因果
教え子達の提出論文や海外の文献がうず高く積まれた、平坂秤教授の研究室。
子供の姿をした原初の薬伽は、その奥に据えられた文机に腰かけて待ち構えていた。
「遅かったじゃないか。他ならぬこの僕を倒さない限り、この精神の狭間からは出られないと判っていただろうに」
表題の隣に『古井陥穽』と署名されているレポートを打ち捨てて、薬伽は立ち上がった。
「お陰でこちらの仕込みも万端さ。だから早速で悪いが」
死んでくれ。
その一声と同時に、天井に貼りついていた人形の少女達が飛びかかってきた。数は十五体を超えていたように思う。自己を複製する能力。京都に渡ってくる前に、俺達が知るあの少女とは別の個体の精神を乗っ取っていたのだろう。最低限の部品さえ隠して持ち込めば、その個体自身に自らを修復させることも、複製させることもいつだって出来る。
なるほど。ハイペースで指数関数的に増殖可能というのは、確かに日本の社会にとっても危険だったかもしれないな。手に負えないほどの頭数になる前に、俺やカーネリアンに見つからなければの話だが。
「灼熱の反響」
「汎用自動追尾術式・加熱Ⅱ」
戦っている最中にこんな余談も何だが、俺達は何も伊達や酔狂で魔術の技に名前をつけている訳ではない。むしろやらない理由がないとさえ言える。名づけは魔術の効率を底上げするからだ。いわば理外の領域に条理という扉を備えつける作業が名づけであり、その名前を唱えるのは設えた鍵穴に鍵を挿し込むに等しい。そのあとは扉から望む結果を引き出すだけだ。
名づけの段階で読み仮名を振っておくと全体の出力が上がることまで判明している。技の名前を口にしながら心に別の読み仮名を思い浮かべると、二つの鍵で二つの扉を開けたことになるのだ。結果として引き出せる力の総量が増す。ダルファニールでは五年くらい前に太秦のおっさんが発見したらしい。何にでも手を出す男だ。
「平均的な阿多羅刹より頑丈な筈の緊邦達を鎧袖一触か。流石は大人になった僕を倒しただけのことはある。でも飽和攻撃が続けばどうなるかな」
ベニヤ製の薄い天井板を突き破って、今度は数え切れない程多くの少女達が降ってきた。
更に窓の外から室内に入ろうとしている少女達の複製もいた。陶製の拳で硝子窓を割ろうとしているのが見えた。
これは退き際だな。
俺はカーネリアンの肩を引いて、二人で廊下にまろび出た。
理想の英雄像を押しつけてくる実の娘はこの精神空間に来ていない。逃げるんだよ!
■ ■ ■
研究棟と学生食堂を繋ぐ直線の地下通路を、カーネリアンと二人でひた走った。後ろからは子供の薬伽に操られた少女達の複製が追ってきていた。廊下の片端を天井ぎわまで埋め尽くす数だ。今も学舎の何処か一室で増え続けているのかもしれない。問題ない。策が嵌まればどうせ一網打尽に無効化できる。
途中で捕まるようなこともなく学食に辿り着けた。学舎の地下に設けられた、一番大きい食堂だ。椅子と食卓は事前にカウンターの奥に片づけてあるので、記憶にある普段の様子より広く見える。転がり込んですぐさま封印術を練った。食堂が人形の重い身体で埋め尽くされた場合に、俺達二人が圧死させられるのを防ぐ為だ。こちらからも少女達に干渉できなくなるが問題ない。そして調理用のタイマーを取り出して、ボタンを押した。アラームが鳴り響く。この食堂の奥にある非常階段を少し登ったところに腰かけて待ち構えている、オニキスへの合図だ。
圧倒する虚脱。知的生命全般の意志力を広範に奪い、指一本動かすことさえ厭わせるオニキスの固有能力だ。人形の少女達のような大軍型を相手取る場合には鬼札となる、典型的な殲滅者型の能力。続いてなだれ込んできた少女達の複製が、俺とカーネリアンもろとも圧し潰されるように倒れ込んだ。あとから来た少女達も次々に膝をついてその場に伏していく。
彼女らには後続の少女達にこの異常事態を連絡する手段がどうやらないらしい。俺達に同行していた個体の言動から察しはついていたが、全員の思考がリアルタイムに並列化されているような仕様ではないようだ。入口からは尚も新たな少女達が罠にかかりに来ている。最前列の少女達には先に食堂に入った少女達が累々と横たわっている光景が見えていることだろう。だが見えた頃には背後から押し込まれて自分も犠牲者の仲間入りだ。踵を返してこの状況を報告に戻ることは出来ない。閉所での人海戦術が仇になったな。
そろそろ薬伽が俺達の状況を確認しに近づいてくる頃か。
俺は食堂の床に片頬をつけた格好でそう思った。何を考えるのも億劫だったが、このあとの手筈は全てオブシディアン達に任せてある。もう俺とカーネリアンは囮としてここに寝転がっているだけで良い。俺達全員の力を合わせれば勝てるぞ。
■ ■ ■
吾れは強くなりたい。誰れよりも強く。一騎当千の猛者をも退ける程に。
その果てに至るまでの関門が此の男なれば斬りましょう。敵は童の形なれど、主命とあらば斬り捨てましょう。
「待てど暮らせど報告がないと思ってこの僕自身が来てみれば、なるほど。釣り野伏だったのか」
童の形をした敵がそう宣うとともに、飯場の戸口に集っていた人形どもが童の膝下まで退いてゆく。
然り。釣餌は主と祖国が仇。網は主が妹君。しこうして戸口の隣に立つ吾れこそが、大将首を断つお役目を任ぜられた一の刃なり。
「阿多羅刹軍六芒征内角の第三角。薬伽」
「ヴェルジュライト一族が長、貴きカーネリアン・フランベルジュラック・ベインヴェルジュライト女王陛下が懐刀。オブシディアン」
名乗りの他に言葉は無用。床を蹴り敵の元へと疾く参じる。吾れの精神干渉は主が足下にも及ばぬ腕前なれば、相対は専ら早わざにて決着すべし。腹立たしくも祖国が仇の入れ知恵、果てに至るまでの遠ければ、無学無才の身なれども、腹に収めてみせましょう。
振り下ろした手刀は、されど人形どもが陶で拵えた腕に阻まれる。一刀のもとに断ち斬ってみせるも、大将首には届かず。後退した童が構えを取る。精神干渉の予兆を感ずる。
「我が妹の忘れ形見らよ。意思持つ汝らが余人の操り人形となるならば」
刹那。飯場の向かいに設えられた壁が轟音とともに弾け飛ぶ。巌の如き掌が奥の部屋より伸び、童の矮躯を横あいから掴み上げ、続いて此度主が用立てた二の刃が現れ出づる。
「むしろ何言わぬ土塊へと還るが良い。汝らを奪いし不届き者の始末は、この憂羅我がつける故に」
阿多羅刹軍六芒征が第一角。身司る憂羅我。
吾れにとっては見知らぬこの大男と力を合わせよと、此れも愛しき女王様の主命なれば、戦果を成してみせましょう。
行く手を塞ぎ、足に取り縋る人形らを、斬って、斬って、斬って捨てる。円を描いて斬り、梃子を使って払う。
童の形をした敵が術を用いる構えを見せれば、大男の憂羅我が拳を振るい、されど思いの外身軽な童に躱される。
届かない。否、時を置けば押し勝てるという手応えは感ぜられる。然れども今一歩が届かない……!
「という風になかなか苦戦しておられるご様子ですので、勝手ながら不肖私めが三の刃を引き請けましょう。それにしても単離した過去の私をまさかこのような形で見せられるとは! この私めにとっての貴方は、そう執着するものではないのですよ……やれやれ全く、厭おしい」
■ ■ ■
精神空間から解放されて現実の京都に無事帰還した俺とカーネリアンが、オブシディアンからの報告を聞いて知ったそのあとの顛末。
予想以上のしぶとさを見せる子供姿の薬伽に苦戦していたオブシディアンと憂羅我の前に現れたのは、カーネリアンとの能力勝負に手痛い敗北を喫して消息不明になっていた筈の、大人姿の薬伽だった。
「吾れの大将首と知りながらぬけぬけと横取りを……」
ぎりぎりと歯噛みするオブシディアン。
どうやら子供姿の薬伽にとって強い執着の対象だった大人姿の薬伽は、しかし子供だった本来の己自身など、見たくもなかったらしい。子供姿の薬伽に背後からとどめを刺し、そしてその場に溶けるように消えていったそうだ。
「過去の己との因果を断てば現在の己も成り立たん。或いはそれこそが彼奴の本望だったのやもしれぬな」
「死にたくても他の方法では死ねなかったということか」
そういうこともあるかもしれない。一万八○○○の意識を呑み込んだ男の胸の裡なんか知るべくもないが、案外しんどい思いをしながら生きてたのかもな。
「此くして薬伽とやらの術を免れたわたくし達は。この現世の町並に戻り。無事そなたらと再会した訳ですね」
「カーネリアンちゃん達がいてくれて良かったよ~。私達二人は現実側に取り残されてたから。倒れたお父さんを日陰に運ぶくらいしかやることなかったよね」
「シキ殿が師匠の頭を掴んで、自分は両足の方でありましたな」
「道理で首がちょっと痛いと思ったわ」
頭じゃなくて胴体を固定しろ、胴体を。でも一応感謝はしておく。
「憂羅我はどうなったんだ?」
「今この場に見当たらんとなれば、ぬしのあの内的空間を彷徨っておるのではないか? ぬしの精神に仕舞い込まれていたのは彼奴ではなく、あくまで彼奴を封印した斧槍じゃったからのう。直接にあの小僧っこの術の干渉下にあったとは言えん。イリスやヘリオドールらがここに出てきておらんのも、同じ理屈じゃろ」
「俺の心に新しく住所不定のおじさんが棲み始めたのか……あまり考えたくない話だな」
さて、とりあえず下宿の四畳半に帰るか。京都が実は安全じゃないと知れたからには、鍋料理を作りながら待ってる筈のカンセーとも早く合流したいし。
人形の少女が居なくなってしまったことも、ちゃんと伝えないといけないな。
「なあるほどね。数百年前の異世界に転生してまで、貴方がやりたかったことっていうのは、緊那ちゃんの回収だったのかな? きっと違うよね。それだけじゃないでしょ……カンセーおじさん」
「ん? 何か言ったか?」
「何でもないよ。ああそうだ。ねえお父さん」
「何だ」
「先刻お人形ちゃんを連れていった魔族のひとって、誰だか知ってる?」
「いや、心当たりがないな」
「そっか」