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蒼風のヘルモーズ  作者:
『ソルフーレン』編〈1〉

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第22話 VSエリオラ《終》

 この記憶はいつの時代のものだったか。この思い出はどれほど昔のことだったか。この宝物は、なぜ記憶の奥底で天上の海原に浮かぶ星々のように煌めいているのか。いつか見た、懐旧の夢幻を通り過ぎて。奥へ奥へと沈んでいく。

 息をするのも忘れて、涙が出てくる思い出の数々に、唯一無二の宝物の光景に見入ってしまいながら、静かに思う。


 一体どこまで、僕は沈んでいくのだろうか——と。 


 終わりが見えない記憶の螺旋。全てが愛おしい輝きを放っているというのに。僕はなぜ、それに儚く溺れてしまうことを許されないんだ。どれだけ僕を沈めるつもりなのか。誰が僕のことを、見上げればそこにある光すらも届かない核心の海底に沈めているんだ。それは僕か。それとも俺か。おそらく後者。そんなこと、今は心底どうでもいい。僕は俺で、俺は僕で、お前はお前、自分は自分に違いないから。


 全ては一つ。全てを取り除いた先にある景色。そこへと繋がっているのはたった一本の糸。儚い作りだ。脆い繊維だ。少し力を入れて引っ張れば、あっという間に切れてしまう。だから丁寧に。だから慎重に。僕をそこへと、底へと、あの場所へと辿り着かせてくれる記憶が編む糸を辿っていく。 


 全ては一つ。故に全ては繋がっている。沈めば沈むほど見えてくる景色は色褪せている。全てが朧げだ。白か黒か。錆色のようなものもある。いや色はない。透明だ。いや色はある。有色だ。脆い脆い脆い。登場人物は皆が若々しい。


 確かに辿っている。今の僕は。遡っている。僕の望みに従って。願いに準じて。遡る。何秒も。遡っている。何分も。遡ってきた。何日も。どこまで行けばいい。何年も。底は何処。そこは何処へ。底に着けば、あとは一つだけ。いや、二つある。貴方は誰。貴方達は誰。そこは何処だ。ここは何処だ。知らない。知らない。知らない。どれも、これも。僕は知らない。空が雷雲に覆われている。僕を抱くのは誰。僕を守るのだ誰だ。だから。これはこのままで。分からないから。封じるのだ。よく思い出せないから。ここにある。それは全て朧げ。分かるのは。誰かの暖かさと優しさ。そして何者かに向けられているのは殺意と憤怒。どんな理由があるの。知らない。なにがあったのかなんて。知らない。

 

 だから。これはこのまま。ここに置いておくのだ。ここに沈めておくんだ。一生かけてもこれが色付くことはないだろう。それでも。僕は確かに満たされたから。満たされていたから。求めない。欲しがらない。別に。いらないんだ。


 もう一つ。もう一つ。あとたった一つだけ。そこにある。底にある。ここまで沈んでいる。なぜ。ここなんだ。なぜ。それなんだ。なぜ。僕は封じ込めていたんだ。それは。大切な母に涙を流させたせいか。それは。大切な母に涙声をかけられたせいか。もう。いい。見なくても、いい。見たくない。見たくない。大切な人が感動以外で泣くところなど。僕のせいで泣かせている時など、僕は見たくないんだ。


 でも、それでも。だからと言っても。見なくちゃ。見ないと。見なきゃいけない。僕がここから飛び立つため。あの空を駆け抜けるために。あの人の期待に。応えるために。報いるために。成し遂げるために。これ以上。僕のために心を殺させないために。光を発している箱に触れる。すると開いた。光を吸い込んでいる泡に触れる。すると割れた。光が届かない暗い場所で。記憶の蓋が閉ざされている底で。僕の記憶は揺蕩っていた。僕の思い出は彷徨っていた。それに触れてしまえば。すぐに。閉じ込めていた脳から飛び出した記憶は。外の光がある方へと向かい。浮かび。進む。


 暗闇を落とす蓋を突き抜けて前へ。嫌だ嫌だ。そう言っている弱い心を躱して。求めている。強くなろうとしている僕の元へと駆けていき。そして目にした。僕の目の内側で。奥側で。脳全体で。体全てで。光景が見える。嗅げる。聞ける。流れる。思い出せる。僕は見た。封印を解いて。懐旧の夢幻と化した記憶。その断片を——。  


『母さんっっ!! 見て見て!! 風! 手から出る!』


 これは人歴『千、二十五年』の四月三日。例年よりも厳しかった冬を越して、ほのぼのとしている春になった頃だ。

 周囲の大人達に叱られても一向に衰えることがなかった幼少期特有の未知へのチャレンジ精神。それが生み出している無限に等しい活力で野を駆ける僕は、母さんから「危ないから一人で行ってはいけない」と言われていた、村の東にある原生林へと短い旅立ちをし、そこを冒険していた。


 僕は生まれつき、肉体の内側で——いや、肉体に付随している根底であろう『魂』と呼ばれている部分で『風』を感じることがあった。それも偶にではない。稀にではない。 朝も昼も夜も。つまり日中夜を問わずだ。起きている間はずっと。寝ている時は覚えていないのが正直なところで。


 しかし、その自身の根底で温かな風が渦を巻いているという感覚が当たり前だったから、僕はなにも思わなかった。変に感じなかった。だってそうだろう。誰も心臓が動いていて当たり前のはず。肺が膨らみ、そして萎むこともまた。


 意識をしてみれば分かるはずだ。心臓は音がドクドクという鳴る。息を吸えば胸の内側から膨らんでくるのだから。


 だから、僕は疑問に思わなかったんだ。だけど、この時たしかに僕は不思議に思ったんだ。弁舌し難いのだけども、言葉にするならば、そう。僕は体内を駆け巡っている血に。僕の内側を流れている『風』を疑問に思ったのだ。この感覚は、外に出せるんじゃないかって。そう僕は思ったんだ。

 

 だから試した。未知への興奮をもって全力で。楽しかった。僕の内側を吹いていた『風』は僕の意志で自由自在だったから。自由自在に動かせて。生み出せた。その時の僕は疑わなかった。皆んな皆んな皆んな。僕の周りにいる人達はその全員が等しく。自分の内で風と共にいるんだって。


 そう思っていたんだ。その時の僕はそう信じていたんだ。


 だってそうだろう。誰しも体の内側に血が流れている。心臓が動き。一定の間隔で肺は膨らみ、そして萎むのだから。だけど。その思い込みが違うということを僕は理解した。初めて見せたのは母。初めて見せたかったのも母。だから見せたんだ。貴方と共有したくて。貴方に共感してほしくて。

 ただただ僕は、貴方に褒めてもらいたかったんだ。それなのに。貴方は僕が生み出している『風』を見て、迷った顔をした。その目で見て泣きそうな顔をしていた。その表情を隠そうとして、できなかったのも、僕は分かっていた。

 

 その理由はなに? なんで悩んでいるの? 


『ソラっ……。ソラっっ…………ソラ…………っっ!』


『す、すごいでしょ……! じ、爺ちゃんたちに言ったら驚くよね!? すごいって言うよね? ね、ねえ! 皆んなにこれの使い方を教えてもらいたいんだ! だって楽しいもん! すごいんだよ! すごいんだ…………よ』


『駄目っ……駄目よ……っ。それを使ったら駄目なの……っ』


『なんで……? 使ったら駄目なの? なんで皆んなは隠してるの? 母さんも分かるよね……? 風が。ここに。キュッてなる胸のところに、吹いてるの…………』

 

 母さんは、母さんの悲しげな表情につられる形で涙目になってしまった幼い僕を、あまりにも無知だった僕のことをギュッと抱きしめた。締め付ける僕の胸の苦しみを紛らわせるように、強く。訳も分からないまま涙を流している僕のことを泣き止ませるように、優しく。

 そして自分の胸の苦しみに、遣る瀬なさに対して崩れ落ちたように、儚く。


『ごめんね……。ごめんね……っ。それは、その風は、その風だけは使わないでほしいの。皆んなの前でだけは、使わないで……。その理由は言えないけれど、意地悪じゃないの。私が、私のせいなの。だから…………ごめんね……っ』


 僕を抱きしめる母さんは、一筋の涙を流している。幼い僕は、それに気付いていなかった。いや、気付いていたからこそ。くっついている胸から流れ込んできていた、母さんの苦しみを僕は分かっていたからこそ。僕はこの記憶を————


『………………分かった……っ。もう使わない。絶対。人に見せない。でも……っ爺ちゃんには言っちゃうかもだけど。他には絶対に言わないからっ……カカさんにも。サチおばさんにも。メノスケおじさんにもっ……絶対にっ。言わないから……っ』


 涙を流している僕を正面から見て、少しだけ儚い笑みを浮かべていた母さんはワンピースの袖を使って僕の涙を拭き取り、そして優しく頭を撫でて慰めてくれた。


『ごめんね…………っ。私が、私が居なくなったら、その時は……ソラの好きに生きていいからね————』


 * * *


 十六年という歳月の積み重ねが生み出している記憶の大海。暗闇だけが存在している海原の底。そこで確かに朽ちることなく、色褪せることなく、ただ光り輝いていたもの。

 それを囲んでいた匣を壊し。光を包んでいた泡を弾けさせて。記憶を閉じ込めていた『弱さ』という蓋を破壊した。

 ようやく解き放たれた記憶を幾百もの宝物の一つを懐旧の夢幻の一端に変え、それを底から拾い上げた。

 そして流し見る。痛みと恐怖で歪んでいる顔に備えられた二つの目。両の目に浮かんでいる涙でぼやけている視界を晴らさんとして、もしくは恐怖から逃げようとしていてか。しかし閉ざされて涙を辺りに散らす最中、僕は瞼の裏側で確かに見たのだ。僕の根源を。

 そこで僕の意識は『僕』という存在の内側から浮上して、常軌を逸した殺意を発散する恩人に追走されているという、甚だしく意味不明な現実に目を向けたのだった。


「速いね、ソラ君。でも、私よりは遅い」


「——————っぐわああァアっっ!?」


 絶えず湧き出てくる大粒の涙を過ぎ去っていく景色の端に置き去りにしながら、必死に腕を振り、そして膝を持ち上げて走っていた僕は、あっという間に追い付いてきたエリオラさんに、賞賛なのだろうが僕にとっては恐怖でしかない言葉を吐き掛けられて、その数瞬後に背中を蹴飛ばされた。


「っっゴアッッ!? ぶげっ……カハッ。ぁぅ…………」


 決河の勢いで吹っ飛んでいく僕に対して、凄まじい速さで『着弾地点』へと先回りしたエリオラさんは、地面を盛大に削りながら衝撃を殺していく僕が停止したその瞬間に立ち上がれないよう、背中を強強しく踏み付けて完全に身動きを封じさせた。

 

 絶体絶命という言葉がピッタリな危機的過ぎる状況。エリオラさんが左手に持っているナイフを一振りすれば、バターを切るよりも容易く僕の頸は切り裂かれる。

 首という部位には『脳』という生命最重要器官に血を送るための血管が集中している。故に生物にとっては急所だ。

 そこを一センチ、二センチ、三センチ。最悪それ以上を切り裂かれてみろ、手で傷口を塞ぐことしかできない僕は血を止められない。

 故に『死』に到達するのを待つことしかできない。

 そんな恐怖を、僕なんかが耐えられるわけがない。

 だって僕は、死ぬ覚悟なんて決めていないんだから。   

 だからこの紅眼の死神が笑みを浮かべるような状況を打開しようとして、僕は身じろぎという儚い抵抗を繰り返す。

 しかしエリオラさんは、諦める様子を一向に見せない僕に対して、僕の全力以上の力で強引に上から踏み押さえた。


 完全に上体を動かせなくなってしまった僕は、肩が攣ってしまうことも厭わずに、必死に両腕を肩方から背に回して、背骨中央に存在している女性の細脚を払い除けようとした。しかし、届かない。彼女を止められない。

 亀の様に手足を微動させることしかできなくなったことを認識して、僕は顔一面を絶望の暗色に染め上げた。そんな僕のことをエリオラさんは嘲笑うことなく、静かに。静かに。人の気配がない森林よりも静かな声調で、淡々と話を始めた……。


「なんで、君なんだろうね」


「…………は……っ?」


 首を回せない故に眼球のみで自分を見上げる僕へ、酷く冷め切っている視線を落としているエリオラさんは、僕の間の抜けた声に反応を示すことなく言葉を繋げる。

 

「私はね。内心でムカついてたんだよ。腹が立っていたんだよ。苛立ちが治まらないくらい。誰もが羨むだろう風の加護を、勇者と同じ力を持っているというのに……。それを扱えない君に。扱おうとしない君に。使用を止めていた君の母親に。なにも手を打たなかった君の周りの人間たちに」


 勝負の負けを認めたような。

 もう勝ち目はないと諦めて降参したことを告げているような。

 もう抵抗する余力はないと暗に言っているような『諦念』を纏っている僕に対して、心底苛立っているような声調をしながら言葉を吐き掛け続けるエリオラさんは、天照らす星の恩寵すらも跳ね除けて影が差してしまっている表情を、明らかにピクピクと小刻みに震わせながら、耐えず僕へと向けて甚だしい『殺気』を発散していた。

 そんな彼女に、汗なのか涙なのか。その判別が付けられないほど『ぐちゃぐちゃ』に汚れてしまっている顔を向けていた僕は、恐怖で小刻みに震えてしまう唇と舌、そして遣る瀬なさで嗚咽を漏らしてしまう喉を使って言葉を紡ぐ。


「母さんには何か、何か理由があって……っ! 理由があったはずなんです……っ。他の人達も知らなかっただけでっ。だから……! 悪いのは僕なんですよっっ!」


 涙声になっている僕の言葉を耳に入れたエリオラさんは、しかし感慨などないように。

 弱さを見せている僕に対して同情などする訳がないと暗に伝えているように。

 感情が読み取れない、もしかしたら何も思っていないのかもしれない素面を泣き出した僕に向けて、ゆっくりと言葉を吐いた。


「君の母親の理由って今も有効なの? 居ないんだよね? 君を捨てて消えてしまったんだよね? 君の母親はさ」


 あまりにも『人の心』から逸脱している無慈悲過ぎる恩人からの言葉に、両目から溢れていた涙を最後の堰すらも壊れたように多くした僕は続く叫びを打つけられた。


「居なくなった者の声が聞こえるのか? 目の前に居ない者の思いが伝わるのか? 消えた人間はここには居ないんだ。だから誰に聞く? 誰が教えてくれる? いつまで君は他人に甘えるつもりだ。その歳で、十六という大人の年齢になってもなお、君は……自分で考えて動けないのか……! 周りの人間からの許可がなければ、自分の『力』を振るうかどうかの判断も下せないのか、君は——ァッッッ!!」


「——————ずぅっぐぁ、があァアっっっ!?」


 僕の涙と弱音を目前にして、とうとう怒りと苛立ちが最高潮まで達してしまったエリオラさんは、僕の背中から踏み付けていた足を離しては、僕が動くことすらできないほど即座に腹と地面の間に左足を挟み、そのまま蹴り上げた。

 無言の中で憤怒の爆熱を絶えず発しているエリオラさんにいきなり五メートル以上も蹴り上げられてしまった僕は、紅の中にドス黒い『闇』の眼光をちらつかせている彼女の両目に射竦められながら、その数瞬後に限界まで目を剥く。


 限界まで見開かれた僕の目に浮かんでいるのは、エリオラさんが行った突然の蹴り上げに対する驚愕などではない。

 驚愕はあるにはある。けれどそれの大多数は痛みと苦しみ。

 静かな烈火。

 しかし溶岩よりも激る『闇』を見せているエリオラさんは蹴り上げられた故の浮遊感で抵抗などできる訳がない、まさにひっくり返った亀であろう僕に対してグッと眉尻を吊り上げて、さもボールを扱うような要領で心を置き去りにしてしまっている僕の肉体を、甚だしい威力が込めらた『全力の蹴撃』をもって蹴り飛ばしたからだ。


 彼女が履いた鉄靴の先が僕の腹に加減なくめり込んで感じるのは、腹の内側で活動している五臓六腑が潰されたような激痛。そして我慢ならない悪心。吐き気である。

 肉体が産毛の全てを逆立ててまで叶えようとしている嘔吐の欲求を僕が我慢できるわけがなく。

 信じられないほどの衝撃が体の中を走り抜けていったことによって、僕は胃の中の物体、その全てを空中を激しく泳ぎながら吐き出して、見下ろせばそこにある国樹『フーロ』の樹芯に撒き散らした。 

 その目も当てられない光景を猛速で移ろっていく視界の端で認めながら、僕は飛び進んでいった先——その終着に目を向けた。

 そこには先回りをして構えている彼女がいて。

 

 ぼやける視界。しかし見えている。はっきりと認められる。

 その殺意を。絶殺の構えを。

 意識は朦朧。なにも考えられない真っ白な脳の回転。辿り着くは『死』の運命か。


 未だに叩き込まれた憤怒の蹴撃の威力は衰えることなく、吹っ飛んでいく僕の速度は落ちてくれるような兆しはない。 

 まさしく絶望的な状況に置かれている僕が見据える先には、本気で僕を殺さんとした殺意の波動を全身から発散しているエリオラさんの姿。今まで茫然していた死神が顕現してしまったかのようで、僕の心臓は冷たい音を鳴らす。

 強く握り込まれている彼女の左拳は『炎』を纏っていて、まるで天空に浮かんでいる太陽のように煌々と輝いていた。

 もしもあれを真面に食らわば、間違いなく僕は死ぬだろう。

 それほどまでに。そう確信させてしまうほどに洗練され切った強力な力だと、薄らと開く両目からでも理解できた。

 

 死ぬ? ここで? 今? 僕は死ぬ? 死んでしまう?

 

 抵抗できない。

 防御できない。

 あれを食らえば間違いなく死ぬ。

 あれを受ければ間違いなく僕は死んでしまう。

 どうする、どうやる。どうやって。あの攻撃を防げばいい? 

 その答えはない。答えは聞こえない。僕からの質問に返事はない。

 だって、僕の周りには誰もいないから。僕は一人だから。僕は孤独だから。


 知りたいと思ったことを。その答えを求めれば対価を求めることなく与えてくれる博識なカカさんはここにいない。

 彷徨っている僕のことを迎えてくれて、そして尽きることのない暖かさを僕に与えてくれるサチおばさんもいない。 

 なにか困ったことがあれば、全力で僕の力になってくれる。誰よりも頼りになる、屈強で優しい大切な爺ちゃんも。

 誰も、誰も、誰も。僕の周りにはいないんだ。僕が。僕が離れたから。あの人達にさようならを言った。行ってきますって言った。一人で世界を進むと覚悟を決めて。


 だから。だから。だから…………っっっ!! 

 

 これからも続く長き旅に立ちはだかってくるだろう幾多の障壁は全て、僕の足で飛び越えていかなくてはならない。

 これからも続く長き旅の中で巻き起こるかもしれない幾多の課題は全て、僕自身が対処していかなくてはならない。

 これからも僕一人で続けていく母を探すための長き旅の中で、必ず繰り広げられるだろう幾多の戦いは全て僕自身が剣を握りて振るい、超えていかなくてはならない。

 母を探し、故郷に帰る。そして、また始めるんだ。

 同じように。懐かしむように。母と祖父と僕の三人で食卓を囲むその日まで。

 僕は歩み続けなければならないんだっ!!

 だから死ねない。絶対に負けられない。

 だけどエリオラさんには実力で圧倒的に敗北している。

 そんな僕が絶対強者のエリオラさんから勝利の一手をもぎ取るためには、優勢を奪うには、僕だけの有利を——『風』を使えばいい。


「————ッッッアアアアアアアアアッッガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!」


 弧を描くようにエリオラさんの方へと向かっていた僕の肉体は、僕の内側で眠り続けていた『風』が全力で叩き起こされたことによって空中でピタリと動きを止めて、言葉通りに浮遊する。

 

 何年も、何年も。何年も。


 子供のような弱さに甘んじていた僕によって、魂の奥底まで抑えつけられていた。

 いつまでも僕の呼び声に応じた目覚めを望みながら、しかし眠りについていた『神の風』は、僕が力を受け入れたことに対して歓喜しているかのように、僕の内で『極限の大嵐』と化して、全力をもって暴れ回る。

 目奥で幾度となく光が明滅し、口から臓物が飛び出るんじゃないかと思える程に肉体の内側が風が吹き荒れている。

 

 だけど、だけど。心地がいい。すごく、すごく懐かしい。

 

 生まれたその時から……いや、もっと昔から…………。


 僕は『風』と一緒だったんだ————




《まだ死ぬわけにはいかねえんだよ…………ッッッ!!》




 誰かの声が魂の奥底から響く。その声は聞き覚えがある。いつも聴いている。聞いている。発している『誰か』の声。

 しかし、その言葉を意に介する余裕はない。

 空中で浮遊し、そして静止している僕は『カッ』と目を見開いて、魂と肉体の内側で暴れている風を外に放出する。

掌に『暴風の弾』を作りて、それを撃ち出すように構えた。

 狙うのは、莫大な殺意を僕に向けて発散しながら炎の拳を見せているエリオラさん——いや駄目だ。殺してしまう。だけど、だけど。ここで僕が撃たなかったら。ここで風の加護で作り出した暴風を撃ち放たなけれな。それも駄目な気がする。だってエリオラさんの目が伝えている思いは、僕が彼女に向けて撃つことを望んでいるから。

 僕は、それに応えたい。僕の人生の二歩目を、助けをしてくれた貴方に見せたいんだ。貴方に褒めてもらうために。ずっと、ずっと。僕のことを思って行動してくれた、自分の心を『殺して』まで、弱い僕が次に前に踏み出すのを待ってくれていた貴方に。エリオラさんの思いに、願いに、信頼に、報いるために——っっっ!! 


「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!」


 覚悟を決めた、決死の面持ちをする僕は右掌に溜めていた『暴風の弾』を、たしかに歓喜の笑みを浮かべているエリオラさんの『目前』に撃ち落とした。

 するとそれは瞬く間に蹂躙の限りを尽くして、大森林の一帯を吹き飛ばす。 

 今の僕ができる最大限である暴風の弾着は、甚だしい轟音を辺りに鳴り響かせ、小さくも確かな地響きを起こした。

 僕の一撃が生み出した尋常ではない轟音と地響きは、戦場から遠く離れた場所を捜索していた冒険者達も確認した。

 確認から数瞬後、冒険者達は立つことすらも儘ならない暴風に全身が晒されて、気を抜けば吹き飛ばされてしまう状況の中を必死に蹲りながら耐え凌ぐ。

 しばらくして起き上がった冒険者達は先程の『風』の発生源、空高く砂埃が舞っている場所を遠目から認めて、そこを目指して走った。


「………………これが、風の加護……!」 

 

 暴風を撃ち放った当の本人である僕が、甚だしい威力の被害に晒されぬように避けて吹き抜けていく、暴風の余波。

 風の加護を使用した者に一切の被害が無い、全てを超越している超常の力、人知を超えた極大の一撃。

 それを大森林に生えている樹木の天辺が見通せる空中から見届けていた僕は、周囲を囲んでいる風に乗ってゆっくりと降下した。 

 そして久方ぶりの感触を靴裏から感じてしまう大地に二本の足が着いた、まさにその時。僕の肉体は『ピキッ』と攣ったように動かなくなり、自力で立つことができなくなってしまった僕は否応無し、母なる大地と抱擁を交わした。


「…………っ!? ぁぅ………………」 

  

 さっき……エリオラさんにボコボコにされたのが……今きた……のかっ……もう駄目だ、落ちる——…………


 多大なるダメージを蓄積していたソラの肉体はとうに限界を迎えており、地に足が着いて安心を得たが故に緊張が解け、それが起因となって保っていた意識が暗転した。

 勝ったのか負けたのか分からないまま、勇者への一歩を踏み出してみせた少年は静寂なる森林の中で眠りに落ちる。しかし、ソラはたしかに満たされていた。無意識に抑えつけていた『風』を解放して、自由を手に入れたのだから。

 枷から解き放たれて自由になった『風』は、まるで我が子のように思っているソラのことを抱きしめるように、守るように。すやすやと眠るソラを中心に回っていた。

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