小出裕章先生
YouTube上に2014年10月23日の「『未来を担う子どもたちへ』 小出裕章氏よりのメッセージ」という映像があり、京都大学原子炉実験所で研究者生涯を助手・助教として勤めた小出裕章さんの子供に対するお話しが聞ける。
もう周知のことだが、数年前小出助教は京大を退職された。
一生助手・助教である。
研究者生命をかけて原発を止めようとしてきたのであるが、それなのに、2011年の福島第一原発事故以来、積極的に発言をしてきたにもかかわらず事故終息のめどが全く立っていないことを真摯に反省し、子供たちに謝罪と提言をしている。
提言の内容には種々意見あろうが、謝罪と反省という態度はまっとうなものしか言いようがない。
彼は心血を注いで反原発の立場から活動を続けてきたのであるが、それでも事故の抑止やその後の対策に無力であったことを告白し、責任を感じる姿勢には頭が下がる。
今からここに書こうとすることは、私(児島)の福島原発事故に対する自己反省の弁である。
既に別のところで似たことは書いたのだが、公には発表していない。
私が小出先生と初めて会ったのは、2000年あたりのことである。
当時京大に所属していた藤村陽先生と小出先生が放射性廃棄物の処分方法を巡って対談するというので、京都市内の会場に出かけたのである。
当時、JCO臨界事故は起きていたから、すでに原発の安全性には私を含め多くの人が疑問を持っていた。
この当時小出先生は非常に明るく、人付き合いのしやすい感じの方だったことを記憶している。
こんなことを言っていた。
「私が原発に反対したころには、狂人扱いでしたからねえ。今になってこうして多くのかたが集まってこられるようになったのは時代が変わったんですね」
この感じは、私が先生に最後にあった2009年あたりまでは続いていた。
上述のYouTube上の映像を見ると小出先生は幾分かやつれ、老け込んだ印象がするがこれは、2011年以降の傾向である。
YouTube上では、小出先生の映像を他にも見ることができるが、元気なく疲れた印象は原発を止めることに生涯をかけてきた先生がそれを果たせなかった無念を感じさせ痛々しい。
私は、フロアから、小出先生になにがしか質問をし、対談が終わった後、小出先生に話しかけ、すぐに打ち解けることができた。
だがこの点が痛恨なのだが、どういうわけか当時先生たちいわゆる熊取6人衆が主宰していた原子力安全研究グループについて、聞きそびれていたように思う。
ここでこのことを聞いていたのなら、私は河川工学についてではなく原発について博士論文を書いていたかもしれない。
何しろ小出先生の親切さ加減と言ったら、尋常なものではなかったし、原子力安全研究グループの開放度も最高のものであった。
研究者クラスの人から、一般の子連れのお母さんまで来ていた研究会である。
こんな感じである。
小島「あのう、熊取には実験用原子炉がありますよね。あれって私のようなものでも見学できるのでしょうか?」。
小出「ああ、いいですよ、お見せいたします。いつでもお越しください」。
私のような、当時修士に入りたてのペーペーな若造にも笑顔で親切対応なのである。