。

 ナイフの何らかの石製だろう純白の柄には、意味があるとは思えない色とりどりの宝石が埋め込まれていて、それをまじまじと見つめた僕は顰めている顔を離した。

 これは形状的に『果物ナイフ』だな。

 しかしまあ、たかが果物を捌くだけの物に色とりどりの宝石なんか使うかね。

 

 そんな、口から出せば営業妨害に当たってしまうだろう本音を飲み込みつつ、僕は止めていた足の動きを再開した。 

 しばしの散歩。ポツンとたった一人で大通りを歩いていく僕の、なんてことのない日常。見つけた酒場に寄っては母についてを尋ねて、何も得られないを繰り返す。 


 買いもしないのに露店の品を眺めたり、武器防具を新調しに来たと思しき冒険者の一団を目で追ったり、漂ってくる飲食店の白煙で鼻を鳴らしたり。

 何一つも得られていないのに、なぜか充実しているように思えてしまう時の流れ。 

 それを夏の気配で汗ばんでいる肌身で感じながら、僕はふと空を見上げた。

 既に時刻は午後六時。紛れもない夕時。どこかで数羽の烏が呼び合っている。

 それは人通りが少なくなった大通り中に響いていて、なかなかに騒がしかった。 


「…………宿、探さなきゃ」 

 

 町並みに見入るばかりで、目的にしていた宿探しを見失っていた。

 けれど反省はしない。

 なぜなら、空虚の中を揺蕩っていた先程までの時間は、とても心地よかったから。


 + + +


 夕闇の中に世界が落ちてしまい、黄昏に鳴いていた烏たちの声も聞こえない、静寂な午後の七時半。あれだけ道の左右を陣取っていた露店はいつの間にか軒先を消していて、その代わりというように赤い提灯を飾った屋台が姿を現す。


 そんな屋台に顔を出して、周囲を観察しながら一席に腰を据えた僕は、そこで『おでん』なる煮込み料理を摘んだ。

 晩春の夜はなかなかに暑く、冷雪降り積もる冬季に食べるのが最も美味しいだろうおでんは、僕から汗を出させた。


 腹を満たし、掻いた汗をコートを脱いでいるシャツの袖で拭いながら閑散の町中を歩いていった僕は、ようやく見つけた、部屋が凄まじく狭い一人用の安宿に入る。

 

「ふぅー」


 独房という言葉が非常に似合っている、たったの四十ルーレンで借りることができた今晩だけの一室。

 その八割ほどを占めている『シングルの布団』の上で胡座を掻いた僕は、枕元に置いたリュックから、今日にもらった梅干しを取り出した。

 それを夜食と言わんばかりに、数粒を手皿に置く。


「んぁ、酸っぱ……やっぱり酒の席用のだからか。ぺっ」


 赤紫蘇と大量の塩が使われているのだろう、なかなかに人を選ぶ梅肉だけを食べ、僕は大きな種を吐いて取り出す。 

 それを空いている手の中で無意味に転がして、もう片方の手皿から一粒の梅干しを摘んだ。

 赤い色が付いてしまっている指から放られた梅干しは、僕の口の中で肉と種を分離されて、塩の酸っぱ辛さと赤紫蘇の独特な香りを広げた。

 鼻から息を出せば途端に口内で爆発が起こり、汗に掻いて消耗していた塩分を充填する。

 パクパクとあっという間に無くなってしまった、計四粒の貰い物の梅干し。指の赤シミを舐め取り、僕は布団の上で両腕を広げて寝頃がった。


「つぁ…………」


 勢いよく横になったせいで大量の埃が噴き出し、宙を舞う。定期的に叩かれていないことが分かった、寂しい一夜を共にするツギハギだらけの布団。

 そこに寝転がりながら握りっぱなしの梅干しの種を弄び、暇を潰して就寝を待つ。

 ついに感じる眠気。身を任せて両の瞼を閉じた途端に、僕は目を開けた。何かを思い出したように視線を右往左往させた後に、壁に立てかけていた鏡面剣を掴み取る。


「…………一度も使ってないけど、こまめに手入れはしないとな」


 鞘から引き抜いた愛剣を布団の上に横たわらせて、リュックからいつも手入れの時に使っている布切れを取り出した。僕はそれを使って、はーっと間近な息で白くさせた刀身を吹いていった。一段と煌めかせるよう、丁寧に丁寧に。


 僕の表情の隅々までも明確にしている、美しい鏡面の刀身。 いーっと口を開けて見れば、僕の白い歯がハッキリと認められて、それに満足げな頷きをした僕は、抜いていた刀身を鞘に仕舞い、さっきまで立てていた場所に愛剣を戻す。

 

 掃除が終わってしまった。もう寝るしかない時間が来たみたいだ。そんな、意味のない夜更かしをしたい子供のような思いをボンヤリと浮かべながら、僕は約三畳しかない部屋の窓辺へと向かい、締め切られている窓を開け放った。 


「結構明るいんだな……工房がまだ使われてるのか」


 ヒュー、ヒュー……。という、若干の不気味さ、底知れなさを感じさせる風鳴りが、部屋中を無邪気に回っている。

 蚊が入ってくるのも憚らないで開けられた窓、そこから入ってくる感情がない夜風に当たりながら、僕は視界の先に広がっている外界の光景に呟きを落とした。

 半日も散策していたのに、実際は町の三割も見れていない。

 三階のここから一望できる景色は、まさに未知の塊だ。

 あの場所にある灯りは、どんな用途で点いているのか。あっちは人家の生活光か。

 それは結局、分からないままだ。夜の帷に包まれている今に見に行く気にはならないから、この疑問は解けないまま、僕の中から消えて無くなってしまうのだろう。

 

「…………はぁ」


 なんとも言えない虚無を抱き、出てしまった大きい溜め息が、部屋を一周した夜風に乗って外界へと旅立っていく。

 あれよと攫われていく自分の声。それを呆然と見届けた僕は、汚れた窓縁に寄り掛かって、ゆっくりと目を閉じた。

 明日の悪天候の予兆だろう、やや荒んでいる夜風の調べが鼓膜を揺らして、閉じられている瞼に天の光が降り注ぐ。

 自然の厳しさと優しさが同時に来る中で、無防備に意識を揺蕩わせるのは恐ろしくも心地よく、僕はズンっと伸し掛かってきた眠気に身を任せようと脱力して——


 気づいた。


「————ん?」


 徐々に世界が奏でている音が何処かに遠ざかっていくのを、何も存在しない暗闇の中にある意識で認めていた僕は、唐突に頭上でチラついた『喧騒』を拾い上げたことで、先程までの眠気をすっかり忘れたようにパッと、目を開けた。


「…………なんだ?」


 妙に引っ掛かる騒がしさが聞こえてくる。宿のものじゃない、これは外からのものだ。どこから聞こえてきてる? 

 完全に目が覚めた僕は窓縁から身を乗り出して、南を指す視線を右往左往させた。しかし気になる点はなく、この喧騒の位置が僕の視線と対極にあることが分かった。


「北か……?」


 今度はその呟きを夜風に乗せて、絶対にない虚空からの返答を待つこともせずに僕は立ち上がった。

 そそくさと着ている寝巻きから、脱いで畳んでいた今日に使った服に着替える。

 そして壁のフックに掛けていたコートを羽織り、空き巣対策として私物全てを詰め込んだリュックを背負う。

 最後に立てかけていた鏡面剣を佩き、急遽出発の準備は完了した。


「よし——行くか」


 外に出て、全身で夜風を浴びる。いい意味での祭りごとではないだろう、物騒な気配を孕んでいる風の香りを匂って、僕は喧騒の元だろう北方を目指して駆け出した。

 喧騒の正体を暴きにいく。その行動が吉となるか凶となるかは、今の僕には分からない。しかし〝行かない〟という選択は確かに、意気込む僕の中には無かったのだ。

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