第一回戦『最強』対『アマゾネス』
三
教室内の興奮は徐々に高まるが、煩いわけではない。
風船のように膨らむ期待感はお祭り前の興奮である。
初戦ということで、皆が口々に戦いの結果を予想し、ぶつけ合っている。
「『最強』はつえーから『最強』なんだよ! あの南口が負けるわけがねぇ!」
「『アマゾネス』を舐めているわね! 共恵のスパイクは高校生だって簡単には拾えないわ! 県外からもスカウトの来ているあの子が簡単に負けるはずないでしょ!」
「知っているか!? 南口って握力もハンパねーぞ! リンゴ握り潰せるらしいぜっ!」
「握力だったらやっぱり『達人』鈴木だろ! アイツも楽勝でできるんじゃね?」
「つーか、筋力だったらゴ……『謎の男』は反則ってか、そもそもアリなの?」
「……分からん! でも、良いじゃん、別に! 面白ければさ!」
そう、楽しいから良いのだ。
周囲の話に耳だけを傾けながら、『アマゾネス』共恵は思った。
参加することに意義がある。
クーベルタンの精神は評価されるべきものかもしれない。
でも、どうせ出場するのだから、優勝したかった。
しかし、共恵は勝ちたいと思っているが――勝てるとは思っていなかった。
それは本人だけではなく、観衆たちも同感のはずだ。
共恵に賭けている者は圧倒的に少なかった。おそらくは市川以外にはほとんどいないのだろう。
別にそれは悔しくない。
共恵が客観的な立場だったら、彼女自身も自分には賭けないと思うからだ。
『最強』南口田尾は天才だった。
どんな競技をやっても一番を取る器用さと身体能力。逆に帰宅部ということで向けられる怠慢への嫉妬と非難。
だから、羨ましいとも思わない。いや、思えない。大変だろうなと感じてしまう。
自分以上に期待を向けられる存在へは――そう、同情を禁じえない。天才の悲哀だ。
そんなことを『アマゾネス』が考えていると、
「……共恵」
背後から自分の名前を呼ばれ振り返ると、そこには『女王』大垣絵梨が立っていた。
「絵梨? なぁに? 試合前の選手同士の会話ってあんまり良くないと思うよ」
ちなみに『アマゾネス』と『女王』は仲が良い。
共恵は勝手にだが、『女王』と自分が似た者同士だと思っていた。
容姿や性格ではなく、もっと根本的に相通じるものを抱いていた。
「共恵、あなた、もしかして……諦めてない?」
絵梨は無表情なのだが、どこか睨むようにして、そう訊ねてきた。
『女王』と呼ばれる所以の一つでもあるが、絵梨は表情が乏しい。
別に無表情というだけではない。
余裕を湛えた微笑は似合うが、それ以外の喜怒哀楽は似合わないのだ。だから、どこか不機嫌そうな態度は珍しかった。
「あー、あはは。分かる? でも、南口くんじゃねぇ」
冗談めかして、共恵が自分の中の弱気を告げると、
「諦める必要はないわ。勝機はあるから」
「え?」
「今、私は今のところ誰に対しても無敗だけどさ、負けない理由はどうしてだと思う?」
「えっと」
大垣絵梨は美少女である。
ぱっちりした二重や長いまつげなんて共恵に限らず誰もが羨む。長い手足で、とてもそうは見えないが腕相撲に異様に強い。
「……どうして?」
理由が思いつかず共恵が聞き返すと『女王』は胸を張って言った。
「戦術を練って、負けないように戦ったからよ」
「いや、腕相撲って、そんな戦術とかってあるの?」
「ある! 戦術のないスポーツなんてない!」
共恵は笑ってしまった。
それは今の言葉ではなくムキになる絵梨が珍しかったからだ。
「ん、そうね。じゃあ、アタシ、頑張ってみるわ!」
「……あなたなら、あの莫迦に勝てる」
いえ、と軽く首を横に振って『女王』は言い直した。
「私とあなただからこそ『最強』を討つことができるのよ」
「あはっ、励ましてくれてありがと!」
絵梨は首を横に振って「事実よ」と一言だけ簡潔に言った。
友人の応援に嬉しくなった共恵は笑いながら、戦場である教卓前に向かう。
彼女は絵梨の言葉を信じていなかったが――単純な励ましだとしか思えない――後ろからかけられた『女王』の声の寂しそうな響きはすこしばかり気になった。
「……ウソじゃないのに……」
――と。
四
教卓の前で既に『最強』南口田尾が腕を組んで待っていた。
目を閉じ、思考に没頭しているようだ。集中しているのだろう。
広い肩幅。
身長はそれほど差がないのに、共恵にはずいぶん大きく見えた。
華というか、強者特有の存在感に溢れている。
二人が向かい合ったところで、市川がマイクに向かって興奮を早口でぶちまける。
「さぁて始まりました! 第一回戦! 『最強』対『アマゾネス』! 前評判では『最強』の圧倒的人気ですが、さて、どうなることでしょうか。個人的には『アマゾネス』を応援したい! 判官びいきってこういう時に使うんでしたっけ? 解説の元宮さん」
「ええ、ですね。ただ間違いなく良い試合になると思いますよ。あんな見事なブレーンバスターのできる女子中学生は、全国広しといえども共恵ただ一人でしょうから」
「ふっふっふ。そ、そうですね」
微妙に引きつった顔の市川――まぁ、当然といえば当然の反応だったが。
しっかし、と共恵は目前の南口を見て感嘆混じりに思う。
綺麗な顔しているなぁ、と。
絵梨も整った顔立ちだが、南口田尾はそれ以上かもしれない。
ギリシアの彫刻を思い出させられる美形で、威厳すら漂っている。逆に、カッコ良すぎてちょっと共恵なんかは引いてしまう。
南口妹の琴梅と『女王』絵梨は東中の二大美少女として近隣でも有名だが、その兄の『最強』だって知らぬ人はいないレベルなのだ。
その南口と目が合った。
共恵は重圧に押されて思わず愛想笑いを返す。即座に南口に視線を逸らされ、少しショックを受ける。ただ、それよりもクラスメイトにそんな反応をする自分が可笑しかった。
そこでふと彼女は先ほどの絵梨の言葉を思い出していた。
『……あなたなら、あの莫迦に勝てる』
絵梨と南口はそんな軽口を叩くような仲だっただろうか? 共恵は、二人が挨拶を交わしている姿さえまともに見た記憶がない。
「おーい、デカ女」
共恵の思考は市川の暴言で遮られた。
「うっさい、ハゲ」
「ハ、ハ、ハ、ハ、ハゲてません! ハゲませんよ!」
「ハゲ候補が……どうしたのよ」
頭皮を押さえ、狼狽していた市川だが「何を言っているんだ、コイツは」という視線を向けてきた。共恵はムカッとするが、
「そろそろ試合を始めるぞ。マジで早く組め」
その正論に矛を収める。確かにもう観衆は待ちきれないのだろう。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」「ま、だ、かぁぁぁぁぁっ!」「は、や、くぅぅぅぅぅっ!」
教室の天井近くで、歓声やら何やらが飛び交っていた。
今、共恵の目の前を飛んでいたのは黒板消しではなく、黒い男物のパンツのようだ。ちゃんと掃除しなさいよ。そもそも、どこから調達したのよ、と思いつつ共恵は慌てて準備する。
あれ? あのパンツ誰の? 未使用よね? 剥ぎ取られた被害者はいないよね、と混乱しつつも、空気に呑まれちゃダメと自分に言い聞かせた。
市川の傍を通った時、彼は呟いた。
「……期待しているからな」
その言葉は小声で、聞こえたのは共恵だけだった。
ただ、小声に反比例するかのように含まれていた真剣な気持ちは何よりも彼女に響いた。頑張ろう、と心から思う。浮ついた心が自然と落ち着き、手足の先に熱が灯った。
そして、教卓につき、右腕を突き出す。
用意完了し、共恵は力強く宣言する。
「南口くん! 胸を借りるつもりでやるわよ!」
最初は、どうしたんだろう? と共恵は思った。
「…………」
南口田尾は動かなかった。じっと、まるで堪えるように。瞼を落として。
一分くらいは誰も何も言わなかった。観衆の興奮が徐々に落ち着く。
ただ、それでも何か言えるような雰囲気ではなかった。
触れてはならない気配が『最強』の周りに漂っていたからだ。
「なぁ、南口よ……」
代表して、おずおずと司会者兼主催者兼審判の市川が切り出した。
「早く試合を始めたいんだけど」
「あ、ああ……僕の負けで良い」
その言葉の意味を理解できなかったのは共恵だけではなかった。
教室から音が消失し、シーンと水を打ったように静まり返る。
「……何言ってんのよ!」
だが、最初に理解し、大声を上げたのは対戦者である共恵だった。
「さっさと勝負しましょう! 正々堂々! 何様のつもりよ! 『最強』!」
莫迦にされている、と共恵は思った。だから、誰よりも先に反発できた。
言葉は波紋のように広がる。それと同調するように教室がざわめき始めた。
「おい、どうなってんだよ?」
「いや、わかんねぇけど、負けってことは、えっと……賭けはどうなるんだ?」
「えええ!? 私、南口くんに一〇口も賭けたのに!」
「もしかして、誰かに棄権しろって言われたとか……」
「誰かって誰だよ?」
「得する奴だろ?」
「で、折半とかか? 待てよ。あの『最強』がそんなこと承諾するのかよ?」
「だって、現実的にさ。見ろよ。今の状況」
「ぬぅ……」
ざわめきと共に教室内の動揺と興奮も落ち着く。
鎮まって残るのは、気まずい沈黙だけだった。
一人――『謎の男』覆面マンが不可解そうに言う。
「誰か……今、金がどうとか言ってなかったか?」
市川があたふたしながら否定する。
「いいいい、言っていませんって! 何言ってるんですか! せん……『覆面マン』!」
共恵はキッと南口を睨みつけ、腕相撲の体勢からは動かず、「さ、早く!」と急かす。
棄権なんて認めるわけがなかった。
「…………」
しかし、南口田尾も黙したまま、腕を組み動かない。
――そこへ救世主が現れる。