≪二≫
目視が出来ない。
その状況でヒトは根元的な恐怖を感じる。
暗闇だからだ。
眼前わずか一メートルの距離すら認識することができない。
男性の上肢長の平均は約七〇センチメートル。
つまるところ身を乗り出して掻くように手を伸ばさなければ自らの視覚を覗いた五感、
聴覚、
嗅覚、
味覚、
触覚、
その四感ではその程度を探るのが限界なのだ。
無論、聴覚や嗅覚の訓練でそれ以上の距離でも感知することは可能だろう。
しかし何の訓練も受けていない健常者の我々が唐突に視力を奪われるとどうだ。
おそらく、その七〇センチメートルすらも満足に把握することは出来ない。
何もわからない空間に手を伸ばすということ事態に畏怖するからだ。
頼るモノがなければ、その場で硬直、ないし地面に崩れ落ちるのが関の山。
それが、今の僕の状態。
【慶人】
「…………。」
【??】
「…………。」
沈黙が降りていた。
空気が凍りついていたと言い換えてもいい。
わかるのは、少なくとも僕からこの静寂を破ることはないということ。
【??】
「……なぁ慶人」
やはり最初に口を開いたのは僕以外の誰かだった。
【慶人】
「……なんです?」
【??】
「だーれだ?って訊いたんだから答えるのが筋じゃあないのか?」
もう大体わかっているかもしれないが、有り体にわかりやすく状況を少し遡行するとこうだ。
夏夜が呑気にシャワーを浴びている間、掃除をしていた。
昨晩空けられたらしい散乱した缶ビール、饐えた臭いのするつまみ類、積み上げられた本の山。
その全てを処分、または元在った位置に戻し、バンカーズランプの似合う木製の机を硬くしぼった雑巾で拭く。
リノリウム張りの床にはひどく異質なマットレスを畳み、もはや倉庫となった実験室に運び込む。
そしてク○ックル○イパーで床を磨いていたときだった。
後ろから両の目を手で塞がれたのだ。
わかっていた。
僕の後ろをとって目に手を当てている誰かがドアを開ける音もしたし、足音を隠すつもりもない様子だった。
第一このビル内には僕以外には人間は一人しかいない。
あまつさえ、無理に作ったような甲高い声でだーれだ?という言葉をかけられては目も当てられない。
……実際に目は見えないのだが。
とにかく僕には茫然とする他なかった。
【慶人】
「まぁ……そうですが、この二人しか人間の存在していない室内で行われるべき行為ではないと思うのですが」
その僕の発言に興味を忘失してしまったのか、夏夜の手は短い溜息と共にずるりと下ろされ、瞳に光輝が取り戻された。
そして僕の横をいかにも遺憾だという様で通り過ぎ、僕が整えた本革の椅子に深々と腰掛ける。
【夏夜】
「わかっていてなおだ、さもわからない態を装い、やり通すのが人情ってもんだ。大体お前はノリが悪すぎる。仮にも私は上司だぞ?給料を払っているんだ、私を尊び敬い媚び諂うのがお前の仕事だろうに」
夏夜という人間は時折こういったことを平気で言う。
多少ずれた事象だとしても、それが一旦正しいと信じると、萎縮することなく物怖じもしない。
【慶人】
「……先月と今月の給料をもらった記憶がないのですが。ちなみに私は健忘症でも若年性アルツハイマーでもありませんよ」
しかし、夏夜は目を泳がせた。
意外にもはったりや嘘、誤魔化しの類は苦手な人間なのだ。
ポーカー、麻雀、花札、どれをやっても勝つ自信がある。
というか実際負けたことがない。
【慶人】
「あー……夏夜室長」
いつまでも頬をポリポリと掻かせているわけにもいかない。
生きるためには金がいる。
つまり働かなければならないのだ。
【慶人】
「今日やるべきことはありますか?」
此処、「葦辺研究所」はすでに研究所として機能していない。
どこからも研究資金は入ってこない。
このビルを維持するだけで相当な費用がかかるというのに。
【夏夜】
「……いやぁ、ないかなぁ……」
夏夜はばつが悪そうに苦笑を浮かべるだけだ。
【慶人】
「では嫌でも働いてもらいますよ」
確かに物理学の世界ではもう夏夜に力はない。
信用や信頼を失ってしまった者の末路というのは袋小路に同義だ。
物理学者としての葦辺夏夜に未来はない。
【慶人】
「葦辺の名だけは未だ健在ですから」
だが、葦辺夏夜が優れた人間であることは決して揺るがないのだ。
【慶人】
「選ばなければ仕事はあります」
【夏夜】
「やる気でなーい……」
その子供のような我が侭を通すわけにはいかない。
選ばなければ仕事はあるのだから。
たとえそれが三流、四流、五流大学の講演であっても、金持ちの息子の家庭教師であっても、迷い猫探しであったとしてもだ。
葦辺夏夜の知性を知る者は多く、頼る者も少なくないのだから。
【慶人】
「今回の仕事は夏夜の母校でもある真雲学園の校長、阿部一誠さんからの依頼です」
【夏夜】
「これまた古い馴染みの名前が出てきたもんだ……」
【慶人】
「…………。」
阿部一誠は資料で年齢五四となっていたが、このヒトは五四歳と馴染みなのだろうか。
僕は夏夜の年齢に一抹の不安を覚えながらも話を続ける。
【慶人】
「どうやら最近学園の生徒の失踪が頻繁に起こっているそうで、二〜三人の内は軽い家出かなにかだと高をくくって気にも留めなかったようですが、今では家出人捜索願が正式に受理されたものだけでも三四人。届けを出していなくても家にも帰らず連絡がとれない学園生が八人。警察も連続失踪事件として動いてはいるようですがなんら重要な手がかりは掴めていないようです」
見ていた手帳から視線を夏夜に移すと、夏夜の顔色がやる気のない緩んだ表情から謹厳な表情へと変化していた。
その鋭利な視線に射竦められる。
【夏夜】
「……それほどの事件がどうして新聞にもテレビにもでない」
どうやら一瞬何も考えられない程、その剣呑な雰囲気に呑まれていたらしい。
はっと思い出したかのように問いに答える。
【慶人】
「それは学園生が戻って来ているからです」
【夏夜】
「……続けろ」
意外。
僕はてっきりここで更に喰いついてくるかと思っていたが、というか喰いつくように答えたのだが。
【慶人】
「学園生は失踪後、ほぼ全員が五日〜八日の間に帰ってくるのです。それだけなら只の家出ですむのでしょうが問題は失踪して帰ってきた学園生に何をしていたんだ?と訊くと返ってくる答えにあります。それは示し合わせたかのように同じで『首を捜していた』でした」
瞬間、僕はぎょっとせざるを得なかった。
夏夜が声を殺すように嗤っていたのだ。
【慶人】
「………夏夜?」
【夏夜】
「いや、すまん。少々信じられなくてな」
【慶人】
「まぁ確かに僕もこの話を完全に鵜呑みにしている訳じゃありませんが……まるでB級ホラーですからね」
【夏夜】
「私の場合は少し違う。信じられるのが信じられないんだ」
夏夜はよっぽど面白いのか、普段仕事の話なんてまるで興味を示さず聞き流して僕にその殆どを任せるくせに、狡猾な笑顔を覗かせつつも真剣に聞いているようだ。
【慶人】
「信じられるのが信じられない、ですか?」
【夏夜】
「ああ、その帰ってきた学園生達『四次元』とは口にしていないか?」
【慶人】
「え、ええ。確かにしています。四次元、異次元、異世界、幽世など言葉に差異はありますが、何処で?と訊くと大部分の者がそう答えています」
ついに夏夜はこらえきれなかったのか声を出して嗤いはじめた。
【夏夜】
「久々におもしろい仕事になりそうじゃないか慶人」
【慶人】
「そうですか…?」