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蒼風のヘルモーズ  作者:
『ハザマの国』編

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ハザマの国・序幕『鴉』

 命を枯らす厳冬散らした春風が茜の頬を撫でてゆく、人歴千◯三七年の四月の末。 

 雪解けが契機となって一挙に生気を取り戻した植物の中で春色を咲き誇らせている桜の花が、顔を上げた人々の心を彩ろう何の変哲なき仄々な山村にて忽然と、笑顔を振り撒く健やかな齢七の男児が消息を絶つ。


 男児は昼食を摂り終えた後に外出しており、日が落つて暗闇と静けさが蔓延ってなお帰宅しないことを不審に思った家族が自警団への相談のもと、大規模な捜索を開始する。

 しかし、数十人体制となった即席の男児捜索隊が山村の周囲にある森林に平原、さらには隣村まで足を運び、声を上げ、目を光らせても、男児の発見と保護は叶わなかった。


 異生物と思しき複数の獣の遠吠えが、ただでさえ騒がしかった夜天を更に揺らした。が、その遠吠えすら容易く掻き消してしまう複数の悲痛な叫びが際限なく轟く。

 野生の雄々しさを塗りつぶして耳を劈くのは、男児の無事にただ求めている家族の喉震わす悲鳴、それと焦りで顔中に汗滲ませている大人の呼び声だ。それらに押し負けたように、熱意に慄いたように、付近にあった獣の瞳孔は遠のく。


 どれだけ必死になろうと、決死を尽くそうと見つからぬ。見つけられぬ。

 その不安、怒哀と憎悪に変貌せし。だが何処へぶつけるか。

 無面に会うた愛し子の嗚咽は聞こえない。

 助けの乞いは届かない。消えた。消えた。消えた。忽然と。 昨日の笑顔は何処。その思いを山村にいる皆が共有する。

 皆が怯えた。次は我が子かと。皆は構えた。次は許さんと。

 だがその覚悟も露知らず、神隠しの元凶は次なる地を行く——。


「ひひっ……ひひひっ」


 引き攣った狂笑が鼓膜を無遠慮に打った。その声には悪意が満ち満ちていて、聞くもの全てに嫌悪感を与えるほど。


「………………っ誰かっ……誰かぁっ…………っ!」


 それはもう美しい茜の雲が敷き詰められている、夕暮れの最中。

 明るい面を裏返さんとしている天空に見下ろされているのは、鬼ヶ島から輸入されて植林された竹林である。

 そこにある大きな樹木の根元で息を潜めている少年のもとに、恐ろしく静かな、たった一つの足音が近づいていく。


「ひひっ……ひひひっ。隠れんぼのつもりカァ……?」


 確かな死角で息を潜めているはずなのに、まるで『見えている』かのように少年の方へと足を運んでくるのは、途轍もない刺激臭を発している、淀んだ黒髪黒目の男だった。

 必死に隠れている少年に対して無邪気に笑っている男は、この世のものとは思えない邪気だけが感じられる狂笑を鳥の囀りさえ聞こえてこない竹林に響かせて、腰に差している一振りの和刀——そのボロボロの柄に手を当てて、かちゃかちゃと、幼児の玩具のように頻りに音を鳴らしていた。


「ぅぅっ……ひぐっ……っ……ぅっ……っぅ……!」


 少年はその音を耳にして、ただただ自分を恨んだ。日がくれる前に帰ってきなさいという母の言葉、母の言うことは聞きなさいという父の念押し、そんな両親と一緒に住んでいる祖父母からも、果てから迫り来る『夜』にもし追い付かれれば、生者を羨んでいる餓鬼によって二度と日光を見られない場所へと連れて行かれてしまうと言われていた。

 それなのに、何度も注意されたのに、少年は夕暮れが終わる時まで、遊楽のための外出を続行してしまったのである。


「おっかぁ……おっとぉ…………うぅっ、誰かぁ……っ」

 

 自分を恨んでも状況は変わり映えしない。

 ならば迫り来る狂人に向ければいいのか。それは否だ。下手な感情を向けて機嫌を損ねた時点で、彼奴の魔の手は自分を掌握する。


「無駄だ、無駄だ。どんだけ必死に息を止めてもよぉ、テメエの臭いはテメエで消せねえんだからなぁ……ひひっ」


 徐々に確かに確実に、甚だに暗い絶望を運ぶよう近づいてくる死神の凶律。それに合わせて奥歯を上下で叩く少年は、無意識に両の目尻から涙を溢れさせた。

 声を抑えなければいけないのに、家族の恋しさから嗚咽を止められない。

 

「そこにいるんだろぉ。はやく出てこいよぉ……ひひひっ」


 キツイ臭いを発している狂人が履いた草履が地面を何度も擦る。手が添えられた和刀の柄から音が鳴る。常軌を逸した悪意と邪気が、刻一刻と冥府への迎えを寄越している。

 生殺与奪の権を握られてしまい、その恐怖から腰が抜けてしまって立ち上がることができない少年は、人生で初めて心臓が凍りつくという経験し難い感覚に見舞われていた。

 もう祈るしか。空に、地に。彼方に。何処に。少年はすぐに伝説の勇者が駆けつけてくれる。そう信じて、足音を近付けさせる狂人が急な気変わりで去るのを願った。


「っっ……………………————?」


 祈りから暫しの時が流れ、五分と少し。ただ目をキツく閉じて願っていた少年の耳から忽然と、足音が消えていた。

 そのあまりにも信じ難い現実に目を見開き、顔を上げた少年は、自分の心身から『恐怖』が消えているのが分かった。

 突然に得られてしまった安心感に、つい呆然としてしまう少年は力が入るようになった足腰を掌に感じて認め、ゆっくりと立ち上がる。

 そして夕闇が蔓延ろうとしている辺りに涙でボヤけている両目を右往左往させた。


「………………」


 あの汚泥のように濁っていた黒眼が無い。風吹けども揺られない黒髪も。生理的な嫌悪感を催させる酸っぱい臭気すらも辺りに漂わず、特徴的な引き笑いも聞こえてこない。 

 たった数分の間にあの狂人の身になにが起こったのか——。

 それは耳と目を必死に塞いでいた少年には与り知らない。姿も音も臭いすらも消えている故に、只事ではないことは察せる。

 が、確かに恐ろしい狂人の気配が、存在そのものが消え去っているように思えてしまう周囲の現状に、少年は瞳を潤ませながらホッと胸を撫で下ろした。 


「っっ、はやく帰らなきゃ……っ!」 


 先の緊張をあっという間に忘れてしまった心身は、自分の言うことを素直に聞いてくれる。もしかしたら、あれは夢幻の類なのかも。そうじゃなきゃ、あの狂人が忽然と姿を消してしまった理由が分からない。その方法も、意図も、まさに意味不明だ。

 少年は狂人が消え去った状況を飲み込みきれず、先程の一件は白昼夢だったのではないかと結論を付けた。

 そう結論付けなければ、少年は足をすくませてしまう直感があったから。

 だから走った。家に帰って、ただいまを言おうとして。

 無造作に大地を突き破ってきている竹の一本一本を軽快に躱しながら、すぐそこに見えている故郷の光へと駆け向かっていく。

 少年は無意識に涙していた。自分は無事だということに。また家族と会えるという『夢』のような現実に対して——



「家に帰れると思ったカァ? ひひっ、ひひひひっヒャヒャアアア——ッッッ!」

大幅に話を改変しました。

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