異世界へ降り立つ
ふわっと穏やかな風が、全身を柔らかく包み込み、撫でるように吹き抜けてゆく。鳥が囀る。土の匂い、草花の香り。ほんのりと身体が暖かく、時折瞼の向こうで、ちかっ、ちかっと明かりが差す。陽の光だろうか。
う、うぅ……ん……。
目を開けると、まだ少し視界が霞んでいる。
頭上には葉が茂り、風が通ると揺れ動き、その隙間を縫って空から木漏れ日が舞い降りてくる。
どうやら木陰にいたらしい。いつの間にか気を失っていたようだ。どのくらいの時間が経ったのだろう。
ゆっくりと上体を起こすと、ガンガンと頭痛が響き、堪らず額を押さえた。
……俺は一体、何をしてたんだっけか?
立ち上がろうとするも、乗り物酔いでもしたかの如く身体がやけに重くふらつく。
優しく吹く風と柔らかな陽だまりが介抱でもしてくれているかのような快適感を与えてくれる。再び寝転がり、軽く周辺を見回した。
気持ちのいい天気、広大な草原。もう少し、休んでいようかな……。そう、なんたってこんなにも気候のいい草原。……草げ――――。
「――――って⁉︎ いやここ何処ォォォォォォ⁉︎」
すぐさま起き上がり、もう一度よくぐるりと辺り一帯を見渡す。
どうやら俺は今、草原のような場所の割と小さな木の下にいるようだ。何が起きているのか理解できずに、しばらくその場で呆然とする――――。
「…………そうか」
未だに痛む頭で、朧げな記憶を喚起する。
修学旅行中、乗っていたバスが崖から落ちて……それで――――。
「――んだああぁぁぁぁ⁉︎ そうだ! あんの悪魔女ぁぁぁぁ!」
悪魔のような装いをした彼女は天使と名乗り、天使なのだと思った矢先、やはり悪魔だった。しかもどういう訳か、俺が旅館の部屋から投げ捨てたパンツに描かれていたそれだったのだ。何が天ちゃんだ。とんだ天使天使詐欺じゃないか。
夢じゃないよな、とベタだが頰をつねるも……うん、痛い。
しかし夢ではないのだとしたら、あの悪魔女が言っていた通り、ここは本当に異世界なのだろうか。真偽のほどは分からないが、差し当たって状況を確認しなければ。
立ち上がり、周囲を探索する。気が付けば頭の痛みは既に消えていた。
一帯を数十メートルほど歩み進んだところで、俺は思わず声を失い固まってしまった。
「――んなっ⁉︎」
何と眼下には、周りを外壁で囲われた街があった。ここは、あの街の外れにある小高い丘の上らしい。どう見ても日本ではないことは確かだ。が、これだけでここが異世界だと決め付けるには、まだ判断材料が少ない。
「……よし。取り敢えずあの街まで行ってみるか」
このままここに立ち尽くしていても何も変わらないだろう。まずは、情報を得なければ。
俺は丘を下り、街を目指して歩き始めた。
二十分ほど歩いただろうか。ようやく街外れに辿り着いた。
街を取り囲む外壁には、まるで長い間放置されている空き家のように、壁一面が蔦に覆われいた。唯一、蔓延っていない場所があり、そこは大きな門になっていた。その前には、片手に槍を持った、恐らく門番だと思われる二人が佇んでいた。
中に入れるのか不安だったが、ここ以外に情報を仕入れることのできそうな所が他にない。意を決して歩み寄る。
「あ、あのー。ちょっといいですか?」
無精髭を生やした中年の門兵らしき男に、顔色を窺いながら訪ねた。
「ん? 何だい?」
「街の中に入りたいんですけど……」
「この街には何をしに?」
中年の門兵は訝しむように片眉を吊り上げた。
目的を問われる可能性は何となく予想はしていたが、何と答えるべきなのだろうか……。
しばらく考えた結果、旅の途中、というありきたりなことしか思い付かず、そう告げる。掘り下げられると少々キツい。そのまま流してくれることを心中そっと願うばかり。
「旅の……ね。何処から?」
やはり訊かれてしまった。こうなったら全てはぐらかしつつ、やり過ごすしかあるまい。
「と、遠い所から……」
「遠い所って?」
中年の門兵は目を細め、疑いの眼差しを向けてくる。言葉に詰まっていると、その眼光はさらに鋭くなる。その威圧感に圧倒され、思わず萎縮してしまっていると。
「君……何だかん怪しいね――」
中年の門兵は、手に持った槍を徐に構え、一歩踏み出した。
やばい! これはどう見てもやばいぃぃ! ここは一旦、引いた方がいいのだろうか!? 手には尋常ではない量の汗をかいていた。
「――なんつって!」
中年の門兵は歯を剥き出して笑い、構えた槍を下ろした。
……は?
状況を読めず唖然とする俺のことなど気にする素振りなんて微塵もなさそうに、大口を開けて笑ったのちに、先ほどまでの雰囲気とは一変し、妙に軽い口調になっていた。
「いやー。こういうシリアスっぽいの一回やってみたかったんだよねー!」
え、マジで何なのこいつ。
「えっ……と。これは入ってもいいんですか、ね?」
「ん? ああ、そうだったね。いいよいいよ。こんな辺鄙な街にやばい奴なんて早々来ないから退屈でさあ。一回こういうのやってみたかったんだよね」
よし、取り敢えずこいつには、後でケツにその槍をぶっ刺してやろう。睥睨しつつ脇を通り扉の前へと足を運ぶ。
「ようこそ。《マリーハジ》へ!」
街の外と内を隔てるその重厚な扉は、割と軽い感じで開かれた。