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蒼風のヘルモーズ  作者:
『ソルフーレン』編〈1〉
2/49

第2話 『追憶』と『異変』

 真っ暗で何物の存在しないはずの虚無の中を流されるように揺蕩っていった先に見えたのは、懐旧の夢幻だ。

 景色が見えてきたと思えば、あっという間に暗い虚無の果てまでも広がり尽くしてしまった、古惚けて色褪せていても、確かに鮮烈に輝いている僕が五歳の時の世界。

 これは僕が実際に体験した過去の情景。

 忘れられない思い出か、はたまたなんてことのない只の記憶の断片か。

 それは胸の中に広がった懐かしさと温かさを鑑みても前者なのだろう。

 これより流れる記憶は何百年経とうとも決して忘れることなき数多い宝物の一つ。

 あの時は普遍的な『いつもの日常』だったけれど、今となっては断言できる。

 この記憶はかけがえのない、代替えなんて存在しない、世界にたった一つだけの宝物であると——。


『はっ、はっ、はっ——あっ! 母さん! 母さん!!』


 この時の僕は村共有の大きな畑でしょっちゅう行われていた一大行事、村人総出での耕し祭に参加していた。

 当時は五歳であった僕に、重い鍬やらレーキなどの農作業具を一丁前に扱えるわけもなく、この行事での僕は完全なる除け者、単なる賑やかし枠だった記憶がある。

 それでも皆んなとの共同作業に心底ワクワクしていた僕は、ただただその一時が楽しくて、ひたすらに興奮していた。

 箸が転がっても笑い出すだろう僕が、盛大に息を切れ切れにしつつも心底楽しそうな満面の笑みを浮かべながら駆け足で向かっていた先に居る、とある人物——

 初夏の新緑を思わせる、草花に音を奏でさせている微風で揺るる薄緑色の長髪に、一粒で億万長者になれる『星宝石』が埋め込まれているのではと思える同色の瞳。

 子供の僕と比べれば断然高いけど、成長した僕と比べると少し低い印象を与える、痩せ身で百六十センチ後半の背丈。この時の年齢は二十六〜七歳くらいだったか。

 白を基調とした森林に吹く風をイメージした刺繍が目立つ、サチおばさんが作ったらしいワンピースを着る、爺ちゃんの娘で僕の母親に当たる人物である『フーシャ母さん』はその呼び声に反応して、雲一つない晴天を見上げていた視線を怪しさ満点である邪笑を浮かべながら駆け寄ってくる僕へと向けた。 


『…………? どうしたの、ソラ?』


 腰の辺りまで伸びているさらさらとした髪を振り向きにより靡かせた、僕と似ていない雰囲気を醸す母さんは、両の掌をくっつけて何かを隠している僕と視線を絡ませた後、小動物のように首を傾げながらそう言った。


『ふふふっ…………』


『…………?』


『ふふっ。見て見て、これ! これ!!』


 質問に答えない僕のことを不思議そうに見つめていた母さんに、笑い声を溢してしまっている僕は、小さな両の掌で逃げ出さないように包み隠している『ある物』の正体を見せることなく掲げ、その動作に再び首を傾げている母に至極楽しげな様子を見せつけながら、隠している物についての問い掛けを行った。


『これ、なーんだ!?』


 あまりにも唐突すぎるだろう、何の脈略もない場面なのに子供である僕が出してきた問題に対し、何一つヒントが与えられないという天才すら解けない難問にある『たった一つの正解』を求められてしまった母さんは、苦言も文句も言わない無言のままで、絶対に解けるわけがない問題の答えを考え始めた。

 解けるわけがない問題の答えを、謎の思考回路を用いて導き出そうとする母さんは、メトロノームのような同じテンポで頭を左右に揺らし、それを『まだかまだか』と見守っていた僕は、母の動きに同調するように身体を左右に揺らし始める。

 さらにわけが分からなくなった揺れ動く母子が立ち尽くす場に存在するのは、時が止まったと錯覚しそうな無言の長考。

 道行く人々が好奇の視線を向けながら避けていくだろう中、ただただ考えて、ずーっと考えて、もはや意味ないだろう考えを続けて。

 遂に無言の状態で微動だにしなくなった母さんに、なんでだよーという不機嫌を隠さない僕はとうとう痺れを切らしてしまい、答えである掌の内を見せつけた。年相応の悪戯っ子のように、僕は『にいっ!』と笑う。


『ジャ、ジャーーン!!』


 何を考えているか分からない母を驚かせるために掌で包み隠していたものとは——まだ硬くなっていない柔らかい掌の上で無数に蠢いている小さな芋虫たちであった。

 ナメクジとは違い、触った時の感触的に乾燥しているウネウネと無規則に蠢く骨無し中太の生命体は、その耐性がない人が見たら絶叫を上げるに違いない凄味がある。

  カカさんやサチおばさんが見たとすれば、周囲の見物人たちの鼓膜が破けかねないほどの大絶叫を上げて逃げ出してしまうこと間違いなし。というか母さんに見せる前に二人に『この脅かし』をしたんだけど、その時は二人揃って、


「「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」」


 という絶叫を上げながら、大畑から走り去ってしまったんだよな。それを見た僕と爺ちゃんを含めた村の男連中は腹を抱えて笑っていたんだけど、今思えば悪いことをしたなってちょっと反省だし、変に責められたくないから母さんには秘密だ。

 それを母さんは不思議そうに、何を伝えたかったのか探るように見つめながら、先程と同じように首を傾げた。


『それが…………どうかしたの?』


 村長である爺ちゃんのことを差し置いて、村の中で最上位の権力を有している女性陣に対して、悪いことをしたなっていう反省の念を抱いたのは僕が少し歳を重ねてからであり、如何せんこの時ではなかったのだ。

 そのため全く驚かず、剰え『僕が脅かそうとした』という事実にすら気付いていなさそうな、まさに鈍感系である目の前で首を傾げる母親に対して、可愛げのある苛立ちを表に出した風に頬を膨らませて、その甚だしい不満の思いを言外に告げる。

 しかし僕の態度など一笑に付すかのような母は、驚かせるためだけに畑から取ってきた芋虫たちを、僕が何を伝えているのか考えている感じの感情が見えない無面顔で見つめながら、結局なにも分からなかったという風に眉尻を下げて、ゆっくりと縫い合わせたかのように閉ざされていた口を開いた。


『一緒に返しに行こうか…………?』


 自分が望んでいた答えをくれなかった母。しかし僕は、予想外だったはずの母の答えに満面の笑みを浮かべて頷く。


『あっち! あっちの大畑で捕まえたんだよ!!』


『そっか……それじゃあ、お家へ返しに行こっか』


『ふふっ、うん!!』


 芋虫を捕まえた時に想像していたような驚愕を得られなくて感じてしまっていた失望など、母が示してくれた次なる行動の指針の前には些細極まった些事である。

 晴れやかな笑みを浮かべながら水を得た魚ばりに飛び回ってしまう僕は、まさに清流を泳ぐ川魚のような素早さをもって、温かな日差しに浮かれてぼうっとしていたのだろう母を発見した僕達の家の前にある庭先から、去った時の進み具合的にまだ鍬を振るっているに違いない大畑へと向かって走り出した。

 短い両脚を必死に前後していく僕に、母さんは当時の僕なら嫉妬で頬を膨らませてしまうだろう余裕を感じさせる表情を浮かべながら、ワンピースの裾が走る際にフワリと翻らないよう押さえながら付いて来てくれた。

 

 のだが。


 最初は僕の後ろを追走していたにも関わらず、たった一、二分の間に母さんはなにを思ったのか、必死に走っていた僕の頭上を『ピューン!』と飛び越えて、思いっきり目を剥いている僕の眼前まで躍り出てきたのである。

 あまりにも突然で、人並み外れた脚力であると子供の僕でも理解できる超人的な走り高跳び。

 それに「うわあっっ!?」という喉が張り裂けんばかりの驚愕の声を禁じ得なかった僕は、僕が発した大声に肩を跳ねさせて急停止した母さんの足元へと突っ込む形で、顔で盛大に地面を削りながらすっ転んでしまった。

 芋虫を持った状態でなければ両手を地面に付けて顔スラは避けれたのだが、結果としてその行動を起こせなかった僕は『ズザザー』っと地面を削ってしまったわけで。


『ソラっっ!? ご、ごめんなさい……っ、急に前に出て……怪我は、ない? 頭を打ってはいない……?』


『…………』


『そ、ソラ…………?』


『…………うっ、ゔ、ん。平気だよ……ぜ、全っっ然痛くないもんっ』


 転んだ後に流れ出した数瞬の無言の間に対して顔を恐怖で罅割れさせてしまっていた母さんは、ムクリと無言で起き上がって、擦れて血が滲んでしまっている鼻頭の土を拭う僕の返事を聞いて安心した様子を見せていた。

 目の端から小さくはない涙を滲ませている僕の精一杯の『痩せ我慢』を認めた母さんは苦笑を溢して、汚れのないワンピースの袖を使って僕の涙を拭ったんだよな。

 白の布に付着した土汚れと薄い血色。今思うと申し訳ない気持ちになるけれど、当時の僕は我慢するので一杯一杯で、些細なことを気にする余裕がなかったんだろう。

 この時の僕も、母も、逃がそうとしている芋虫たちを両手で大事そうに持ちながら顔中を土で汚してしまっている状態を見て、隠そうともしない大笑いを上げていた爺ちゃんも。誰も服が汚れてしまったことなんて気にしていなかった。

 それは多分だけど。この一連の様子がどんな宝石より希少で、天を瞬く星よりも鮮烈に煌めき続ける思い出に。永遠の如し幾星霜が経とうとも『絶対に忘れられない記憶になる』って確信していたからなのもしれないと、今の僕は思えてしまっている。


「…………ふふっ」


 とても懐かしくて。とても美しくて。とても幸せな夢。しかし——その景色は見る見るうちに遠退いていき、虚無へと落ちていた己の意識が今いる過去から浮上する。


 嫌だな。まだ、この夢を見ていたいよ。

 嫌だな。まだ、この温かさに溺れていたいよ。 

 嫌だよ。また、この時みたいに三人で笑い合いたいよ。

 でも、もう起きなきゃいけないみたいだな……。


「………………母さん」


 なんで、母さんは居なくなってしまったの? なんで、なにも言わずに居なくなってしまったの? 母さんは、どこに行ってしまったの……?

 また、貴方に会いたいよ。まだ僕は、貴方に感謝を伝えられていないのに——。


 * * *


「……ラ……ソ……食……でき…………」


 見る見るうちに遠ざかっていってしまう『残夢』に手を伸ばそうとも決して届くことがない、残酷な浮力だけがあり、抗うための抗力が存在しない黒一色の虚無。

 果てなき大海と言うべきか、はたまた天空の檻を突き抜けて行った先に存在する宇宙と称するべきか。学が足りていない僕には分からないけど、ただ流されている僕如きでは到底抗えぬ覚醒が迫っているということだけは、無情にも理解できてしまう。

 惜しむ気持ちを心一杯に広げてしまっている言葉紡げぬ僕の鼓膜を揺らすのは、徐々に大きさを増していく、唸るように低くも聴き慣れているおかげで、安心と安らぎを得られてしまえるくらいには心地が良い声だった。

 ベッドに横たわっている僕に対して『起床』を促している誰かの声を聞いている己が心は、声に従って起きなきゃいけないとの答えを導き出しているのだが。

 しかし誰かの声に応じて起きようとする心とは裏腹に『今日は重労働して疲れてるんだから、もう少しのんびりしてもよくない?』という怠惰な囁きを幻聴する。 

 相反しつつも同一物であるはずの二つの声に挟まれている、未だに懐旧の夢のことを引きずっている僕自身は、どうすればいいのかの判断を下し迷ってしまっており、ただただ無意味な時間が大きな声と共に僕だけの世界に響いていた。

 そして優柔不断だった僕の行動を祟るように。

 いや、鉄槌という『罰』を下すように僕の世界は打ち破られた……。


「————ソラッッッ!! さっさと起きんか!!」


「うわあああああああああああああああっっっ!? ————っっ痛たあっ!?」


 鼓膜を破かんばかりの大音声と共に、不可侵であるはずの僕の世界をぶち壊してきたのは、休んでいたはずの身体を襲った紛れもない浮遊感であった。

 それは一向に起きる気配を見せなかった僕に痺れを切らした爺ちゃんの、頑固親父の十八番・ちゃぶ台返しならぬ、あまりにも強引な『マットレス返し』のせいで。 

 森林を反射する凪の泉のように落ち着いていた心臓が裂け散らんばかりの爆発的な動悸をはじめだし、睡眠で無防備だった肉体の内側で起こったそれに目を見開いた僕は、全身を痙攣させるように沈んでいた意識を覚醒させて、なんとか空に放り出されていた身体の体勢を『反省』を他者に認めさせる『正座の形』へと変える。

 

 そしてマットレスが除かれているベッドへと、スノコを突き破かんばかりの勢いを乗せながらも膝から着床することに成功した。


「〜〜っっ痛ったたた。ちょ、膝割れちゃうよ…………爺ちゃん」


「全くぅ、やぁっと起きたか。飯ができとるぞ!」


「む、無視かい……怪我してないかとか気にしてよ……」


「その程度でワシの孫が怪我するわけがぁーない! ほら、せっかくの食事が冷えるぞ。ワシは先に降りて待っとるからな。寝惚けるのもいいが、早くするんじゃぞ」


「はい……分かったよ、爺ちゃん。先降りて待ってて」


 仕方ない奴だと肩を竦めながら部屋を出ていく爺ちゃんを、霞む目を擦りながら見送った僕は、ぼんやりとする思考を晴らすために食事を摂る居間への直行を避けて、床に放りっぱなしになっているマットレスをベッドから離れて回収。そして寂しくなっていた場所に多量の埃を撒き散らしながら粗雑に置くのだった。


「くあ〜〜〜…………」


 そうして、少ない時間ながらも『熟睡』したばかりだというのに、家事を終えたらすぐに寝られる準備を無言で済ませた僕は、大きな背伸びをしながら自室を出る。

 開けた自室の扉を閉めて廊下を歩いて行き、階段を駆け足で下りて、爺ちゃんが夕食を用意している居間へと入った。


「お〜い! 早く食べるぞ〜。ワシは腹が減ったぞ〜〜!」


「ごめんごめん! って、あ! 薪割り終わったよ!」


「そうか」


「え? お疲れとかないの?」


「はいはい。お疲れさんお疲れさん」


「はあ…………全くもう」


 そんなこんなで、定椅子に着席した僕と爺ちゃんは食卓に用意されている、よく熱されているおかげで屋内が冷えていても温かな、詰まっている鼻もよく通ることだろう、芳醇な香りを乗せた湯気を天井へと立ち昇らせているシチューに面と向かった。

  腹が鳴る美味しそうな食事の主軸となるのはシチューだけではなく、ふっくらとした出来上がりに焼けた小麦色が止めどない涎を誘ってくるロールパンもで。

 それら最高の夕食の香りを鼻から取り込んだ僕は、クッキー戦争で酷使されてしまった腹に慰みを与える。そうして、僕は我慢できないとばかりに早速手を合わせた。


「それじゃ、いただきます!!」


「ほいほい。さ、たーんと食べなさい」


「うん!」


 晴れ晴れとした笑みを浮かべながら勢いよく手を合わせ、食事を摂る前に行う最低限の礼儀作法を済ませた僕に対して、これらを夕時から丹精に用意してくれていた爺ちゃんは和かな微笑を浮かべ、自身も僕に倣って食事をいただく礼を行った。 

 それを視界の端に収めていた僕は待ち侘びた子供のような手早さで、目の前にあるシチューが装われた平皿に右手に持った銀のスプーンを向けて、間違っても料理が辺りに飛び散ってしまわないように逸る気持ちを制しながら掬う。

 銀の匙を彩る、不知なら白いお湯に見えてしまうが、水とは違ったとろみを有している濃厚だろうシチューを、手痛い火傷をしないよう息吹きしながら口へと運んだ。

 まろやかでコクのあるこの上ない美味が瞬く間に口内で広がり、暴力的な甘味の爆発でその機能を停止していた舌と、無理やり逆流を押さえ込んだ食道が癒えていく。 

 ああ、薪割りで酷使し続けていた身体に染み渡るわぁ……。


「うん、すごく美味しい」


「ふはは。そうじゃろぉ。さ、パンも食べなさい」 


「ありがと」


 嬉しそうな笑みを湛えている爺ちゃんから手渡された、食事を始めるまでの少し間、シチューを煮込むために焚いていた竈の弱火に当てていたのだろう、出来立てホカホカと遜色がない暖かさのロールパンを受け取り、それを口一杯に頬張った。

 大した力を込めずとも噛み切れて咀嚼できる、いつもと違う感じがするパンはとても柔らかくて、やはりいつもと違った、若干の甘みを感じられた。

 僕と爺ちゃんが作った、力を込めすぎてカッチカチになっているパンとは違い、簡単に千切れて、容易に飲み込める。

 とても食べやすく、すごく美味しい。それをモグモグと口を動かしながら味わっていくと、ハッキリと感じる違和感。

 僕や爺ちゃんは味覚の好みもあって焼き料理は得意なのだが、お菓子作りとか、パン作りとかは凄まじく苦手である。

 とどのつまり、パン作りが苦手な爺ちゃんがこんな美味しいパンを作れるわけがないので、もちろん薪割りの仕事をしていた僕が作れるわけもないし、これは第三者が作り出した第三のパンで間違いないだろう。僕の推理が正しければ、これを作って『家に持って来てくれた』第三者とは——。


「この『パン』て、サチおばさんが作ってくれたやつ?」


「んぅ? ゴクッ……ああ、これはサチが持って来てくれたやつじゃよ。ワシにはクッキーなどくれなかったがの」


 爺ちゃん、自分の分のクッキーが無かったから分かりやすいくらい拗ねちゃってるな。僕だってあの劇物を——ゲフッ! マジの失敗作だった超甘々手作りクッキーを渡せる状況だったなら、嬉々として渡してたよ本当の本当に。いや、マジでさ……。

 まあ作者の目の前で喜びながら渡せないから、本心を顔に出さないようにしなきゃだけど。でもさ、逃げられなかったんだから、無理だったんだから仕方ないじゃん。 


「…………お前も、もうすぐ『十六』か」 


「————は?」


 今していた劇物クッキーの話から、どういう飛躍をして行き着いたのかは分からないものの、脈略もなく物憂げな表情を浮かべ出した爺ちゃんが呟いた、そんな言葉。

 それに呆気に取られたような声を漏らしてた僕は頬張っていたパンを噛むのを止めて、心配したように眉尻を下げながら、黙りこくる爺ちゃんに問い掛けをする。

 僕からの問いを受けた爺ちゃんは、これまた何をどうしたのかが分からない、まさに意味深な『俯き』を行ってしまって、無言を貫いていた。


「じ、爺ちゃん…………?」


「…………いや、なんでもないんじゃ。すまんな」


「え……そう…………?」


 爺ちゃんの様子は気になってしまうものの、まるで何事もなかったように食事を再開した爺ちゃんを見た僕は首を傾げてしまいながら、同じように食事を再開した。 

 平皿に装われているシチューを匙で掬って口に含み、少し冷えてしまっているも変わらずの美味であるパンを頬張る。

 食事を続けながら、火を見るよりも明らかに変だった爺ちゃんの顔をチラチラと確認して先程の様子の理由を、己が本心を隠しているに違いない腹の内を探った。

 爺ちゃんは、先程のは白昼夢の類だったかのように平然とした様子で——いや、爺ちゃんは隠し通せてるつもりでカチャカチャと食器を鳴らしながら食事を進めていってるんだろうが、長年一緒に暮らしてきた家族である僕の目は誤魔化せないぞ。

 爺ちゃんは常の平静を取り繕ってるみたいだけど、ほんの、ほんの少しだけ食事を食べ進めていくその速さが、いつもよりも少しだけ遅い。いつもなら僕より多い量を僕よりも早く食べ終わってしまうというのに、今日は僕と同じペースで進んでいる。

 爺ちゃんは本当にどうしてしまったんだ? もしかして高齢が祟っての病気とかか……? もう歳だし有り得るんだよな。


「じ、爺ちゃん……どこか、体の調子が悪いの……?」


 その憂慮に満ちている言葉に爺ちゃんはピタリと一瞬動きを止めて……また何事もなかったように食事を再開した。


「だ、大丈夫なの…………?」


「ああ、ワシは大丈夫だ。心配などせんでいい…………」


 そう言って爺ちゃんは、シチューが減って軽くなっている自分の皿を持ち、それを匙を使わずに一気飲みし出した。


「ええ!? ちょ、ちょっと! その食べ方はサチおばさん辺りに怒られるよ!」


「小さい事など気にするなァ! これが男食いじゃ!!」


「ええ……もお…………」


 全くもって意味が分からない——分からなくはないけど、これに賛同してしまうと、カカさんとかサチおばさんとか村でのヒエラルキーが打っ千切りのトップである女性陣に滅法怒られてしまいそうだから誤魔化させてもらおう——ことを自信満々で僕に言って退ける爺ちゃんは、さっきの薄暗い影を帯びていた表情など真っ赤な嘘であったように剽軽な様子であっけらかんとしている。

 そのことを認めた僕は『心配したのに……なんだったんだ?』という表情を浮かべてしまいながらも、空になった自分の食器を早々に片付けて、二階にある自室へと戻るために居間を出た爺ちゃんの後ろ姿を盗み見るような横目の視線で見送った後に、


「うーん………………よしっ」


 と何者かに監視されていないかをキョロキョロと居るわけないのに見回して、誰も見ていないことを確かめた僕は先程の真似というか、爺ちゃんに影響されてと言うか。まあ行儀が悪い食べ方にて食事を済ませ終えた。

 一体なんだったんだろう——と、爺ちゃんが見せた様子に対して不思議そうに、それでいて心配をするように考えを回しながら、汚れている食器を洗い済ませる。  

 そうしてから家を出て、風呂に入るための湯を沸かそうと、加減よく息を吹いて火種を強く、大きく、猛々しい焚き火へと成す。

 パチパチと乾燥している薪から気味のいい音を聞き、湯船に溜めていた水から湯気を上がっていることを換気用の窓から認めた僕は、火加減を行いながら屋内にいる一番風呂固持者が聞こえるくらいの大声を発した。


「爺ちゃん! 風呂が沸いたよ!! 早く入ってね!!」


「はいはーい!」


 んん? 返事の声調はいつもと変わらずの元気な感じだ……。夕食の時のあれは、一体なんだったんだ?

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