四畳半への帰還
先に投稿した短篇版を連載に直しました。
――状況を整理しよう。
四畳半の下宿に住んでいた春から大学生の俺は、救国の英雄として見知らぬ異世界ダルファニールに喚び出され、そこで魔族アタラクシャの侵略を受け窮地に立たされているダルファニール諸国の惨状を眼にし、色々な対話と取引、紆余曲折を経てダルファニール人への助力を引き請けた。それが大体、一年半前。
それから半年間ダルファニールの各地を巡り、地球人類に隠された魔術的な適性を伸ばしながら現地の人々と協力して外敵のアタラクシャ族と交戦、徐々にこれを討伐していたが、ある日旅の道中でもう一つの異世界ベインヴェルベータからの召喚を受け、やはり英雄として魔族ヴェルジュライトの討伐を懇願された。それが凡そ、一年前。
ベインヴェルベータ人はダルファニールと違って元の世界への帰還をネタにした脅しをかけてきたので、やむなく彼らに従い外敵のヴェルジュライト族と丸一年がかりで戦闘。長期戦の末、遂には彼女らヴェルジュライト族の発生源たる女王を滅ぼした。俺がこの手で滅ぼした。それがたったの、二日前。
約束を果たしたのだからさっさとダルファニールを俺に救わせろと、ごねるベインヴェルベータ人を説き伏せて元の世界への帰還手段を用意させ、異世界ベインヴェルベータと心情的にも完全に決別して魔力光を放つ返還魔法陣をくぐった。すると辿り着いたのは大学から徒歩四分の夏には蒸す四畳半で、クソ暑い夏のさなかにカップ麺を啜っていた一年半ぶりのルームメイトが、魔法陣から出てきた俺の顔を見て呆然としていた。俺も同じくらい呆然としている。それがまさに、今。
――よし、ざっと状況を再確認しても何が起きたのかよく判らんが、まあ判った。最初はどうしてこうなったのかと思ったが概ね予想は着いた。ベインヴェルベータの奴ら俺を元のダルファニールじゃなくて、故郷の日本に返還したんだな。そりゃ説明しなかったら普通に考えて俺の言う「元の世界」が故郷のことだと思うわな。これはあいつらの国にいる専門家が好きになれないからって、よく話し合わなかった俺にも落ち度があるな。いや失敗、しっぱい。
「取り敢えず、それ俺にも作ってくれ」
「お、おう。インスタントで良ければ」
身体が香辛料を求めて仕方がない。スパイスとかってあれ、高度な輸送手段を持つ物流が色んな食材を運んでくるのが前提だから、文明の程度が近世より前だと一般的な料理がすごく簡素になるんだよな。僅かな肉、ちょっぴりの塩、地元で育てやすい作物、以上、みたいな。原作の『タイムマシン』読んだことある? 今の俺にはあの主人公が元の時代に帰ってきた直後の行動がよく判るぜ。つまり、今すぐああいう風に身体に悪そうなものをどっさり貪りたい。
ルームメイトにして親友である古井陥穽は一年半ぶりに突然現れた筈の俺を質問責めにすることもなく、新しく取り出した二個めのカップ麺に注ぐ湯を沸かしている。だが高校の頃からしょっちゅうこの男と顔を合わせていた俺には判っている。カンセーの脳裏には今も俺に対する様々な疑問と質問とツッコみが渦巻いていることだろう。今は単に何から訊いたらいいのか判断出来なくて、とにかく平静を装っているだけだ。
ところでルームメイトのこいつがいてくれて本当に助かった。もし俺一人でこの下宿を借りてたら、家賃不納か借主不在でとっくに自分の部屋がなくなっていただろうな。後釜で来た次の借主と鉢合わせして、住居不法侵入で通報まである。
しかし、そうか。カンセーとも一年半ぶりか。
「つまり俺らもう大学二回生になってるんだな」
「一回生」
「ん?」
「……オーギは去年の春が終わってからゼミに来てないから、必修単位は一回生のぶんからやり直しだ。教授が俺にだけ言ってた。本人がいたら伝えてくれって」
まあ、そうだよな。現実逃避しようとして言ってみただけだ。ゼミの教授怒ってないかな。親は息子の俺から見てもだいぶ変わってるから何とも思ってないだろうが、大学の必修講義に出ていないことくらいは流石に知ってるんじゃないだろうか。くそ、せめてベインヴェルベータの奴らにさえ喚び出されてなければ、今年度の始めには間に合っていたかも知れなかったというのに。
「これからはカンセー先輩と呼ぼうか?」
「いや、いい。むしろやめて差し上げろ」
そう言ってカンセーは薬缶と新しいカップ麺を取り上げ、畳に座った俺の前に置いた。
「じゃあ、これ食う前と後でいいから、何が起きたのか話してくれ。お前、今日まで何処に行ってたんだ?」
■ ■ ■
「なるほどな。俺もお前の推測は間違いじゃないだろうと思う。二つめの異世界にいる連中に、この地球から最初の異世界に召喚されたときの話を一度もしなかったっていうなら、もう鉄板だろ。そいつらはお前の故郷から直接お前を喚んだと思い込んでいたんだ。その返還魔法陣の設定時点での見落とし、いや、これこそ人生の落とし穴って奴だな」
そう言ってカンセーは俺を盗み見た。俺はそれを無視した。カンセーは少し残念そうな顔をした。
二分半で拵えたカップ麺を三分で平らげ、唖然とするカンセーを尻目に近くの銭湯にも行って熱いシャワーでさっぱりしてから――何しろ垢と旅塵を先に落としたかった。伊達に湯に浸かる文化のない国で何日も野外を歩き続けたり、言葉通り血と汗に塗れながら暴れ回ったりしていない。服は昔買って部屋に置いていたジャージに着替えた――俺はこの一年半で、二つの異世界を巡ってきたことをカンセーに一通り説明した。
俺が二つの異なる世界で何を見て、何をしてきたのかについても。
話を聞いた末にカンセーが出した結論は俺と同じだった。つまり、原因は故郷から別々の異世界に「二重に」召喚されたことを言わなかった俺の説明不足。こればっかりはベインヴェルベータの奴らを責められない。単純に想像の範囲外だったんだろう。ある程度よく似た世界から素質のある存在を選定して喚び出せるのが魔術の専門家連中の召喚魔法陣だとは言え、その結果、複数の世界でのブッキングが起きるとは。
「それでだ。お前はどうするんだ、オーギ」
作り置きの冷えた麦茶を片手に、カンセーが言った。こいつは俺の長い話に疑いを挟まなかった。一口に説明するのは難しいが、元々そういう奴だ。少なくとも高校の頃からそうだと俺は知っている。
「どうとは」
「これからだ。一年半遅れで大学に通って、頑張って元通りの生活を目指すのか?」
「事情があったんだから今すぐ元通り、とはならんだろうな」
「ならん。お前が紫色の光る輪からこの世に出てきたところを実際に見た俺じゃなければ、そもそもお前の特殊に過ぎる事情を説明しても理解してくれるとは考えられん。当たり前だが、理不尽だな」
さて。これからどうするか、か。俺はどうしたいんだろう。自分のぶんの麦茶を飲み干しながら思案した。
正直、こうしてダルファニールと日本での生活の二択に悩まされる機会が与えられるとは、俺も思ってもみなかった。ダルファニールにいた頃は故郷に帰ることを考えたし悩みもしたが、更にベインヴェルベータにも召喚されて戦いを強いられてからは、何処かもう諦めがついていたし、第一それどころの状況でもなかったから。大学に復学するにしろ自主退学するにしろ、ゼミには顔を出して教授と話をしておかなければなるまい。実家にも帰っておきたい。幾ら放任主義の家庭でも、そろそろ一度両親に顔を見せに行った方がいいだろう。彼らだって俺の学費を払い続けているのならば、息子である俺に彼らなりのある種独特の信を置いているのだろうから。
でもなあ。俺がこのまま最初に行った方の異世界に戻らなかったら、ダルファニール人はそのまま滅びるかアタラクシャ族に支配されると思うんだよな。俺があそこにいた頃の戦力差、多分十倍近かったもんなあ。むしろ今既に滅ぼされ尽くしてる最中まである。それでも俺自身は困らないと言えばそれも合理的な判断なんだろうけど、あそこには一緒に死線を潜り抜けて笑いあった仲間とか、また話したい相手とかもいるんだよな。
嫌だけど、とても気は進まないけれども、嫌々ながらにやるしかないよなあ。ダルファニール人にはこんな渋々ながらの助力で悪いが、今も本気で英雄の帰還を待っていそうな、どうしようもない性格の阿呆にも一人か二人くらい心当たりがあるし。これが去年からのゼミの講義を一から受け直さないといけないことから、心理的に眼を逸らした結果の判断ではないと言い切れるだけの根拠や精神的な強度は、持ち合わせていないのも自覚しているが、そうだとしても。
「俺はやっぱり、ダルファニールに戻るよ。しばらくはこっちで休みたいが、俺自身あそこはそう悪い世界でもなかったと思ってるし、結果的にいきなり戦地に残してきてしまった奴らが気になる」
「そうか。それで、どうやって戻るんだ? 出発はいつ頃になる?」
「あっ」
「おい、もしかして」
「そうか、その問題があったのか……」
戻ろうにも、こっちには世界を渡る方法がないんだ。魔術師が周りにいる環境に慣れすぎて、すっかり失念してた。
■ ■ ■
間の抜けたど忘れについて言い訳をさせてもらうと、多分、このときの俺は突然降って湧いたように見えた選択肢に浮足立っていたのだろう。ベインヴェルベータに喚び出されてからは、人生の選択肢を自由に選べない生活が続いていたものだから。あとは単純に嬉しかったのだ。久しぶりに親友の間抜けな顔を見ることが出来て、僅かながら文明らしい食事や休息も得たことで、何処か里心が満たされていたらしい。
「じゃあ、取り敢えず大学にでも行ってみたらどうだ。俺もお前の単位についてそれ程詳しく聞かされた訳じゃないし、そもそも学籍が今どういう扱いなのかも知らん。今日のゼミは朝終わったが、事務窓口ならこの時間でもまだ開いてるだろ」
他に選択肢も考えつかないし、そうするか。ダルファニールに残してきた仲間の安否は心配だし、彼ら彼女らの為に故郷を棄てようとした決心が無為になった肩透かし感もあるが、まだ異世界に戻れないと断じるのも少し早い気がしているので、その辺りの機微は棚上げしておこう。
そういう訳で、一年半ぶりに我らが懐かしき大学の門前まで来た。するとまた懐かしい顔をした女に捕まった。
「あれ? オーギじゃん。何でいるの」
黄鐘四季。ゼミの同級生だった。いや、俺が留年しているであろうことを考えれば、もう先輩ということになるか。それにしても、まるでつい二日前にも会ったばかりかのような態度だ。あまり大騒ぎされても困るが、あれだけ毎日顔を合わせて話していた相手が急に大学に来なくなった一年半前にもこの女は一切意に介していなかっただろうという過去の事実が、その態度からは窺い知れた。将来の大物かよ。逆にこっちが心配になるわ。俺自身としてはこれくらいの反応の方が、気楽に話せていいんだけど。
「シキか。まあ何というか……色々あったけど、帰ってきたんだよ。ひとまず今日はこれから事務所に行く」
「そっか、大学戻るんだ。でも大変だよ。去年の単位とか、多分全部取り直さなきゃだし」
「言わないでくれ。俺だって教授と顔を合わせるのが今から恐ろしいんだ。気が滅入る」
あはは、気に病んでも仕方ないのに真面目だねえ。そう言ってシキは笑った。流石、三世に渡るいい女なぞという肩書をいつだか呑みの席で自ら名乗っていただけある。一年半ぶりでもこの話の早さと常からのけろりとした態度が全く変わっていない。こいつもこいつでちょっと変な奴だが、この状況だととても助かる。
事情とか一切訊いてこないからな。
「そうだ、お前にいいものを見せてやろう」
ふと思いついて、土産話の代わりに少しシキを驚かせてやろうと決めた。たまにはこいつが眼を丸くして驚く貴重な一場面を見てやろう。いい機会だ。
内観の奥底から自身にずれてきた魔力を掌に推測して集中させる。橙色が重みを増し、認識不可能な形を為していく。何を言っているのかよく判らないと思うが、これ以上巧い説明は俺にも出来ない。魔術の確率的過程には言語化出来ない領域が多いのだ。ニュアンスで受け取ってくれ。
一瞬の内に、俺の手にはかつて異世界で彫った鳥の羽の模型が顕れていた。これくらいは簡単なんだぜ。やり方さえ覚えれば誰でも出来る。あ、木彫りの羽の方な。済まんが魔術は使える種類が個人の素質に左右されるから、他人に同じことが出来るかは何とも言えん。
「やるよ。窓辺にでも吊るして飾っておくといい」
「凄い! どうやったの」
「魔術だ」
「まじゅつ」
シキはその日本語を初めて聞いたかのように発音した。知ってるしってる。これが世間一般の反応だよな。異世界暮らしが板につきすぎた、俺の感覚がもうおかしくなってるだけで。あとカンセーはああ見えて自分が見聞きしたものに徹底して殉じるタイプの理屈屋だからな。世間一般の常識を棄て去るときにも、まるで躊躇がない。
「そっか、もう封印術を覚えたんだね」
ところがシキが次に返してきた言葉は俺の予想を超えた意外なものだった。
どういうことだ。何故驚かない……いや、違う。それだけじゃない。
何故俺の使える魔術が、封印術の類だと知っている。
「ということは、この一年半でダルファニールに行ってきたんだね。お母さんにはもう逢った? ああ、まだならこれ訊いても判んないか、ごめんごめん」
何だ。何を言っている。
どうしてダルファニールの名前が出てくるんだ。お母さんって誰だ。
今俺の眼の前にいるのは、本当にただの元クラスメイトか?
俺はこいつをよく知っていた筈ではなかったか。
「ん、それ以前に私が産まれた時期が今よりまだ少しあとだから、もしお母さんに逢っていたとしても私のことには思い当たらないか。でも、もう多重世界の存在を知ってるのなら、今までみたいに何も話さずに我慢している必要もなくなったよね。大抵の話は信じてくれるようになっただろうし。大丈夫、さっきから私が言ってること全然伝わってないだろうけど、ちゃんと全部説明するよ。だから改めて宜しくね、お父さん」
お、お前にお父さんと呼ばれる筋合いはないぞ。
続けて投稿します。