責任の分配
東京大学名誉教授である松本三和夫さんが、「責任の適切な分配」の必要を主張している。
私が負わなければならない責任はそう重くはないかもしれない。
責任は決断との因果関係ののちに現れるものであり、当時の原発政策に私がどれだけ影響できたといえば、それは限りなくゼロに近かったからである。
だが、それは決してゼロではない。
私にも、自分が誤った見解を持っていたという責任があり、時にそれを口にしていた(論文などにはしなかったが)ということは、まさに罪悪であると感じざるを得ないのである。
そこで贖罪ということを考えなければならないわけであるが、何しろ自分の原発問題に対する罪科が、問題への無知と誤った見解にあるのだとすると、またぞろ自分が誤ったことを言って、問題を紛糾させる可能性のほうが高いように思われてならないのである。
福島第一原発事故以後に事後的にこの事件について言及することは比較的たやすい。
だが、現在進行形の問題、たとえば、原発周辺における低レベル放射線の人体への影響評価などは、正直言って私の手に余る問題であるし、すでに2011年以前に「前科」を持つ私が、生産的な発言をできる自信がない。
「3・11以後~は」と言って何か発言を始める人は多いが、この紋切り型の文句を見るたびに、自分の「3・11以前」をおもわずにはいられない。
リアルタイムの問題にリアルタイムで発言する能力も権利も自分にあるのか、自問自答せざるを得ないのである。
また、福島第一原発事故以降になって、急に原発や放射能のリスクなどについて発言するようになった人が多いが、その人たちは、この事故以前いったい何をしていたのだろう?といぶかしく思うことがある。
あらゆる人が原子力発電に関心を持っているべきだなどとは思わないが、1995年以降だけでも、東海村核関連施設火災、JCO臨界事故、東電事故隠し、美浜原発パイプ破断事故等、原発について関心を持つ機会はいくらでもあったのではないか?一番怖いのは、際限なく増える核のリスクとともに、恐ろしいまでの無関心と無責任ではないかと思うのだが、いかがだろうか。
2018年に原発事故を自分の経験とともにふり返りて詠める
限りなく 誤りたるを 省みて 贖うのみぞ 力なきわれ
(完結)