愛弟子
「師匠、師匠! 昨晩泊めていただいたシキ殿のお住まいは、師匠のいらっしゃるこのヨジョーハンよりも涼しい風が流れておりましたし、遅くに戴いたおゆはんは天にも昇る味わいでありましたし、浴場も寝所も清らかで、まるで華美を極めた楽園のようでありました! 自分は王国軍からニホン国国民への転属を希望いたします! オーシキ殿のご実家の子になるでありますよ!」
「おう、好きにしろ」
でもせめてその前に俺をダルファニールに送り届けろよ。お前の故郷を加勢しに行くんだからな?
翌日の朝。俺とカンセー、シキ、ムジカは再び四人集まって、狭い四畳半で車座になっていた。
ムジカはシキの招待を受けて黄鐘家の屋敷で一泊し、女子同士で更に仲良くなって二人一緒に俺とカンセーの下宿に帰ってきた。流石に、弟子とは言え女の子であるこいつをこの四畳半に泊めるのは物理的にも心理的にも厳しかったからな。シキには正直感謝している。黄鐘家は京都でも有数の名家で金持ちだから、さぞかしこの弟子を甘やかしてくれただろう。
でもよく考えたら、シキ、いやカガリはちゃっかり富豪の家の一人娘を狙って転生したんだな……そう考えると微妙な気分だ。未来の俺はちゃんと情操教育に参加したんだろうか。
「さあ、今日からはこのキョートの街を観光して回るであります。主な名所はシキ殿に教わりました、勿論師匠達が現在所属しておられる学府にも視察に行くであります!」
「大学はここから一番近いから、最初に見に行こうね。ムジカちゃん」
うきうきで市内地図を広げて覗き込むムジカとシキだった。二人とも妙にテンションが高い。カンセーが女子特有の空気に気圧されて、お茶を淹れに行ってしまった。
「さてはお前ら、昨日の夜あまり寝てないな? それは別にいいが、観光は今日の日没までだからな」
「おや、師匠はやはり、ダルファニールに戻られるおつもりで?」
先読みされた。まあ当然か。この弟子は阿呆だが、頭が切れない訳ではない。
「そのおつもりだ。俺も昼は一旦実家に帰るから、午前の間、大学と近場の名所くらいへは同行しよう。正午に俺だけ離脱、日没時にはこの部屋でまた合流だ。そのあと向こうの世界に発つ。俺とお前がダルファニールに戻れるだけの用意はしてあるよな?」
「それはまあ、自分もこちらの世界がこれ程に平和とは存じませんでしたから、いつでも撤退出来るよう観測機と数名分の触媒は持参して来ておりますが。しかし師匠、本当に宜しいので?」
「何がだ」
「自分は如何様にも構わないのでありますが。師匠は本当にあの戦場へ帰るお心積もりなのでありますか?」
ムジカは地図から顔を上げ、今度は俺の眼を真っ直ぐ覗き込んでいた。
眼を逸らすことは出来なかった。
「自分はほんの短い間しかこの世界を見ておりませんが。このサハーには、少なくとも魔族に怯えることなく心安らげる平和があり、飢えることなき豊かさがあり、少なくとも自分にとっては苦しみなど何一つないように見えました。自分には……このようなよい故郷を離れて、わざわざあの修羅の世界に再び向かわんとなさる師匠の御心が想像出来ません。師匠は本当に、本心からダルファニールへの帰還を望んでおられるのでありますか? 本当に? 本当の、本当に?」
俺の弟子は尚も俺の眼をじっと見ていた。俺は大きく息を吸った。
師匠らしさの見せどころだな。
「ああ、俺はダルファニールに戻るよ。あの世界にしか、お前達は生きていないからな」
「我々が、誰もそれを強制しなくともですか? むしろ英雄の助けなど最早無用だと言っても? このまま護衛たる自分に見守られて故郷の世界で安寧に生きていただくことが、現時点での本国の真意だとしても?」
「それでもだ。これは、俺自身の意志の問題だ」
「ダルファニールが既に滅びている、と言っても?」
「行くよ……滅びているのか?」
ムジカは頸を横に振った。この身振りの意味は王国でも変わらない。
「ならいいだろ。行くよ」
「……判りません」
ムジカは最後にもう一度そう呟いて、再び地図に顔を埋めた。シキがその隣で苦笑する。
「急な話で済まんな、折角仲良くなったのに」
「私はいいよ? こうなるのは判ってたからねー。というか、私としてはもう一度お父さんにダルファニールに行ってもらわないと困るんだよ。あの世界で英雄として活躍して、お母さんと結ばれて、私という子にその輝かしい思い出の日々を語ってもらわないと」
「……結局、お前の母親っていうのは誰なんだ? 現時点で結婚相手に心当たりがないんだが」
「それは秘密だねー。別に話してしまっても私が生まれる未来がなくなったりはしないんだけど、実はお母さんに口止めされてるんだ。もし昔のお父さんやお母さんに会っても、最後までネタバレは控えておきなさいって」
「ああ、まあ。身も蓋もなさすぎて色々駄目な感じになりそうだしな」
「それに私自身も、二度もあの女にお父さんを獲られるのは癪だからね! 二人の仲に協力するような真似は一切してあげないことにした!」
「何?」
「ふっふっふー。覚悟したまえよお父さん。この時代では私も色んな意味で参戦可能だから」
にんまりとシキが笑う。やだ、この娘怖い。
考えてみれば幾ら俺の昔話に憧れてたからって、若い頃の父親に会いにわざわざ転生してくるような理由にはならないよな……どうしても英雄譚の一部になりたかったのなら、例えば異世界で独自にそれを探す道だってあった筈だ。昨日からどうも何か引っかかると思っていたんだが、その辺りの動機がやや不可解だったんだな。
だが謎は今解けた。解けてしまった。
そうか……こいつ、ファザコンだったのか。
俺はどう対応したらいいんだろう。困ったぞ、ただの女友達で親子なのに、その両方が組み合わさっているとなると意思疎通の難易度が高すぎる。
「戻っていいタイミングが判らん……」
蚊の鳴くような声が聞こえたので振り返ると、カンセーが急須と湯呑の載ったお盆を持って部屋の入口に立っていた。両腕がぷるぷると震え始めていた。
■ ■ ■
日は没した。
「うう……師匠は鬼であります……本物の修羅であります。こんないい街での暮らしを棄てて、また血煙立ち昇る戦場に行くなんて……さらばキョート、我が心の故郷よ……」
「お前今朝までと言ってること変わりすぎだろ」
昨日なんて地獄までついていくとか言ってなかったか。一日の観光でどれだけ心変わりしてるんだ。
「生ヤツハシ、美味しうございました……キヌガサ丼、白玉ゼンザイ、ニシンソバ、ウジキントキ、生ユバ、ショーゴイン大根……」
京都育ちのシキにすっかり仕込まれたな。甘やかされたぶん、しっかり働いてもらうぞ。早くそのダルファニール行きの準備を済ませるんだ。
「また来ればいいじゃない。ダルファニールとこっちの間ならいつでも往復出来るようになったんでしょ?」
「はっ! そうでありました。一年前はサハーの正確な座標位置が判らなかった為に師匠を返還するのが困難でありましたが、今回こちら側から師匠の魔力紋を感知したことで、二世界間の相対座標が完全に特定出来たのであります」
「弟子。つまりそれは、あれか」
「はい、多少の物資は消費しますが、それを賄える頻度であればこちら側とあちら側の行き来が可能になりました!」
早く言え。いや、よくやった。二つ同時に出かかった言葉を呑み込む。
そうと知っていれば実家であれ程までに感傷的にならずに済んだものを。お前のせいで両親にかなり困惑されたわ。一年間の失踪と留年が理由の落涙ということで、すぐに誤魔化すことは出来たが。
しかし、いつでも戻れるようになったのか。それ自体は確かに朗報だ。
「な、なあ。それなら、そういうことなら一つ頼みがあるんだが、いいか」
カンセーの頼みは、彼を異世界に連れていくことだった。
「向こうがこちらの国より危険なのは、判ってるんだよな。俺がいたって無事は保証し切れないぞ」
「承知しているつもりだ。だが頼む。俺はここではない世界を見てみたい」
さて、どうしようか。俺自身が自発的に危険に突っ込んでいく手前、絶対によせとは言いにくい。帰還の目処も既に着いた。しかし日本にそのままいれば平和に暮らせるであろう友人から、万一にも犠牲が出たらと思うと、やはり軽々には引き受け難いものがある。矛盾するようだが、自分のことはよくても他人まで巻き込むつもりはないのだ。
「行かせてあげてよ。安全については私が護衛としてついてれば大丈夫でしょ」
「シキは戦えるのか? いや、前世で魔術師だったって話は聞いたけども」
「当然。魔術は記憶と一緒に引き継がれるから、こっちの世界でも子供の頃からこっそり使ってたよ。あとカガリって呼んでね」
そういうことなら、いいんだろうか。カンセーが頼みごとをしてくるのは珍しいし、恐らく本気なんだろうな……じゃあ、他ならぬ友の頼みだ。いいことにしておこう。一緒に行くか。どうせシキも来るらしいし。それに、もし向こうで雲行きが怪しくなったら帰ってもらえばいいんだ。
「でも、大学の出席はいいのか? 二回生だって必修授業にくらい出ないと単位が貰えないのは同じだろ」
「ああ、それなんだが」
「カンセーおじさんはお父さんと同じ一回生ゼミだよ? だって去年殆どゼミに来てなかったし」
お前も落第してたのかよ。道理で先輩呼ばわりを嫌がった訳だよ。だって先輩になってないんだもんな!
「何やってんだ」
「まあ、そういう訳で、今年の新入生に混じって授業を受けるのは気まずいんだ。お前が大学に行かないなら俺も連れて行ってくれ。来年からは流石に観念して真面目に出席するつもりだから」
思ったより駄目な理由だった。でもまあ、仕方ない。お互い何も言いはしないが、カンセーの出席率が下がった原因の一端は多分、俺にもあるのだろうから。
「転移魔法陣、設置完了であります。頭数は自分を含め四人でありますか? では、いつでも跳べますので」
とうとうこの日が来たか。丸一年待ち侘びたぜ。
■ ■ ■
これは異世界転生じゃない。
俺の人生はまだ一度も終わったことなどなく、今後もしばらくは続くだろうから。
これは異世界召喚じゃない。
三度めの今回ばかりは誰に喚ばれることもなく、俺は自らの意志で異世界の地を踏むのだから。
ずっと気になっていた。二つめの異世界を旅している間も、血と汗と結晶と剥き出しの感情に塗れ戦っている間も、あの赤の女王を仕留めんと赴く間さえ、その想いは燻っていた。
一つめの異世界を何もかもやり残してきてしまったこと。仲間と認めた仲間を置き去りにしてしまったこと。敵を敵と認め向き合うことも出来なかったこと。彼の地に惹かれゆく自分の本心からも眼を背けていたこと。逃げることからすらも逃げ出してしまったこと。
折角それらの想いを、想い残しを、慚愧の数々を根底から覆し、むしろそれらは一切をやり遂げる為の布石だった、と言えるようになる機会を手に入れたのだ。過去の何もかもが報われ、このときの為にあったと意味を与えられる、そんな夢にまで見た夢に遂に辿り着いたのだ。だから、今回は。今度ばかりは。
これは、人生の全てを始めからやり直す異世界転生ではなく、まして誰かに願われて訪れる異世界召喚でもない。
他ならぬ自分の意志で人生を続きからやり直す、これが俺の異世界転移だ。
お待たせいたしました。この話で序章は終わりです。
京都での日常ぐだぐだ路線を続けるかどうか悩みましたが、そちらはまた今度にしてとにかく話の進行を優先しました。その内また日常路線にも戻します。
同い年の実の娘ヒロイン、どうですか。