赤の女王
大変お待たせいたしました。
友人からの感想で、前章について魔族の男が奇襲してきた割にあっさり帰っていた理由が不明瞭だという指摘を受けましたので、彼との戦闘の詳しい結果を整理するシーンを前章に追加しました。
また、なろうの感想欄にて、この章を読んでいて混乱する部分があったとのご報告を戴きましたので、そちらも修整いたしました。具体的な修整箇所についてはこの章の最後に記載いたします。
「やられたねえ。若人の前で、格好悪いところを見せちゃったな」
「申し訳ございません、我らが王。この戦況で目標を討つのは困難と判断し、撃退を優先してしまいました」
「いやいや、仕方ないよ。俺もヘマして怪我しちゃったし、深追いしない方がいい」
俺とシキとムジカで広間に残っていた屍兵の群れ全てを漸く片づけ、遅まきに駆けつけてきたこの砦の兵士らが被害確認の為に再び散らばっていったり、近衛達の遺品を回収する作業にかかったりしている姿を眺めていると、太秦とルーチェさんの二人がそんな会話をしているのに気づいた。
「今からでも、戦える人員だけであの男を追撃しに行く訳にはいかないのか? あいつ自身がしてきたように、転移の痕を辿って行けばまだ追いつけるだろ」
今回は護らなければならない者が傍にいたまま奇襲を受けた為に不覚を取ったが、こちらから逆に奇襲を仕掛ける前提なら、戦力の頭数は足りているのではないか。
そう思って一応尋ねてみると、二人は気まずい表情で顔を見合わせた。隣を見るとムジカも獣人の耳や尻尾を伏せて項垂れている。カンセーは俺と同じように詳しい事情を呑み込めていない風だったが、シキはある程度事情を把握していて、その上で努めて自分の心境を表に出さないつもりでいるようだ。どうやら、それが出来ない理由が何かあるらしい。
「いやそれがね……ルーチェ君、話してもいいかい」
「では私から。オーギ殿、今回撃退した魔族は、幸いにして上手く自分にとっての不利を信じ込んでくれたようだが、実際の状況はそうではなく、反対にこちら側が不利だったのだ」
「実はこちらの方が不利だった? 何か、はったりでも仕掛けていたのか」
「そうだな、はったりだ。まず第一に、憂羅我と言ったか、あの魔族の男は貴殿と同様にステータスが重なり合っていて、私の魔術でも解析することが出来なかった。解析はしたが、正しく読み取れなかった、と言うべきか。恐らく彼奴が、心臓や、他の部位に元々の彼奴の身体とは異なる存在を仕込んでいた影響だろう。解析が出来なければ改竄も施せない。つまり、これについては彼奴自身も気づいていなかったようだが、私が言っていたように彼奴のステータスに余人が外部から干渉するような真似は、本当は不可能だったということだ」
「なるほど。それが第一ということは?」
「もう一つ、相手の誤解を誘っていた。私は改竄魔術によって王の腕を治してみせたが……完全には治せていないのだ。正確には改竄魔術の効果が続いている間しか、王の腕が治っている状態を維持出来ない」
あと八○を数えるまでに、改竄魔術の効果時間が尽きて、王の腕は再び四散するだろう、とルーチェさんは無念そうに溢した。そういうことなら、もう少し早く俺に事情を話して欲しかった。いや、まだ手遅れにはなっていないか。ひとまずは太秦本人に話してみよう。あれこれ考えるのは俺ではなく本人にやらせればいい。
「そういうことだ、オーギ君。つまり今回はこちらの失点、よくて痛み分けというべきで……」
「太秦……太秦王。今からお前にとって少し酷な質問をするが、聞いてくれ」
「何だい。遠慮なく言ってみなよ」
「もし、お前が日本への里帰りを諦めれば、代わりに俺が利き腕を完全に治してやれると言ったら、どうする?」
眼を丸くする太秦に説明した。
「詳しい説明はこの際だから省くが、俺は誰かの生命を今いる世界に封印することで、その誰かの状態を固定化することが出来るようになっている。この場合は太秦正宗という生命をダルファニールに封印することで、利き腕がくっついている今の状態を固定化することになるな。世界そのものに生命を封印されたお前は不変となり、死ぬことも、状態を大きく損なわれることもなくなる。但し、この封印は完全に不可逆で、一度施せば二度と解除することは出来ない。それくらいの強度で封印しなければ成功しないからだ。それと今以上に強くなったり、召喚や転移の魔法陣でその世界から出ていったりすることも、二度と出来なくなる」
「確かにそれは、酷い話だねえ。念願の里帰りと剣の腕、選べるのは二つに一つか」
「ああ。悪いが両方は選べない。それでもどちらか一つは選べるけどな」
しかも、悠長に悩んでいる時間はない。ルーチェさんが先刻告げた制限時間も、もうあと半分程しか残っていない筈だからだ。
太秦は瞑目して数秒思案したあと、殆ど即答と言える形で決断を下した。その辺りは流石に一国の王ということだろうか。
「たった今無様に敗けたばかりの俺が言うのも何だけど、今の王国では、元英雄としての俺もなかなか代えが効かない貴重な戦力だ。少なくともいざという局面の為に確保しておく価値はあるね。ついでに死ぬ可能性を考慮しなくて済むようにもなれるというのなら尚更だな。里帰りが出来なくなるのは個人的に少しばかり残念ではあるが、ただ日本の物資や情報をこの国に運び込みたいだけなら、君達や部下の手を介せばそれで済む、か。国益を鑑みるなら、故郷を棄てて腕を拾う選択しかないね」
「お前はそれでいいのか。本当に」
「いいよ。結局、日本から君の身柄を拐かしたあの時点から、俺には二度と故郷の土を踏む資格がなかったということなんだろう。俺の封印、始めてくれ」
俺はこれで魂までも完璧に、ダルファニール人になれるという訳だ。太秦はそう言って乾いた笑みを浮かべた。
「そうか。お前がそう決めたなら、さっさと取りかかるぞ」
正直言って気分は最悪だったが、封印術の予備段階に入った。対称性のある五次元の図形を思い浮かべて、青紫の溶ける匂いと、過去に落ちる逆さ錘を付帯することで、魂への楔と為す。不定形で持続しない波紋を拾い上げ、それを虚数回繰り返し永さが真下に拡がっていく鎖を形作る。星の紛れと灰を嚥下した嬰児を殺してよく似た温度の砂塵を、右腕に。裏側に内観からの魔力と動的な観測点を統合すればそれで構わない。ここまででほぼ準備が終わった、意識の片隅で息を継ぐ。
再び集中し、仮定したずれに合わせたその揺らぎを着色。下弦の導きに従わず醸した歓楽と浮かび上がるように崩落させる。細部に不在神経の届かない粘滑さを聴き取っていく。展延する重さの循環機構。割断と散逸。刹那の迸り。収束。
この術は『虚ろ癒えぬ魂の牢獄』と名づけよう。術を終える間際に、そう思いついた。ベインヴェルベータの魔術師達が用いていた命名則に倣ったようで少し癪だが、もう連中の耳に入る可能性を気にする必要もないだろう。あいつらはもう、あの異世界の外部に干渉することは出来なくなっているのだから。
「成功だ。これでお前は、死ぬことも変質することもなく、恐らくは永劫にこのダルファニールという世界に縛りつけられることになった……お前がどれ程願っても、日本への帰還はもう在り得ない」
「望むところだ。ありがとうオーギ君。それにいつものことだけど、嫌な役割を負わせてしまったね。もし君がどうしても気に病んでしまうというのなら、また俺に日本からのお土産でも持って帰って来てよ」
いつもながら抜け目のないおっさんだ。俺と太秦はへらへらと力なく笑い合った。
そのとき、兵士の一人から被害状況を聞き取っていたムジカが、ルーチェさんに耳打ちした。二人が互いに頷き合って、太秦の前に進み出た。
「このようなお話の最中に恐縮ですが、主な被害について報告です。今回の人的被害は死亡者が二六名、うち王にお仕えの近衛方が一二名、非戦闘員が五名。重軽傷者は三名、こちらはいずれも非戦闘員です。屍術による汚染については現在も確認を続けていますが、行方が判らない者も含めて、今のところ新たな汚染者は見つかっておりません。物的被害は厩舎の騎乗動物四体以上が屍術汚染を受けていた為既に屠殺、内壁の二箇所に修復困難な程度の破損、食糧庫の一部が焼き打ち。それから触媒保管庫。その……転移魔術に必要となる触媒などが、丸ごと持ち去られていたそうです」
察するに。
俺達もまた、しばらくの間は日本に帰ることが出来なくなったらしい。
■ ■ ■
「私が聞かされてた話よりも、血なまぐさいことになっちゃったね……こうして犠牲が出るのなら、未来のお父さん達からもう少し細かい展開を聞いておけばよかったかな。娘の私を甘やかして、教えてくれなかった皆も悪いと思うけど」
異世界から来た三人の国賓を遇する為に用意された客室で、俺達は順番に今日の出来事を顧みていた。どうせ心中の蟠りを吐露するのなら、こういう反省会のような場を設けてすぐに済ませておいた方がいいと、ルーチェさんに教わったからだ。そして実際にルーチェさんが見抜いていた通り、俺達にはそれぞれ言いたいことが、気道につかえたようなもやもやがあった。
「お前、色々凄いな」
カンセーが喉から絞り出したような小声が、個室の空気を震わせて、滲んで消えていった。
何について言っているのだろう。太秦に対する俺の態度の大きさだろうか。おっさんという呼び方は流石に心の内側だけに留めていたが、他の兵士達の前でお前呼ばわりも確かに拙かったかもしれない。
「その様子だと伝わってないな。もっとはっきり言った方がいいのか……凄いと言うより、日常の感覚からやや常軌を逸しかけているように見えた。お前は、血が流れるような荒事の最中にあそこまで平静でいられる奴だったか? この一年半で、殆ど別人になってしまったような……少なくとも俺からは、そんな風に見えている」
ああ。そのことか。だったらそれは恐らく、ベインヴェルベータでの戦いを有利にする為に、俺自身の感情の多くを封印術によって保護していた名残だ。
周辺生物の感情を操作出来るヴェルジュライト族と戦うにあたって、俺は相対の妨げとなりうるような感情を自ら封印した。彼女達の女王と戦う直前などには、特に念入りに仕込んでいた覚えがある。戦闘行為そのものに必要なだけの感情と、日常生活に支障をきたさない程度の感情は出来る限り残したつもりだったが、しかし人間の心というものには明確な境界線が引かれている訳ではないし、俺の封印術に可視的でない概念を正確に指定して封印、解除出来る精度がある訳でもない。俺自身が自分の変化に気づけなくとも、かれこれ数年来の付き合いであるこの友人は強く違和を感じたのだろう。
これは俺のなかでは納得済みの代償だ。だが、カンセーが常人と今の俺との違いを指摘するような言葉の裏で、俺を心配してくれているのは判ったし、その気遣い自体はとても有難いことだと思った。
それくらいの感情は、俺にもまだある。
「俺は大丈夫だ。それより、お前の方こそいきなりこんな流血沙汰のさなかに放り込まれて肝を冷やしただろ。こちらの世界に来る前から予想されていたことだが、やはり危険な目に遭わせてしまったな。巻き込んで悪かった」
「……俺だって自分自身で選んでここに来たんだ。お前のせいとは全く思っていないから気にするな」
俺とカンセーはそれ以上、言葉を交わすことはなかった。今度は沈黙が部屋の空気を覆っていった。
「……はいはい! 実は今みたいな状況になったとき、オーギお父さんに伝えるように言われた話があります! 未来のお母さんから、今のお父さんへの伝言です!」
シキが突然、元気良く左手を挙げて宣言した。
本当に唐突だな。話題が変わるのは助かるんだが、一体どんな伝言だろうか。
「まあ、ともかく言ってみてくれ」
「では、こほん。えー、『初めまして、であります! 娘のカガリにかつての浪漫を大切にしろと言われましたので、まだ過去の師匠に名前は明かせませんが、自分は師匠がいずれ愛することになる未来の妻であります!』」
「……」
誰に似ているとは言わないが、それは結構良く出来た物真似だった。
「『まずはダルファニールに戻ってからの初めての戦闘、お疲れ様でありました! 師匠のことですから心中に憂いておられることも幾つかありましょうけれども、あまりお気になさらずともこちらの未来は概ね幸せな結末であります! 早速本題であります! 今師匠ご自身の御心にかかっている封印でありますが、実はすぐに解除してしまう方法が一つ存在するのであります!』」
「ちょっと待ってくれ。一旦。一旦、話の内容以外を精査する時間をくれ」
おい、嘘だろ……だってシキにはあいつの面影なんて全然見当たらないだろうが。面影どころか、どう見ても獣人と人間種族とのハーフには見えない。尻尾も獣耳もないし。
いや待て。未来のシキ、つまり転生前のカガリが人間種族だと誰が言った。カガリが未来で一度死んで、シキとして現代に生まれ変わったなら、肉体は当然持ち越されずに、別のものになったと考えるべきだ。つまり残念ながら現時点では、俺の脳裏をたった今よぎってしまった、心情的ににわかには受け容れ難いこの未来予想図を否定する材料が、一つもない?
まさか。だからって俺があんなちゃらんぽらんな弟子を伴侶に選ぶ訳がない。それともあいつのあまりの無鉄砲ぶりに、未来の俺はとうとう一生面倒を見る覚悟を決めてしまったのだろうか。或いは出来の悪い生徒程可愛いという、噂に聞く心理が働いて……駄目だ。考えれば考える程、只の可能性に過ぎない話がより現実味を帯びてくる。
絶対にないとは言い切れないところが、とにかく恐ろしい。
「なあ、それ、本当なのか? つまり俺があいつと……」
「『と、このように伝えればぬしは慌てふためくことじゃろう。妾の戯れじゃ、安心せい』」
膝から崩れ落ちそうになった。
■ ■ ■
「『先んじて説明しておくが、現在時点での――これはぬしにとっての、という意味じゃが――ぬしの精神に干渉しておるのは、ぬし自身が己に施しておった封印だけではない。現時点でのぬしは気づいておらん様子じゃったが、実は妾を初めとするヴェルジュライト一族の面々による感情操作の影響も、色濃く残っておる。妾の一族が揃ってぬしに封印されておる現時点でも尚、本人には認識出来んような深いところで干渉し続けておる。さながら後遺症の如くにな。ぬしが編み出した封印術を利用した防護の欠点は、ぬし自身が普段知覚しておらん深層意識下の感情を護り切れんことじゃ。それでも結果としてかつての妾を降したのじゃから、発想は悪くなかったと言えるがの。してそれらの解除方法じゃが、ここはぬし自身の腕に頼るばかりではなく、ぬしがその身体に封じておる現時点での妾に解除させれば良い。そちらの妾が同じ妾であるならば、ぬしがかけた封印の第一段階なぞとうに解除して、ぬしの内側で耳をそばだててこの妾の話を聞いておる筈じゃ。封印術が得意なぬしと、感情操作の権威たる妾の能力が合わされば、現時点でのぬしの精神を元通りに復調させるくらいは容易いことじゃろう。今回の伝言は以上じゃ、では妾を今後宜しく頼むぞ、愛する未来の婿様よ』」
ああ、この口調は。それに話の内容から推察しても、ほぼ間違いなくあの赤の女王の差し金だろう。ベインヴェルベータでは敵対していた上に彼女の同族を残らず封印してしまったのだから、彼女と和解するような未来だけはありえないと思っていたが、そうか。いつになるのかは知れないが、こんな冗談を言える程度には歩み寄ってくれるのか。
「なるほど、解除の手段については了解した。正直本当にあの女王が協力を引き受けてくれるのか、まだ信じられないところではあるが、その可能性が少しでもあるというなら誠心誠意頼み込んでみよう。それにしてもこんな長い伝言を、よく覚えていたな……一応訊いておくが、最後の一言も勿論只の冗談なんだよな?」
尋ねると、シキはにんまりと笑って、そのまま「今伝えるべき言葉はこれで全部伝えたよ」と言わんばかりに口を閉ざした。いや、何とか言えよ。怖いだろ。
……駄目だ。もう何を信じたらいいのか判らん。とりあえず、未来の結婚相手については保留して、忠告された通り俺自身の身体に封印した女王に頭を垂れて、対話を乞うてみるとするか。そもそも彼女が話し合いに応じてくれるとも思えないのだが、どの道それは俺ではなく、彼女が決めることだ。
「一応、俺は別室に移ってから女王と話をしてこよう。さっきの伝言が本当ならいずれ和解出来るとは言え、つい数日前までの俺は彼女にとって敵だったんだ。安全が確認される前に誰かの傍で彼女を解放するのは危なっかしい」
「判った。じゃあ私はその間に、カンセー君に簡単な魔術の基礎を教えておくね。いざというときに身を護る手段くらいは、あって損がない筈だから」
■ ■ ■
「あー阿呆くさい。下らなすぎて欠伸が出よるわ。折角妾がぬしにもバレんようにこっそり封印を解きほぐして、ぬしの窮地にかつての宿敵たる妾が割って入るような、最高に美味しいタイミングでの登場を図っておったというに、斯様な詰まらんネタバレをかましおって。しかも言うにこと欠いて、妾とぬしが仲良し家族計画じゃと? はっ、在り得んありえん。どうせそれも未来の妾によく似た誰ぞの戯れ言に決まっておるわ」
「その、何だ。仲良し家族計画とは言ってないんじゃないか……いや、そんなことはいいんだが」
異世界ベインヴェルベータの原生生物にして原住民たる、結晶生命体ヴェルジュライト族の長。紅蓮の楽園女王、カーネリアン・フランベルジュラック・ベインヴェルジュライトのふて腐れたような第一声が、これだった。
彼女は俺が誰もいない別室に一歩足を踏み入れるなり、物理的な封印を勝手に脱け出し、俺の肉体から跳び出して緋色の結晶に覆われたその矮躯を震わせ、肩をいからせて床に敷かれた絨毯の毛を踏み荒らし始めた。有体に言うと、地団駄を踏んで悔しがっていた。
そして前述の第一声である。異世界ベインヴェルベータでは敵同士だった為、蓋然的にあまり長々と話をするような機会はなかったのだが。ここダルファニールで再び顔を合わせたかつての宿敵は、想像していたよりもキャラが軽めだった。
おかしいな。決戦の場で対峙したときには、こんな見ためでもちゃんと強者の風格が感じられていたのに。こうして拗ねたように振舞っているところを眺めていると、まるで小柄な外見相応の少女のようだ。
さておき、この女王が本当に独力で俺の封印を緩めて外の情報を見聞きしていたのなら、本人の否定とは裏腹に、さっきの話の信憑性もやや増してくるように思えるな。そう思って女王に尋ねてみれば、俺達が京都で気楽な観光巡りをしていた頃には、彼女は既に視覚と聴覚とを復旧させ、封印の内側から外界の様子をこっそりと窺って、彼女自身にとって必要と思われる情報を慎重に集めていたと言う。当然、このダルファニールに到着して以後のやり取りについても、概ね総てを把握しているのだそうだ。果たして、精神の復旧に協力してくれるというのも真実なのだろうか。
「正体の知れない相手に勝手なことを言われた心中は察するが、女王ベインヴェルジュライト。俺の話を聞いてくれないだろうか」
「……その名で妾を呼んでくれるな。臣も領土も喪った今の妾は、ただのカーネリアンじゃ」
……そうだったな。しかもそれらを奪ったのは他でもない俺なのだから、俺が彼女を女王と呼ぶ資格はないか。
「じゃあ、カーネリアン。お前達の事情を全て知った上でそれでも敵対を続け、あまつさえ滅ぼした身で何をと思うだろうが、頼みたいことがある」
「ふん。ぬしも判っておるじゃろうが、今更ぬしに協力したところで妾には何の得もないぞ。ぬしがあの禄でもない侵略者の魔術師連中を密かに出し抜いて、妾の妹や臣下らを処分させず、ただ封印するのみに留めおいたことについては、なるほど妾も一抹の感謝を持たんでもない。窮地を救って恩を売ってやろうと思う程度にはな。じゃがそれはそれとして、ぬしが妾の治めていた国の仇であることも確かな事実じゃ。そんなぬしが、妾の決して軽くはない腰を上げさせるだけの手札を握っておるというのか?」
「当然、握っている。お前こそ、本当はそれくらい判っているんじゃないか」
「……妾を脅すか。ぬしも存外詰まらん男じゃな」
女王は軽く溜息を吐いて、紅い結晶の瞳で俺を見据えた。太秦と同じ、為政者の眼だ。
「そうじゃ。妾が求めるは人質の解放。ぬしがその身の内に所有しておる六振りの剣に今も封じられておる、妾の妹と臣下らへの能力解除じゃ。ぬしが切れる交渉の手札と言えばそれより他にあるまい。ぬしは妾の妹や臣下を開封し、解放する。その代わりに、妾はぬしの感情を修復し、回復させることに手を貸す。そういうことじゃろう?」
それでいい。未来の誰かは別に今すぐ女王と仲良くしなければならないとは言っていなかったし、まさか俺も一足飛びに心を開いて貰えるとは思っていない。今日の内に実現出来る協力関係はそんなところだろう。
「では、手始めに誰を解放する? 妾唯一の肉親にして妹たるオニキスにするか? 妾随一の腹心にして懐刀たるオブシディアンにするか? それとも侍従であり乳姉妹であるイリスか? ぬしは気が進まんかもしれんが、ヘリオドールにしてみるか? 決めかねると言うならば妾に委ねるというのも手ではないかのう。いっそ全員をこの場で解放しても、妾としては一向に構わんのじゃがな」
「いいや、最初に解放するのはお前一人だけだ、カーネリアン」
「ぐ」
今度は睨まれた。綺麗だと、的外れにもそんな感想を抱いてしまった。
「お前も自分の能力を完全に取り戻せた訳ではないだろう。物理的封印を独力で突破したとは言え、お前の固有能力にはまだまだ制限がかかっている筈だ。俺の精神を元通りに修復してもらう為にも、今後俺に協力してもらう為にも、まずはお前を万全の状態にした方が俺にとっても都合がいいしな」
「ほ、ほう。良いのか? 妾がへそを曲げてぬしの心を元に戻さなんだり、ぬしの暗殺を目論んだりするとは思わんのか」
「仮にも一国の長だった女が、まさかそんな小さい器の訳がないだろうと信じている。だから問題ない」
「けちな男は好かれんとも言うぞ? せめて先にもう一人くらい、外に出してくれてもいいんじゃないかの」
お前は一族の奴らから自分がどれだけ慕われていたか判っていないから、そういうことが言えるんだよ。お前を完全に解放する前に他の奴を自由になんかさせたら、俺が殺されるわ。能力さえ使わせなければ簡単に返り討ちに出来るとしても、お互いの立場から仕方なく戦っていた節があった以前とはまた違う、本気の怨恨をあの連中から向けられることになるだろう。ぞっとしない話だ。
「近い内にもう一人解放するとしても、それはお前のあとだ。カーネリアン」
「その言葉しかと聞いたぞ。では、妾がもう一働き為せば、けちなぬしでも宝物庫の扉に油を注すじゃろうか」
何のことかと思ったが、報酬を出し易い気分になるのではないかと言いたいらしい。翻訳魔術が上手く機能しないと、時々こういう変わった言い回しや聞き取りにくい言葉が出てくることがある。
「ふむ、妾が考えただけになかなかの名案じゃな。妾という戦力が加われば状況を覆すに容易いじゃろうし、それにこのままあの妾を騙る正体不明の言う通りにするのも業腹じゃ」
「何だ。何のことを言っている。話が見えないんだが」
「戦働きの話じゃよ。察するに、奪われた転移魔術の触媒とやらはそう易々と打ち棄てられる程こちらの世にありふれたものでもないのじゃろう? ならば奪い返せば良い。その奪還に妾も一枚噛んでしんぜようと言うのじゃ。九割九分はこちらの主力をおびき寄せる為に先方が仕組んだ罠と見たが、何の、妾とぬしが肩を並べて刃を揃えれば楽勝じゃろうて。ぬしの心を復旧する作業が終わったら、あのウズマサとかいう男に言って、招集をかけさせよ」
修正箇所:本文最終段落の前半「そして前述の第一声である ~ 果たして、精神の復旧に協力してくれるというのも真実なのだろうか」の間に、京都を発つ前の時点でカーネリアンが封印されたまま情報収集を始めていたことが判る文章と、主人公達の現在位置がダルファニールであることを明示している文章を挿入。
「俺の封印、そんな早くから破られかけてたのか……」と主人公は思ったそうな。