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曇りガラスごしに泳ぐ八月の人影

作者: 川口十二月

 扇風機の音がやみ、シーツの溝にたまった砂が動くのをやめた。

 振りかえると、寝転がった姉がリモコンを置いたところで、膨らんだ腹の先が少し揺れたのが見えた。


「弱にしようか、明日から」


「夜中は暑いからいい」言うと姉は手をつきながら立ちあがり、リビングへと続く薄い引き戸をあけた。


 テレビの前では、パジャマ姿の母親が天気予報を見ていた。


「今日は特に多いっていうから、傘もってったほうがいいよ」母親は姉を振りかえり言った。

 洋子は?続けて言った。


「おはよう」


 引き戸を閉めながら言うと、

 あんたんとこ帽子は貸してくれるんだっけ。こちらを見ずに言った。


「いや上着だけ。あと長靴」


「マスクは?」


「家からしてってる」


「帽子あったら、少しはそれ隠れていいけどねえ」


 母親はまた見ていたテレビに目を戻した。


 ここ数年この町には砂が降り続いていた。

 朝に降って昼にやんで、また夜に降って。

 絶えず舞う砂のせいで太陽はくすみ、特によく降った夜は、ゼラチン質の月がぼんやりとにじんだ。


「今日さあ、砂が多いなら検診ずらしてもらおうかと思って」


 姉のくちびるの端に牛乳のしずくがついているのが見えた。


「なに言ってんの。予定日すぎてんのに」母親はテーブルを拭きながら言った。


「でも、肌荒れした赤ちゃん産まれたらいやだし」


「ばかじゃないの。デマでしょ、そんなの」母親が切り捨てるように言った。


 姉は出産のために一か月前からこの家に住むようになった。

 母親が一人で暮らしていたこの部屋は洞窟のように狭く。姉と、姉より少し前から身を寄せていたわたしと母親の三人で、ひっそりと、産まれてくる赤ん坊を待った。


「ああ、あんたオロナミンC買ってきてよ。飲んだら産まれるっていうから。デマだけど」姉が言った。


「ちょっと。そんなの飲んで、赤ちゃんにいいの」


「うっさいなあ。ね、洋子お願い」


 うなずくと姉はテーブルのうえに五百円玉を置き、念のため二本ね、と指をつきだしてきた。

 いいよそんなの。そう言うと姉は、まだ最初の給料も出てないでしょと、こちらにコインを滑らせ、ゆっくりと立ち上がって台所へ向かった。


 玄関で靴を履いていると、珍しく母親が見送りにでてきた。


「傘は持ったよ」リュックの脇に入れた折りたたみ傘を指さして言った。


 しかし母親は何も答えずに、しゃがみこんでこちらに顔を近づけてきた。


「さっきのお姉ちゃんのいいから」


「え、なに?」


 後ろからさす光で、母親がどんな顔をしているかはよく見えなかった。


「オロナミンC。あんた嫌でしょ、お店なんて行って、顔じろじろ見られるの。お母さん買っとくから」


 小声で言うと立ちあがり、すぐに部屋の中へと戻っていった。



 ‐‐‐‐‐‐‐‐



「やっぱりウロコだと思うのよ」


 老婆が手すりを拭きながら言った。


「ばかじゃねえの。んなわけあるか」


 あたりに老人が動かすデッキブラシの音が響いた。


 マンションの屋上には太陽が照りつけ、吹く風もなかった。よどむ暑さのなか、影は虫のようにうごめき、落ちた汗が床に濃い染みを作った。


「だってこんなに光る砂ある?ちょっと魚臭いし。ほら」


 老婆が手袋についた砂を太陽に透かして言った。

 老人は差し出された指先を無視してひとつ息を吐き、またブラシで床をこすりはじめた。


 老婆は毎日レースの日傘をさして清掃人待機所にやってきた。

 色の白いは七難隠すっていうでしょと、筋張った首にスカーフを巻き、支給される上着とは別に長い手袋も持参した。

 肌が見えるのは薄い髪から透ける頭皮と、こけた顔くらいで、それすらも白い化粧で塗りたくられて、表情はよくわからなかった。

 大きな唇だけが場違いに赤く、暑さがこちらを、ぬらりと撫でてくるようだった。


「ウロコ?なんですか、それ」


 管理人がホースを蛇口につなげながら言った。


 朝の砂が降りやんだのは十一時すぎで、割り当てられた七階の掃除を切りあげて、屋上へとのぼった。


 倉庫にあるデッキブラシの毛先はもうほとんどが駄目になっていて、ひとつだけある新しいものは、すでに老人が手にとり使いはじめていた。

 残った数本からまだましな一つを選び、屋上の端から床をこすり始めた。


「砂じゃなくてウロコだって言いはってるんですよ。暑くて頭沸いてるんだわ」


「ああ、最近暑いですもんね。ペット飲んでくださいね、いつでも」


 蛇口の横には管理人が持ってきたスポーツドリンクの箱が置かれていた。

 老婆は短い掃除時間中に何本も飲み干したが、老人だけは平気だと頑なに手をつけなかった。


「だからさあ、工場から飛んでくるのよ。魚の。あるでしょ、あっちにさ」


「缶詰工場だろあそこ。なんでウロコだけ飛んでくるんだよ」


「悪い油、作ってんのよ。内緒で」


 老婆が口を開けて笑い、黄色く濁った奥歯の底を、熱い風がうごめいているのが見えた。


「もう馬鹿なんだよ。ただでさえ暑いのに、わけわかんねえことばっか言うなよ」


 老人がブラシを動かすと、ざりざりと砂の音が鳴った。


 砂はいたるところから生活に入り込んできた。窓の通気口に、閉まるドアの隙間。汚れた長靴の裏に、昨日着ていたシャツの縫い目。

 いくら掃いても砂はそのままで、なんでもないような顔をして、じっとそこに留まっていた。何度ブラシでかきだしても、いつのまにか、また新しいものが入り込み、すぐに元の状態に戻ってしまった。


 溝の奥の砂を掃いて、排水溝へと寄せる。床をブラシで叩くと砂が跳ねあがり、顔にあたって痛かった。


「あんた知ってる?あの工場、こっそり魚のカスしぼって、悪い油つくってんの。それでずっとウロコが降ってるのよ」


 老婆が屋上の柵にもたれて、こちらを見ていた。赤い口元が、にたりとゆがみ、高く結われた栗色の髪が細い陽炎のように揺れていた。


「だから。悪い油ってなんなんですかって」


 管理人が笑い、階段の脇にある蛇口に手をかけた。


「じゃあいきますよ」管理人がいつも通り言った。


 底を叩くような音が響き、床に置かれたホースから大量の水が流れはじめた。透明な水が扇状に広がり、少しだけあたりの温度が下がったような気がした。


 水は砂を巻き込みながら、ゆっくりと排水溝へ流れていった。老人が流れに沿ってブラシを動かすと、それは速度を増し、壁にぶつかって大きく飛び散った。

 老婆が、顔にかかるうと甘えた声をあげ、老人が、ばばあのくせにと吐き捨てた。


 やがて管理人は蛇口を止め、水は広がるのをやめた。

 ほとんどの砂はどこかに流されていったようだが、溝の奥まで入り込んだものは黒く濡れただけでいつまでも残り、老人だけが力を入れて床をこすり続けていた。


「だから、そっちは業者さん頼むんで、いいですって」


 管理人の持っていたホースが床に落ちる音が聞こえた。

 見ると老婆が柵を開け、ブラシで屋根のうえの砂を落としているところだった。


「でも、こっちも気になっちゃってさあ」


 このマンションは北側の屋根にだけ傾斜があり、その前の柵だけは、掃除のために開くようになっている。もともとのぼってくる住人もいない屋上だが、念のためそこだけには立ち入り禁止の札がかかっていた。


「ばか」

 

 老人が大声で言った。


「下のベランダに砂落ちるだろ。ブラシも落ちたら大ごとなんだよ」


「でも、ずっとあるから気になっちゃってさあ。水、こっちにも流すわけにいかないのかなあ」老婆が名残惜しそうに言った。


 たしかに老婆が見つめる屋根のうえには大量の砂が降り積もり、そこだけが、どこか遠い海底にある青い砂漠のように静かだった。


「雨が降れば流れますから」


「でもぜんぜん降らないじゃない」


 老婆が空を見あげ、首元のスカーフで汗をぬぐった。紺色の布地におしろいの筋がべたりと這い、ずいぶん前にだされた精液のように見えた。


「はあ、あつい。干あがりそう」


 日差しは容赦なく降りそそぎ、立っているだけで汗が流れていった。黒い影はじっとしたままで、屋上に焦げついた人影のようだった。


「じゃあ最後、いつものいきますよ」


 管理人が蛇口をいっぱいにひねり、ホースを高く持ちあげた。空に水が広がり、顔に水しぶきが飛んだ。


「ああ気持ちいい。泳ぎたくなっちゃうわね」


 老婆は腕をひらひらと動かしながら言った。老人は水に背をむけて、遠くの空を見ていた。


「海とか行きたくなっちゃうんじゃない?若い子なら」


 老婆が顔にかかる水しぶきを、嬉しそうによけながら笑った。虹が出るかと思って見ていたが、いつまでたっても出はしなかった。



 ‐‐‐‐‐‐‐‐



 チャイムを鳴らすと、珍しく化粧をした姉がドアを開けた。


「オロナミンCは?」


「ごめん、忘れた」


「ふうん。まあいいけど」


 後ろ手で鍵を閉めて、靴を脱いだ。


「そろそろ満月だから、産まれそうな気がする」視線に気がついたのか、姉は腹を押さえて言った。


「引き潮とかそういうやつ?」


「そうそう。羊水も水だから、川が増水するみたく、増えたり減ったりって」


 姉に続いて部屋に入ると、床掃除をする母親の背中が見えた。


「おかえりい」


 一瞬こちらに目をやり、また床に目を落とした。

 台所のグリルからは魚の匂いが立ちのぼり、狭い部屋には白い煙が漂っていた。


「仕事は?慣れた?」


 母親は部屋の隅にたまった砂をかきだしているところだった。

 細いほうきで壁と床の間をつつき、這いだしてきた砂を小さなちりとりに集める。


「うん。まあまあ」リュックを置いてマスクを外した。


「住んでる人に、なんか言われたりしない?」母親はこちらを見ずに言った。


「昼間は暑いから誰も歩いてなんてないよ」


 開けたゴミ箱の中には、毎日捨てるマスクが塔のように積み重なっていた。

 注意深く組み立てられたその塔のうえには母親の捨てた砂が積もり。崩れ、そして黒く汚されていた。


「おかあさん」姉の声がした。


「ああ、ごめんごめん」


 母親が立ちあがり台所へと向かった。少ししてから換気扇のスイッチを入れる音が聞こえ、部屋のなかの空気が動きはじめたのがわかった。



 洗面所に行き、一目散に手と顔を洗った。


 待機所の洗面台は水圧が弱く、いくら洗っても汚れは取れはしなかった。帰るころには体中に汗と砂が混じったものがこびりつき、業務用の強い洗剤で指の関節が赤くひび割れた。


 いま顔を覆う水はぬるく錆びくさかった。

 何度こすっても頬についた汚れがとれず、手に水をためて繰り返し泡を流した。


 流れ落ちる水をぬぐい目をあけると、洗面台の底を黒い砂が流れていくのが見えた。


 砂は不思議だ。

 風に飛ばされたりブラシで掃かれるよりもずっと、水に導かれるほうが自由に流れていく。目には見えない流れにのって、水のなかを泳ぐように排水口へと向かう。

 そう思うと、これが砂ではなく水中で生きる魚のウロコだというのも、なんだかそんなような気がしてくる。



 夕食の時間になり、義理の兄が訪ねてきた。


「これお義母さん、頼まれてた薬」


 新幹線でビールを飲んだという顔は赤く、女だらけの部屋を見渡す目はどこか楽しげだった。


「ああ、ごめんねえ。ほら、あんたのお願いしといたのよ。最近手荒れもひどいから」

 母親が味噌汁の横に、白い薬袋を置いた。


 すみません。頭を下げると、いや相変わらずこっちの砂はすごいよねえ、とテーブルのうえをはらいながら言った。


「あしたも釣り行くの?」姉が手で腹を支えながら、義兄の隣に座った。


「夜だけ。最後。ほんとう最後にするからお願い。ここの釣り場、最高なんだよ」

 義兄はわざとらしく頭を下げた。


 義理の兄は金曜の夜にやってきて、日曜の夕方に自宅へと戻る。土日は姉と二人で出かけることも多いが、最近は子供が産まれたら行けないからと、両日とも一人で釣りに行くことが増えているようだった。


「最近は何が釣れるの?」


 母親が冷えたビール瓶を差しだしながら聞いた。


「群れから外れた、ちっちゃいのばっかですよ。そういう弱いのが釣れるんだろうな」コップを傾けて義兄が言った。


「夜釣りって、暗くて何も見えないんでしょ?」姉は言いながら自分の箸を手に取った。


「ロマンだよ、ロマン」義兄が嬉しそうに言った。


「ライト照らしてさあ、そこらへんのおっきめの石かなんかに座って。それで海を眺めると。ああ、この、しーんとした海の底。あのときだけは海が、なんて言うの、ゆるく固まったゼリーみたいに見えるんだけどさ、

 その底を、いま、まさに眠らない魚が泳いでるんだなって思うとさあ、もうたまらないのよ。べつに食いたいわけじゃないからね、魚」


「魚って眠らないんですか?」驚いて聞いた。


「そうそう、泳ぎながら休んでるんだよ。ずっと動いてる」義兄は楽し気に答えた。


「洋子ちゃん興味あるの?いいよお、釣りは」


 義兄が目の前の焼き魚を手にとって言った。


「こうやってさあ、泳いでるでしょ。海とか川ではさあ」


 義兄は両手でひらひらと魚をくねらせた。

 焦げた尾びれがテーブルに落ち、母親が、ちょっと、と台ふきを姉に手渡した。


「それでさ、針がかかるわけよ、こうやって」


 義兄は魚の口に割り箸を突き刺した。


「こうやってさあ。それで。こうね」


 枝が折れるような音が聞こえ、魚の頭から、割れた二本の箸が飛びだしてきた。分厚い手のなかで魚は天をむき、テーブルに焦げた皮が飛び散った。


「それで、釣りあげるわけ。おしまい」


 義兄は笑顔で死んだ魚を掲げた。

 一度どこかで網にかかり、またここで釣りあげられた魚。かつて死んだ魚は、また新しい死体となって、テーブルのうえにのぼった。


 母親が換気扇を止め、空気の流れがやむ音が聞こえた。


「針とって、また海に返すの?」姉が聞いた。


「そうだよ」


 義兄は魚を皿に戻し、台ふきで手を拭いた。片手で椀をすすると、ずるっと、味噌汁の実が吸い込まれる音がした。


「たまにさあ、針もってっちゃうやつがいるんだよ、これがもったいなくてさ。高いんよ、結構」愉快そうにコップのビールを飲み干した。


「それって生きてけるの?手で触って、顔に穴もあいてるんでしょ?」


「泳いでくよ、あいつら強いから。投げたら、ふらふらーって泳いでく。全然平気だよ」


「ふうん」


 姉は興味なさそうにつぶやき、自分の皿を箸でつついた。


「子供が産まれたら連れてきたいな。はまるって、絶対」義兄は嬉しそうに顔を赤くして言った。


 ビールを注ぎたす義兄の前に、箸が刺さったままの魚が、一尾、横たわっていた。

 身の半分が落ち、尾びれがくずれ、体の中身をだらりとさらし。食べられることのないまま、じっとしていた。砂が落ちていると思ったら、尾びれから落ちた飾り塩だった。


 ‐‐‐‐‐‐‐‐



 待機所のドアを開けると、洗面台で化粧をする老婆に声をかけられた。


「ねえ、やっぱり砂じゃなくてウロコなのよ。証拠見つけちゃってさ」


 嬉しそうに近づいてきた老婆の足元で、踏まれた砂がきしむ音が聞こえた。


「ほら、これ」


 老婆が作業着のポケットから黄ばんだティッシュの塊をとりだした。すえた匂いがあたりに広がり、マスクをかけなおして近づいた。


「見えるでしょ、ほら」


 よれたティッシュのなかには、小さな目がひとつ転がっていた。どう見ても人形か何かから外れた、プラスチックの眼球だった。


「これね、昨日帰りに落ちてたの。目でしょ。魚の」


 老婆は嬉しそうにティッシュを握りしめ、内緒だというばかりにこちらを覗きこんだ。そして、あら、と言ってきびすを返し、洗面台の前へと戻っていった。


「でも、なんか、偽物みたいな目ですね」


「あんたばかなの?魚だっていろんな魚がいれば、いろんな目があるでしょ。イワシとかカツオとか、あとはノコギリエイとか」


老婆は鼻で笑いながら、ティッシュの包みを洗面台のうえに置いた。


「魚じゃないなら何の目よ。猫?犬?人間の目?違うでしょ?なら魚に決まってるじゃない。ばかねえ、あんたはほんとうに」


 老婆はそれ以上は何も言わずに、黙って化粧をつづけた。


 後ろを通り抜け、奥のロッカーにリュックをしまった。作業着をとりだして服のうえから羽織り、長靴に履き替えた。


「ねえ。ちょっと」

 

 洗面台の鏡越しに老婆がこちらを見ていた。


「あんた化粧とかしないの?若いのに」


 首をふって作業着のボタンを止めた。マスクを耳にかけなおして、髪をゴムで結んだ。


「塗ったらさあ、それ、ちょっとは隠れるのに。わたしの貸してあげようか?クレドポーのよ、高いんだから」


 老婆がこちらを振りかえり、ファンデーションを差しだしてきた。薄汚れたケースについた鏡に、ぼんやりと老婆を見る誰かの白い顔がうつっていた。


 また首をふると老婆は前をむき、髪の後れ毛をつまんでピンで刺しなおした。


「でもさあ」少しして老婆が言った。


「そのうち目だけじゃなくて、魚も降ってきたりしてねえ」うれしそうに笑った。


「あんたさ、今度から箸と醤油でも持ち歩いたら?すぐ食べられるように。魚きらい?」


 笑いながらまた化粧を塗りかさね、老婆の顔はどんどんと白くなっていった。



 バケツと雑巾を持ち階段をのぼった。

 手すりを拭いていると、ゴミ袋を持った管理人に声をかけられた。


「手荒れどうなりましたか?最初は皆さん、だいたい荒れちゃうんですけどね」


「薬もらったので。前ほどは」


 管理人は満足そうにうなずいて、手すりから下を覗きこんだ。手招きされ横に並ぶと、一階の外階段のすみで、煙草を吸う老人と老婆の姿が見えた。


 コの字型に建てられたこのマンションでは、清掃人が階段を上り下りし、廊下を歩き回る姿を、すべて、どこからでも見ることができる。

 はじめてこのマンションに来たとき、アリジゴクの巣のようなこの景色を見て、なんとなくここで働くことを決めた。


「あの人に変なこと言われてませんか?魚がどうとか」管理人が下を指さし言った。


「今朝なんか、目を見つけたって」


「ああ、あれね。言われたか、言われたんだあ。あーあ」


 管理人はゴミ袋を廊下に置き、腕を手すりにかけてもたれかかった。


「あれ、人形の目でしょう。どう見ても」


 あきれたように話す声は廊下に大きく響いたが、下の老人たちには聞こえていないようだった。ひっきりなしに煙草を吸いながら笑いあい、たまに老人が老婆の垂れた尻をなでた。


「もうね、頭いかれてるんですよ」管理人は頭の横で指をまわしながら言った。


「ありもしない妄想ばっかでさあ。頭が曇ってるんだろうな。だから砂がウロコに見えたりね。

 それにこの暑いのに、長袖長ズボンでしょ。知ってる?ホームレスが重ね着してるのって、頭が病気で暑いのがわからないんだって。それと一緒だよね、あの人ね」


 管理人が下にむかって唾をはいた。

 白い塊は弧をえがくことなく落下し、管理人が舌打ちをした。


「クビにするのも理由がないと難しいからさ。あの人も昔まあ、なんか、いろいろあったらしくて、ああなっちゃったのも、しょうがないんだけどね。

 でもそんな傷、誰にでもあるでしょ。水に流しちゃえばいいのにね。じゃーって」


 管理人はそう言ってこちらを振り返った。なんの表情もないガラス玉みたいな目だった。


 何も答えずにいると、管理人はバツが悪そうに下を向き、よいしょと重そうなゴミ袋を持ちあげた。


「このあと砂やみそうなんで、十一時から上ね。時間厳守でよろしく」そう言って階段へと歩いて行った。



 待機所に戻り雑巾を洗った。何度しぼっても糸に絡みついた砂は取れず、洗面台をいつまでも黒い群れが流れていった。


 どれだけ掃除しても汚れは取れはしなかった。何度拭いても黒い染みはそのままで、砂だって、かきだせなんてしなかった。やっときれいになったとしても、すぐにそれはもとに戻り、前よりも深く汚れていくような気がした。


 デッキブラシの柄はひび割れて、動かすたびに手が痛かったし、支給される上着も長靴も、臭くて嫌な匂いがして、常に吐きそうだった。


 うんざりだった。砂にも仕事にも、この町にも。


 もううんざりで、ぜんぶ捨てて投げだして、どこかに泳いで行ってしまいたかった。


 鏡の前にティッシュが置かれているのが見えた。そっと開けてみると、老婆の言う魚の目が、まだひとつ、入ったままだった。

 やはりそれはプラスチックの眼球だった。持ちあげると透明な白目のなかで黒目が動き、ぎょろぎょろと光った。


 何かを見たがっている目だった。


 魚の目かぬいぐるみの目か。人間の目かもわからないそれは、ぎょろぎょろと動きながら見るものを探していた。


 指でつまみあげ力を入れた。


 プラスチックの白目は思いがけないほど簡単に割れ、中から黒い目玉が飛び出してきた。

 ただの黒い球となった目玉は手のひらで少し揺れ、傾けると、砂で汚れた床に落ちていった。足でつぶすとそれは音もなくつぶれ、砂と混じってすぐにわからなくなった。


 ‐‐‐‐‐‐‐‐

 


 今日も屋上の日差しは強く厳しかった。ブラシで床をこするたびに背中が焼かれ、太陽を磨いているような気がした。


 階段をのぼる音が聞こえ、老婆が駆け寄ってくるのがわかった。

 走ってきたせいでズボンの裾がまくれ、隙間から乾いた足首がのぞいていた。白くてこぶの多い、枝みたいな足首だった。


「誰か知らない?あたしの目」老婆が聞いた。


「あたしのって、魚のだって持ってたやつか?」老人が床をこする手を止めずに言った。


「置いといたのにないのよ。あんた捨てた?」


「捨てねえよ、そんなもん。それで遅れたのか?」老人がつばを吐き捨てて言った。


「だってないんだもん。あたしの目よ」


「なんだよ、あたしって。ばばあのくせによ」


 管理人が蛇口をひねり、ホースから透明な水が流れ始めた。


「まあ、また落ちてくるんじゃないですか。本当に魚なら、頭とか内臓とかも、よく探せばあるかもしれませんよね」


 管理人は少し笑いながら、ほら探して探して、と老婆にブラシを手渡した。


「んなわけあるか」


 老人が言い、老婆は不服そうに床をこすりはじめた。


 空からは、また少し砂が降ってきたようだった。


「あてになりませんね、予報なんて」管理人が空を見あげて言った。


 空気中を小さな砂が舞っていた。透明な砂、黒い砂、光を反射する美しい砂。一粒一粒が風に吹かれ、意思を持っているかのように空を泳いでいた。


「また午後にします?意味ないっしょ」


 老人が言い、管理人は何か少し考えているようだった。


「砂じゃないわよ。ウロコよ」ブラシを置いて老婆が言った。


「砂だよ」老人は静かにいった。


「砂に決まってんだよ。なんでかわかんねえけど毎日降ってきて、死ぬまで掃いてかなきゃいけない砂だよ。靴んなかがジャリジャリして、目に入ったら痛い痛いって泣く砂だよ。ばかじゃねえか、ほんと」


 老人は、やってられないというばかりにブラシを床に置き、倉庫へと歩いていった。


「ぜんぶウロコなのに。ぜえんぶ、魚しぼって油つくって、ぱあって撒かれたウロコだよ」老婆は言った。


 ほら、あそこに落ちてるじゃない。老婆が端へと歩いて行った。


「そっち危ないですから」管理人が手のホースを持ちなおして言った。


「あそこよ、あそこ」

 

 老婆は歩きながら傾斜した屋根の奥を指さした。管理人が危ないと跡を追い、二人を追いかけるように水が流れていった。


「あそこ。ねえあんた、若いんだから見えるでしょ?あそこにあるじゃない」

 

 老婆がこちらを向き言った。


「ほらみんなに言ってよ。あれよ、あれ。見えるでしょ、あんたなら見えるでしょ」


「気が狂ってんだな、やっぱり」


 遠くで老人がこちらを見ていた。


 屋根には太陽の光が反射して、老婆の指さす先はよく見えはしなかった。ただそこには何かがあり、ちらちらと屋根の上を動きまわっているような気がした。


「あたしとあんたしか見えないのよ、きちんと見てよ。わかってるんでしょ」


 何度も老婆は言った。


「危ないですって」


 管理人が老婆に近づいた。ホースの先から、どんどんと水が流れ落ちていた。


「ほら」


 老婆のいうほうに目を細めて近づいた。すると確かに、光かがやく屋根のうえで、なにか黒いものが、ぴちり、風もないのに跳ねるのが見えた。


「やめろよ、ばか、滑るぞ」老人も近づいてきた。


 老婆はしゃがみこんで柵を開け、その隙間からデッキブラシをのばした。柄が柵にぶつかる嫌な音がして、管理人が眉をひそめた。


「もういいでしょ」管理人は言った。


 老婆は立ち上がって屋根へと片足をふみだし、柵を掴んで、またブラシを伸ばした。


「ほらあそこ。もう少しで見せてあげられるから」


 老婆のすぐうしろに、ホースから流れる水がたまっていった。透明できれいな水だった。


「あ」


 誰かが小枝を投げたのかと思った。


 水が一気に屋根のうえへと滑りだし、すべてを流していった。 山間の冷たい、春の小川みたいな流れだった。手なんてぜんぜん届かなかった。

 老人が何か言いながら階段へと走り、管理人が持っていたホースを床に置いた。


「あーあ。仰向けだから日に焼けちゃいますね。あんなに気をつけてたのに」


 下を覗き込んだ管理人の口から唾が吐かれるのが見えた。砂の流された屋根には日の光があたり、不思議な模様を作っていた。


 膝をぬらす水が冷たかった。

 背中が焼かれたように熱く、汗が鼻をつたって落ちていった。

 目の前の砂は水中を動くだけで、どこにも行かないでいた。



 ‐‐‐‐‐‐‐‐


 

 陣痛室の前で母親と会った。


「ちょっと入院の荷物とってくるから。あんたいてあげて」


「お義兄さんは?」


「いま向かってるって。でも、あと五時間くらいで産まれるっていうから間に合うかどうか」少し嬉しそうに走っていった。


 ドアをあけ入った陣痛室は暗く、いくつかのベッドが簡単な仕切りで区切られているようだった。

 扉代わりのカーテンを開けると、姉がベッドの上でうつぶせになり丸くなっていた。そばには水のペットボトルが転がり、薄い布団が少し濡れているようだった。


「お母さん、またあとで来るって」


 姉はちらりとこちらを見て、また目をつぶった。


 部屋のなかには簡素なベッドと椅子があり、枕もとの机には、小さな時計がおかれていた。天井からはオルゴールの音色が流れ、遠くから看護師か誰かの話し声が聞こえた。


「他に産む人いないんだ」


 聞くと、満月なのにひとりみたい。姉が低い声で言った。


「腰とか押そうか」


 リュックを下ろし近づくと、姉が丸まったまま少しだけうなずいた。


 薄い寝間着越しの皮膚は熱く、どこを押していいのかよくわからなかった。何度か腰をさすり、かたい骨のすきまを揉むように押した。


 この皮膚の奥に骨があって内臓があって子宮があって。またその先に、赤ん坊と動く心臓があるかと思うと、なんだか不思議な気持ちだった。

 まるで自分が心臓マッサージをして、死んだ赤ん坊を生き返らせようとしているような気がした。


「ああ、少し痛いのなくなった」


 姉の強張っていた体が、すっと柔らかくなるのが分かった。体をおこした姉が壁にもたれて、ひとくち水を飲んだ。


「ずっと痛いわけじゃなくて、五分おきくらいに痛いのがくるの。波みたいに」


 姉の腕や腹にはベルトのようなものが巻かれ、そこからケーブルでつながった機械がピーピーと高い音を鳴らした。

 たまに鳴るんだけど誰もこないんだよね。姉はほどけた髪を結びなおしながら言った。


「どれくらい痛いの」


「ブラックホールみたい」


 姉はペットボトルの中身を見つめながら言った。


「ブラックホールみたいに、ぜんぶ吸い込まれてく痛さ」


「出てくんじゃなくて」


「じゃなくて。おなかの中だけじゃなくて、頭のなかとか、まわりのものとか。とにかくぜんぶ吸い込まれてって。ぎゅうって、無くなるまで握り潰されて。それで、多分あふれ出るみたいに産まれる」姉は言った。


 部屋のなかは暗く、小さな照明だけが、ぼんやりとあたりを照らしていた。廊下をカートがガラガラと進む音が聞こえ、自動ドアが開き、また何度も閉まる音が響いた。


「他に明かりないのかな、ここ」


 軒下みたいでしょ。姉は自嘲気味に笑った。


「もっとさ、明るい部屋で大事にされて産むもんだと思ってたわ。担当の看護師がずっといてくれて、お水くれたり励ましてくれたり」


 また機械がピーピーと鳴ったが、誰も来る気配はなかった。


「あんた下でケーキ買ってきてよ」


「食べれるの?」驚いて姉を見た。


「じゃなくて。誕生日ケーキ。産んだ瞬間にろうそく消すから。あんたがハッピーバースデー歌ってよ」


「ロウソク何本かな。一歳じゃないもんね」


「確かに」姉は手をたたいて笑った。


 この部屋には、なにも動くものがないと思った。


 ベッドの後ろの窓は閉じられたままで、風が吹きこむこともなく。ロウソクの炎は、揺れることも消されることもなかった。姉はこの洞窟のようなしんとした部屋で、一人で子供を産むんだと思った。


 また痛みが来たのか、姉がうめきながらベッドに倒れこんだ。

 ぎゅっと体を丸め枕を握りしめて、強く目をつぶった。


「ああああ」


 腰を押すか聞くと、もういいと首をふり枕に顔をうずめた。丸まった背中には汗がにじみ、薄い背骨が浮き出ているのが見えた。


「あんたさあ」枕のなかで姉が言った。


「家、出たほうがいいよ」


 何をしていいかわからず、じっと立っていた。


「あるでしょ。もっとなんか」漏れる声は小さく、それでも響きは確かで力強かった。


「もう戻んなきゃだめだよ」


「そうだね。わかってる。わかった」


 姉が少しうなずいたような気がした。


「ほら、あんたの布団とこ、ベビーベッド置きたいし」


「それで?」言うと姉が、いや部屋せますぎでしょ、とちょっとだけ笑った。



 それから、うめき声は何度もやってきた。


 数分おきにブラックホールが現れ、すべてのものを吸いこみ握りつぶしていった。


 小さな机に丸い椅子、ピーピーうるさい機械やベッドにわたしまで。すべてが姉のなかに吸い込まれ、パッと一瞬でどこかに消えた。


 そして少しすると、いつのまにか姉が現れベッドは沈みこみ、天井からオルゴールの音色が聞こえはじめた。

 姉が息を吐いてゆっくりと上下に揺れ。また数分すると、ブラックホールが大きく口を開けた。


「おねえちゃん」


 ぐったりと倒れこむ姉がこちらを見た。


「一人産まれるってことは、どっかで一人死んでるのかな」


 姉は何も言わなかった。荒い息づかいだけが部屋に響いた。


「馬鹿じゃないの?」小さな声がした。


「そんなロマンチックなこと、こんな痛いのに、あるわけないでしょ」


 姉は枕に顔をうずめたまま言った。


「でも、まあ、死んでるかもしれないし、わたしも死ぬかもしれないよね」


 姉は言った。


「でもまた産まれるから」


 姉は続けた。


「あんたも死んだら、わたしが産んであげるから。毎日でも死んできな」


 うめき声がして、それから何を言ったのかはわからなくなった。



 姉は痛みで何度も吐いた。やってきた看護師が雑巾で床を拭き、腹を触ってまだ平気だと部屋から出て行った。黄色い胃液がベッドを濡らし、機械はピーピーと鳴った。


 あと三時間半。姉が机のうえの時計を見て、絞り出すように言った。

 あと二時間と五十分。わたしも言った。


 何度も時計を確かめ、産まれるまでの時間を数えた。母親はどこかに行ったままで、もう戻りはしなかった。


「あああ」


 はじめは短音で。


「ああああああああああ」


 そのうち声は長く伸びていった。


 姉の体の奥から声があふれだし、大きな流れとなって部屋中をまわった。天井を舐め、壁を削って床を鳴らし。姉の吐きだす濁流のせいで部屋のなかは何も見えなくなった。


「ああああああ」


 三分叫んで、一分沈んだ。


「もうむり」


 目をつぶった姉の顔を滝のような汗が流れていった。たまに漏れる言葉は部屋の底を這い、地面の下を流れる、うねりのように聞こえた。


「あと、二時間と十五分」


 もう咆哮が止むことはなかった


 姉はベッドのうえをのたうち回り、獣のように叫んだ。

 痛みをこらえ傍らの椅子を叩き、髪を振り乱して獣のように吠えた。

 時計は落ち、椅子は倒れ、機械はピーピーと鳴り。腕は叩き掴むものを求めてベッドから這いでていった。

 膨れた身体はバラバラにくずれて部屋中に散らばり、それぞれが縦横無尽に這いまわりながら、異形のもののように叫び続けた。


 赤ん坊は流れに逆らって産まれてくるんだと思った。


 全てを引きずりこみ握りつぶしていく濁流のような力。そのなかを、ただ母親の叫ぶほうへと進む。頭蓋骨を縮め、背骨をよじらせ、肩をくねらせながら、狭い産道をたったひとりで這いあがってくる。


 また機械がピーピーとなって、カーテンが開いた。


 看護師が姉の腹を触り寝間着をまくりあげ、姉がまたさっきとは違う短い声をあげた。


「そろそろかな。次の痛みなくなったら、部屋移るから」そう言って看護師はまた出て行った。


「もう。むり」


 姉の首には藻のような髪の毛が何本も絡みついていた。


「もう、むりなんだって」


 声は天井を突き破り、遠くまで伸びていった。すべてを覆いつくす叫びはどこまでも広がり、大きくまわりながら泳いでいった。


 姉の顔が濡れていた。

 汗か涙かわからないもので光り、ぬぐわれることもなかった。口から流れるよだれがシーツと顔との間に糸をひき、大きく波うっていた。垂れおちる水で、みんな溺れてしまいそうだった。


「おねえちゃん」


 背中をさすったが姉は何も言わなかった。廊下をバタバタと走る子供の足音が聞こえた。未来の音だと思った。


「おねえちゃん」


 うめき声だけが伸びていった。


 死んでいった人を思った。そして姉の腹のなかの赤ん坊を思った。


 産まれてこい。流れに逆らい、這ってくる赤ん坊を思った。


 産まれてこい。

 産まれて、そして、遠くまで泳いでいけ。


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