ヴァシロピタの不思議な話
母はお菓子作りの好きな人だった。毎年クリスマスは手作りにケーキやクッキーでお祝いした。だから私は大人になるまで市販のケーキは食べたこともなかった。
もっとも今はケーキどころの騒ぎではない。飲食店関係で仕事をしていたが、コロナの影響で打撃を受け、失業。未経験の事務職についたが、給料は良くはない。ハローワークで探した求人だったが、実際に働いてみると、残業や休日出勤もある。家族経営の会社でなんとなく居心地が悪かった。
手取り額としては、ギリギリ一人で生活できるレベルだった。事故物件のアパートでもやしとキャベツを齧り、水で空腹を誤魔化す事もあった。二十代半ばで若いからどうにかなっている感じだが、年老いた事を考えると恐怖しか無いのが現状だった。
一説によると事務職はメンタルが病みやすい仕事らしい。マルチタスクで業務が複雑な割には給料が低く、社内でも下に見られているからだろう。
「はあ」
そんな情報をSNSで知るとどっと憂鬱だった。今日は休日だが、家で一人でスマートフォンをいじっていた。SNSか動画サイトを見て時間を潰していた。SNSも高齢化しつつあり、何となく居心地が悪い。ちょうど私のような年代が多くいるSNSも見つからず、休日もゴロゴロして終わりという感じだった。もっとも先週は仕事い行く羽目になり、社長一家とバーベキューをした。一秒たりともホッとする時間がなく、最悪だった事も思い出す。
そういえばもうクリスマスが近い。SNSではリアルが充実して居なさそうな中年男性などが、自虐風に愚痴っていた。そんな投稿を見ていると、気分は全く明るくならない。日々の支払いやほんのりブラックな職場環境を思い出し、憂鬱な気分だった。
「そういえば……」
そんな気分だったが、母が作ってくれたクリスマスケーキも思い出す。普通のイチゴのショートケーキやシュトレンを作ってくれた事もあったが、たまに珍しいケーキが出る事があった。
例えばガレット・デ・ロワ。これはクリスマス過ぎた年明けに出たケーキだ。見た目はアーモンド風味のパイ菓子だが、中に陶器のマスコットが入っていて、それが当たり。これが出ると紙で作った王冠を被せられ、一日だけ王様が出来た。陶器のマスコットは弟や姉と取り合いだった。よく兄弟喧嘩になったものだが、今思うと微笑ましい子供時代の思い出だった。
もう一つ珍しいケーキを作って貰った事もあった。ギリシャのヴァシロピタというケーキだ。表面に新年の年号がデコレーションされ、オレンジ風味のケーキだった。味はそう珍しいものではなかったが、これにも当たりが入っていた。当たりはガレット・デ・ロワと違いコインだった。なんでもこのケーキは、ギリシャで聖ヴァシリオスの事を祝うものらしい。聖ヴァシリオスは、貧しい人々にお金を忍ばせたケーキを配っていたらしい。だからヴァシロピタにはコインが入っている慣わしがあるらしかった。
ギリシャはキリスト教国だ。こう言った聖人を祝う事も普通らしい。日本人の感覚すると不思議な気分だが、あのヴァシロピタも美味しかった記憶がある。当たりのコインも兄弟喧嘩に発展したが、微笑ましい家族団欒にひと時だった。今は両親も離婚し、実家といえる場所も無くなってしまった。父も母も新しいパートナーと生活し、兄弟もそれぞれ独立していた。
「はぁ」
ほんのりブラックな職場で貧乏生活だったが、もう家族には頼れそうにない。
「これからどうすれば……」
あのヴァシロピタのケーキの味を思い出しながら、私の心は苦しくなってきた。物価高や増税もあり、未来には何の希望も無く、クリスマスも全く楽しみではなかった。
こうして憂鬱な気分のまま、24日になった。普通に残業で22時すぎに最寄りの駅につく。チラチラと雪も降り、寒い夜だった。駅の近くのコンビニでは、バイトの青年はクリスマスケーキを売っていた。おそらくあのコンビニもブラックだろう。可哀想になり、一つぐらい買っても良いと思ったが、残念ながら財布の中身は乏しかった。クリスマスケーキを買う余裕はない。買うとしたら明後日ぐらいに売っている半額ケーキだ。
コンビニも贅沢品だった。お弁当やおにぎりも高く、気軽に行けない。コンビニ利用者も40代以上が多いらしいが、全くその通りだろうと思ったりもする。
再び憂鬱な気分になりかけた時、誰かとぶつかった。
「いたっ!」
思わず声をあげる。
黒いコートの怪しげな男だったが、以外にも丁寧に謝ってきた。
「すみません。お詫びにこのケーキをもらってくれませんか?」
「え?」
「どうぞ、どうぞ」
男は半ば無理矢理、私の腕にケーキの箱を抱えさせた。箱越しだったが、甘くほんのり柑橘類の香りもした。どこかで嗅いだ事のあるような香ろだったが、思い出せなかった。
「では!」
「ちょっと!」
どういう事なのかと問い詰めようと思ったが、謎の男は風のように去って行ってしまった。追いかけようにも、もう姿が見えなくなってしまった。
腕の中にはケーキの箱。捨てるのも何となく違和感があり、とりあえず家に持ち帰る事にした。
暖房をつけ、部屋を温める。その間にメイクを落とし、髪の毛を雑に結んだ。部屋着に着替え、このい上なくダサい格好になる。こうして食卓の上にあるケーキの箱を開けてみた。
「何これ……」
箱の中身はヴァシロピタだった。特徴的な新しい年の年号もデコレーションされていた。2024年、と。今はあまり来年の事など考えたくなかったが、このケーキは母が作ったものとそっくりだった。スポンジの焼き具合などを見ると、プロが作った既製品にはどうしても見えなかった。
まさかあの男は母の知り合いか何かだろうか。いや、母は遠くに住んでいるし、新しいパートナーと居る。離婚した夫の子供に会う理由も思いつかない。
そうは言っても懐かしいケーキだった。謎の男からのものとはいえ、怪しく見えなくなってしなった。これも何かの恵みだろうか。なぜか分からないが、そんな気もしてきた。このままこのケーキを捨てる気にはなれない。多少お腹を壊しても良いから食べたくなってしまった。
ナイフで適当に切り分け、小皿に盛り、食べ始めた。懐かしい味だった。母が作ってくれたものと全く同じヴァシロピタだった。しかもちゃんと当たりも入っていた。アルミに包まれた五百円玉が四枚入っていた。
食べながら、少し泣けてきた。なぜこんなケーキを貰えたかわからない。不思議としか言えない現象だったが、クリスマスぐらいはこんな事があっても良い気がした。もしかしたら神様が憐れんでくれたのかも。そんな気もしてきた。
現状、これからの事を考えると憂鬱でしかない。でもこんな不思議な事もあったりする。希望は捨てなくても良いかもしれない。