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ぷぅーんぅう……。
と耳障りな羽音が、僕の眼を醒まさせた。薄暗闇の僕の部屋で、姿の見えないものが飛んでいた。
昼間は浩太が狙われたけれど、今は僕が狙われた。人が寝ていようがお構いなし。いや、その方が反撃されないから、むしろ狙っているのかもしれない。
もちろん、蚊だ。
わざわざ耳元を飛び回って、うるさいったらありゃしない。パァン、とやっつけられたらいいんだけれども、捕まえようとするとフッと見えなくなってしまうものだから厄介だ。
出て来られたら困るけれど、出て来ても忍んでいるから面倒くさい。悪い奴はすぐにやっつけられればいいのに、悪い奴ほど隠れるのが上手いらしい。
僕は自分で捕まえることを諦めて、ベッドから出て殺虫スプレーを探した。でもいつものリビングにはなかった。お母さんが隠したのかも知れない。だけど、お母さんたちの寝室に入れば、怒られる。蚊がうるさくっても、いいから寝なさい、って言われる。
理不尽だ。僕は自分でなんとかしなくちゃいけなかった。
「やっぱり、我慢して眠るしかないのかなぁ……」しぶしぶベッドに戻るけれども、蚊の羽音は止まない。「もううるさいッ! 眠れないし、痒い!」
僕は頭を掻きむしって、ホトホト困り果てた。きっとこう言う時、仮面ブシドーは、お母さんとは違って僕の話を聞いてくれて、それで蚊をやっつけてくれるはずだ。だけど仮面ブシドーがここに来てくれるなんて……。
そんなことをつらつら考えていたら、蚊を気にしなくなったのか、それともようやくどこかへ行ってくれたのか、僕はウトウトしはじめた。だけど……、
ぷぅーんぅう……。
ぷぅーんぅう……。
「ああッ! もうすぐで眠れそうだったのにッ!」
僕は布団を跳ね上げた。すると、
――巨大な蚊がいた。
「え……」あんまりの衝撃に、僕の眼が点になった。
だけど見間違いじゃない。僕の身体の半分はあるんじゃあないかって大きな虫は、仮面ブシドーに出て来る怪人に負けないくらいの怪物だった。
「うわぁあああッ!」
あらん限りの声で叫んだ。それでお母さんお父さんが飛び起きて、助けに来てくれれば良かった。だけど、お母さんもお父さんもやっては来なかった。
どうして?
なんで?
お母さんもお父さんも、浩太の方が大事なの?
絶望的な気持ちで僕はモコモコとした布団の上を、足を取られそうになり、よろめきながらも逃げた。だけど、耳障りで強烈な羽音は、まるで夜空の月のように僕に張りついて、どこまでも追いかけて来た。
ぷぅーんぅう……。ぷぅーんぅう……。
だくだくと汗が流れ、額に髪の毛が張り付いた。
なんで?
なにが起こったんだ?
僕は、なにか悪いことをしたの?
たしかにお母さんに隠れて録画を見た。浩太をずっと見ていなくって、蚊に刺された。だけど、それは仕方のないことなんじゃないだろうか?
まるで目覚ましのアラームのような凄まじい音が、着かず離れずしていた。巨大な蚊は、僕で遊んでいるように思えた。だけど振り向けば、注射器のお化けみたいな鋭い口はずっと僕に狙いを定めていて、なにも考えていないような虫の眼には、ありありと僕が映っていた。
うぅううう……。
歯の根が鳴って、叫び出したい衝動に駆られた。いいや、もう叫んでいた。泣いた。泣いて、ふるえた。だけどがむしゃらに足を動かし続けた。どこまででも広がっているんじゃないかって思える布団の上を、僕は一心不乱に走り続けた。
きっとこれは夢なんだと思う。子供でも、これが現実に起こるはずのないことだってわかる。布団がこんなにも大きいわけはないし、蚊がそんなにも大きいはずもない。これだけ泣き喚いて、お母さんたちが起きないのもおかしい。
届きそうもない天井は普段よりもあまりにも遠くって、僕は小さくなっているらしかった。
夢なら醒めればいい。
夢ならあの蚊に捕まっても大丈夫。
だけど、あんな怪物に捕まるだなんて、夢でも御免だ。それに、汗だくになって重たくなって行く身体は、どうにも、これが夢だってことを拒否していた。
と、唐突に僕は足踏みした。
「崖……」
じゃない。
ベッドの端だ。
だけど小さくなっている僕には、まさしく崖だった。お母さんの見るサスペンスドラマの最後に出て来るような、ざぶーんざぶーんと波しぶきがあがるような。だけどこの崖の下に広がっているものは、荒々しくうねり、白い泡を立てる、怖ろしい海じゃあなくって、それよりも恐い、底知れない闇だった。
怖さとしては巨大な蚊とどっこいだ。いや、下手をすれば、こっちの方が怖いかもしれない。蚊に捕まればあの注射器のお化けでちゅうちゅう血を吸われて干からびてしまう。だけどこの下の闇は、飛び込んだらずぶずぶと骨まで腐ってしまいそうな、そうじゃなかったら、蚊よりも恐いものが潜んでいそうな、そんな予感がした。
ぷぅうううーん。
嘲笑うような蚊の羽音。僕は急いで右にカクンと折れて、布団の崖、ベッドの縁に沿って駆け出した。次の崖の縁にぶつかったら、また方向転換をするだろう。だけどそんなんじゃあ、いつまでたっても逃げ出せないし、埒が明かない。
広くわだかまる闇に浮かんだこのベッドは、僕を閉じ込める無人島のようだった。僕は蚊に捕まえられるまで逃げ回ることはできるけれども、蚊に捕まって殺されるか、自分からその闇に身を投げるしかない。
どっちにせよ、僕は死ぬしかない。
「うぅ、うぁあああ……」
僕はやたらめったらに走り回った。自分がどっちからやって来て、どっちへ行こうとしているのかもわからなくなった。モコモコとした布団の地面を必死で蹴って、どうしたらいいかもわからず蚊から逃げ回る。誰も助けに来てはくれない。
絶望だった。
「あッ……」
そう思った瞬間、僕は転んでいた。
モコモコした布団は痛くなかった。だけど、その衝撃は 本物だった。
ぷぅーんぅう……。ぷぅーんぅう……。
蚊の羽音が嬉しそうな響きで僕の背後に迫った。ギギギギギ、と軋む音が聞こえて来そうなくらいに力が入って首を曲げれば、
「あッ、あぁあああ……」
蟲の眼に僕が映っていた。馬鹿でっかい口の注射器が、薄闇の中でギラギラと光るようにして、僕を狙っていた。
「やだ、やだよぉ……。うぅ、うぁあああ……」僕はボロボロと泣いてしまった。
ぷぅーんぅう……。
機械音じみた蚊の羽音が、恐怖をさらに煽る。
「助けて、助けてよォ……。お母さん、お父さん。僕、良い子になるから……。仮面ブシドーの録画を隠れて見たりしないし、浩太のことも守るからァ……」
僕は必死でお願いした。神さまなんているのか分からないけれども、お願いして、叫んだ。
「助けて! 仮面ブシドーッ!」
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