例えば、こんな年の瀬を ~プレミアムファイト、序章~
見上げた空は蒼く澄んでいた。吐く息は白く、目の前を覆う。
太陽が高い位置にいるからか、早朝同じ道を走ったときより空気は冷たくなかった。
それでもここ最近、急に寒くなってきた気がする。なにせ昼間なのに、これぐらいしか気温が上がらないのだから。
もうそろそろ雪が降るかな、と思う。幼い頃から、この時期に初雪が多かった。
昔は無邪気にホワイトクリスマスだ、とか思ってたな。何が変わるのか、正直よく分かんなかったけど、それこそ絵本と同じような景色になるのは心躍った。
そんなことを考えつつ、上を見ながら歩く。よく知った道。あまり前を向いていなくとも、危なげなく目的地に着くことができた。
「こんにちはっ、と」
年期を感じさせる古風な門に備えられた、そこだけがやけに新しいチャイムを押す。今ここに住む住人が引っ越してきた際に、元々あった古い家に取り付けたものだ。
だから、これは見た目通り古くない。だから、新品みたいなこれはもちろん壊れていない。
うん、今だってちゃんと仕事してくれてるはずなんだけど。
「反応なし」
本当に呼んでくれてるよな?
さすがに何の反応もないと不安になってくる。
「こりゃ、また気づかれてないな」
でも、この家はこういうことはよくある。主に、一名が留守番をしている時だけど。
俺は大きく息を吐いた。
我が家より、勝手知ったる四条家。
懐から鍵を取り出して、俺は淀みのない所作で錠を開いた。その、あまりのスムーズさに思わず苦笑いが浮かぶ。
正直、未だにオートロックなるものに慣れていない自宅の鍵を開けるのよりも、この家の鍵を開ける方が早くなってしまった気がする。
使いだしてからの月日は変わらないはずなんだけどさ。
まぁ、こんな簡単に開けてつつも、ちょっと心には毎度引っかかることがある。
「ふぅ」
俺は小さく嘆息する。
他人に合い鍵渡すのって、セキュリティ的にはどうなのよ。こんな、いかにも金持ってますみたいな家なのにさ。
そりゃ自主練するのに自宅は狭すぎるから助かってるけども。
「いや、俺だって疑われるのよりはいいよ。やましい心は……、うん、ない。ないからさ」
ぶつぶつと、誰も聞いていない言い訳をしながら、俺はこの鍵を手に入れた経緯を思い出す。
それは少し前のこと。
普段頼っている場所が使えなくなった時、家主の好意に甘えて敷地内の道場を貸してもらえることになった。家主が、この家を買ったのもそれが気に入ったからと聞く。家主、まぁ、俺はおじさんって呼んでるけど、彼本人ってより娘と奥さんの趣味な気がする。
しかし、ここに住むのは忙しい人ばっかりで昼間は住人がいないことが多い。ようやく定住できるようになった、とおじさんが喜んでいたのは束の間だったとあいつも言ってたな。
そんな状況で「誰もいなかったら勝手に使っていいよ」、と鍵をポンと渡すのには面食らった。この家の住人と話していると、俺とは住む世界が違うと、常々感じることがある。この件も、さすがによくわからない。
俺が金品騙し取ろうなんて人間だったら、どうするんだよ。そんな悪徳も度胸も、俺にはありゃしないけど。
「……まぁ、おじさんがいいって言うなら、いいんだよな。いや、でも」
納得しようと思ったけど、無理だった。
だって、さぁ。
年頃の娘がいる父親としてはどうなんだ。その態度。
「この際、おじさんはここにおいといて」
それにしても、あいつもあいつだ。おじさんの提案に何にも悩むことなく快諾して。
むしろ、戸惑う俺を傍目にニコニコと喜んで。
俺は信頼されてるのか。それとも、男だと思われていないのか。
「はぁ」
両方だろうな、きっと。
あいつはそんな奴だ。人の気も知らないで、ニコニコとしてやがる。
「よくあるよな、そういうこと」
基本的にあいつは周囲の空気を、良い意味で読まないやつだ。ほんと、単純に嬉しかったんだろうな。
「まぁ、いいや」
そう思うと、悪い気はしない。
それでも、ちょっとだけ落ち込んだ気持ちを奮い立たせて、広い庭を突っ切る。
庭の木は葉を落として、すっかり寂しくなっていた。それでも、気品のようなものを感じさせるのは流石といったところか。
葉が落ちても、生きている。手入れが隅々まで行き渡っている。
確か、こういうのをプロの人に頼んでるんだっけ。
この景色は、住む世界の違いを感じるよな。上流階級というか。
……ダメだ、また落ち込む。
「やめだ、やめだ」
玄関に鍵はかかっていない。やはり、中には人がいるようだ。
「ん?」
戸を開けた瞬間、耳に飛び込んできた音に俺は首を傾げる。よく耳を澄ますと、音はメロディーになっていた。
その曲は、俺もよく知ってる。
「ジングルベル、ジングルベル、ジングルオールザウェイ♪」
完璧な発音のジングルベル。その先も、流暢かつ、それこそ鈴のような声で歌いあげている。
……俺だったら、この辺の歌詞「ふんふん」言ってごまかすぞ。
「流石」
妙に感心した俺は玄関で靴を脱ぎ、その声が大きくなる方へと歩いていく。歌っている人物がいる部屋の前までたどり着く。
「こんにちは~」
一応、声をかけてみるも反応はない。歌声の主は、気が乗ってきたのか、ますます声量を大きくしていく。
観念して、そっと開けた隙間から部屋の中をのぞき込んでみた。
「うっわ」
思わず息を飲んだ。
純和風の部屋、そのところどころに赤やら緑やら凄まじい量の飾り付けがされている。和洋折衷、ではない。完全に洋に浸食されている。
「♪~」
そんな異空間を作り出したであろう主は、脚立の上に座って、天井を更にごちゃごちゃと飾り付けている。
ここからだと背中しか見えないが、その容姿がこの部屋の異質っぷりをさらに際だたせている。
腰まで届く、長い黒髪。
名前に合わせた、茜色の和装。
あいつにとっては、いつもの私服なんだが部屋の状況にはミスマッチだ。基本、華やかなやつだが、今、部屋の中央に鎮座している木の明るさとは別ベクトルの派手さだぞ。
でも、いくら異世界になっていても、分かってる。こいつが何をしたいのか。
「クリスマス、だよな」
赤と緑。まごうこと無きクリスマスカラー。
でも、なんだ、この世界観。頭が受け入れるのを拒否してくるぞ。
一心不乱に作業をしているせいで、俺が見ていることにあいつは気づかない。
「ん?」
そう、気づかない。徐々に体重が後ろにかかりすぎて、脚立が倒れそうになっていることも。
「あぶなっ!」
俺が叫んだのと、あいつが脚立から投げ出されたのは同時だった。反射的に、俺は部屋へと飛び込んで手を差し出す。このタイミングなら、受け止められる。
しかし。
「よっ」
宙に舞う黒い髪。ふわり、と重力を感じさせない体。
投げ出される瞬間に蹴りの威力であいつは自ら跳んでいた。その衝撃で倒れかけた脚立が元の位置に戻るなんておまけ付きだ。
結果、畳の上に残されたのは空の手をにぎにぎしている俺だけ。
「リョーマ!」
どことなく海外イントネーションが混じった言い方で呼ばれた俺は、ばつの悪い顔を隠さずに振り返る。
「よお」
そこには、脚立から飛び降りて華麗に着地を決めた四条茜の満面の笑みがあった。
「どうしたの、準備できたら呼びに行こうと思ってたのに」
こいつ、俺の体勢には何もコメント無しか。まぁ、追求されても良い返しを思いつかないだろうから、助かった。
「おまえ、今、何時だと思ってる?」
約束の時間は二時間ほど過ぎてしまっていた。
「え、ほんとだ」
そして、茜は本当に気づいていなかったようだ。
うん、毎度、こいつはこんな奴なんだ。飾り付けが楽しくなってきて時間を忘れたんだろう。集中力が強すぎて、文字通り周りが見えなくなるのが、四条茜という少女だった。
「あ、でも準備できたよ。ほら、見て見て」
茜に促されて、あらためて中央から部屋を見てみるが感想は変わらない。
「……いや~、おまえのセンス。爆発してんな」
あまり気に入っていない様子の俺に、茜は「おかしいなぁ」と首を傾げていた。
今日は十二月二十四日、いわゆるクリスマスイブというものだ。
事の発端は、どっかのタイミングで、茜からどう過ごすのか聞かれた時のこと。その時、「まさか、誘われたのか」とちょっと心躍ったけど、まぁ、すぐにクールダウンしたよね。だって、直前の会話で「ママもパパも家にいないから、いつも一人なの」と言っていたんだから。
海外暮らしの長い茜にとっては、家族と過ごすのが当たり前で、それが日本でようやく実現できそうだったんだから俺は邪魔する気は無かった。
いや、無かったんだよ。嘘じゃない。
無かったんだけど、ここに俺がいるのはさっき聞かれた問いに俺がこう答えたからだ。「去年とかはバイトしてた。結構稼げるから」と。母さんも、仕事で家にいなかったしな。
その瞬間の、茜が見せた驚愕の表情を今でも思い出せる。
……俺だって、枯れた青春してるとは思ったよ。いいだろ、別に。
そんなこんなで、いわゆるホームパーティーとやらに誘われて俺はここにいる。いや、だから、俺入れていいのかって思ったんだけど茜はこういうとき頑固なんだ。
その後俺は、ツリーに緑のサンタがついていたのを見て、「なんだこれ」と呟いた。それを聞いた茜はケチをつけられたと思ったらしい。懇々と、イギリスの伝統について語られ「うへぇ」となっていたところに新しい足音が聞こえてくる。
「茜さん、あまり坂本君を困らせないの」
振り向くと茜の母、葵さんが娘の暴走を見て頭を抱えていた。
「おじゃましてます」
「いいのよ。茜さんの我が儘に付き合わせてごめんなさいね」
俺の挨拶に謝罪を返す葵さん。
「でも、本当に良かった?」
その問いの意味が分からずに首を傾げると、葵さんはそのまま続けた。
「茜さん、お菓子の材料買い込んでたのよ。糖分は、減量には厳禁でしょう?」
ああ、そういうことか。
俺は納得して、笑いながら首を横に振った。
「今回、リミット緩いんですよ。逆に増やすのが大変で」
「あら、そうなの」
「どうも、俺、太ろうと思っても太れないみたいで」
それは羨ましいわ、と葵さんは上品な笑みを浮かべている。
「……ちょっと待って」
やけに静かだった茜が声をかけてきた。突き刺すような視線で俺を見つめている。
「な、なに?」
その迫力に気圧されて後ずさりした俺に、茜は容赦なく距離を詰めてくる。
「減量? リミット? 増量? なにそれ? あたし、聞いてない」
あれ、様子がおかしいぞ。なんで、こんなに怒ってるんだ、こいつ。
「茜さん、また聞いていなかったでしょう?」
全てを悟った葵さんが助け船を出してくる。
「坂本君が、あなたに言わないわけないじゃない。きっと、他事に集中しすぎて耳が働いてなかったのね」
「ああ」
そういえば、こいつ。かなりの生返事を返してきたよな。あの時。聞いてなかったのか。もう一度、話題に出すべきだった。
「なんで、ママは知ってるの!?」
その疑問も当然。俺も葵さんから話を振られるとは思っていなかった。俺の予定なんて、把握できないはずなんだけど。
「新聞に出てたわよ」
「「えつ」」
俺と茜の声が重なった。
葵さんにその新聞を見せてもらった。スポーツ紙ではなく、一般紙。その地元民向けの記事に俺のことが大きく取り上げられていた。
『地元の高校生、坂本龍馬君。プロの格闘家として、大晦日のリングに上る。対戦相手は著名ボクサー』と。
……そういや、取材されたな。忘れてた。
途中まで一緒に読んでいた茜は新聞を奪い取って記事を凝視している。あれ、目から熱線でて新聞に穴が空きそうだな。それぐらい、強い眼差しだ。
そして、バンと新聞を下に叩きつけて叫ぶ。
「こんなのクラウドプラーじゃない!」
くらうどぷらぁ?
なんだそれ。
「プロモーターのコメント、相手のキャラクターとリョーマの年齢しか言ってない。なに、この話題性だけのマッチング。ゲスト呼ぶことしか考えてない!」
ああ、くらうどぷらぁ、って客寄せパンダみたいなことか。俺をそんなのにしたらパンダに失礼だと思うけど。
しかし、どうやら茜は大変ご立腹のようだ。
「ルールは!」
「ストライカー」
「ミックスじゃないの!?」
俺が参加する予定の大会は、ルールがいくつかある。ストライカーは立ち技、ミックスは総合格闘技のルールだ。
「なんで、ボクサー相手に打撃だけ! しかも、階級むちゃくちゃ!」
「いや、俺、寝技無理」
「そんなの、あたしが教えるのに」
ほう、それは……。
いやいや、止めとけ。これは本気で絞め殺される。
「それに、何で急にこんな目立つオファー受けたの? らしくないよ、リョーマ」
まぁ、発表の時も、取材の時もガチガチに緊張してましたけどね、俺。当日、どうなるか分かんない。
「そりゃ、お金欲しかったし」
「正直!」
しばらく、やれどうだ、これはどうだ、と茜の文句は尽きなかった。
最初は、自分だけ蚊帳の外だったのが許せないのかと思ってたけど、どうやら、茜はあまりにも対戦相手に寄ったルールに我慢できないらしい。目の前に料理を並べた後もずっと頬を膨らませてる。
その様が、ハムスターを思い出せて可愛いんだけど、言ったら火に油注ぐよなと思って黙っている。
まぁ、そこまで心配してくれるのは嬉しいので悪い気はしない。
「いいよ、こうなったらリミットオーバーで失格になれば良い。シュトーレン丸かじりしなさい!」
「これ一回で食うやつじゃないだろ……」
そんなこんなで、俺の年末は慌ただしく過ぎ去っていく。まぁ、こんなに忙しいのも悪くない気はしている。
さて、来年はどんな年になるのかな。
それこそ、今は予想もできはしない。去年、今年がこんな風になるなんて少しも予想していなかったんだから。
年末の番組と言ったら、で格闘技が出てくる方は自分と同世代です。