後にいる者が先になり、先にいる者が後になる
自分では、いい子だと思っていた。いわゆる優等生。成績優秀、運動神経もいい。親や先生からも「いい子」と言われる事も多い。
そんな和美はキリスト教系の学校に通う女子高生。子供の頃からクリスチャンでもあり、ボランティア活動なども熱心にやっていた。
私っていい子だから。
そう思う事も少なくなかった。
そんな折、通っている教会にクリスチャンになりたいと新しい人がやってきた。日本のクリスチャンは少ないが、教会に新しく来る人は案外多い。
「こちらです」
和美はニコニコと笑顔をつくり、礼拝堂に案内した。プロテスタント教会なので地味で全く映えない礼拝堂だが、日曜礼拝の日は人々で賑やかだ。
「お嬢ちゃん、ありがとう」
「いえ」
しかし、この新しく来たおじさんの「お嬢ちゃん」という言い方に、妙に凄みがある。顔もいかついし、もはや……。
おじさんの右手、右手首あたりを見ると、入れ墨が入っているのが見えた。おそらくヤクザか、元ヤクザだろう。
クリスチャンでは元悪い人も多い。元ヤクザ、元占い師、元犯罪者、元同性愛者など。
モヤモヤしてきた。確かにイエス様は、どんな人でも許す神様だけど、何だかな……。
自分のようにずっといい子の方が損している気分だ。そうでなくても元ヤンキーがいい人になった話など人々は好きだ。逆に初めから真面目でいい子が、ピアス開けただけでも文句言われたりするのが解せない。
そんなモヤモヤの気持ちを抱えたまま、今日の礼拝がはじまる。
今日の説教テーマは、ぶどう園の例え話だった。これは聖書にあるイエス様の例え話だ。
そういえばこのぶどう園の例え話も違和感がある。
ぶどう園で長時間働いた人より、ぽっと出で短時間働いた人も同じ給料を貰う話だ。長時間働いた人は当然ねたむが、ぶどう園の主人は「後にいたものも同じように給料を払ってやりたい」と語る。この例え話は、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という言葉で締めくくられる。
今聞いている牧師の説教によると、こんな主人のように懐広い神様は讃美しようなどと言っているが、モヤモヤが募る。
真面目に働いていた人が正当な報酬を受けられないっておかしくない?
いい子な和美だったが、真っ黒な事も考えてしまう。もしかしたら因果応報思想があり、いい事したら天国行けるという仏教の方が合ってるのかなどと考えてしまう。
あのヤクザと思われるおじさんもチラっと見る。楽しそうに讃美歌を歌っていたが、余計にモヤモヤが募る。
そうしてモヤモヤした礼拝は終わったが、帰ったら熱が出てきた。吐き気や怠さも酷く、病院に行ったらインフルエンザと言われた。しばらく安静に休む事になった。
ベッドの上で、思う。これは、モヤモヤした事を考えていた罰か。自分で自分を責める思考のなってくる。これで学校を休んだおかげで、勉強も遅れてしまった。
ただ、先生もクラスメイトも病み上がりの和美に色々と気遣ってくれ、勉強もすぐに追いつきそうだった。
「先生、私、悪い事考えていたからインフルエンザになった気がするんですけど」
「そんな因果応報ないよ。そんなの勝手にジャッジしたら、ダメだよ。自分で思うのならいいけど、他の人にも厳しくならない?」
確かに。
あのおじさんにモヤモヤしていたのも、それが原因だったのかもしれない。勝手にジャッジし、モヤモヤしていただけだったようだ。あのおじさんの背景も和美は何も知らないのに。
家に帰ってもう一回聖書のぶどう園の例え話を読んでみる。
後に来て少ししか働かない人のもちゃんと賃金を出す主人は、もっともな気がしてきた。後にきた者も主人にしか見えない事情もあったのではないか。実際、後に来たものも就職に苦労しているような描写もある。また、先に働いていたものもダラダラ時間だけ消費し、何の成果も上げられてなかった可能性もある。主人へ不平不満を言う描写を見ると、無能の可能性も大いにある。主人の裁量が全てという事なのだろう。
自分もいい子になるあまり、いつの間にか想像力を失っていたようだ。神様と比べたら、別にいい子でも何でもないのに。自惚れて、勝手にジャッジしていた事に恥ずかしくなってきた。
こうして次の週。再び礼拝に参加した。あのおじさんも楽しそうに讃美歌を歌ってる。
そんなおじさんを見ていたら、こんな喜んで讃美歌を歌っていたのは、無かった気もしてきた。「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」という聖書に言葉は本当かもしれない。
「主は天降ませり〜」
時期はちょうどクリスマス。クリスマス讃美で礼拝堂は歌声が満ちる。
そしてクリスマスイブ。イブ礼拝が開かれ、最後には全員クリスマスクッキーを貰った。
あのおじさんも、和美も。子供も大人も。健康な人も障害者も。プレゼントを貰ってみんな笑顔だ。
ここで「いい子にしかプレゼントあげません」なんて言われたら、だいぶ嫌かも……。
確かに少し不公平だという気持ちはあるが、みんなの笑顔を見ていたら、どうでも良くなってしまった。みんなが幸せだったら、それで良い。