プロローグ
前髪から垂れた汗が頬を伝っていることと、聴覚を占領する蝉時雨。それらは光を不快にさせるとともに、夏であるということを十分すぎるほど主張している。プールサイドに飛び散る水滴に映る太陽は小さいながらも光の網膜を刺激する。
「光は入らないの?」
水面から唐突に声が飛んできて、光は無意識に足を自分の方に引っ込める。
「いいよ、深雪一人の方が広くていいでしょう」
深雪は光の声を聞くなり「そっか」と元気な返事をして潜っていった。
誰もいない学校のプールはちょっとした異世界みたいだ。光と深雪だけが入れる、秘密の世界。周りの世界とは蝉の音で遮断されて、誰も入ることはできない、そんな世界。
そう考えると夏も、案外悪くないのかな、なんて少し夏に気を許す。
泳ぎ続ける深雪に見とれていると、近く足音に気づくことができなかった。
「こら、おまえら!プールを勝手に使うんじゃない!」
光の中の小さな異世界は陽炎のように消えていった。生徒指導の児島の怒鳴り声は、蝉の声よりは小さく、それでも光と深雪を驚かせるには十分だった。
「ごっごめんなさい〜」
児島の声の残響と、深雪が水から上がる水音と空間を支配する蝉の音。全てが混ざったこの世界は、いま、きっと二人しかいないんだと思う。