第13話 『加護』と『勇者』
僕は『迷路かな?』と思えてしまうくらいに暗色で木製の重厚扉が等間隔に続いているホテルの通路を歩いていた。
豪奢な赤絨毯が敷き詰められている通路の床、その極柔な感触により奏づ足音は吸収されて、ただただ歩みを進めている僕達の間には無音の無言だけが流れている。
静かな空気感にやっぱり場違いだよなぁという、何とも言葉が出てこない居た堪れなさを感じてしまっていた僕は、汗が浮き出そうになる心情を誤魔化すよう、ずっと同じ光景が続いているような錯覚を催してしまいそうになる通路の端々に設置されている謎のアンティークや彫刻品、さらに意味不明な絵画などに視線と意識を向ける。
肖像画ではあり得ない描き方をしている奇怪にして奇抜を極めたような絵画や、グニャグニャな壺などを通り過ぎる際に横目で見ると、煽り口調のアミュアちゃんが、
「アンタには、この良さが分かんないでしょぉ〜」と言ってきた。
それに対して僕が「これのなにがいいの?」と決して意地悪などではない無垢で素直な思いをもって問い掛けると、彼女は分かりやすいくらいに言葉を詰まらせては、
「え? あ、えっと、んとね……そっ、それはぁ……ふ、ふん! そっ、そんなことも分からないとかまだまだね! なにが凄いのかは自分で考えなさい! これは宿題よ! いい? だから私に聞いちゃダメ」と言い、僕の問いへの回答を突っぱねた。
どうせ君もこの芸術の良さが微塵も分かってないんでしょ? というニヤニヤした目と顔を向けると、顔を羞恥と苛立ちで赤らめた彼女は『キッ!』と僕のことを睨んでは、ぷりぷりとした速足で前に行き、僕に口を聞いてくれなくなってしまった。
そんなこんなで時は過ぎ、数ある芸術作品を眺めながら通路を進んでいった僕達は部屋の位置を知っているエリオラさんに先導される形で、おそらく借りている部屋のものなのだろう、重厚な木製扉の前で動かしていた足を止めた。
扉は施錠されており、それを解錠するべくホテルエントランスで受け取り、ベルトに付けていた鍵の束を手に取ったエリオラさんは、複数の鍵を束ねている鉄輪をくるくると回すだけで難なく探し当て、それを内見えぬ堅牢な鍵穴に挿して回した。
直後、音を立てて閉められていた扉の鍵は解錠される。そうして挿した合鍵を引き抜いて扉を引き開けたエリオラさんは、部屋の目前で甚だしい存在感を発していた珊瑚肩の人形に視線を縫い付けたまま棒立ちしてしまっていた僕を見て苦笑した後に、
「さ。部屋に入って、ソラ君」という優しい声で僕の意識を引き、入室を促した。
ドカドカとした足取りで一番に入っていったアミュアちゃんを視界に収めながら、勝手に閉まってしまうのだろう扉を抑えてくれているエリオラさんに軽い会釈をした後、一泊六千ルーレンという超高級な部屋の中へと重厚な扉を通って入っていった。
「広っ…………!」
絶対こんなに広い必要ないだろ。と思えてしまえる玄関口で靴を脱ぎ、まるで兎を履いているみたいな真っ白なスリッパに履き替えて奥へと進んでいく。
そして真っ先に現れたのは横になった僕が十人連なっても端から端まで届かなそうなくらいに広大な、円形のリビングルームであった。
「ぷっ。ここはフリューで一番高級なホ・テ・ルなのよ? アンタん家の何倍に広いに決まってるじゃないの!!」
目がチカチカしそうになるくらい豪華絢爛な装飾品や調度品。四、五人が使う程度ならば不必要だろう広さの部屋。
それらに圧倒されてつい閉ざすことを忘れた口を呆けさせてしまっていた僕に対して、アミュアちゃんはまるで自分の家であるかのような自慢げな表情で胸を張った。
アミュアちゃんの自慢話を耳に入れ、それを奥歯でゆっくりと咀嚼した僕は鮮明に記憶に残っている実家の内装を思い出し、先ほどの『何倍広い発言』に言葉を返す。
「んー……、部屋の広さの方は家の一・三倍くらいだけど、たしかに故郷の家と比べたら内装は段違いに豪奢だなぁ」
「ぇ…………えっ? …………え? 広くない?」
「広いよね、ここ」
「いや『ここ』じゃなくて、アンタの実家がね……?」
僕は故郷の実家の広さに驚愕を露わにして今にも膝から崩れ落ちてしまいそうなアミュアちゃんを脇目にしながら「装備を外してくるから、適当に寛いでてよ」
と言って、リビングの壁際にある扉を開けて別室へと向かったエリオラさんと、本当に何があったのか気になってしまうくらい終始無言だったリップさんを待つことにしながら、ムズムズしそうになるほどに豪奢な部屋を散策する。
ここを活動の拠点にしているって、エリオラさん達は一体どれだけのお金持ちなんだよ——そんなことを思ってしまうくらいにこのホテル・ルーレンの一部屋は、僕が今まで泊まってきた安宿とは一線を画した内装を披露していた。
斑模様が見受けられる大理石のタイル床の上にはフロントや通路に敷かれていた絨毯とは違った、これまた高級感溢れる金糸で編まれた赤茶色の絨毯が敷かれている。
推定『数万ルーレン』はくだらなさそうな絨毯の感触を高級スリッパの底からしみじみと感じ取りながら、意味もなく着たままであったコートを脱いで片手に持ち、カーテンが開かれている窓の方へと、火に誘われる虫のようにふらふらと移動した。
「おぉ………………すげぇ…………」
唯一、分厚く作られている壁と天井に囲われて外界から完全に隔離されているリビングルームに、人工物でありながら自然的な風景を取り入れてくれるのは、もはやこれも一種の『壁』であるかのように端から端まで広がり続けていて、それ故にあるだろう窓枠が存在しない、初めて見るほどに横広に巨大な繋ぎ目がない硝子の厚窓で。
壁との一体型なのだろうたった一枚だけの窓から外を見ると、そこには息を呑むほどの美しい絶景が広がっていた。
夜という周期的に訪れる時間が生み出しているのか。はたまた別の何処かから湧き出てきたものが時で溢れるのか。しかし一つだけ確かなのは、生きとし生ける者共の等しく恐怖を催させる、無を騙っている『闇』ということだけで。
根源的恐怖たる闇が無辜の人々が普遍的な営みを続けている首都の全体を覆うように広がっている光景は、この世の終わりが来たかのような錯覚を催させるにたるにも関わらず、深夜の一時が過ぎている歴とした真夜中なのに、しかし眠らず行動している人々の生活で使われている光が首都の表層を照らして、その黒を跳ね除けていた。
それはまるで、天上で永遠に瞬いている星々が地上に降り立ちて、生命の鼓動の如し光輝を発しているかのようで、その光景はこの上なく美しく。僕はすっかり時を忘れてしまうほど、目前に広がっている絶景に魅入られてしまった。
目前の絶景にどれくらい魅入られてしまっていたかは分からない。が、僕が『ハッ』と何処かへと行ってしまっていた意識を心身に取り戻したのは、ニコニコとした笑みを浮かべているエリオラさんに優しく肩を叩かれた時で……。
「あっ、す、すいません……! つい、み、見惚れてて」
自意識を取り戻して肩を跳ねさせた僕が勢いよく振り向くと、そこには僕と同じようなワイシャツと赤のズボンを着こなしている、女性に言うのは悪い気がするが、やはり貴公子然とした格好の、装備を外したエリオラさんがいた。
彼女は窓から見える絶景ではなく、何故か僕の横顔を伺っていたようで、それに思うところはあるものの一応は無意味に待たせたしまったことへの謝罪を口にする。
その謝罪を受け取ってくれたのか、はたまた必要のない謝罪であったから受け取らなかったのか。それが読めない表情で僕の真横へと歩み寄ってきたエリオラさんは、
「仕方ないさ。ここから見える絶景は、つい時を忘れて固まってしまうくらいに、この上なく綺麗だからね——」
と言っては謎に僕の肩を右腕で抱き寄せて、先ほどの僕と同じように目前に広がっている美しき夜景を眺め始めた。何を思っているんだなエリオラさんの行動に『距離が近すぎないか……?』という風に僕が戸惑ってしまっていると、
「マジでキモいから、さっさと話を始めてくんない?」
と肌の泡立ちを抑えるような仕草を取っていたアミュアちゃんが、夜景を前にしている僕との間に避けたくなるような変な空気を流していたエリオラさん釘を刺す。
辛辣とも、割って入ってくれて有り難いとも思えるアミュアちゃんの一言に態とらしく肩を竦めたエリオラさんは僕の肩を触ろうという意図が透けて見えていた腕を離し、リビングの中央に置かれた豪奢でありながら、シンプルな赤ソファに腰掛けた。
臀部を深くまで座らせているソファは、エリオラさんの小さく形の良い尻を包み込むように沈み、ホテルに見合う高級さ故の最高なクッション性を遺憾なく発揮する。
そうして軽く息を吐いたエリオラさんは僕に柔和な大人の笑みを浮かべ向けて『こっちにおいで』と手招きをする。
妖艶さの欠片もない、しかし家族に向けるような暖かさがある手招きに僕は無言のままに従い、エリオラさんの対面に腰掛けて彼女が求めていた会話の体勢を取った。
「えっと……あの、エリオラさんがここに連れてきてまでしたがっている『話』って、一体なんなんですか……?」
「ふふ。あ、ちょっと待ってね…………よいしょと」
エリオラさんは未だに内容不明である話というやつを催促している僕に紳士的な笑みを向けた後に、少し待ってほしいと円形ソファの中心にある硝子机にあるワインスタンドから一本の暗色の瓶ボトル——見た感じ赤ワインだろうを手に取って、それを封じているコルクを栓抜きを使わずに指の力だけを『キュポン』っと外してみせる。
固いはずの封が難なく開いたことによって内側で波作る葡萄酒を注げるようになったボトルを傾けて、おそらく装備を外した時、夜景に見入っていた僕と合流をする前に用意していたのだろうワイングラスに満たしていく。
鮮明な赤でありながらはっきりとした黒を滲ませている液体により透明なグラスが色付いていくことを、少し離れた対面の位置に腰掛けている僕は認めながら、ただただこれから始まるだろう話の想像に緊張を募らせている——と。
「あ、あのぉ…………」
強張って持ち上がっていた僕の肩をツンツンと突いてきたのは、謎にずーっとダンマリしていた『リップさん』だ。
「……? どうしました?」
「あぁー……へへ。ココッ、ココアとか飲むっ……ス?」
「…………ココア?」
「こっ、ココア…………っス」
やっぱり昼間の初対面時と反応とか話し方、一挙手一投足の仕草が違ってる。え、目の前のこの人はあの時のリップさんなんだよな? もしかして双子で入れ替わってる? まさか本当に昼間のリップさんとは別人? んんー、よく分かんないけど——
「あ、じゃあ、お願いします」
「う、うっス。へへっ、つつ、作ってくるっ…………スね」
「え、あ、ありがとうございます…………」
「うへへっ……へへへへ…………」
一体、昼の大東門で別れた後にリップさんの身に、その心になにがあったんだ? エリオラさんもアミュアちゃんも変だと言わないってことは、特に変わってない?
「よし。ああ、話っていうのはさ。ソラ君『加護』を持っているんだよね? それについて話を聞きたかったんだ」
リビングと繋がっているキッチンへと入っていったリップさんの背中に、疑る視線を送りながら僕が首を傾げていると、手に持っているワイングラスに葡萄酒を注ぎ終えていたエリオラさんが、ソファで足を組みながら口を開いた。
「えっ、あ、加護…………ですか?」
「ああ」
僕の加護について聞きたいと言われても、事実、今日まで『掌から風が出せた』ということは忘れていたんだよな。
しかも『加護』という言葉すら今日初めて聞いたわけで、だからこそ『なにも知らない』というのが紛れもない現状。
こんな高級ホテルに一泊させてもらうわけだから、しっかりとエリオラさんの問いに答えてみせたいけれど、そもそも『加護』って言うものを何一つ知らないんだし、答えよと言われても、真面に答えられるわけがないんだよなぁ。
「……あの、僕。加護って言葉を今日初めて知ったんです。だから、それについての話を聞かせてもらえませんか?」
「…………んんーー。それじゃあ、私が知っていることから話してあげるね。君が知りたい加護っていうのは——」
初耳発言に対して深く考え込むような十数秒程度の間を置いたエリオラさんが徐に語り出す、加護という名の『特別な力』についての話を当事者に違いない僕は決して聞き逃さないよう前のめりになって、真剣に耳へと入れていく。
曰く——加護とは『神からの寵愛』である。
加護とは『風・水・火・地のいずれかを司どりし神が特別に愛している生命に与えし、神力』の一端。それ故に無数の生命が存在している現世界を見渡そうとも、加護を有している生命は非常に稀で、極々少数なのだそう。加護を有している特定の人物、加護を持つ者の中でも隔絶した強さを持つ者は『勇者』と呼ばれているらしい。
勇者だとか、神からの寵愛だとか。あまりにも話のスケールが大き過ぎて、用意していた予想の埒外になっている。
情報を必死になって入れ込んでいる僕の脳が熱くなってきて機能を著しく欠こうとしているけれど、話を続けるエリオラさんが言うには、加護にも種類があるそうだ。
『火の加護』——『火』を司りし神から与えられた寵愛の名。その加護を有しているものが扱えるのは、この世全てを灰燼に帰すこと容易き、永に焼する『火の力』。
現在の『火の勇者』は西方にある火国の『姫君』である。
『水の加護』——『水』を司りし神から与えられた寵愛の名。その加護を有しているものが扱えるのは、この世全てを蒼で満たすこと容易き、永に溢るる『水の力』。
現在の『水の勇者』は西南にある海王国の『婿』である。
『風の加護』——『風』を司りし神から与えられた寵愛の名。その加護を有しているものが扱えるのは、この世全てを吹き払うこと容易き、永に吹き流るる『風の力』。
現在の『風の勇者』は『数百年前』から『不明』である。
『土の加護』——『地』を司りし神から与えられり寵愛の名。その加護を有しているものが扱えるのは、この世全てを変形すること容易き、永に地と添う『土の力』。
現在の『土の勇者』は中央にある土国の『武人』である。
…………意味深げにしんみりとしているエリオラさんが溢れなく語ってくれた、加護と勇者についての話は以上の四つ。
「とまあ、私の話を話を聞いて察せたとは思うけど、加護っていう力は、この上なく『特別』なものなんだよね」
重要なことは言い終えたと肩を竦めるエリオラさんを脇目に話を吟味する。昔の僕が『掌から風を発生させることができていた』ことを鑑みて、僕が有しているという加護とやらは、風の神からの寵愛たる『風の加護』ということで間違いないだろう。
「なるほど…………」
加護=神から与えれし特別な寵愛。僕が『風の加護』を身に有している現状はつまり、僕は風の神様から特別に愛されているってことなんだよな?
でも何故の理由があって、僕は風を司っている神様から愛されているんだ? 僕が特定の神様を信仰していたことは今までに一度もないというのが事実だ。
言ってしまえば僕は『無宗教の人間』ということ。しかし僕は幼少期から『風の神』の寵愛を僕は受けている。
それは何故なんだ? どんな理由があって風の神様は僕のことを? と考えながら悩ましげに腕を組んで、僕が首を傾げているとエリオラさんが徐に口を開いた。
「ソラ君の出身国は何処なんだい?」
考えがあるというように、細く整った顎先にワイングラスを持っていない方の手を当てているエリオラさんが発した、意味があると暗に伝えている端的な問い掛け。
それに対して『出身国? それと僕が有している風の加護とやらには因果関係があるのか?』と疑るように眉を顰めてしまっていた僕は、しかし問いに答えないという選択肢はもちろんのこと存在せず、少し考える間を置いた後に正直に答えを発した。
「僕は、ソルフーレンの出身です。あと、物心付いた時からずっと国から出ずに過ごしてました…………」
この点に変なところでもあるのかな——という心配のせいで一言一句が『たどたどしく』なってしまっている僕の答えを聞いたエリオラさんは、口を付けていたワイングラスを、許容限界量の三割程度まで注がれている葡萄酒を一滴も飲むことなく離し、ふむ……という風に再び顎に手を当てて、露骨に首を傾げる。
僕の斜め向かい、エリオラさんの側に腰掛けて、リップさんに命令を出して用意させていた熱々のココアを、
「ふぅー、ふぅー」と慎重に飲んでいたアミュアちゃんは、僕が発した『答え』に不機嫌そうに眉間に皺を寄せて「チッ」と、誰にでも聞こえる音量の舌打ちをした。
「………………」
もしかしなくとも、この重々しい居た堪れない空気感を作り出してしまったのは彼女達からすれば目に余るくらいに無知が過ぎている馬鹿な僕のせい——なんだよな。で、でもさ。ただ勉強不足だったていうだけで、そこまで変人扱いするってさ、ちょっと尋常じゃないっていうか。
そんなことを恐ろしいくらいの無音が満ちている頭の中で反芻させていた僕は居心地悪そうに大袈裟な身じろぎをして。ソファに腰掛け直す。するとなにかを考えていたエリオラさんは再度、問い掛けをした。
「ソラ君は何故、加護について知らなかったんだい?」
何故に、どのような理由があって、生きとし生ける者共が周知しているのは当たり前であると暗に伝えている『加護』についての情報を僕が知らなかったのか——か。
「えっと。実は子供の時に、詳しい年齢は覚えていないんですけど、掌から風を出せたことがあったんです。それで母親に掌からの風を見せたら、何故か悲しそうな顔をした母が「それは使わないでほしい」と言って。それ以降は一度も使ったことがなかったので、今日エリオラさんに言われるまですっかり忘れてしまっていました……」
「…………その『掌から風を出せた』ということを、君の母親以外の『誰か』に伝えたりしたのかな?」
一人だけだ。最初に風の件を見せてあげたかった母さん以外に『掌から風を出せた』って驚愕の事実を伝えたのは。
それはたしか、日中に母さんが何処かへ出掛けてしまっていた静かな家の中で、サチおばさんが持ってきてくれたパンを齧っていた爺ちゃんに伝えた時か。
掘り出せた記憶が改変されていないのであれば、ほんの一瞬だけ驚愕を露わにした爺ちゃんに母さんに言われてしまった「使わないで」ということも伝えていたはず。
だけど、母さんの話を聞かされた爺ちゃんは意味深に目線を下げては「…………そうか」という物静かな一言だけを残して。
ああ……そうか。僕が生み出してしまった風のせいで大切な二人に暗い顔をさせてしまったから、だから……僕はこの風を使わないように記憶ごと封じていたんだな……。
「…………最初に教えた母以外に僕の加護——風の件を知っているのは、同居していた祖父だけです。祖父が誰かに言ったりしていないのなら多分、二人だけです」
「…………そうか。唯一、風の件を伝えていたご家族からは『加護』について何か教わったりしなかったのかな?」
「…………いえ、誰一人『何も言わなかった』です」
真っ直ぐな眼差しをしている僕が発した、嘘偽りなど一つたりとも無い言葉を聞かされてしまったエリオラさんは、自分の中の当たり前が、ある種の固定観念が壊されてしまったかのように重々しく腕を組み、そして静かに瞑目した。
対して、分かりやすい苛立ちを露わにしていたアミュアちゃんは、『意味不明だわ』と言わんばかりに白けた顔をし、ソファから立ち上がって別室へと行ってしまう。
続けて、どこかにあったのだろう水を薬缶に注ぎ、火を焚いている風ではなかったが、どうやってか湯を沸かして、出来上がった湯で僕とアミュアちゃんに暖かで甘々なココアを淹れてくれていたリップさんは、僕の話を聞いて『どういうことだ?』という感じで視線を斜め上の方に向ける。
それら同室の面々の動きを、とても嫌な感触をしている汗を全身に湛えながら横目にしていた僕は、やはりこの件に関しては『僕がおかしい』のだと確信していた。
自分が矮小な存在だと暗に理解させてくる不必要に広大なリビング。そんな場に流れている
『お前は何故に周知を知らない? 何故お前は皆の既知が不知なんだ?』
という空気が、あまりにも世間離れしている僕に対して三人が抱いている混乱が、事実として何も分かっていない僕の肌を、無知を責めるように突き刺してくる。
アミュアちゃんを除いた二人は、無知を晒している僕のことを責めている素振りはしていないし、責めようとも思っていないことは眼差しで理解できる。二人が見せている感情は、多大なる戸惑いと、そこから湧く興味でしかない。
それを理解してなお孤立感に苛まれてしまう僕は底無しの沼で溺れているような幻苦により息を詰まらせて、勝手に感じている居た堪れなさの中を無言で耐え忍んだ。
「…………そこがすごく。誰も祝わなかったという点がさ、私にとっては無視できないくらいに不思議なんだよね」
苦する様子を見せてしまっている僕を見兼ねてか瞑目していたエリオラさんは目を開け、そして僕に思いを語った。
「だ、誰も祝わなかったのが、不思議……ですか?」
浅めの俯きから顔を上げた僕は、存在しない圧力を感じてしまっていた空気に溺れている僕に出された助け舟に飛び乗り、手に持っていたワイングラスを机に置いたエリオラさんの話に、再び体を前のめりにさせながら耳を傾ける。
「不思議なのは君の母親と祖父のことだね。普通はさ、この国で『風の加護』を血縁者が持って生まれてきたら、周りが狂喜乱舞するほどに大騒ぎするはずなんだよね」
「それは加護がすごく希少だから……ってことですか?」
「…………ソラ君は、ソルフーレンの歴史に刻まれている、世界的にも有名な『風の勇者伝説』を知っているかい?」
風の勇者伝説。それはたしか今日の——というよりも時間的には昨日になる昼間の大東門で、集まってきていた群衆に聞かれないように交わされていた密談、そこに加わっていたエリオラさんが話していたという記憶が残っている。
『魔獣発生の情報規制はした方がいいと思うね。風の勇者伝説が確と刻まれているソルフーレンは魔族被害者の最後の拠り所だ。そこを突くのは『区長』も避けたがるだろう。だが周囲全てに黙ったままだと不知の民間人が被害に遭う可能性は否めない。喋るとしても口が堅い行商までとして、魔族被害者の線が残っている入都者には伝えず、門の検問官に情報を共有して入都申請認可を速めてもらえばいい』
この記憶を加味すれば風の勇者伝説というのはほぼ間違いなくソルフーレンという国に、延いては当国に住まう国民の心身に強く根付いている有名な歴史なのだろう。
しかしその伝説を『ソラ・ヒュウル』は知っているのか。という問い掛けをされても加護すら知らなかった僕が頷きを見せるとは、この場の誰一人として思っていないに違いなく。ソルフーレンの歴史すら十分ではないことを痛感させられて意気消沈としてしまった僕は、微かに頭を横に振った。
「…………今から千年前。古代と呼ばれる過酷極まった暗黒の時代において、最も活躍した最強の人物がいた。伝説を各地に刻んでなお名を馳せていない、しかし死ぬまで魔族を屠り続けたという逸話は確固として残されている、正真正銘の英雄。それが『古代・風の勇者』なんだ。その勇者が没した地がこの国というわけなんだよ。ああ、察しの通りさ。彼の『勇者の墓がソルフーレンにはある』んだ」
僕は知らない。そんな伝説、僕は知らない。誰も教えてくれなかった。誰も何も言わなかった。母さんがくれた絵本にそんな内容のものは、勇者なんて伝説の人物が描かれているものなんてたったの一つも無かったんだ。それなのに、皆んな『知ってて当たり前』という雰囲気が部屋に充満してしまっていて、僕は息が出来なくなった。
「ここ、ソルフーレンが『風の国』と呼ばれている理由をソラ君は知っているかい? これも、知らないのかな?」
「そっ、そんなの知っ……だっ、だってっ、母さんも爺ちゃんも、カカさんもっ、誰もっ、なにも……っっ!?」
気を動転させてしまっている僕が、掻いていた玉の汗を顎先まで伝わせながら言葉を吐き続けようとした、その時。突如として『バゴンッ!!』という甚だな大音量がリビングに響き、僕とリップさんが肩を跳ねさせながら、エリオラさんは至極冷静に音の方へと視線を向ける。するとそこには別室へと行ったはずのアミュアちゃんが、明らかに只事ではない様子で扉を叩き開けたという姿を現していた。
羊みたいな縮毛の動物のような『もふもふの厚起毛』が目立っているワンピースの就寝着を着ているアミュアちゃんは、案の定と言った感じで『怒髪天』で顔を真っ赤にしており、そんな彼女はなにを思ったのか僕の元へとドスドスという大袈裟な足音を立てながら近づいてきて…………。
「…………へっ? ど、どうしたの……アミュアちゃん」
「……………………ウゥゥ……」
「………………ウゥゥ?
「ウゥゥ……うがああああああああああああああアアアアアアアアアアッッッ!!」
意味深に俯きながら、肉食獣を想起させる唸り声を発していたアミュアちゃんは、僕が声真似をしたことが癇に障ったのか、はたまた別に予定通りだったのか分からないが、な、なにごとだ……? と無防備に固まったままでいる僕へと、ポコポコという音が鳴りそうな暴力を振るい始めた。
「ええっ!? ちょ、なに!? ど、どうしたのさ!?」
「ウゥゥ!! 死ねえーーっっっ!!」
「ししっ、死ねっ!?」
何故にいきなり暴力を、マジでなっ、なんなんだよ!?
この状況の意味が分からないままアミュアちゃんが繰り出してくる暴力を顔面直撃を避けるために出した腕で防いでいく僕に、同様に驚愕を露わにしていたリップさんが「あぁー……」と納得した声を上げた後に、理解できていない僕に教えてくれた。
「あのッスね。さっき語ってた『伝説の風の勇者』さんは、エルフ族から『狂信的なまで信仰されてたりする』ンスよ。それで、アミュアさんも狂信とは言わないまでも、まあ憧れみたいな、崇拝の対象みたいな感じなのかな……って」
「は!? いやでも、僕は『勇者』じゃないですよ!?」
「うがアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!」
「痛あっ!? ちょっ、うわあああぁぁっっっ!?」
勇者じゃない発言を聞いて怒りを増してしまったアミュアちゃんは、単純な拳打では僕に効き目はないと悟り、不必要だろと言いたくなるくらいに長々と伸ばされている爪を限界まで立てることによろ攻撃力を増幅させた全力全開の『引っ掻き攻撃』を、コートを脱いでいるせいで防御力が激減している僕の腕に繰り出してきた!!
「あー、えっと、風の加護はエルフ族の憧れの的なんス。ほら、伝説の風の勇者と同じ力なんでね。それでまあ、アミュアさんも例に漏れずに…………超憧れてるっス」
なんじゃそりゃ! 僕が風の加護を受けているのは別に僕が望んだからじゃないんだよ!? だ、だからそれに怒りを向けられてもさ、そんなの巻き込み事故じゃん!
「テメエは、ここで死ねえぇぇーーーーっっっ!!」
「痛い痛い痛いっっっ! 参った! 参ったってば!?」
「死ねええええええええええええええええええええええええええエエエエエエ!!」
「う、うわああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
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色々と起きてしまったものの、僕は暴走故の不止状態であったアミュアちゃんを目にも止まらない超速の手刀で昏倒させてくれたエリオラさんからの勧めに従い、猛獣戦で掻いてしまった多量の汗と、引っ掻き攻撃で負った顔と腕の傷、足を噛みつかれたことによってできた噛み跡に残る猛獣の唾液をホテルの浴室で『シャワー』なる湯浴びのための文明の利器を使って洗い流し、そして満身創痍の状態で浴室から出た。
体力が底を突き破ってあからさまに草臥れている僕と入れ替わるように、同じく夥しい傷を負わされて汗だくとなっているリップさんが空いた浴室に入っていく。
戦いで負った傷口を洗うための場ですれ違う際に軽く会釈をしあった僕達の間には、確かな『絆』が存在していた。もはや見境がなかった『オレンジの猛獣』と交戦していた僕とリップさんは、もはや『戦友』と呼べる仲だと思う。
夜に再開してからというもの、ずーっと恥ずかしそうにダンマリしていたリップさんが、先ほど浴室までの廊下ですれ違った時に「あ、次どうぞ」「へへ、へへへ。う、うスっ」と嬉しそうに笑っていたし、それは間違いないだろう。
それから十数分後くらいに浴室から出てきた、さっぱりと汗を流して、しかし顔中に傷が残っているリップさんが、
「ここっ。これ、これは生傷にいいッス……ど、どぞ」
と言って、荷物を置いている部屋から持ってきた、いかにも効くと思わせてくる小壷に詰められた塗り薬を「痛てて……」と傷口を摩っていた僕に渡してくれた。
それを受け取った僕は、鼠と同じような灰色をした上下スウェットの『いつもの寝巻き』を着用しており、対して僕の対面に腰掛けているリップさんは、下着と言ってもいいくらいに極々短いズボンに、谷間が目立つタンクトップという結構な薄着で。
「は、恥ずかしいっス…………」
と、ほぼ僕のせいで負ってしまったアミュア製の傷口に薬を塗るためなのだろうが、自分で選んで着用してにも関わらず、己の格好に顔を赤くして照れていたリップさんに、僕が気を紛らわせるためのお世辞で「似合ってますよ」と言うと、彼女は「でへえっっ!?」と声を大にして驚いた。
「ししっ、しっ、しぃー〜ーっ!」
「はっ、あっあっ、う、す、スイマセン…………っ!」
僕のお世辞が『クリティカルヒット』して大声を発してしまったリップさんに、ヤバいよと肩を跳ねさせた僕はすぐさま声を抑えてくれというジェスチャーを見せる。
二人しながら『ヤベえっ』という顔をし、ソファで眠りについている『猛獣』が起きてしまったかを遠目から確認。
「ぐぅー、ぐぅー」という大きめの寝息を立てる猛獣をそっと認めた僕達は、ホッと声を出さずに胸を撫で下ろした。
「………………セーフ」
「………………っスね」
そんなこんなで猛獣との戦いで負った『戦傷』に薬を塗っていく。僕は両手両足に痛々しく残っている引っ掻き傷に。リップさんは両腕に付いた、掻き傷と噛み跡に。
最後に顔面に痛々しく刻まれてしまっている、瘡蓋ができてる引っ掻き傷に薬を塗ろうとした僕が、見えないけど仕方ないか——と手で伸ばしておいた薬を顔を洗うように塗ろうとすると、その様子を対面で見ていたリップさんが、
「顔の方は鏡が無いんで見えないっスよね? ウチが塗ってあげまスよ」
と言ってくれて、それに傷だらけの顔を明るくした僕が、
「いいんですか? 助かります」という受け取った親切心に最大限の礼を告げると、彼女は照れたのか頬を赤らめて、
「痛々しいっスね」と傷が痛まないよう優しく塗り始めた。
そして傷口に薬を塗り終えた僕は、エリオラさんが言っていた一人分のベッドの空きがある部屋に入り立ちて——。
「安らかに眠れ——」
大暴れしたせいで汗を掻いてしまっているも、エリオラさんの手刀で昏倒させられたが故に湯浴びをできずに身を清められていない、笑いそうになる白目を見せる暴虐なる猛獣を彼女のベッドである、私物で散らかりきっている場所にそっと寝かせた。
「ウゥ」
「ッッッ!?」
「ウゥ……ウゥゥ——…………」
ただの鼾かよ。本当に吃驚させないでくれよ。マジで心臓に悪いんだからさ。眠りに落ちてなお、僕のことを脅かしてくる唸り声の如き猛獣の鼾によって、一瞬の内に汗を掻いてしまった僕は溜め息混じりに手で顔を煽り、寝づらくする汗を飛ばした。
そうした後に気が気ではない唸り声を掻き鳴らしている猛獣の隣、転がっていた私物を退けてある空きベットに、ズシッとした疲労が伸し掛かっていた体を横にする。
「グゥー……グゥー……ウゥー…………」
「………………はあ」
僕がここに来る前に、湯浴びをし終えたエリオラさんが、
「アミュアと一緒の部屋が怖いのなら、私の部屋に来てもいいよ? 私の部屋には一つしかベッドはないけどね」
とは言ってくれたのだけど、どんな理由があるのかは全く不明だが謎に『獣の目』をしていたエリオラさんに心底怯えてしまった僕は、同じ獣でも『弱い方』がいいと正直に思い、その提案を丁重に拒否して、ここに決めた。さらに正直な話、リップさんと同じ部屋の方が安心できるし、そこはかとなくそれをリップさんに伝えたら、
「おっ、おおっ、おお、男の子と同じ部屋はぁ……!」と顔を真っ赤にしていた彼女に無理に頼み込めるわけもなく。
こんな高級ホテルに泊めてもらった分際でこう言うのはなんだけどさ、この部屋は消去法では仕方なかった。だから大人しく最悪に怯えながら眠りにつくことにする。
「ウゥゥ——…………」
僕は少しも音を立てないようにそーっと、横になっているフカフカ高級ベットの足元にあった羽毛の掛け布を被り、明日の朝に起きたら、また獣に襲われるのかな——という甚だしい不安を胸中で波紋させながら、そっと目を閉じた。
加護だとか、勇者だとか。今日、生まれて初めて知った言葉が、無音と暗闇に満たされる僕の頭の中で反芻される。
引っ掻き傷を『ヒリヒリ』とさせながら黒色に染まった天井を見上げていると、隣から大きな鼾が打ち上げられた。
それを耳鳴りを幻聴していた僕は静かに聞いて『明日のことは明日考えることにしようと』と、全身を覆うように掛けてあった毛布を頭から被り、再び目を閉じる。
「………………ウガウッ!」
「————っっっ!? はっ、もっ……マジで……勘弁してくれぇ…………」




