第1話 旅立ち前の日常
体の芯を脅かすような厳しさを有している冷たい風がどこからか吹き、囲うように聳えている木々を縫い進んで口笛ほど高くはない音を鳴らした。
生い茂っている木々は防風的な役割を成しているというのに、それらを軽々と避けて仕事中の僕のもとへとやって来た冷たい風に対して「うおっ」と反射で目を窄めながらも、まあちょうどいいやとばかりに動かしていた手を止める。
人歴『千、三十六年』の十一月初旬。
厳しい冬の始まりを予見させてくる肌寒さを衣服に包まれていない顔一面で感じてしまう秋暮の、なんてことない只の昼下がり。
秋が終わり、冬が来たるということを言外に告げてきているのは、嫌でも素肌に突進してくるこの寒さだけではなく。
ちょっとしたどころではない重労働を行なっている僕の頭上にて、風に揺られた音を鳴らしている、今にも崩れてしまいそうな枯れ色を生らした木々も同じだった。
薄い白に染まってしまう呼気。それで邪魔されてしまう視界で辺りを見ていた僕は、小休止とばかりの息を吐くのも束の間に、一時中断していた作業を再開した。
「これで最後だな————フンッ!」
ダークブラウン一歩手前だろう暗めの茶髪を左右に揺らしている僕は、気合を勢いよく口から吐き出して、両手に力強く握られている使い古された、けれども適切な手入れがされていて新品同様の性能を保っている鉄斧を大上段から振り下ろした。
切り株に立てられている中太の木の中心を見事に捉えた僕の一撃が炸裂しては快音が辺りに鳴り響き、真っ二つにされて使いやすくなった越冬用の薪を完成させる。
「よっと」
鋭い刃先を切り株に刺さらせて自立している斧を地面に転がる薪を拾い上げながら横目にしつつ、今は回収しなくていいだろうと放置。
そうして残されている最後の作業に移る。そこら中に散らばっている大量の薪を腰を曲げながら、せっせと両手で集めた。
一箇所に集めて整然と並べられた薪の山を、ベルトに備えておいた麻紐で括り纏めた僕は、推定で数十キロはあるだろうそれを片腕で軽々と持ち上げて、少し離れた場所にある薪置き場へと運び、ドサッと置いた。
「うぅぃー……よーしっ、終わり!!」
黄ばみがない白いワイシャツに、そればかり着続けているせいで色落ちしている、元は僕の髪くらい濃い色だった茶色の長ズボン。
普段通りの服装に防寒を意図せずに羽織られているのはかなり古い、僕の爺ちゃんからのお下がりである宝物の茶色のコート。
そんな格好を人工林の中で披露している僕は額に浮かんでいる玉の汗を手で払う。
「ふぅ〜……疲れたぁ」
朝か重労働をこなし続けていた様子の、事実その通りである僕は溜めた大きな息を吐いた後、切り株に刺しっぱなしにしていた愛用の鉄斧を掴み取ってから腰掛ける。
そして愛用の得物なら大事にしろよと側から言われかねない雑さで、斧をクルクルと器用に手で回してから地面へと放り投げた。
「…………はぁー」
腰掛ける僕の視線の先にあるのは昨年足りなくなったから通常の倍は用意してやった、村人達の体を暖める燃料である、僕の一ヶ月の労働の結晶たる大量の薪の山。
「ふぅ……さてと、家にいる爺ちゃんに薪割りが終わったって伝えないとな」
軽く息を吐いた僕は切り株から腰を上げて、地面に放り転がしていた斧を回収。しかし家に持ち帰ることはなく、使った斧は巻き置き場の横にある納屋に収納した。
最後に薪置き場を『うんうん』と頷き見てから、人工林を出て、村営を一手に担っているこの村の村長の家——つまり僕の祖父に当たる『爺ちゃん』へと家に向かう。
辛い仕事を終えた僕が居る村共有の薪作兼薪置き場は村から東に進んだ場所にある植林された人工の林と、人の手が一切加わっていない原生林との間に存在している。
つまり現在地から西へ移動を続ければ、必ず僕の故郷である山村に到着するのだ。
「…………休みたいけど、もう一踏ん張り」
都市圏から遠く離れた山村は、防壁の役割を担っているかのように高々広々と周囲に聳えている、秋暮で枯れ色になっている山々に影響を受けているのか、こんもりとした『山形』に隆起してきて、村の中心に近付くほど丘のように小高くなっていく。
決して立地が良いとは言えないけれど、それを帳消しにできるくらいに見晴らしがいい丘の天辺、村の中心には、昔から僕が暮らしている爺ちゃんの家が建っている。
天辺にある家に帰るには上り坂の土舗装された道を必ず進む必要があり、多大な疲労を抱え込んでいる今の僕にはちとキツイ。
なぜ丘を直接駆け上がって行かないのかというと、その昔、ここが歩ける道と決められている土舗装された所を無視して丘表面に作られている花壇を飛び越えていった僕が、それを目敏く見つけてしまった爺ちゃんから、
「これこれこれぇえ! いかんぞい!」
と強烈にして痛烈であった拳骨を食らったことがあるからであり、もしその一件が無ければ今でも飛び越えてぇ——ゲフンゲフン。
「あら! ソラちゃん! ソラちゃん!」
「あ、サチおばさん! どうしたの?」
俯きがちだった僕に声を掛けてきたのは家の近くに——小さな村なんだから大抵が近所——住んでいる爺ちゃんの義理の妹で、つまりは孫の僕の親戚に当たる、サチ・カールモルこと『サチおばさん』であった。
そのサチおばさんは「おいでおいで!」と手招きしていて、甚だしい嫌な予感を感じつつも本人がいる手前で顔には出せず。
内心で冷や汗を掻きながら平静を装った素面を顔に貼り付けた僕は、そこへ遅めの駆け足で向かった。
そうして目前までやって来た僕のことを認めたサチおばさんはニコニコしながら手に持っていた包紙を広げる。
「あ、く、クッキー…………」
「ふふふ、いっぱい作ったからお裾分けに来たのよ」
「あ、ありがと、サチおばさん。爺ちゃんも喜ぶよ……」
僕の祖父である爺ちゃん——名を『バレル・ヒュウル』は、身長百九十センチほどもある巨体に見合わずの超甘党なのである。
「違う違う、バレル兄さんの分じゃないわ! これ全部ソラちゃんの分よっ!」
「うえっ!? こ、これ全部っっっ!?」
目玉が飛び出んばかりのリアクションを取った僕の一声を真正面から浴びたサチおばさんは、まるでクッキーをもらえて心底嬉しがっていると勘違いしていそうな悪意なき笑顔を浮かべながら『うんうん』と頷いていた。
その善意が、その厚意が、その草臥れていた心がポカポカする底なしの優しさが、僕にとっての『死刑宣告』だということも知らないで、サチおばさんは笑う……。
「バレル兄さんにあげちゃったら、ソラちゃんが一つも食べられないじゃない? だから直接持ってきたのよ〜〜」
「え、あ……へ、へぇー……そ、そっかぁ…………」
皺が目立つ両手で持って僕に見せる包紙の中身、それをチラッと見た僕は、食べさせようとしている大判クッキーが六枚もあるということを冷や汗を湛えながら知る。
クッキーにはドライフルーツがポツポツと生地に埋まっており、その表面には大量の砂糖が塗されて。いや、砂糖壺に直接漬けたの? というくらい付着していて。
どこから見ても砂糖の塊。この上ないほどの激甘の一品と見て取れるのだが……。これはまさか、砂糖の岩状態のこれを今から僕が食べることになるのだろう……か。
いつも食べ物(菓子を含む)を持ってきてくれるサチおばさんに暴露できたことはないのだが、僕は甘いものは好きじゃない。
「ほら〜! 誰にも見つからない内に食べて食べて!!」
「…………ぅ、ぅん」
多分だけど、これを受け取ったら最後、僕のために用意されたというクッキー全てを平らげるまで家に帰してくれなそうなんだよな。
『嫌だああぁぁあっっっ!?』と発狂して、この場から逃げ出そうとする弱い本心をフンッと握り潰した僕は深く息を吸って吐き、覚悟を決めてゴクリと喉を鳴らした。
「い、い、い、いただき……ます………………——うぅうぅぃっっ!?」
今の状況を如実に語るならば——それは『戦い』だった。幾度も開戦と終戦を繰り返し続ける、まさに口腔大戦争。
もしこの場で「うげぇっ!?」っと含んだ物を吐き出しでもしてみろ、もしそんなことをしたらサチおばさんに悲しい思いをさせてしまうに決まっているではないか。だからこそ。誰も、何も、一つたりとも、この場から帰すわけにはいかないんだ!!
強靱にして高潔な意志を心に掲げている僕は胃袋から迫り上がって喉奥を『出してくれーー!!』と激しく叩いてくる、まさに爆弾たる劇物を強引に押さえ込んだ。
そうして一枚、二枚、三枚と着実に減っていく、あまりにも多すぎて、そして甘すぎたクッキーに対して迸る希望の光。
それに「どんどん食べて!」と悪意なく言ってくるサチおばさんに戦々恐々としつつも、僕は大劇物であった僕殺のクッキーの『完食』を果たした——!!
「ご……うぷっ…………ご、うっ……ごちそう、さまっ」
「あらー、よく食べたわねー! そうよそうよソラちゃん成長期だものね! また『沢山作ってあげる』わねー!」
「…………かっ、これいっ……うぽっ……いあ……うぃ」
ちょっ、無理だよ。マジでやばい。マジで吐いちゃいそうなんだけど……。
ここまで拒否感が出るくらいの砂糖菓子を食べたの、生まれて初めてなんだが。
なにを思ってこんなに砂糖を塗したんだよ、この人は……。
「それにしても、甘すぎなかったかしら? 今食べてもらったの、うっかり砂糖壺に落としちゃったやつなのよー」
「え……も、勿体無いから、き、気を付けてね…………」
「寒いから悴んじゃって、つい! それじゃあ夕食の仕込みをしなくちゃいけませんから、ここで御暇させてもらうわね。あなたも気を付けて帰るのよ、ソラちゃん!」
今のが失敗作だったという事実に安堵する反面、また同じような物が来るかもしれないという恐怖に絶望を浮かべてしまう僕は、そんなこと知らぬ存ぜぬなサチおばさんに手を振られながら別れ、自分もサチおばさん同様に中断していた帰路に着いた。
「うっ、ぷ…………夕食入るかな、これ…………」
早く帰宅して爺ちゃんに薪割りが終わったことを言わなきゃいけなのだが、この無理に劇物を捩じ込んだ腹事情で走ることはできそうもなく、仕方なしに歩いてゆく。
ただでさえ辛い肉体労働で疲れていたというのに、薪割り以上にキツイ事が待っているとは想定外極まれりだったぞ。
誰にも言えない愚痴じみたことを内心でぶつぶつと呟いていた僕は大きく肩を落としながら歩みを進めていき、ふと空を見上げた。
「…………遅くなちゃったな」
もう夕方だ。溌剌と光を振り撒いていた太陽は西に沈みかけ、故に朝に見た吸い込まれるような蒼穹は変わり、こんがりと焼き上がってしまいそうな朱色に染まろうとしている。
どうやら課せられていた山積みの仕事が掃けた高揚感と、想定外すぎた緊急事態への『完璧』だったはずな対処での達成感により時間を忘れてしまっていたようだ。
というか今は何時くらいなんだ。冬場は太陽が沈んで『夜』が来るのが早いっていうし、冬と言っていいくらいの秋どきも似たようなもののはずだから……5時かな?
「…………」
茜の空と、何故か懐郷の念を抱かせてくる群れ烏の不揃いな歌声を目と耳に入れて、至極どうでもいいことを考えながら帰路に着いていた僕は、家を目前にしている最後の坂道を太腿に力を込めながら登っていく。
「ふぅーー、やっと着いた…………」
丘を登り切った僕の目前にあるのは、この村で一番大きい造りをしている家屋。
ここは三年前まで村長であり祖父である爺ちゃんと孫に当たる僕、そして僕の母さんの三人が一緒に暮らしていた大切な場所だ。
まあ、今は僕と爺ちゃんの二人しかいないんだけどさ……。
長い夜の始まりが迫っているせいなのか、せっかくの仕事明けなのに暗い気持ちになりかけてしまった僕は小さく肩を揺らし、いかんいかんと大袈裟に頭を振った。
そうして俯きかけていた顔を前に向けて、夜よりも早くに暗くなりかけていた気持ちを切り替えた僕は、玄関の扉に手を掛ける。
「っしょと、爺ちゃん、ただいまーー!!」
「お? ああ。おかえり、ソラ。やけに遅かったな」
「そこでサチおばさんと会ってさ、その時にクッキーをもらったんだ。それでちょっと帰りが遅くなっちゃった」
「む! サチのクッキーか……。で、どこにあるんだ?」
「あーー…………僕が全部食べたよ」
非常に言いづらいことを言おうとしているような渋々苦々な表情を浮かべている僕が、視線を天井がある斜め上に逸らしながら赤裸々に語り出した事実に対して『ガーン』という音を幻聴させてくる項垂れを披露したのは、御年七十六のおかげかせいか、これから到来する冬に見ることになる白雪のような白一色に染まってしまっている頭髪に、僕の母さんとソックリである薄緑色の瞳を持っている僕の祖父であり、母さんの父親である『バレル爺ちゃん』だった。
明るい緑色をしている爺ちゃんや母さんとは違って、僕の目は濃い緑色——濃緑色をしてしまっている。
緑という点は少し似ているけど、決して同じ色ではないという感じで、二人の間にちょっとした疎外感を感じていたのは秘密である。
さらに僕と似ていない点を挙げるとすれば、爺ちゃんはヒョロヒョロッとしている僕とは違って筋骨隆々の偉丈夫だ。
八十歳が目前に見えている老いた年齢だというのに、こと膂力だけならば齢十五の僕よりも爺ちゃんの方が断然強い。僕と似ている点が少なすぎる祖父なんだけども、今ではたった一人の、とても、とても大切な家族だ。
「そうか……全部か……一つ残らずか……」
「さ、サチおばさんが全部食べろって言ったからさ……」
そんなこと言ってはいなかった気がするけど、言ったも同然の勧め方だったので、ここは無言の空気を打破する光の力になってもらうために言ったことにしておこう。
そうして酷く『しょんぼり』としながらキッチンに向かった爺ちゃんを尻目に、僕はコートを脱いで自分の部屋に戻った。
「あああぁぁーー…………」
見慣れ知り慣れ使い慣れ。壁や天井の染み、無数にある床板の傷すらも知り尽くしている自室へと着込んでいたコートを脱ぎながら入った僕は、その瞬間にドッと襲い掛かってきた甚だしい疲労感により、堪らずといった感じでベッドに飛び乗った。
そしてそのまま重たすぎる両方の瞼を閉じて、虚無が揺蕩っている暗闇に意識を落とし——って、ダメだダメだ!
あ、危なかった……。このまま目を閉じてしまったならば、間違いなく物の数分で眠りに落ちてしまうに違いない。
もうすぐ夕食の時間だというのに、間違いなく十数分程度では済まないだろう睡眠を取ってしまうのは非常にマズイ。
そうして、凶悪すぎるだろう睡魔に打ち勝った僕は気を取り戻すためにパンっと両頬を叩き、気を抜けばいつでも襲いかかってくるだろう眠気を弾き飛ばした。
しかしこのままだと睡魔に襲われっぱなしになって、いずれは間違いなく僕が負けてしまう。故に眠気覚ましになるだろう、ベット向かいにある本棚へと近づく。
「んーー…………」
食後まで意識を持たせるために必要とした『物』がある、えらく古めかしい本棚には今の僕の年齢には似つかわしくない沢山の……。
いや、そこまで多くはない絵本が並べられており、それを一つ一つ吟味して行った僕は御眼鏡に適ったたった一冊の、酷く読み擦れている絵本に手を伸ばした。
眠気覚ましにと僕が手に取った狐の獣人である亡国の姫が表紙を飾っている絵本の題名は——《火巫女の伝説》
現在の歴である『千、三十六年』よりも遥かに昔、正確な年月の情報に関しては詳しくないけれど、大体『数千年』ほど前に実在したとされている『火の国』が、突然『空に開いた穴』のせいで滅んだっていう、なんとも感想が出てこない内容の話だ。
なんでも表紙を飾る獣人の姫君が、ぽっかりと開いている何物も存在していないような『虚空』を閉ざしに向かったのだけど、その使命に失敗した結果、国も姫君も空の穴に飲み込まれた——とかいう子供の読み物とは思えない『バッドエンド』落ち。
この絵本を生まれて初めて読んだ時は本当に言葉が出てこない、モヤモヤした気持ちになってしまった記憶がある。
だから食事前にこれを読むのはやめておこう。そうして、手に持っていた絵本をスカスカである本棚に戻した僕は、ちょうどいいのはないかと他の物を手に取った。
バッドエンドを避けた僕が次に手に取ったのは、宝輝貝の装飾を身に付けた魚人族の歌姫が表紙を飾る、今でも内容が分かっていない《海割り人魚》という絵本だ。
昔々——などとは言っても《火巫女の伝説》ほど前ではない昔年の話。
とある海国の近辺、そこにある小島の砂浜には、人獣虫などの種の壁を問わずに全ての者共の魅了する玲瓏な歌声を持っている、美しい『人魚』がいたという。
その、天女と見紛うほどの美貌と歌声を持っている人魚は、酒を飲まずとも酔いしれてしまうような『絶世の歌』を果てなく広がる海原へと響かせて、島と島とを徒歩で移動できるような陸路を『海を二つに割きて』創生してしまった。
っていう何言いようもないほど、ざっくりとした内容。結局のところ、この本が読み手に対して伝えたかったことが分からず終いなので、僕はあまり好きではない。
結論としてこの本は内容が好きではないので、一日の疲れを癒すような食事の前に読むには適していないと思われる。
そう思考した僕は無表情で本を棚に戻し、己が記憶を頼りにしながら、読むに適す『僕が一番好き本』を手に取った。
記憶を頼りにしたせいか少しウキウキした表情を浮かべている僕が表紙を撫でたのは『秘境冒険記』という古本だ。これは今から百年前に執筆されたという冒険小説。
『我々は彼方の地を冒険中に『秘境』を発見した』
『これより、その地を調査に向かう——』
『エドガーーー!!』
『マルフルーーー!!』
『『『『うわあああああああああああああああああああああああ!?』』』』
書かれている話の内容的には絶対笑っちゃいけない場面なんだけど、普通に笑ってしまえる面白さがこれにはある。
小説とかは目が疲れるからあまり読みたがらないけど、これは簡単で面白すぎて、よく寝る前に読む大好きな一冊だ。
さっき手に取っていた本は母さんやカカさんがくれた物が殆どだけど、これは僕の誕生日に爺ちゃんがくれたもので、それもあってか、この一冊には思い入れが強い。
母さんやカカさんのにも多大な思い入れがあるのは事実だけど、それがあっても『これ』は特別なんだと胸を張って言える。
あと何故かは今も分からないけれど、これを受け取った時の母さんは『この本』を見て良い顔はしていなかった……。
その理由は何なんだろうって、これを読書している最中に時々に思ったりする。
…………あっ! あとは、これこれ! これは忘れちゃダメなやつ!
『アトリエアのダンジョン録』!!
これは南方大陸の最東に実在している『アトリエア』っていう国家に居たという伝説の芸術家が創り出した多種多様な『ダンジョン』を、この『本の著者』が突撃攻略していくという、ファンタジーっぽい『ノンフィクション』小説だ。
これも《秘境冒険記》と同じくらい読みやすい割に面白くて、よく読んでる大好きな一冊であり、もし秘境冒険記に爺ちゃんとの思い出補正がなかったら、もしかしたら僕の中に存在する玉座に腰掛けていたかもしれない傑作だ。
【二重の迷宮】【焼熱地底】【氷雪霊園】【天獄の狭間にある悪魔の工房】【逆さ城】【踊りて捧ぐ人形の国】
などなど、各種『ダンジョン』に付けられている名前はこの目で実物を見たことがないから意味不明でしかないんだけど、なんかこう、ネーミングセンス? ってやつがさ、超カッコいいんだよなぁ。
今読むのに丁度いい一冊だと心底思うんだけど、もう少しで食事が出来上がるだろうし、読書に熱中するのはよろしくない気がする。
もし寝落ちして二冊とないこれを涎で汚してしまったならば、もう言葉も出ないし今日はパスだな。
そうして僕は取り出した二冊を本棚へと埋めるように戻し、熱中せずに汚れてもいい、今にとっての至高の一冊を探す——が、本棚に並ぶ本は全て読み飽きるくらい熟読した物ばかりで、今更読もうとは思えないのが正直な所感だった。
「はあ〜〜〜………………」
だ、ダメだ……。どうでもいい本探しに集中しすぎてて、先に眠気に対しての許容限界が来てしまったみたいだ……。
んー、ちょっとばかし寝ちゃっても、応答がない僕を爺ちゃんが起こしてくれるだろうし……うん、少しだけ寝ようかなぁ……十分くらいなら良いよね?
寝ようとしている当の本人である僕からの返事が来るはずがないのに自問をしてしまっている僕は、もう意識を保つことが無理だということを理解して、静かに攻撃し続けていた睡魔に対して降参したようにベットでうつ伏せになった。
そうして張り詰めていた意識の糸の緊張を解いた瞬間に、僕は真っ暗な虚無が揺蕩う睡眠世界に落ちていってしまうのだった——。