箱の中
相田に初めての出張命令が下って二週間が過ぎた。
明日が出張の日当日であり、新幹線に乗って東京まで行くことになっている。
相田が上司の海部から呼び出されたのは退社直前のことだった。
まるで見計らったかのようなタイミングだったが、呼び出しの目的は明日の出張のことであろうと予測がつくため特に苛立つ気持ちもなかった。むしろ相田を気遣って声をかけようとしてくれている海部に感謝しているほどだった。
海部は仕事のできる男だ。容姿も優れているし、面倒見がよくて性格も温厚、たくさんの人に慕われている。
相田からみても、海部はあこがれの存在であり、そんな人物から気遣いを受けるというのはうれしいことだった。
相田は先ほどまで仕事をしていたデスクを離れて海部の待つデスクにたどり着くと、海部はそれまでしていた貧乏ゆすりを抑える。
せわしなく鳴っていた床と靴との接触音の終わりは会話の始まりを促した。
「お呼びと伺ったのですが、どういった御用でしょうか?」
「明日の出張の件で少し話があるんだ」
予想していた言葉とおおむね重なることがうれしくて、相田は内心で少しだけ笑った。
話はそれで終わるはずがなく、海部は続きの言葉を発する。
「まず、初めての出張になると思うがあまり緊張しすぎないようにして頑張って。それから、これはただの頼み事なんだが、向こうにいる知人に渡してほしいものがある」
海部はデスクの中から何やら包みを取り出してこちらに差し出してきた。
包みは一辺十センチほどの立方体で、桜色のかわいらしい布で包まれている。
「失礼ですが、こういったものは宅急便なりで海部さんから直接送られたほうがよろしいのではないでしょうか?」
「そういうことができないものなんだ。別に壊れやすいものが入っているだとか、そういうわけではないんだけれど、なんていうんだろう…」
海部は言葉を途切れさせ、少し考えた後で言った。
「無機質な業者任せではなくて、知っている人の手から渡した方がいいものってあるだろう? 例えばバレンタインデーのチョコレートだとか、借りていたものだとか。もらう側の気分を害さないような配慮をしなくてはいけない、そういうものが入っているんだよ。その箱の中には」
「ああ、もちろんお礼はさせてもらうよ。さっき言った知人だけど、飲食店を経営していてね、届け物をしてもらったら私のおごりで飲食できるようにお願いしておくから」
相田は箱の中身を知らずに届け物をするということに少なからず抵抗を感じたが、おそらく海部にとって踏み込んできてほしくない話題であるのをなんとなく察して、あえて中身を聞かずに依頼を請け負った。
そのあと、彼らは少しだけ世間話をした。
他愛のない会話の中で、相田が驚いたのが、海部が結婚するという話だった。
相田としては、逆にこれまで結婚していなかったことにも驚いたのだが、海部が自分にプライベートのことを話すことはこれまでなかったため、驚きと同時に喜びを感じたので印象付けられて頭から離れなかった。
荷物の準備中、どうしても気になって箱を振ってみたものの、カラカラ、と音がするばかりで郵送で運べないような大事なものが入っているようには思えなかった。
海部と話した翌日、相田は一人で新幹線を待っている。
まるで相田の初出張を祝福するかのような快晴は真夏の気候では呪いでしかなく、新幹線が到着するなりクーラー欲しさに慌ただしく乗り込んだ。
チケットに書かれた通りの席にたどり着くと、相田は目を閉じた。
どれほどの時間そうしていたのかわからないが、次に目を開いた時には目的地までちょうど真ん中あたりの駅だった。
車両に乗り込んできた男がきょろきょろと周りを見渡して席を探しているのが見えた。
汚げな茶色いシャツを着た初老の男だ。白の混じった髭も髪もぼさぼさに伸ばしている。
別段混雑しているわけでもないので適当に座ればいいのになどと相田が思っていると、男は相田のいる方に向って歩いてきて、相田が座っている2人席の通路側に座り、そのお世辞にもきれいとは言えない顔で相田に屈託なく微笑みかけた。彼の歯の抜けた向こうからは饐えたような土気色の匂いがした。
それからの数時間は相田はとても不愉快に感じていた。しかしながら、それを表には全く出さずむしろ好意的に装って相田はその老人といくつか言葉を交わした。
他愛もない世間話だった。新幹線を降りる頃には何を話したかよく覚えていなかった。
目的地に着いて、フォームに漂う空気を肺にいっぱいに吸い込んで、相田は心地のいい、解放感によく似た気分を味わっていた。
結局、男が相田の隣に座ってから東京に着くまでの二時間で、相田と彼は数回言葉を交わした。
やれ今日の天気がどうだとか、これからお互いどこへ何をしに行くのか、などありきたりの他愛のない会話をした。
しかしながら、その間にも相田にとって彼はあまり心地の良い存在ではなかった。
相田の感じている解放感は、長い新幹線の窮屈から抜け出したこと、あの男から離れたことから来ている、思った。
その後相田は何事もなく無事に東京での仕事をこなした。
全ての仕事を終えた後、海部に報告すると彼は例の届け物のことを気にしていたので、相田は忘れてないことを強調して伝えた。
相田が仕事場のあったビルから出ると空はすっかり暗くなっている。
それでもさみしさや静かさを感じさせない光の強さ、そこには大都会東京の力強さが見える。
街は昼夜の境を忘れて馬鹿みたいに騒いでいるような気がして、相田としては自分とは全く相いれないものを見た気持ちになった。
ほんの少しだけ、さっさとホテルに宿泊したいと思ったが、相田には海部から依頼された仕事が残っているためそういうわけにもいかないと観念して目的地へと歩を進めた。
やがて海部から指定された小料理店にたどり着く。
もうすでに日は落ちているのにcloseの札がかかっているのを見て、相田は引き返そうかと考えたが、店の中は明かりがついているようだったので、届け物を渡すだけでもと思って戸を引いた。
その店は、外観からはわからなかったが、ずいぶん新しいようで、とてもきれいだった。
カウンター席とテーブル席があるが、カウンター席の奥にはキッチンがあって、そこには店の人間と思わしき女が立っていた。
つやのあるまっすぐな黒髪をポニーテールにして白の三角巾をかぶって、白のエプロン(割烹着かもしれない)を着ているその女は、年のころは30代前半とみられる端正な顔立ちの美人だった。
女は驚いた顔をしてこちらを見て、何事か用があるのか相田に尋ねた。
「実は海部さんから届け物をしてほしいと言われておりまして」
例の桜色の包みをカバンから取り出して、その女に見せた。
女は少しだけ驚いた顔をしたあと、残念そうな顔をした。
その表情は何か良くない知らせをもらったように相田には見えた。
「ありがとうございます。海部さんからは聞いています。粗末な料理ですが楽しんでいただけると幸いです」
そう言うと彼女はキッチンで料理を作り始めた。
相田はそのまま彼女に礼を軽く述べてそのままカウンター席の一番端に座った。
焼ける肉のにおいや、野菜のにおい、調味料のにおいが漂ってきて、相田はこれまであまり感じていなかった食欲がふくれあがるような気分になる。
相田は近くにあった水差しで、自分用に出されたコップに水を注ぐとそれを一気に飲み干す。
それを見た女ははっとした表情になって相田から飲み物の注文を受けた。
一連の彼女の様子を見て、相田は彼女が海部に対して何やら恋愛感情かそれに近しい何かを抱えていたのではないかと邪推した。
彼女の動揺や表情はそう邪推するのに十分なものだった。
一品目がふるまわれたのは、先に注文して飲んでいたビールが空になるころだった。
ついでにビールのお代わりを頼もうとしたとき、不意に相田には彼女の手が目についた。
皿から左手が離れる一瞬、彼女の左手、相田にはその小指が異常に短く見えた。
相田の視線に気づいた女はうつむきながら短い小指をさすった。
「昔いろいろとあって、わたし、小指の先がないんです。」
「そうですか。不躾に見てしまってすみませんでした」
頭を下げて謝る相田に彼女はやめてくれと身振りで示しながら言った。
「どうかお気になさらないでください。今晩はわたしがおもてなしさせていただかなければいけませんから」
それから、少しだけ気まずい雰囲気になってしまったのを察した相田は、この状況を打開せんと彼女に軽めの話題を振ろうと努力した。
本当に他愛のない話だ。今日の最高気温が何度だっただとか、自分の住んでいるところはどんなところだとか、出身はどこだとかそんな話をした。
できるだけ海部という爆弾に触れないように、彼女の左手に目を向けないように注意を払って話をした。
このころには相田は彼女を店主さん、彼女は相田を相田さんと呼ぶようになっていた。
最後の料理を出し終えて、彼女も相田といっしょになって酒を飲んだ。
彼女は酒に弱かった。相田が4杯目を飲み終えたころ、彼女は1杯飲み切れずにいたが、それでも顔は真っ赤になって、話の中で所々噛んでいた。
酒が回って注意が緩くなってしまった相田は、ついに好奇心に耐えきれなくて海部の話を振ってしまった。
「店主さんは海部さんとどこで知り合われたんですか?」
「え~っと、わたしが前に働いてたところの常連だったんですよ~」
酒が回った女はその真っ赤になった顔で、表情を変えずに答えた。
相田は聞いた後になって、自分がミスを犯したことに気が付いたがここで止めるとかえって不自然になると考えてあえて止めずに話をつづけた。
「そうなんですか、どういうご関係だったか聞いても?」
「もう、相田さんが思っていらっしゃるような関係ではないですよ~」
その言葉を聞いた相田は、包みを受け取った時のあの寂しそうな表情の正体は何だったのか気になったが、それを聞くのはなんとなくはばかられた。
「相田さん、雑学とかって興味がおありですか?」
相田はこくりと首を縦に振って、そのあとビールをもう一杯頼んだ。
「よく飲まれますね…。飲みすぎてしまわれないように気を付けてくださいね」
店側の者からは言わないであろう苦言を聞き入れて、それにも首で返事をした。
「それで、雑学の話をしてくれるのでは?」
「すみません、うっかり忘れていました」
苦笑いを浮かべた彼女は咳払いをして雰囲気を改め、まるで怖い話をし始めるかのように話し始める。
「指切りげんまんの歌はご存知ですよね。その由来ってご存知ですか?」
相田は首を横に振った。
「では、それについてお話しましょう」
少し間を置いた、怖い話独特の語り出しだ。女が相田と目を合わせる。吸い付くように相田が彼女の目を見て、ようやく彼女は本題を語る。
「昔、江戸時代に遊郭で働いていた女性が意中の男性に自分が本気であると示す方法がいくつかありました。その一つが指切りです。遊女は小指の第一関節から先を切って渡したそうです。これは他にもいくつかある遊女の本気を表す方法の中でも最も苦痛を伴うものであったため、最上級の覚悟のしるしとされたそうです。これが演劇で民衆に広まり、それが今日まで続く指切りの由来になったのではないか言われています」
少しばかり考えた。彼女はなぜ自分にそんな話をしたのか。
さっきの話と周囲とに何か符合するポイントがあるとすれば、女の小指が切れているということくらいである。
相田は不思議に思ってそのことを彼女に聞いた。しかし彼女はくすりと笑って「さあ」と話を濁した。
それから、2,3の雑学を彼女は披露した。
全て吉原などの遊郭、遊女の話で相田としてはあまり興味のない事柄だったので、聞き流しながら彼女の顔ばかり見ていた。
三つ目の雑学を聞き終えて、終電の時間が迫っていることに相田は気が付く。
話もきりがよかったのでそこで切り上げようと彼女に告げると、分かりました、とほほ笑んだ。
クーラーの効いていた店から出ると、むわっとした湿気に襲われた。
さほど気温は高くなかったが、相田はそれでも不快だった。
店を出るところまでついてきた彼女に、相田は最後に質問をした。
なんとなく気にかかっていたが、ついぞ聞くことのできなかった質問を。
「そういえば、あのお渡ししたあの包みには何が入っていたんですか?どうにも軽くて硬いものらしいとはわかるんですがそれ以外はさっぱりで」
彼女は先のなくなった左手の小指をさすりながら、寂しそうに、でも冷たく、にっこり笑って
「さあ」
といった。
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新幹線の描写は立場が違いますが比喩です。不必要な場面ではありません。