第26話 VS犬型魔獣
「嘘だろっ、なんでここに…………っっ!?」
年がら年中、一昼夜すらも問うことなく、無限に等しい愛情と温もりを打算などなく与えてくれる、幼き生命の皆が持つ唯一無二の母親。そんな母の乳を吸って育っていく生後数ヶ月の幼き獣では明らかにない、おおよそ数年は生き長らえているであろう成獣から発せられた、野太い咆哮。
生き物の気配が全く感じられない、茫漠たる闇と耳鳴りを催す静寂が満ち満ちている山岳の奥地。そこを全力で逃走している僕の身に向けられているのは、常軌を逸している殺意と憤怒、それに濡れ切っている計四つの鋭い眼光か。
この目で確と認めていないのにも関わらず、血のように真っ赤な瞳孔をしているのだろうと確信させる、一匹が向ける四つの眼光は、容易く僕の心臓と鼓膜、そして心身を戦慄かせ、満足に空気を入れられない肺を引き締めさせた。
満足できない浅すぎる呼吸を口端から連続して行っている僕が、形振り構わないという形相で蹴り砕いた土塊を後方に散弾すれば、僕の『命』を狙っていると理解させてくる気配を発散する『獣』は二度目となる咆哮を打ち上げて、二百メートル離れている場所から、僕への追走を開始する。
「ふっ、はっ、うぅっ————ずぁはっ、はあっっ」
集中なんてしていないのに。する余裕なんて残っていないのに。落ち葉が地面と接吻する微々たる音すらも拾うほどに研ぎ澄まされている鼓膜を打ち付けるのは四つの足音。
一向に途切れない四つの足音を辿って振り向けば、そこには道を埋め尽くす枯れ葉の絨毯を僕と同じように派手に蹴り散らしながら、軌跡に大粒の汗を残していく僕との距離を徐々に徐々に、しかし確かに殺してきている獣が一匹。
スタート地点に戻りかねない斜面を転がることすら厭わない疾走を見せる僕の背中から目を離すことなく、猛速で追従し続ける『獣』は、荒い己の呼吸に侵されているがしかし、機能不全には陥っていない耳が拾ってしまう足音の数、それで勘づけてしまうことを肯定するような四足歩行。
音で分かる通り、遠目から見えた姿は紛うことなき『犬型』で、通常の犬よりも甚だしく筋骨隆々な体躯を覆い尽くしている体毛は、まるで落ち葉を着こなしているかのような、落ち葉に紛れ込もうという意図があるような焦茶色。
無意識の舌打ちを誘うくらいには『恒久的不変』を継続している山岳の顔。紛うことなき狂面。強烈に恐れ慄きたくなるほどの無慈悲。
先程まで急斜面を危険視していたとは思えないほどに、足攫う山肌を尋常ではない速度で僕は駆けているにも関わらず、僕が知る犬獣の肉体性能を優に超えた走りを見せつける『獣』は己が四足を猛速で回転させてることによって、僕との距離を刻一刻と縮めていく。
それが複雑に縺れた脳裏に浮かぶ『答え』を暗に肯定した。
「なんでっ、なんでこんなところに、魔獣が——っ!?」
全身から気持ち悪い多量の汗を噴き出させている僕が発した必死の第一声を『正解』だと認めるように、四足型魔獣が有する四つの目。その眦全てが凄惨に引き裂かれる。
あまりにも僕が見て知る原生物から掛け離れている、破壊の権化『魔なる神』を統一的な母体とする異生物の凶相。
それを振り向きざまに認めてしまった僕は『ゾッ』と顔中の血の気を引かせては真っ青にし、足が竦みそうになる。
しかし踏ん張るように、耐え抜くように、負けないように歯を噛み締め、全速力を維持するために勢いよく前を向く。
そして考える。必死になって巡らせる。ぐちゃぐちゃの頭を回転させて、この状況を打開するための策を。僕が母を探すために。母に感謝を告げる未来を掴むために。
「はあっ、はあっ、はあっ————はあっっ」
僕の二足が遅すぎるのか。向こうの四足が速すぎてなのか、息遣いすらも聞こえてくる距離まで僕は既に魔獣から間を詰められてしまっている。
神経が研ぎ澄まされている故に離れていても聞き取れてしまう四足音と呼吸音。それを算出するに、僕と魔獣の距離は百メートルを切っている。
このまま『上りもせず下りもしない』走りやすい道を走ったとしても、十分もしない内に僕は頚椎を噛み砕かれる。
必死に両脚を持ち上げて走ったとしても現実として、僕よりも魔獣の方が断然速い。その理由は足の本数と、彼奴の足先から生えている深々と地に突き刺さる鋭い爪のせいだ。
落ち葉が敷かれている浅い斜面を駆ける抜ける。それは山羊のような蹄を有していない僕にとっては圧倒的不利で、万全の足を有している彼奴にとっては絶対的な有利となる。能力が光る状況に置かれている今は紛うことなき絶体絶命。
故にこのまま逃げ続けるなど自殺行為甚だ。
僕に圧倒的不利なスピードファイトの続行などジリ貧間違いなし。
だから、どうにか今の状況を打開しなければ僕は負ける。
どうする。どうやる。どうすれば。僕は魔獣に勝てるんだ?
………………勝てる? 魔獣に? 魔獣に、僕が勝つ?
なにを考えてる。僕はなにを考えた。負けないように動かなきゃいけないというのに、勝つ? この状況で僕が?
くそっ、頭がおかしくなってる。全力疾走を続けているせいで頭に血が昇ったのかもしれない。ここは冷静になれ。
どうにかしてこの危機的状況を打開する一手。彼奴から逃げ切るための最善手を。いや、この場合は王手か。
それを考え出さないと。導き出さないと。でも無理だ。考えられない。考えつかない。
だって、僕はただただ彼奴を——
「…………っっこうなったら!」
魂の奥底から湧き出てくる『余計な本音』に邪魔されるせいで聴測にして六十メートルの近的地点まで迫ってきている魔獣から逃げ切るための算段を導き出せなかった僕は、もう知るかボケ! と自暴自棄のように思考を捨て去った。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!」
体を大切にしたい己を自暴することにより、決死の覚悟を決めることが意図せずして叶ってしまった僕は、グッと眉尻を吊り上げた後、ダンッと地面を蹴り飛ばした。
駆け抜けていく山肌の左手。健脚の人間であろうと、人間よりも優れた強脚を有する馬であろろ敬遠するに違いない、あまりにも急な下り斜面へと飛び降りていった僕は案の定、
「————っ痛ぅづぅぅっ!?」と全力跳躍の凄まじい勢いをもって、進路上に存在していた樹木に肩から激突した。
顔面や胸骨に衝突の威力を受けさせないよう、敢え無く犠牲となってしまった右半身から放たれる強烈なタックル。
攻撃と言い得てしまうかもしれないそれを受け止めた樹木は激しく枝葉を鳴らして、数十枚の死葉を地面に落とした。
それを涙を我慢しているように窄めらている両の目で認めた僕は、タックルを直撃させた樹木との痛み分けで与えられてしまった甚だしい痛苦に苦悶の声を漏らしかけるも、しかしそんな暇を僕に与えるほど追従する魔獣は甘くなく。
跳躍した僕が打つかることしかできなかった同種の樹木、その腹を蹴って垂直の足場にし、まさに『立体軌道』という俊敏な動きをもって魔獣は僕との距離を瞬く間に殺した。
その動きに息を飲まざるを得なかった僕は痛みで窄めてしまっていた目を強引に開け放ち、軋む右肩をくっ付けていた樹木から離れ、か細い呼気を漏らしながら逃走を再開。
地上に顔を出している岩、長年放置されている苔茂る倒木、雨により土砂が流されて生じたと思しき深い溝。そこを必死になりながら足場に、飛び越え、跨いで駆けていく。
息を切らしながら振り返れば間近に迫る焦茶色が。僕に狙いを定めて追い付いてきた魔獣が凄惨に口端を裂いていて。
明らかに『餌』に対して向けような意思と眼差しではないものを僕に射てくる魔獣。それに意味不明だと叫びたくなった僕が嫌な予感を感じて前を向けば、
そこには有るべき足元が無く——。
「へっっっ!? つおっっうおわあああああああああああああああああああああああああああっっっ!?」
すぐそこにいる魔獣に気を取られて余所見をしていたせいもある。無我夢中で逃げ惑っていたせいもある。つまりは全部、僕のことを執拗に追いかけ回していた魔獣が悪い。
そんなどうでもいい言い訳を『高さ十二メートル』はある断崖から飛び降りた形になってしまった僕は思いながら、
「うごぉ——ゥッッッ!」と一番最初に地に付けた足先から到来する甚だしい落下の衝撃を、少しの脱力と前転をすることによって方々へと流し、完璧に近い受身を取ることに成功。すぐさま崩れていた態勢を整えて逃走を再開した。
『バウアウッッッ!!』
「テメッ…………っっクッ——ソがあアアッッッ!!」
いつまで追いかける気だ、クソ犬! そんな罵詈雑言を断崖に生える細木を足場にすることによって、崖下にいる僕の元へと向かうことを止めない魔獣に言い放つ。執拗すぎるぞ! 僕に恨みでもあるのか!? そう思ったその時。
もしかして、アイツ——まさか!
一つの最も有力な『答え』に僕は行き着いてしまった。その一秒にも満たないほんの一瞬の思考の帰結は僕から視界と判断力を奪い、致命的な結果をもたらした。
「はあっ——崖っ!? いやっ、ここは、谷っ!?」
僕が必死になって逃げた先にあったのは『断崖絶壁』になっている崖——いや、人が飛び越えられる高さではないそれは僕の行手を阻む、高さ十メートルの『壁』であった。
その絶壁は決して立ち止まってはいけない僕の心身を硬直させるに足る絶望の権化。甚だしい脱力感を僕に与えた。
こんなもん飛んで行けるわけないだろ!? 十メートルを跳躍できる人間なんて、エリオラさんしか知らないぞ!
ヤバイ。本格的にヤバい。こんな山奥で狂獣に追いつかれてしまうのは非常に不味い。紛うことなき僻地。人里すらない無人の場には凶暴な魔獣を討ち取ってくれる冒険者も、僕のことを屋内に匿ってくれるだろう村も存在しない。
もし、もしもそんな場所で魔獣に追いつかれでもしたら——僕が戦う以外の選択はない。戦って勝ったとしても、もし深手を負ってしまったなら。
その時は、冥府から赴いた死神と、二人でダンスを行う他に道はない……っ!
『グルルルルルルルアアアアアアアアアアアアアッ!!』
「————っっぅっ速すぎんだろうが!? クソッ!」
断崖絶壁を背にするしかない僕の目前まで迫り来て獰猛な威嚇を行う魔獣に、僕は咄嗟に腰のナイフを引き抜いた。
距離にして五メートル。真正面からまじまじと魔獣を観察すると、焦茶色の短毛をしている四足犬型の魔獣の頭部には、遠目からでも認められたように『目が四つ』あった。
そんな彼奴は見せる爪牙は他の動物に例えるのを忌避したくなるほどに、おどろおどろしい歪な形をしている。目の数。この爪。間違いなくあの時の『魔獣の子』と同じだ。
「子供を殺した奴に復讐…………しにきたってことかよ」
体高は目測で九十センチくらい。見た目通りの四足犬型。超大型犬。いや、そう形容するよりも『猛獣』と言った方が合っているように思える。いつかの日に生物図鑑で見た、黒の縞模様が特徴的な『虎』を目前にしているよう。
そいつは、羊飼いのメノスケさんが飼ってた『メアニー』とは天と地の程の差がある、獰猛さを僕に見せつけてきている。
メアニーは僕に懐いてくれていたから頗る愛嬌があったけど、コイツは僕に『子の仇である僕を殺した後は、死体も残らないくらい凄惨に喰い荒らしてやる!』としか思っていないという、血に濡れた殺意の眼差しを向けてきていて。
「………………ふぅー」
敵を前にして熱量を増した憤怒。溶岩にも勝る甚だしい熱気を獰猛に裂かれた口端から吐き出している魔獣と相対したまま、僕はナイフを構えた状態で動けずにいた。当の魔獣は僕にいつ襲い掛かるかを計っている様子で唸りながら動きを止めている。
しばしの間、一人と一匹の膠着した状態が続く————。
はち切れんばかりに張り詰めてしまっている空気を破りて先制を掴み取ってみせたのは、ナイフを握る僕ではなく。半開きにさせた口腔から怨嗟が込められている涎を乱暴に撒き散らしながら僕に向かって突撃をしてくる『魔獣』で。
『グルルルルルガァッッッ!!』
ちんけではあるものの確かな殺傷力を有する武器を握った人間相手に物怖じすることなく全力の肉薄を決行した魔獣に対して目を剥く僕はしかし、冷静に状況を分析。
巡らせた策や罠、それに謀略を感じさせない『素直な突進』に対してこのまま後方へと飛び退き、彼奴の先制攻撃を回避したその瞬間に全力疾走。脚の準備が完了していない相手の首をナイフで掻く。それで詰み、正真正銘の王手。
そこまで考えて、気付かざるを得ず、僕は気が付いた。自身が晒している致命を。初の人外戦。それに生じた無意識の緊張。死合い。死闘。死線。死戦。今から行われる命の奪い合い。強弱の決し。弱い方が餌となりて捕食者をより強者とす、古来から続く儀式。えらく原始的に思えてしまうが、基本中の基本である世界のメカニズム。
それを目前にして。間近にさせられて——僕は足が竦んだ。
故に自分の用意が、カウンター前提の戦闘シミュレーションが目も当てられぬほど無惨に死んでいることに、既に跳躍している魔獣を前にした今、気付かされたのだ。
「〜〜〜〜〜っっっ!? クソッタレえぇっっっ!!!」
体たらく。咄嗟の事態に見せた『弱さ』へと向けた罵詈を荒々しく言い放つ僕は、奥歯をグッと噛み締めながら飛び掛かってきた魔獣に対して、左前腕を突き出した。
『ガルブルッアァッ!!』
「〜〜〜〜〜〜〜〜ぃぅっっぐううっぅぅっっ!?」
構えられた僕の左前腕に甚だしい咬合力をもって噛み付いてきた魔獣は、僕の腕を引き千切らんとしているように血眼を見せている頭部をブルブルと乱暴に振り回す。
強者の背に隠れることなく野生を生き抜く逞しさ。冒険者に追われようとも逃げ切り、そして生き続けたということを裏付ける常人では発揮できないレベルの咬合力。
それを殺意をもって振り翳してくる魔獣の暴力に晒されている、誰かに守られ続けていた僕の左腕はその弱さを露呈するかの如く『ミシミシッ』という決して耳に入れたくはない嫌な音を奏で、今まで味わったことがない生きたまま喰われるという激痛を、僕の承諾も取らずに食らわせた。
その激痛を得て一瞬の内に目を蜘蛛の巣状に充血させた僕はしかし、噛まれた左腕が『砕かれていない』ことを認識。
続いて、魔獣が有している安物の刃物以上の威力があるであろう鋭い牙が『素肌まで届いていない』ことも認めた。
魔獣の牙を防いでいるのは僕が一年中、肌身離すことなく着用している、やたらと分厚くて重い爺ちゃんのコート。
その紛れもない事実に、故郷で僕達の帰りを待ってくれている、ここにはいない爺ちゃんに『護られた』という今に僕は目を見開き、痛苦の声しか出てこない唇を震わてせ、初遭遇時の気後れは『敵を欺くためのブラフ』であったかのような『弱きを喰らい生き残るための戦意』を激らせる。
目端に痛みからではない涙を浮かべながら、まるで痛みなど感じていないような猛々しい笑みを浮かべた僕は、肩が外れそうになるくらいの豪力で頭部を振り続けている魔獣に歯を食い縛って、右手に握り続けていたナイフの先を、
「いい加減にしろよ————このっ野郎ォオッッッ!!」
ガラ空きになっていた魔獣の『首側面』に突き刺した!
『ギャイィィンッッッ!?』
約十五センチの刀身。その半分近くを首の左側面、脳へ血液を送る血管が集中する『急所』を突き刺されてしまった魔獣は、己が弱腰だった人間に攻撃されたということと、致命打を与えられてしまったという事実、それを裏付ける激痛に狼狽えて砕けなかった腕を噛み離し、突き刺さったナイフの柄を手放さない、延いては己から離れようとしない僕から距離を取ろうとして、出鱈目に頭部を振る。
しかし、それが最悪手であると知能に劣った魔獣は気付かない。
気を動転させている魔獣が出鱈目に頭を振っているせいで、ただ柄を手放さないように握っているだけのナイフが勝手に奥へ奥へと、首の深くまで突き刺さっていく。それを、敵ながら哀れに思ってしまった僕は眉尻を吊り上げて、
「オラアッ!!」
と、晒されている魔獣の腹を全力で蹴り飛ばした。ドスンッ。と掻いた脂汗を乱暴に袖で拭う僕から五メートルほどの距離がある場所まで蹴り飛ばされた魔獣は首の刺し傷、そこから溢れ出る鮮血に悶え苦しむも即座にその痛みと死の予感すらも『僕への殺意』に変換し、大量の血を周囲に撒き散らしながら僕へと果敢に飛び掛かった。
『グゥルァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!』
が、しかし。
「————ふゥッ!」
魔獣に一撃を入れた達成感の影響か。いつの間にか竦んでしまっていた両足は常の精彩さを取り戻しており、いつもの動きを行うことができるようになった僕は魔獣の飛び掛かりを、地を蹴って横に飛ぶことにより悠々と回避する。
僕が魅せた咄嗟の回避行動に、血眼という言葉を通り越して酷い血涙を湛えてしまっている魔獣は目を剥いた。
しかし何度も何度も、諦めることなく僕を執拗に狙い続ける。
それら全てを軽々と往なしていた僕は、無意識に僕の翻弄に圧倒されている魔獣に対して恍惚とも取れる笑みを浮かべてしまっていた。魔獣を圧倒する現状。勝利という原初の絶頂。強者が弱者に向ける、えも言えぬ優越。
これだよ。これ。何年も。何年も。何年も。僕が求めていものは。僕が渇望していたものは。人間には決して向けることがない。死するその時になろうとも原生物に対して向けようなど欠片も思わないだろう、異生物にだけ感じる勝利の酔いしれ。どんな美酒や宝酒を飲むよりも甚だしく有意義な快楽。ああ、安らぐ。安らぐ。安らぐ。まるで羊水に浸かりながら揺籠に揺られているみたいに。心安らぎて眠気を誘う。
戦場の円舞曲。一人一獣が織りなす戦舞之踏。赤の雫でを場を彩りながら襲い掛かってくる魔獣を、僕は目を瞑りながら戦場を舞い踊る微風を頼りにして悠々と避けていく。
息すら切らしている魔獣は燃え滾る殺意を撒き散らしながらも、僕が与えた傷から鮮血を——命を溢れさせている。
もう魔獣の命は長くはない。あと数分で息絶える。既に死に体。殺意が燃え尽きれば、予想よりも早くに召される。
それを、僕は理解した。
少しの時間を稼げば、このまま快楽に溺れていれば何れはこの魔獣は死に、僕は戦いに勝利する。そう勝利を確信した僕が奥歯で笑みを噛み砕いた次の瞬間、動きの精彩を取り戻した僕を見た魔獣と同じように、僕は目を見開いた。
『ワオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!』
唐突に攻撃を中断して、後方へと飛び退いた魔獣に対し、怪訝な風に眉尻を吊り上げていた僕は、数瞬の間を置くこともなく目前で打ち上げられた咆哮に時を止めた。
「は…………?」
なにをした? 断末魔? 激る戦意を朽ちさせず?
目から殺意を絶やさずに? 違う、違う! この感じ……!
「まさか————っっっ!?」
『『『ワオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!』』』
誰が見ても死に掛けている魔獣が打ち上げた、誰が聞いても遠吠えだろう声を耳に入れて呼応するように、そう遠くはない場所から『幾つかの獣の雄叫び』が轟いた。
「っっ……嘘、だろ…………?」
目前で息を絶え絶えにしている魔獣と全く同じ気配、そして明確に僕へと向けられている殺意。それを正確に感じ取った僕が視線を向けた方向には複数の猛速で動く影が。複数の影は四足を回転させて、猛速で僕の元へ駆け付ける。
目視で確認できる影は目前にいる魔獣と『同型』で、迫ってくる影の数は僕が見えているものだけで『三つ』もある。
目の前のを含めて『四足犬型の魔獣』が計四体……?
その事実を。狼狽えることを禁じ得ない驚愕を。夢幻の類なのではと疑って、決して霞んでもいない、重たくもない瞼を擦りたくなる現実を確と認識し、僕は叫んだ。
「まだいるのかよおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!?」
目前に転がっていた。いや『転がされていた』と言う方が正しかろう、美酒に溺れていようとも殊更に酔い痴れてしまう極上の撒き餌。それに嬉々として食い付いてきた道化の僕を危機に吊り上げる魔獣の謀略。我が子を殺されたが故に覚悟された決死にして必殺。自分が殺されることすらも僕を殺すための策略であった魔獣が用意した。僕にとっての致命。一人一獣の戦舞の末にある『次戦へと続く勝利』を汗を噴き出させた僕は一瞬の判断でかなぐり捨てて、すぐさま逃走を図る。もはや恥もない必死の形相。生きるための一手。しかし、それを魔獣が見逃すわけもなく——。
『グルァガガアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!』
「————っっっ、テメエッッッ!!」
敗北の兆しを見て限界まで歯を食い縛っている僕は、勢いがなくなった鮮血をしかし多大に撒き散らしながら飛び掛かってきた魔獣の左側頭部に全力の回し蹴りを叩き込む。
余裕が死に絶えて必死の僕が繰り出した、常人を超えた脚力から生み出される『強蹴』をノーガードで頭部に食らった魔獣は一撃の威力を殺すように回転しながらザッと地面に着地した。が、加減なき強蹴を直撃させた結果に脳震盪を引き起こして、くらりという立ち眩みした様子を見せる。
しかし魔獣が持つ常軌を逸した『執念』がその意識を暗闇に落とすことを許さずして、現実に己を保たせてしまった。
今にも倒れそうな形相を見せている魔獣と視線を交わす僕は思う。もうコイツが死ぬまでの時間稼ぎは無意味だと。コイツは『僕が殺す』か『僕を殺す』か。
そのどちらかを己が魂で認めなければ止まらない。死なない。刻一刻の猶予のなさで此方へと迫ってきている三体と合流された場合、僕の勝ち目というものは蜘蛛の白糸よりも細いものになる。生きるには殺るしかない。
コイツに、とどめを捧げるしか。僕自身が生み出した『魔殺』こそが、天へと送る餞となる。それなら、やるしかねえだろ。愛おしき子供達を殺した僕が、コイツを冥土に送れるのなら、やってやる。僕の手で。
「来いよ…………クソ犬——ゥッッッ!!」
『ゥゥゥガルアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!』
僕が吐き出した『気合い』こそが再戦の狼煙。今に死んでもおかしくない己が魂を強引に現世に留めている蜘蛛の糸。
それすらも殺意の焚き草にするような全霊の咆哮で僕を射る魔獣は、全力で大地を蹴り飛ばして僕へと肉薄した。
命が作り出す紅き鮮血は僕が身に纏っている風の膜が弾き、視界は大地とは違い赤に染まらず明瞭。容赦なく飛び掛かってきた魔獣に僕は『左腕』を突き出す。それを噛み砕かんと全身全霊で噛み付く魔獣。
魔獣の攻撃を受け止める形となった左腕は二度目の攻撃には耐え切れず、ボキッという嫌な音を鳴らし、僕の全身に激痛の稲妻を走らせた。
あまりにも甚だしい『痛苦』により暗転しかける僕の意識は間近でチラつく魔獣の眼光により堕ちない。流血するほどに噛み締められた歯をギリッと鳴らした僕は、魔獣が喰らい付いている左腕という名の『餌』を強引に振るって、大地から足が離れている魔獣を地面に叩きつけた。そして。
「——————ヅァッッッ!!」
僕が撒いてやった餌を噛み離さない魔獣は背中から大地に打ち込まれ、大胆に前身を晒す。僕は立ち上がろうと抵抗している彼奴の頭部を純然たる膂力で抑え付け、右手で逆手に持っている『爺ちゃんのオンボロナイフ』を強引に作り出した隙に——魔獣の心臓に向け、全力で叩き刺した。
樹齢数十年の大木が有す繊維よりも厚く密集した胸の筋肉をズクズクと突き進み、そして到達した岩石よりも甚だしく硬いを胸骨をゴリッと貫通してみせたナイフは、許容限界を迎えたように根本から『パキッ』と折れてしまった。
しかし、僕の決死の一撃は『魔獣を殺す』に至る————。
『ガァゥァッガァァァ————…………』
「っっ痛ゥづ——ゥゥゥ!?」
愛が生み出した殺意を携えてきた魔獣に『一対一』で辛勝した僕は、勝利の余韻に浸ることなどできるわけもなく、粉砕されてしまっている左前腕を庇いながら立ち上がった。
しかし、負傷して思ったように身動きが取れなくなってしまった僕を、狩に長けた獣が見逃してくれるはずもなく。
『ガルァァァァァァァァァァァァアアアアアアアッ!!』
「クソッタレ……ガァ…………ッッ!」
一、二、三。全員集合じゃねえか……クソッ! 頼みになるナイフは折れた、左腕も使い物にならない。
この状況を切り抜けるにはもう『風の加護』を使うしかない……!
加減できるか? この山一帯を致命的なまでに吹き飛ばして、山下にある人里に被害を出してしまうかもしれない。
上手く使えるのか? 不慣れな風の加護を上手く扱い切れずに、今よりも悲惨な状況になってしまうかもしれない。
いや、そんな心配する必要ないだろ…………っっっ!
僕は母さんを見つけて、故郷に連れて帰って、また、三人で。僕と爺ちゃんと母さんの三人で食卓を囲むんだ! だから、こんなところで死ねるわけがないんだよ!
できる! できる! できるはずだ! 僕ならできる!
生まれた時から一緒だった『風』を扱うことは容易い!
生まれる前から共にいた『風』を御すなんて簡単だろ!
「————っ来いよッッッ!!」
唯一無二の仲間を目の前で殺されてしまった魔獣の眼球は怒りで真っ赤に染まり、血に飢えた顎が僕の命を蹂躙しようと開けられる。
それを前にしても僕は臆さない。ただ前にある『死』への抵抗を。コイツらを撃滅し、生き長らえた先にある未来を僕は見据えていた。
絶望を跳ね除ける希望の灯火が僕の眼光に乗る。それを認めた魔獣は負けじと殺意を増幅させた。はち切れんばかりの戦場の空気。
それを打ち破ったのは、片膝を地面についている満身創痍の僕ではなく、今だに健在な体躯を見せつける三頭の魔獣だ。
『『『ガルゥァアアアアアアアアアアアアアアッッッ!』』』
「——————ッッッ!!」
目前の『仇』を喰い殺さんとして、殺意が溢れさせている多量の涎を撒き散らしながら魔獣が一斉に襲い掛かった。
それを見開いた真っ直ぐな両目で認めた僕が、風の加護の力を使い溜めた『暴風弾』を撃ち放とうと構えた、その時。
光った。そう光ったんだ、目の前が。何物よりも眩く。
まるで、目にも止まらぬ雷が落ちたかのように一瞬だけ。
一瞬で。コンマ一秒にも満たないだろう一瞬で、僕へと飛び掛かってきていた魔獣が消えた。全て消し飛んだ。掻き消えた。この世から、灰すらも残すことなく——。
あまりにも衝撃的すぎる出来事。信じられない現実。しかしこの目で見た事実。それを認めてしまった生き証人に違いない僕は咄嗟の声すらも出せずにいて。ただ息を飲み、静寂な山奥の日陰で喉を鳴らす。それは酷く目立って、僕の狼狽えを誘った。
「…………大丈夫?」
張り詰めた緊張の糸が解けて、引き締まっていた心臓と肺が一気に緩まる。故に絶え絶えとなる呼吸。鈍痛を感じるほどに荒々しい鼓動。それに苦しむこともなく、断崖絶壁を背にしながら、ただ時を止めている僕の視界の先には言葉通りに『浮遊』している、美しき月の天女を模した人形のような一人の少女が。身の丈ほどもある『星を模った杖』を持ちて、少女はゆっくりと僕の目の前に降りてきた。
「あなたは……………………あなたの名前は?」
少女はとても驚いた目をしながら、僕の『名前』を問う。
「……………………ソラ」
僕の名を聞いた少女は少しだけ目を伏せて「そっか」と、どこか寂しそうに呟いた。
どうやら僕は、この少女のおかげで助かったみたいだった。僕は少女に礼を言うために、立ち上がろうとして——噛み砕かれた左前腕のことを思い出した。
「痛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ってぇえええええええええええええええええっっっ!?」
僕は耐え難い激痛に、堪らず絶叫を上げるのだった……。
長くなって申し訳ない。次話でソルフーレン編は『最後』となります。




