第20話 VSエリオラ〈1〉
完全に東の果てから昇り切ってしまった太陽。ある種の神々しさすらも感じてしまう天照らす星が絶えず発散している光輝に目を窄めてしまいながら、約二時間という長距離徒歩移動の末に僕とエリオラさんは昨日に来たばかりである、フリューと同等規模の広大さを有している『フリュー大森林』の地に止めらずの両足を踏み入れた。
午前の八時という紛うことなき早朝であるにも関わらず、昨日に僕が発見し、そして見殺しにした幼魔獣を産み育てていた成体の魔獣のことを探しているのだろう、数十人規模の冒険者達が闊歩していることが認められる大森林の内。
僕とエリオラさんはそんな彼等彼女等に『そんな軽装のままで、なんの用だ?』という好奇の視線を向けられながらもその尽くを無視し、ただただ不気味に思われてしまうこと間違いなしな無言で、やはり仄暗い大森森の深奥へと進んでいく。
額に玉の汗を浮かべている僕がどれだけ「な、なにをしに、僕をここまで連れてきたんですか?」と無言の歩みで西方に進むだけであったエリオラさんに問い掛けても、彼女から発せられる返答は一つもない。
ただただ訳も分からないままに大森林の奥へと向かわされている僕の耳朶を打つのは、褒賞に目が眩んでいる冒険者達が奏でる喧騒だけ。
男性冒険者の野太い怒声や、気が強そうな女性冒険者の声音。
それらに意識を引かれながらも、その歩みを止められなかった僕は、あまりにも普段の様子から乖離してしまっている現状のエリオラさんの背中に視線を釘付けにして、しかし打つ手の尽くを無視というやり方で跳ね除けられて、どうしようもないという切なさで視線を彼女の踵に向けた。
何故に無視を貫いているのかが一向に理解できないエリオラさんのことを怪訝に思いながら、僕は必死に彼女の後を追いかける。そうしてフリュー大森林の西、大森林の中央へとひたすらに歩いていくこと、かれこれ二時間が経過。
寝不足からくる気怠さと、計四時間以上も延々と歩かされていたことで盛大に顔を歪めてしまっている僕は、感じている喉の渇きや足の重さに音を上げてしまいたいという、爺ちゃんに馬鹿にされてしまうだろう思いに駆られていた。
現状の僕が所持している物は、いつもの私服に茶色のコート、それに爺ちゃんからもらったオンボロナイフのみだ。
急に起こされたというのもあるが、そもそも行き先を教えてもらえなかったせいで、私物を詰め込んでいる愛用のリュックは宿屋の隅に置きっぱなしにしている。
意味不明な移動を続けるエリオラさんも僕と同じで、彼女が所持しているのはいつもの貴公子然とした服に銀色に輝く胸当て、それと腰に差された柄の長い剣だけだ。
身に付けている物以外は何一つ、どこからどう見ても持ち合わせていない。水も食料も持ってきていないのにも関わらず、こんな森の奥に一体なんの用なのだろうか?
というか、さすがに無物資無補給のまま、こんな辺鄙な森の奥地まで連れて来られるとか、明らかにおかしいだろ。
まさか『今までの宿泊費等、私が支払った諸々は魔獣探しで全て補ってもらうよ。だから頑張って探してね』とかか? もしそうだったら僕は何も言えないんだが。
などという考えうる最悪を脳内で巡らせながら、さらに森の奥へと進み続けて、約一時間が経過した午前の十一時。
「っっ! エリオラさん! 流石に答えてくださいよ!」
あまりにも現状の説明がなされないまま、計五時間も歩かされ続けていた僕はとうとう痺れを切らした。汗だくになっている格好を披露しながら切羽詰まっている大きな声を吐き、数歩前に立つ僕が歩みを止めるのと全くの同時に歩みを止めた、様子のおかしいエリオラさんに問い掛ける。
現状の説明をしないのなら、もうついて行かない——という意志を明らかにした僕の方へ振り返ったエリオラさんは、相も変わらずといった表情で僕のもとへと歩んでくる。
そうして思考が全く読み取れない素面をしている彼女は、腰に差していた自身愛用の片手剣を『僕に』手渡してきた。
「…………は、はっ? な、これはっ、な、なにを?」
「いいから、受け取って」
渡された片手剣を超強引に受け取らさせられてしまった僕は、言われるがままに柄を握った剣を鞘から引き抜いた。
「…………!」
剣の威力に負けないように分厚く作られている鞘から解き放たれた『真銀の剣身』は、天空から無限の如く降り注いできている陽光を反射して、その極光を一段と強く放つ。
少しだけ角度を変えることによって網膜を焼きかねないほどの光輝は雲一つなき蒼穹の絶景へと移ろい、無類の美しさを誇っている『青の薔薇』の装飾が施されている剣身、その全体を言葉を失ってしまっている僕に披露してくれた。
武器というよりも美術品と言って憚らないそれは、僕のような一般人では手を伸ばすことすらも烏滸がましいだろう『一級品』であることが素人目でも理解できて。
「それ、貸してあげるよ」
「……………………は?」
唐突に至極馬鹿げていることを平然とした様子で言って、キョロキョロと頭を回して『何処か』を探し始めてしまったエリオラさんは、放心しているような顔で硬直してしまっている僕に顔を向けて「あそこに行こう」と手招きする。
一向に理解が追いつかない混乱の極地に立たされていた僕は、しかし彼女の言う通りに預けたまま放置されている真銀剣を抱え、先を進む彼女の後ろをついて行った。
なんとも言えない空気に満たされている移動をしばらく続けていくと、木々が開けて広々としている空地に着いた。ここに何かがあるのか? という風に僕が辺りを探るように見回していると、エリオラさんが目前まで歩いてきた。
「ソラ君が携えているナイフ、私に貸してくれない?」
「え…………い、いいですけど、なにをするんですか?」
「…………ここまで来たから正直に言おう。私が君としたいのは模擬戦だね。鍛えてあげようと思って。私が君を」
「は……?」
あまりにも突飛過ぎるだろうエリオラさんのまさかの発言に咄嗟の言葉を失った僕は、口を開けたまま呆けさせた。
「そんなに驚くようなことでもないんじゃないかな? 昨日にここで『君に直接』言ったじゃないか。私の口でね」
「えっ!? き、昨日に言ったって…………あっ」
気付きを与えるようなエリオラさんの物言いに甚だしい困惑を露わにしてしまった僕は次いで思い出す。昨日にここで、僕はエリオラさんと話をした。しかも二人きりでだ。その時たしかに彼女は言った。休息を取っていた僕に直接。
『君は加護を使い慣れていないみたいだし、使いこなせるようになった方がいいと私は思う。これからの事を考えれば君は『一人で戦える力』を持っているべきだから。君が一人で戦えるように私が手伝ってあげるよ。……いや、私にさせてほしいな』
と、エリオラさんは約束していたのだ。
「私は他人に嘘を吐いたりするし、平然とブラフを掛けたりもする。だけどね、私は家族同然の子に、実の弟のように見えてしまっているソラ君に向けて汚れ切った嘘を吐いたりしたくないんだよ。家族っていうのはどんな金銀財宝よりも美しくて、そして、とても儚い宝物だからさ。だから汚したくないし、身を挺してでもそれを守りたいと思っているんだ。でも、君には君自身が成し遂げるべき使命がある。それに付き纏う道筋が私に取ってはこの上なく心配でね。この『提案』を挙げさせてもらった」
見上げればそこにある蒼空よりも澄み切っている、嘘偽りがあると疑うことすら甚だしい罪になりうる真摯な紅眼。
その眼差しを真面に射られて身じろぎしてしまった僕は、それが真実だと分かりきっているもののしかし彼女の発言が本気なのかどうかを再審するために問い掛けた。
「っで、でも、も、模擬戦って…………本気、ですか?」
模擬戦ってことはとどのつまり、戦うってことだよな? 自衛能力に欠けた僕のためを思っての提案であるのは今の発言で理解したし、その気持ちは素直に嬉しい思う、が。
先述の通り自衛能力。延いては戦闘能力が全くと言っていいほどに備わっていない僕如きが、一線級冒険者に違いないエリオラさんの相手になれるとは到底思えない。
身に纏う衣服や防具や、渡されてしまった真銀の片手剣、それに心身から発せられている凄まじい闘気を鑑みてもやはりエリオラさんは一級の冒険者。その至大たる肩書きに見合うくらいの戦闘能力を有している武人に違いないのだ。
対して模擬戦の相手に選ばれてしまった僕はというと、田舎生まれ、田舎育ちの紛うことなき『超絶ド素人』である。
僕とエリオラさんの両者を比較するとなると、完全に月とスッポン的なそれになってしまうくらいには、互いの実力が乖離しすぎている事実が存在してしまっているわけで。
全く釣り合いが取れていないが故に、仮にこの模擬戦を始めようとも、そもそもの『勝負』すらにならないだろう。
「私は至極本気だよ。言っただろ? 嘘は吐きたくないってさ。私は君を鍛える。一人で旅を続けられるくらいに」
「でっ、でも……僕とエリオラさんじゃ、その、実力が」
「そこを気にする必要はないよ。もちろん『君次第』での手加減はするつもりさ。だから殺す気で掛かってきてよ」
「こっ、殺す気って、そんな無茶苦茶な…………っ!?」
「この一刻もの時間すら惜しい。さあ、早速始めようか」
「あっ、ちょちょっ!? え、ええっ!?」
有無を聞く耳は持ち合わせていないと言うように僕の腰から凄まじい早業でナイフを奪い取ってしまったエリオラさんは、ヒュンヒュンという風切りを音を軽々と、しかし残像がハッキリと視認できるほどの豪速な素振りで鳴らし、武具の中で最底辺であるはずの爺ちゃんのオンボロナイフを、超絶技巧をもって一級品であるかのように魅せつけた。
「なんで……エリオラさんはなんで、僕なんかにそんな……」
戸惑いを隠せない僕が吐き出してしまった包み隠さない本音。それにピクリとも反応を示さないエリオラさんはナイフを見ていた目を前に、僕と視線を交わすように向けて、ただただ真っ直ぐな眼差しで僕の目奥を射ては口を開いた。
「二度と失いたくないんだよ。大切な家族を。家族同然の『ソラ君』のこともさ」
「………………」
「私が力になってあげられるのに、私が力にならなかったら絶対に後悔してしまう。もし無力のまま君を旅立たせて、もし最悪の場合が君の身に、君のたった一つの命に起きてしまったらなら。私は自分を許せない。殺して、死すとも。絶対に私は私を許さないだろう。だから全力で、今できる限りの全然全霊を込めた力を、君の助けに使いたいんだ。まあ、勇者の卵を育てたっていう『箔』が欲しいのも本音だけどね?」
エリオラさんは最初に紛れもない本音を語り、最後に今までの諸々を茶化すような言葉を、子供を揶揄う悪戯好きの大人のようなウインクをしながら言ってのけた。
「勇者の卵って。僕は、勇者になれますかね…………?」
「君がなろうと思えば、君はなんにだってなれるはずさ」
「………………そう、ですかね」
「ああ。私は断言できるくらい、君を信頼しているよ」
「………………」
「…………始めるよ、ソラ君。さあ、渡した剣を構えて」
「————っっ!」
話の終わりを告げる一言が静まり返っている開けた空間に響き、次いで流れるは一瞬で張り詰めてしまった緊張感。
エリオラさんは大衆が認める一級の冒険者である——それを心底理解してしまえるほどの隙の無い構えが、目前に。
彼女が絶えずに発している隔絶した実力からくる覇気に、その気迫に押された僕は怖気付いたように剣を持ったまま後退りしてしまうも、エリオラさんが向けてくている『真摯』な眼差しを一身に受けてしまえば逃げることなどできるわけもなく。
緊張で全身から夥しい量の汗を噴き出させた僕は「ゴクリ」という音がなるくらい大きく息を呑んだ。そして渡されていた真銀の荊剣を封じている鞘から引き抜きて、それを真正面に——ナイフを構える彼女に向けた。
もう逃げられない。彼女は逃してくれない。既に引くという手は封じられている。だから僕はもう、戦うしかない。
額に浮かび上がってきた汗が頬を伝い、顎先へ。そして顎先から乾いた色をしている地面へと落ち、染みを作った。
生まれて初めて真剣を握って、生まれて初めて握った狂気を『人』に向けているという、今まで想像もしなかった訳が分からない現実からくる緊張で息を震わせてしまっている僕は、彼女から放たれている『逃さない』という意思が乗る眼光を受けては眉尻を吊り上げ、その覚悟を決める。
「………………っ」
「————いいね」
緊張で目がぼやけてきているものの、頭の中は至極明瞭であった僕は冷静に、得物を失ったが故に邪魔でしかないナイフの鞘をベルトから抜き、そして地面に放り投げ、同じくエリオラさんから預かっている剣の鞘も地面に捨てた。
エリオラさんの得物である真銀の剣の刀身は約七十センチほどで、爺ちゃんのナイフの刀身は十五センチくらいだ。
互いが所持している武器の間合いは僕が五十センチ以上も圧勝しているし、武器の性能も真銀剣の方が格段に良い。
この武器性能と間合いの点を加味してみれば、僕とエリオラさんの『身体能力差』は良い具合に打ち消されているのではないだろうか。武器で勝っているのなら、打ち合いに有利だろう僕の方が若干リードしているのかもしれない。
いや、身体能力が乖離しているのなら、取り回しが容易なナイフの方に軍配が上がるか……? ないな。ナイフと言ってもオンボロもオンボロ。価値を金額に換算すればたったの数百ルーレン。経年劣化も鑑みればそれ以下のはず。
この真銀剣と打ち合った瞬間に向こうのナイフが弾け飛ぶ可能性もあるからな。いや、壊れないでくれよ、マジで。
そんなどうでもいいことを考え、そして終えた僕は利き手である『右手』で長い柄を剣の握り、適当な構えをする。
覚悟が決まったという鋭い眼差しで見据えられたエリオラさんは適当な構えを見ては口角を上げて、腰を低くした。
どちらかがアクションを起こせば即刻『模擬戦』が開始するだろうことが察せられる緊迫とした空気が場に流れる。
「…………?」
待てよ、エリオラさんが使っていた一級の剣だぞ。間違いなくこの世のものとは思えない切れ味を発揮するはずだ。
爺ちゃんのナイフはオンボロだけど、欠かさず手入れがされていたから包丁よりは切れ味があるだろうし、耐久力もあるだろう。だから打ち合っても大丈夫だとは思うけど、しかし問題なのは使い手だ。
相手のエリオラさんは本職で、相対する僕は無職の素人。一振りの速さは間違いなく向こうが上だろう。
その場合、僕が剣を斜に構える間も無く振るわれた一閃が僕の胴に直撃し、汚い断末魔と血飛沫をあげながら僕は呆気なく死んでしまうのではないか?
エリオラさんは手加減すると言っていたけど、恐れ慄きそうになるヤル気に満ち溢れている彼女の顔を見てみれば、凄まじい不安が胸に押し寄せてくるのだけども。
手加減してくれるよね? 僕ど素人だよ? いやいや。子供のアミュアちゃんとはまるで違う『大人』を体現したようなエリオラさんのことだ、熱くなって間違いを犯したりは……多分だけど大丈夫のはずだよ。まあ一応は、一応は釘は刺しておこう。
「あの、手加減——」
「手加減はいらないよ。全力で来て!」
「いや、手加減を——」
「君から来ないなら、私から攻めるよ!」
ちょっ、いやいや! 話を聞いてよ! ヤバい! マジでヤバい! 剣なんか使ったことないし、これどうすればいいんだ!?
全力で振ればいいのか? 斧みたいにでいいんだよな? 人生で一度も剣は振ったことないけどエリオラさんに直撃したりしないよな? まあ僕なんかの攻撃が圧倒的な格上である彼女に当たるわけないか。
「じゃあ、行くよ!」
「うぇっ!? っっ、こ、ここっ、来い——っっ!!」
至極端的であるが故にこの上なく分かりやすい『開戦の合図』が、エリオラさんの小振りな桜色の唇から紡がれた。
その言葉に続くのはあまりにも常軌を逸している覇気と、それに準ずる度合であると理解させられる、人外としか形容できない強力無比な脚力での踏み込みが生み出した轟音。
なんの鍛錬も積んでいない素の僕の脚力とじゃあ比較にもならないだろうそれを遺憾無く発揮してみせるエリオラさんの右足での踏み込みが『ドンッ!』と不動なる大地に炸裂すれば、まるで天空から隕石が降ってきたかのような巨大なクレーターが瞠目している僕の目の前で形成されて。
それを間近にしていた僕は『マジかよ』と顔を真っ青にさせてしまったものの、しかし踵を返して逃げ出すようなことはなく、ただただ盛大にあたふたしながら両の手で柄を握っている真銀の剣の切っ先を『用意』を済ませている彼女へと向けて、自分にできる最大限の臨戦態勢を取った。
荒くて粗雑。初々しいが故に全く様になっていない剣の構え。次手を考えていない足の位置。不意打ちをしてくださいと誘っているような穴だらけの視線の動き。呼吸は雑。心拍が上がっている。まさに隙だらけ。しかし輝いている。
少しの経験を積めば改善されてしまう素人の様相。その姿は長らく見ていない。
いや、既に世から消し去っている過去の『弱者だった自分』と重なるような、甚だしい既視感。懐かしむことはないけど、とにかく愛おしい気持ちが湧く。故に強者すらも眩さを感じてしまう。
自他共に認めるド素人である僕の『戦闘準備』を間近に認めた一級の冒険者であるエリオラさんは、勇気を振り絞って『こちらへの第一歩』を踏み出してみせた僕のことを歓迎しているような、ある種の尊敬の念、そして羨望さえ覚えさせてくる雄々しい——女性に言うのは憚られるけれど——笑みを浮かべた。
その笑みに対して『負けるものか』と僕が顔を険しくした直後、膨らみが確認できる胸部が地面と密着してしまうスレスレまで体を前倒しにした『超前傾姿勢』を取ったエリオラさんは、踏み込まれていた右足を全力で押し出して、信じられない爆発な加速力を有している『疾駆』を行った。
「——————っなぁっっ!?」
そんなに前傾して走れるのかと思えていたエリオラさんが大地を蹴ったのと同時。僕の目の前で巻き起こったのは、煉瓦造りの超重量の家屋さえも難なく吹き飛ばしてしまうだろう『嵐獄』が、目前で唐突に発生してしまったかのような、甚だしい規模を見せつけてきている巨大な砂塵流と、地を純粋な脚力のみで蹴り砕いた大音である爆発的な轟き。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!? マジかよ……っっ」
人が道具を使わずに奏でたとは到底思えない大音による驚愕と迫ってきている砂埃の殴打によって咄嗟に両腕で顔を覆ってしまった僕は、突如として耳に届いた「目を離してはいけない」と言うエリオラさんの言葉に肩を揺らした。
そうして焦ったように前に出していた両腕を引き戻した僕が、遥か上空まで生み出された砂塵の大玉が昇っていっていることを認めた次の瞬間、あらん限りに目を見開いた。
眦を裂かんばかりに開かれている僕の瞳に映っているのは、まるで『瞬間移動』をしてきたかのように僕との間にあった七メートルの距離を殺してきたエリオラさんの姿で。
「————なっ、はあっ!?」
「受けてみろ、ソラ君!! ————ふうッッッ!!」
「う、受けろって——ぇええっっっ!?」
反応速度の限界を、あっと言うような間も許すことなく超えてきたエリオラさんの超速の肉薄に僕は絶叫を上げる。
僕は咄嗟の悲鳴すらもエリオラさんの発言に対する絶叫に変換してしまった。しかし冷静を維持していた脳は既に刃渡り十五センチのナイフの間合いには入れられていることを理解して、即座に緊張硬直している肉体に命令を出す。
ほぼ無意識、ただの反射で前に出していた真銀の剣を一気に引き戻した僕は即座に取るべき動きをシミュレートして剣を斜に構え、先制攻撃に備えた『防御の型』を取った。
防御を選択した数瞬後。僕の行動に正解だと言っているような笑みを一瞬浮かべたエリオラさんは、霞むほどの速さで、僕が目で追えないほどの極速で華奢な左腕を振るう。
僕の指よりも一回り以上細くて、僕の手よりも断然小さい白茶色の革手袋に包まれているエリオラさんの左手には、僕にとっては唯一無二で替えが効かない御守りで、それを向けられている現在の僕からすれば『甚だしい凶器』でしかない、オンボロだったはずなのに、僕が握っていた時よりも心なしか喜んでいるような『ナイフ』が握られていて。
懇切丁寧に磨き抜いていたナイフの刀身は天上から降るる陽光を反射しており、それはさながら死神の眼光のよう。
その煌めきを、鼻先に触れるかもしれない間近から目にした結果、僕は生まれて初めて『死』という恐怖を覚えた。
無機質に冷たい。命の香りと温かみがしない死神の眼光が与えた死という概念。根源的な恐怖であるそれは僕の胸の内側に深々と刻み込まれ、故に僕の動きの精彩を削ぐか。
それは『否』である——。
僕は迫り来ている命を襲う死神の鎌を目前にしても、恐れ慄いて目を閉ざすことはなく。死に刃向かい現命を望んていることを確固とするように、勇猛果敢に歯を食いしばって両手に握られている剣の柄をさらに力強く握りしめた。
空気のうねりすらも目視で観測できるほどの埒外の豪速が伴っている宝刀の身。進路上にある万物を破壊することなどこの上なく容易かろう横一線の一撃に対して、下半身と肩と腕を一気に肥大化させた僕は、全力全開の全身全霊にて、その一撃を真正面から、受け止める——ッッッ!!
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっぐぅっがっあぁあっッッ!?」
目にも止まらぬ豪速で横一線の振るわれたナイフと、咄嗟に構えられた不動模る真銀の剣が真っ向から衝突すれば
途端に、ギャイィインッ————ッッッ!!
と。耳奥が鋭い痛みを訴えてくるけたたましい金属音が暗い静寂に満ち満ちていた一帯に響き渡り、そして目を見開いている僕の眼前で、僕とは違って瞼を微動だにさせなかったエリオラさんの眼前で、盛大な火花が生じて散った。
女性の細腕から発揮されたものとは到底思えぬほどの甚だしい威力が込められていた一閃。それを防いでのけた僕の両肩は『ミシミシ』という嫌な音を奏で、そして引き千切れたのではないかという激痛が全身に走った。
飛来してきた巨岩と正面から打つかったかのような衝撃を受けて大きく仰け反ってしまっていた上半身からは『ブワッ』と嫌な感触をする脂汗が一挙として噴き出てきた、が。それでも僕は、僕はエリオラさんが繰り出した一撃を耐えたのだ。
尋常ならざる衝撃を受けて数瞬の間、足が浮き立つ感覚に襲われたものの、次の瞬間には『ザッ』と地に足が着く。
すると「〜〜〜〜〜っ痛っづうぅっッ!?」と。
陸上生物であらば不安を覚えずにはいられないだろう浮遊感。それを完膚なきまでに殺してくれる『大地』に足が着いた感触によって、強力過ぎた一撃でグチャグチャになっていた頭の中が鮮明になった僕は、あまりにも強強しく柄を握っていたせいで横一線の衝撃をもろに食らってしまった両手、それが訴えてくる鋭い痛みに涙を浮かべて呻く。
「づぅっっ!? か、加減したんですよねぇ……っ?」
手加減するって言ってたくせに、一撃が重すぎるだろっ。
そんな文句を伝えている視線を向けられたエリオラさんは、
「したよ。一応ね」と、両膝をついて尋常ではない痛みに悶えている僕に、絶望でしかない言葉を平然と掛けてきた。
「今の防御は素人にしては良かった。私の一撃をちゃんと防げていたしね。でも、私が次手を取っていたら君は首を掻き切られていたよ。そこは減点。さあ、次だ」
共に過ごしてきた今までの日々の中では、優しさの塊的存在だったエリオラさんから発せられたものとは思えない淡白過ぎる僕への賞賛。
それに次いで、真っ赤になってしまっている掌を見て早くも根を上げている僕に掛けられたのは、酷く冷め切っている声長での『死刑宣告』であった。
この痛みにはまだ続きがあるということに絶望せずにはいられない、ぬるま湯の日常に慣れ切っている僕は影ができて顔の上半分が見通せないエリオラさんが浮かべている、感情が読めない紅き眼差しを見て、ゾッと肌を泡立たせる。
「っ! つ、次っ……て、マジで言ってんの……っ!?」
「私はマジだよ。何度も言ってるだろ。私は嘘を吐きたくないんだってさ。時間が惜しいんだ、早く立ち上がって」
弱腰になっている僕に対して、ある種の『苛立ち』すらも覚えているかのようなエリオラさんの言葉を聞いた僕は、この訳が分からない状況への怨嗟を吐きたくなったものの、有無を言わさない彼女の様子と雰囲気に恐怖して、先ほど命令された通りに、唇を強く噛み締めながら立ち上がった。
「————っっ」
地に転がっている真銀の剣を拾って、エリオラさんの命令通りに立ち上がる。すると僕の膝は僕の意思に関係無くガクガクと生まれたての子鹿のように震え出してしまって、それに眉目を歪めた僕は、恐怖から生まれている怒りに任せて殴りつけることによって自立を拒否している膝を叱咤。
しばらくしてから強引に直立してみせた僕は感情を感じさせない彼女の視線が下してきている『構えろ』という命令に従って地に刺していた剣を抜き、そして構えた。
「よし、再開だ。次は君から攻めてきて」
「えっ、ぼ、僕が……っ!?」
「当たり前だろ。それとも私が攻め続けてもいいと?」
「…………っ」
「分かったなら、さっさと始めて」
全く抑揚がない声を浴びせられた僕は砕けんばかりの力で奥歯を噛み締めて、構えている真銀の剣に視線を落とす。
柄を握っている手の手首を少しだけ捻ると、明らかに通常の銀とは異なった美しさを披露している剣身が御目見し、やはりエリオラさんの愛剣である真銀の荊剣の素材になっているのは『真銀・アルナヴァース』であることが窺えた。
真なる銀・アルナヴァース。
通常の銀の『数百倍』もの価値があるというそれは、持っているだけで緊張を催してくる黄金なんかよりも『甚だしく希少』なのだとカカさんの授業で聞き及んでいる。約三センチほどの大きさをしている『ルーレン銀貨』一枚の価値が『千ルーレン』ほどであることを鑑みるに、銀貨数百枚分ものアルナヴァースが使われているだろうこの剣の価値は、考えただけでもゾッとしてしまうほどに違いない。
宝剣と言って憚らないそれをぞんざいに扱うことになってしまうだろう戦いに使用するなど、甚だ失禁ものである。
しかし物を気遣えるような余裕は現状の僕には存在しない。故に真銀の剣身が反射している陽光に目の奥を焼かれた僕は徐に視線を前へと向けて、僕のナイフを振るって挑発的な風切り音を奏でているエリオラさんの全身を見据える。
「………………いいんですね?」
「ああ、全力で来て。じゃなきゃ、もっと痛めつけるよ」
息を震わせている僕からの最終確認にエリオラさんは二部もなく頷いた。そして、この訳が分からない状況を作り出した彼女に対する恐怖と苛立ち、そして不信感。
それらに少しばかりの挑戦欲をブレンドした思いを糧に眦を裂いた僕はギリっと握り込んだ剣を引き、右後ろに力を溜めた。
そして次の瞬間、肥大化した右足での踏み込みを行った僕は、剣を背に引いた体勢を維持しながら全力で疾駆した。
「————っっっ!! うぉおおおおおオオオオオオオッッッ!!」




