第一話「かき氷」
夏の雑音とテスト用紙と鉛筆の擦れる音と誰かの寝息が混じったこの教室は、八月だというのに生徒が十人程度やってきている。その中に光もいる。夏休み前のテストの点数が足りず、夏休みの半分も夏季補習に費やすなんてことになった。
「はいじゃあ筆記具おいてー」
机に鉛筆やシャープペンの当たる音があちらこちらで聞こえる中、一人だけがまだ紙に黒鉛を擦り付けている。
「まって、もう少しだけ!あと五文字だけ!!」
その懇願する声も虚しく、中途半端な文字が書かれた再生紙は席のいちばん後ろの生徒によって回収された。
「あっ」
無力な声と間抜けな顔を晒した深雪は教室の中にいる生徒にあまり良くない意味で笑われていた。
深雪は元気な女の子だ。だけどその元気が空回りしすぎて、一部のクラスメイトからはあまり良い印象を持たれていない。それでも彼女のあの眩しすぎる笑顔と、冬の毛布のような包容力は、多くの人を巻き込んで笑顔にしてしまった。
「ひかるっ」
そんな人気者の彼女は、なぜだかいつも光の事を気にかけている。顔がいいわけでも無いし、スポーツだってできない。性格だってすぐに卑屈になるところや、自分のことしか考えずに迷惑をかけたりしてしまうなんて、いいところは一つも無いのに。一体何が、彼女といるためのチケットになっているのだろう。光は卑屈な考えになっていることに気がつき、すぐに考えることをやめた。
「一緒に帰ろう?帰り道にかき氷屋できてたよ、寄って行こうよ」
深雪の声に現実へと引き戻され、周りを見ると教室には深雪しかいなかった。
かき氷屋は駅までの道から少し外れた上り坂にある。坂道のてっぺんに陽炎が揺らめいていて気温が高いという現実を嫌という程押し付けてくる。深雪の細いふくらはぎがアスファルトの黒から白く浮いている。日焼け止めを塗らなくても真っ白な彼女の肌は、まるで季節違いな雪のようで溶けてしまいそうだ。彼女の性格とは裏腹に「守らないと」という感情を掻き立てる。体があまり強い方ではないくせに、元気だけは人一倍で、すぐに無茶をする彼女を放っておくことはできないのだ。
坂は急で、深雪は息を荒げながら登ってくる。ワイシャツが汗で濡れて透けているのを深雪は気にもせず、光の左腕をつかんでいる。柔らかい指の感触と、少し滲んだ彼女の汗。他の人が相手だと、暑苦しいと思うだろう。そう思わないのは光が彼女に少し依存しているからかもしれない。
小さな木組みで出来た土台に、プレハブのこじんまりとした店に、「氷」と書かれた旗がひらひらと妙な存在感を放射している。中にいる人の良さそうなおばちゃんと、富士山の形をした口のおじさん。おばちゃんは大きな声で「いらっしゃい」というと、ニコニコしながら、光と深雪を交互に見ていた。深雪もそれにつられて笑顔になっている。
「イチゴ味と……光はなににする?」
深雪の短い髪と首の筋に見とれていると、突然こちらを向くので少し驚いて返答が遅れる。
「あっ、えっと……じゃあ同じので」
いちごを象徴する、赤い色と甘すぎる匂いがかかった氷を二つ、深雪が受け取る。一つ受け取ろうとすると、「駅のベンチで食べるから、そこまで持っててあげよう」となぜか得意げに、両手にかき氷を持ったまま歩き始めた。
いつも通る駅までの道とは少し違った道順で歩くので、まるで違う街に来たようだった。 通ったことのない道、少し入り組んで狭くなった道、光の知らない世界を深雪は知っていて、なんだか悔しいようで羨ましいようで、そして少し、それを教えてくれるのが嬉しかった。
坂を下った突き当たりにある小さな駅の、ホームの中にある錆びた屋根の下で、ベンチに座って光と深雪はかき氷を食べた。舌が真っ赤に染まっていてかわいいと、深雪は笑う。その笑顔が眩しくて、光は目を細めて笑う。
悲しくなるくらいに眩しい夏の中で、巨大すぎる入道雲の下で、どこまで続いているのかわからない線路のように交わる事なく、歩いていく。